2024年1月24日水曜日

永訣の朝 9 ―詩を「体験」する

 かつて室内にいる語り手を想像していた授業者は、冒頭で「いもうとよ」と呼びかけられる妹は眠っている(意識を失っている)ものと特に考えるでもなく想像していた。熱にあえいでいるとはいえ、意識のある妹に「おもては」とか「みぞれは」とかいう窓の外の眺めを描写するのは不自然だからだ。

 だがこの想像は、よく考えると不自然だ。詩句からは、7行目以降に妹が目を覚まして「採ってきて」と言ったようには思えない。「あめゆじゆとてちてけんじや」は、この詩の最初の一行より前に発せられたものであろう。だからこそ「あめゆじゅとてちてけんじゃ」は4回とも回想だと思える。

 とすると、妹に「熱やあへぎのあいだから」みぞれを採ってきてくれと言われた兄は、なぜかその時点では動かず、妹が眠りにつくまで枕元にいて、なぜか窓の外の様子を(心の中で)語りかけ、その後、何をきっかけにしたのか、突如思い立って焦ったように「てつぱうだまのやうに…飛びだした」ということになる。しかもそのみぞれを、いつ目覚めるとも知れない妹に食べさせるつもりなのだ。

 こうした想像は不自然で辻褄が合わない。

 といって、最初の時点で妹が目覚めたままであるとしても、やはり意識のある妹に外の様子を語るのは不自然だし、なぜ頼まれてすぐに採りに行かないのか、何をきっかけに飛び出したのかはやはり説明がつかない。


 それよりもこう考えるのが自然だ。

 語り手は妹に雨雪を採ってきてくれと言われてすぐに、「てつぱうだまのやうに」「おもて」に「飛びだした」のだ。明らかに妹が食べることを想定しているからだ。語り手が妹の枕元で長居する時間はない。まして意識のない妹の枕元にいる機会などない。

 妹は眠ってなどおらず、今しも病室で熱にあえぎながらも兄の採ってくるみぞれを待っている。

 その妹に呼びかける詩の冒頭が、この詩の現在時点だ。

 これは「あめゆじゆ…」の科白が実際に妹の口から発せられてから、およそ1分程のことであろう。

 そして、飛びだして見るとみぞれを降らせる雲は「くらい」にもかかわらず、全体として「おもてはへんにあかるい」。この「へんに」に感じられる胸騒ぎは、妹に死が迫った状況を素直に受け入れられない語り手の心情を表してもいようが、同時に、室内から見ていたのとは違っておもてに出てみると、というニュアンスでもあると考えると腑に落ちる。

 とすると「ふつてくる」と「沈んでくる」の詩句の間には、わずかな回想の間があるだけで、ほとんど時間経過はなく、詩の終わりまでみても、雨雪をどこから採るかに彷徨しているとはいえ、全体として5分程のイメージとなる。


 こう考えてみると、冒頭の「おもてはへんにあかるいのだ」の語り手が室内にいるという想像は、詩句の与える情報の不整合を単に看過することで成立しているのだ。一度、最初から外にいるという「読み」について知って、それを本気で想像してみると、もう、そうとしか思えない。むしろ、両方の読みの可能性を知った上で、やはり室内なのだと主張する者がいるとは思えない。

 この妥当性は誰にも納得されるはずだ。


 とはいえこうしたシミュレーションを分析的に語ることは、詩を読むこととは相容れないことのように感じるかもしれない。もちろん、詩というフィクションの虚構性/現実性の区別など、一義的に決定できない実に曖昧なものだ。

 とはいえ「永訣の朝」という詩は、他の賢治の詩とは違って、現実に基づいているというメタ情報によってこそ、フィクションとして「体験」される。「春の修羅」の「序」を「体験」することは難しいが、妹を失う朝にみぞれを採りに庭に走る「体験」を想像することはできる。

 フィクションを享受することは、一方ではその世界をもう一つの現実として「体験」することでもあり、同時に、一般的に詩を読むことは、リアルな時間感覚を超越した超現実的な「体験」でもある。

 だが少なくとも、過去の数知れない読者―授業者自身を含めた―は、現実的な「体験」の水準としては、「室内からみぞれの降る空を見る」という、詩の中には存在していない、間違った「体験」をしていたのだ。


 ではなぜ賢治はこんなにわかりにくい、殆どの人に誤解されるような書き方をしているのか?

 そうではない。賢治は想定の中で、語り手を庭先に立たせて詩を語りはじめながら、それが「室内にいる」などという別の解釈を成立させる余地があることに、おそらくまったく思い至ってはいないのだろう。だからわざわざそのことを誤解なく読者に伝えなければならない、という意識すらしていない。

 だが、それでもその想定は詩句の選択や造型、配置の際、上に指摘したような細部にその痕跡をとどめているのだ。


永訣の朝 8 ―「おもて」にいる根拠

 二つの全く異なった読みを提示したが、どちらが正しいかをディベートのように議論することはできない。人数に偏りがありすぎるのと、結論が一方に想定されているからだ(ディベートはどちらも主張しうるような問題設定の時にのみ成立しうる)。

 語り手が詩の冒頭部分で「室内にいる」という読みの方が妥当性が高いと考える根拠はおそらく、ない。「おもては」にしろ「飛びだした」にしろ、室内にいることの根拠にはならない。なるように感じるのは前述の「因果関係の逆転」だ。


 実は授業者の思い描いていたのも、最初に「永訣の朝」を読んで以来永らく「わたくし」が室内にいる光景だった。

 それから30年あまり経って、授業者に別の「読み」の可能性をもたらしたのは高校生の息子だった。

 その授業では、詩の中で繰り返される「あめゆじゅとてちてけんじゃ」の変化が議論されたのだそうだ。そして、最初の2回はとし子の直接の発言で、後の2回は回想なのだという見解が示されたのだと。

 この見解は授業者も解説書で見たことがある。馬鹿げた解釈だと思う。授業者には、この言葉は4回とも回想されたものとして、エコーがかって聞こえてくる。たとえ最初の2回が、語り手が室内にいる場面だとしても。

 この馬鹿げた解釈は、語り手が2回目までは室内にいたことを根拠としてなされたものだが、この問題について議論してきた息子が家に帰って問題にしたのは、回想か直接の言葉かではなく、最初の場面で室内にいるという読みについてだった。彼は「みんな室内にいるって言うんだけど、私には最初から外にいるように思える」と言ったのだった。

 それを聞き、半信半疑でその可能性を検討したときの感覚は、いわゆるちょっとした「コペルニクス的転回」だった。驚いたことに、語り手が詩の最初から「おもて」にいて、今しも「みぞれ」をその身にあびているのだという解釈は他のどの詩句とも矛盾しない。それどころか、そう考えてこそ詩句の細部が整合的に納得されると感じた。


 そう、授業はそちらの解釈を合意する方向で展開する。

 ではその妥当性の根拠は何か?


 歴代の生徒たちや今年度のみんなが挙げた緒論点はいくつかある。

 そのうちでも最も多く指摘されるのは、室内にいるのなら6行目は「ふつてくる」ではなく「ふつている」の方が自然だ、というものだ。

 誰もがこれを認めるだろうが、では室内だと思っていた者は、これをどう納得していたのか?

 「ふってくる」のは空から地上に、だ。つまり自分のいる場所を、窓の外か室内かという区別をせずに「地上」という括りで捉えているのだ。


 あるいは12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだし」の文末の過去の助動詞「た」は、語り手の行動については詩の中でここだけでしか使用されていない、これは「飛びだした」が回想であることを示している、という主張もある。

 これもまた一理あるが、ではなぜ室内という解釈も可能なのか?

 「た」という口語助動詞は過去と完了の区別ができない(「模様のついた」の「た」は過去ではなく存続)。「飛びだした」は回想にも感じられるが、たった今の完了でもいいのだから、ほとんど現在時点の記述であるとも読める。


 まだ根拠は挙がる。

 9行目と12行目に注目すると「青い蓴菜の~」から「飛びだした」までが回想だと感じられる根拠が指摘できる。みんな誘導に乗って正しくそのことを説明できただろうか?

 ポイントは9行目の「これら」と12行目の「この」だ。

 このふたつの言葉を取り除くと、この部分が現在進行形の行為の描写であるように感じられるが、「これら」は、既に陶椀が語り手の手中にあることを示しているし、「この」は、既に語り手が「みぞれのなか」にいることを示している。だからこの5行がまるごと回想であるように感じられるのだ。


 これらはそれぞれに説得力があるが、といって「室内ではあり得ない」と言いうるだけの絶対性のある根拠ではない。だからこそみんな「室内」という解釈に対して疑問を抱かないのだ。

 だが語り手は最初から「おもて」にいると考えるべき最大の理由は他にある。

 詩の冒頭で語り手が「室内にいる」「庭先にいる」それぞれの想定において、詩の中のできごとを時系列順に並べ、そのどちらが自然かを想像してみよう。

 どのようなシミュレーションがなされるか?


永訣の朝 7 ―「わたくし」は「おもて」にいる

 詩の最初の場面、語り手は室内にいるか、屋外にいるか?

 どちらが正しいかを考えるより先に、まずは両方の読みを確実に掴むことが重要だ。

 想像してみる。熱に苦しむとし子の病床の傍らで、賢治が己の無力さをかみしめつつ「いもうとよ」と呼びかける。窓の外を見て「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」と心の中で妹に語りかける(これらの詩句が、直接口に出され、妹に語りかけられたものだとは考えにくい)。窓の外の空を見上げ、みぞれが降ってくる様子を語り、それから「陶椀」を手にしてみぞれを採りに「おもて」に飛びだす。

 一方、あらたに想像しようとしているのは、はじめからみぞれの降る庭先に立つ賢治の姿だ。「わたくし」は暗い雲の下に佇んで、そこから室内の病床に横たわる妹に「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」と語り始める。今しも「おもて」にいる語り手が、さっき明るい室内から見た時の印象と違ってここは「へんにあかるいのだ」と表現しているのだ(庭先から語りかけているのだから、こちらももちろん心中語)。

 驚くべき認識の変更が訪れないだろうか?


 二つの読みを主張する者の割合は前述の通り甚だしく偏っているが、それは読みの妥当性を証明するわけではない。双方とも語り手が室内にいるか屋外にいるかという二つの解釈の可能性を考えた上で選んだものでは、おそらくない。単にそうした解釈しか思い浮かべていなかったというだけなのだ。

 授業の意義はここにある。それぞれ読者は、何かきっかけがなければ自分の「読み」を相対化することができない。自分の中に生成された「読み」は、あらためて自覚的に考え直さない限りは絶対的なものだ。

 だからこそ、自分以外のものが周りにいて、それぞれの「読み」を提出しあうことに意味がある。

 少数の「語り手は始めから外にいる」という読みをした読者もまた、実は自身が少数派であることを知らずにいる。

 それどころか、おそらくそのように読んだ者も、「語り手はどこにいるか?」という問いかけによって、はじめて最初から外にいる語り手の姿が想像されているという自らの読みを「発見」するのだろう。

 そしてその発見が自覚的でない場合、議論をしているうちに、周囲の多数派の「室内にいる」という疑いのない前提に触れると、たちまち自分の「外にいる」という感じを撤回して(あろうことかそれを忘れてしまいさえして)、「室内にいる」前提の議論に巻き込まれてしまう。

 それは残念なことだ。

 どんな可能性も、まずは根拠に基づいて検討されるべきなのだ。

 どちらかの「読み」を正解として理解することが学習ではない。

 そんなことを「教える」気は、授業者にはない。問題はそうした読解の適切さの検討だ。


 最初から外にいるという説を聞いた時に、「室内」派が反論として挙げるのは、「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」という一節だ。外にいたら「おもては…のだ」とは言わない、と彼らは主張する。

 これは実は因果が逆転している。語り手が室内にいると主張する者は、「おもては」によって室内であることを確信したのではなく、室内だという想像の後に「おもては」という言説を理解し、得心しているのだ。「おもては」から限定的に室内であることが想像される蓋然性はない。前提を留保し、虚心坦懐に、屋外にいるところを想像してからこの詩句を読めば、それが何ら不自然でないことは理解できるはずだ。


 そもそも語り手が室内にいるという読解はどのように生じたのか?

 ひとつの有力な要因は11~12行目「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだした」だ。ここで「飛びだした」のだから、そこまでは室内にいたのだ。

 一方語り手が最初から屋外にいると読んだ者は、この部分をどう考えるのか?

 回想と考えればいい。今現在屋外に佇む語り手が、自分が今「おもて」にいる事情を回想しているのだ。「わたくしは」さっき「飛びだし」て、今「みぞれのなか」にいる。

 このように、最初から屋外にいたという解釈が可能であることを示すことはできるが、それがただちに屋外であることの根拠になるわけではない。そうも考えられる、というだけだ。

 「『飛びだした』とあるからそこまでは室内にいるのだ」という説明もおそらく、やはり因果が逆転している。読者は「飛びだした」を根拠として、そこまでを「室内にいる」と読んだわけではない。読者からしてみれば、明示されていないのに、語り手が「おもて」にいるという想像をすることはそもそも不可能なのであり、妹の危篤状態という詩の中の状況が把握されるのと同時に、病床につき添う語り手の姿が自然に想像されているということなのだろう。そうした想像を「このくらいみぞれのなかに飛びだした」以降が屋外なのだ、という確認が補完する、というのが実際のところなのだ。

 では、最初から外にいるという読みはいったいどこから生まれたのか? 


永訣の朝 6 -「ふつて/沈んで」の違い

 語り手はどこにいるか?

 「ふつてくる/沈んでくる」はどう違うか?


 まず「ふつて/沈んで」の違い。

 こういうときは自分の感受性を信じて、まずは「感じて」みる。想像してみる。同時にそれを分析しつつ言葉にしていく。その表現と自分の感じているものが一致しているか、先入観を持たずに確かめる。

 どのクラスでもまず挙げられるのは、みぞれの降り方の印象だ。

 「ふつてくる」の方が、みぞれは相対的に軽く、速く、「沈んでくる」の方が重く、遅い。

 「ふつてくる」が「客観的」、「沈んでくる」が「主観的」という印象もいくつかのクラスで挙がった。

 視線の向きについての言及も多い。

 「ふつてくる」は見上げていて「沈んでくる」は見下ろしている。

 ふって/沈んで

  軽い/重い

  速い/遅い

 客観的/主観的

見上げる/見下ろす

 さて、これらの違いはどこから生じているのか?

 読解に影響するのは、基本的にはテキスト内情報と、明示されていない、我々があらかじめ持っている常識だ。

 テキスト内情報とは何か?

 いうまでもなくここでは「ふる/沈む」という動詞の違いが、まずはこのフレーズの違いを生んでいる。

 もう一つは、どこにそれぞれのフレーズが置かれているかというこの詩の中の位置の違い。その前後の文脈の違いが二つの行の印象に影響する。 

 上の対比的な違いは、これらのどちらから生じているか?


 例えば、妹の病状の変化、あるいは妹の病状を思う兄の心情の変化から両者の違いを捉える意見もある。「沈む」という動詞は「気分が沈む」という慣用表現でも使われる。したがって、妹の病状を思いやるにつれ、兄の気分は重く、「沈んで」いく。確かに文学作品においては、文中に描かれた情景は基本的に感情の表現として読むべきである。

 とすれば、これは「沈む」という動詞自体の意味と、文脈の両方を根拠とした解釈だということになる。

 それ以外の相違点は?


 さて、「ふつてくる/沈んでくる」の違いについて、「こころ」でも何度か言及した教科書の解説書では、以下のような説明をしている。

「ふつてくる」は室内から見える雪の様子を捉えているが、「沈んでくる」は外に出た「わたくし」に向かって降ってくる雪の動きの印象を捉えた表現となっている。(明治書院)

「ふつてくる」の方は、家の中から外を見やっての情景として印象づけられるが、「沈んでくる」の方は、みぞれが地面=底にいる自分に向かって降ってきて、自分がそのみぞれを仰ぎ見ている情景という印象が強い。(大修館)

(みぞれは)妹の病床に付き添っていた室内から見ている時は、気が滅入るように降り続ける。外へ出て、空を見上げると、みぞれが自分に向かって沈み込んでくるように感じられる。降っていた「みぞれ」は沈み込むような重量感を加えられ、陰惨さを増す。(東京書籍)

「ふつてくる」の方は、室内から戸外に降るみぞれに対して眼差しを向けた表現であり、「沈んでくる」は、実際に戸外にいてみぞれを感じながら、自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている。(筑摩書房)

 4つの出版社の解説書から引用してみたが、こうしてみると、「みぞれ」そのものの印象について言及しているものは、みんなの考察に比べて意外なほど少ない。「ふつてくる/沈んでくる」の違いは語り手の視座の位置の違いとして説明されている。そしていずれの解説でも「ふつてくる」は室内から外を眺める視線であり、「沈んでくる」は外にいて見上げる視線だと解説されている。

 さて、こういう「先生」の説明に対して、みんなはどう思うか?


 明らかに食い違うのは「沈んでくる」は「見下ろす」だというみんなの大方の意見と、上の説明の「仰ぎ見る」だ。

 そうした解釈の根拠になっているのは語り手のいる場所だ。

 「ふつてくる」の時点では室内にいて「沈んでくる」では屋外にいる。

 これが「語り手はどこにいるか?」という問いについての「答え」だ。この想定が、「ふつてくる/沈んでくる」の違いを考える上で前提されている。

 だが本当にこの見解には、全員が賛成しているのか?

 そうではない読みが、議論の中でかき消されてしまったということはないか?


 こう聞いてみるのは、授業者の経験では、この見解には少数ながら異論を唱える者がいるからだ。

 どこが違うのか?


 今年も、総じてクラスに2名前後の者が、「わたくし」は、詩の最初から屋外にいる、と言う。

 室内から外を見るような場面は、この詩に存在しない、と。

 そんな読みがありうるのだろうか?


永訣の朝 5 -リフレイン

 語り手のいる場所とともに、並行してもう一つの問いを投げかけておく。

 次の二つの表現はどう違うか?

6行目 みぞれはびちよびちよふつてくる

15行目 みぞれはびちよびちよ沈んでくる

 詩という形式は、意図的にある文言を繰り返すリフレインという技法を使うことが多い。「小景異情」にも「サーカス」にもリフレイン=繰り返されるフレーズがある。「永訣の朝」では「あめゆじゆとてちてけんじや」というとし子の言葉が繰り返される。

 リフレインは、そのまま同じ形で繰り返されるだけでなく、少しずつ変形しながら繰り返されることもある。歌詞の1番と2番のように。とりわけサビでは明らかにリフレインを意識した相似性の中で、微妙に表現を変えることが、意味の響き合いを生む効果を狙っていることが多い。

 「永訣の朝」の5・6行目

うすあかくいつそう陰惨な雲から

みぞれはびちよびちよふつてくる

と14・15行目

蒼鉛いろの暗い雲から

みぞれはびちよびちよ沈んでくる

 は内容的にも文構造的にも共通している。つまり意図的なリフレインだと考えられる。「変形」型の。

 この変形は何をもたらすか? 何のための変形か?

 ただし前の「~雲」までの変更については授業者の方に特にアイデアがないので扱わない。何か面白いアイデアがあったら聞かせて。

 授業では末尾の「ふつてくる」と「沈んでくる」の違いについては考える。

 この表現の変更は何を意味しているのか?


 考える際には次の1,2の順に考える。

どう違うか?

なぜ変えたのか?

 まず、自分の心に問いかける。どう違うように感じるか?

 そしてその違いが作者の表現したかったものであるかどうかを検討する。それが一致するのがコミュニケーションとしての幸せな解釈というものだ。

 だが、作者の意図しない「意味」が発生することを、テクスト解釈は避けられない。それは作品を享受する受け手の自由だ。作品は作者の手を離れて自由なのだ。


 語り手のいる場所とリフレインの変更。

 これら二つの問題を関係づけて考える。

 この二つの問題は関係づけて考えなくてはならない。テクストを文脈において解釈するとは、そういうことだ。

 語り手はどこにいるか?

 「ふつてくる/沈んでくる」はどう違うか?



永訣の朝 4 -語り手はどこにいるか?

 すべての言葉には「語り手」がいる。その存在感の濃淡には様々な程度があるが、すべての言葉は、誰かから誰かに対して発せられたものだ(独り言でさえ!)。

 文章の場合、「筆者」などという言い方もある。さらに小説や詩などの場合には「作者」という言い方もあるが、「語り手」と「筆者」、「作者」は、それぞれ別の概念であり、対象は同一だったりまったく異なったりする。

 三人称小説の場合は語り手の存在そのものが希薄になるから、作者と語りの違いはそれほど明らかには感じられない。

 だが一人称小説の「私」は、基本的に作者その人ではない。うら若い少女の「あたし」を創造した作者が、中年の男性だったりする。

 例えば手紙という体裁をとった小説の場合、語り手は明らかに登場人物の誰かであり、受け手もまたその手紙を受け取るはずの登場人物の誰かだ。「こころ」の「下」は語り手が「先生」で、受け手は大学生の「私」だった。

 「語り手」という概念は、現実から虚構までの様々なレベルで想定しうる。

 語り手と受け手が誰なのか、どのような関係なのかといった情報は、その言葉の解釈に強い影響を及ぼすメタレベルのコンテクスト(文脈)だ。


 「語り手」は、虚構作品の場合、あくまでフィクショナルな存在だと考えなければならない。小説に比べると詩は虚構と現実の境が曖昧で、「私」が登場しなければ、語り手はほとんど作者に見えてしまう。だが作者と同一視されかねない「私」が語る詩でも、性別や年齢によって、「私」のイメージはさまざまでありうる。老齢の詩人が語る詩と青春期にある若者が語る詩とでは、読み方も変わる。

 「I was born」の、中学1年生の出来事を思い出している語り手は、何歳くらいなのだろうか。彼を作者本人と考える必要はない。詩の中に描かれた物語そのものがおそらくフィクションだ。

 とはいえ「永訣の朝」においては、「わたくし」は賢治その人のイメージと重なることを避けられない。妹とし子の死は現実の出来事だった。「永訣の朝」を読むほとんどの読者はそのことを知っている。だからそれ自体が解釈に影響するメタ情報であることを否定できない。

 だが今問題にしているのは、詩を書きつつある作者ではなく、みぞれを採ろうとしている「わたくし」だ。この詩が「朝」という設定になっているのは、これがフィクションとして享受されることを保証している。現実には、詩は妹の死後に書かれているのだろうから。そして、我々読者にとっては常に作品は他人事なのだから。


 さて、考えたいのはこの詩の中で、「わたくし」=語り手はどこにいるか、という問題だ。

 語り手/受け手が誰なのかというだけでなく、語り手のいる場所が解釈にとって極めて重要な意味をもっていたのは「小景異情」の解釈においてだった。語り手が「ふるさと」にいると想定するか「みやこ」にいると想定するかで「ふるさとは遠きにありておもふもの」の解釈はまるで異なる。どのように?

 端的な表現で言うならば「みやこ」にいる語り手が語っていれば「郷愁」とでもいうことになるだろうし、「ふるさと」にいる語り手が言えば「幻滅」とでもいう情感が詠われていることになる、という昨年の考察を授業でも確認した。


 「永訣の朝」の場合、語り手のいる場所は、この物語を体験する読者にとっての映像的なイメージに関わっている。ここでは「語り手」とは、そこで語られている情景を捉えている視点、情景を写すカメラのようなものだ。

 たとえば次の例文において、語り手はどこにいるか?

a.彼は部屋の中に入ってきた。

b.彼は部屋の中に入っていった。

c.彼は部屋の中に入った。

 三つの文で示される事態は同一だ。違うのは「語り手」のいる場所だ。

 それぞれの文の「語り手」はどこにいて、どのような情景を見ているか?


 言うまでもなくaは室内でbは室外(廊下?)だ。

 aではドアから入ってくる彼の顔が見え、bではドアの向こうに消える彼の背中が見える。

 一方「天皇は日本の象徴だ。」「愛は地球を救う。」などの抽象的な文では、「天皇」や「地球」の映像が思い浮かびはするものの、カメラの位置が想像できるような空間は想定できない。文の内容が抽象的になれば語り手の位置・場所を確定することはできない。する必要もない。

 だが「c.彼は部屋の中に入った。」では、事態は充分に具体的だが、語り手のいる場所は明確ではなく、カメラの位置は任意なものとなる。読み手は恣意的に映像を思い浮かべる。その像に妥当性があるとすれば、文脈の中での整合性が保証されるかどうかだ。

 だから本当は、「語り手」という概念は、単にカメラに例えられるような空間的に定位できる「視座」のことではない。cの語り手は、その事態を知りうる存在であり、そのことを誰かに伝えようとしている存在であり、登場人物を「彼」と呼ぶ存在である。だがその存在感は稀薄だ。

 それに比べ、この詩において、みぞれを採りに走る「わたくし」の存在感は明確であり、読者がこの詩を読みつつある今、確実にこの詩の中にいる。

 それはどこか?


2024年1月15日月曜日

永訣の朝 3 -雪のイメージ

 さて、仮に妹の頼み事を兄が叶えることが兄を「一生明るくする」ことになるのだと実際に妹が考えたとしても、兄がいくらかでも「明るくなる」ことができたとしたら、それは妹の意図通りになっているからでもあり、さらにそうした妹の意図をくみ取ったこと自体のせいでもある(またしても入れ子構造!)。

 だがまた、それだけでもないとも思う。


 今年度面白かったのは、兄に雪を採ってくれと頼むことがなぜ兄を明るくすることになるか? という問いに「雪で妹の身体が少しでも楽になるなら、それで兄の気持ちも楽になるから」という答えがあったことだ。

 これは前項で説明した、想定していた機制とどう違うか?


 上の理由は、頼み事の内容が雪であること自体が「明るくなる」機制に関わっている。

 だが元々想定していた理屈によれば、妹の願いを叶えることで「明るくなる」のだから、その願いの中身は問われていないことになる。言ってしまえば、ある切実さがありさえすればどんな依頼でもよいということになる。

 もちろん、どちらかが正解でそうでない方が間違っているというようなことではない。

 頼み事の内容が雪であることがかかわる「理由」として、「白い雪が、暗い病室を明るくするから」という答えも出た。思わず教室中で笑ったのだが、実はこれはあながち見当外れな解釈でもないかもしれない。

 そのことが感じられるかどうかは、問題の三行をどう読むかによる。

わたくしをいつしやうあかるくするために

こんなさつぱりした雪のひとわんを

おまへはわたくしにたのんだのだ

 この一節からまずは、依頼を叶えることで「わたくし」が「あかるく」なるのだ、という上の論理を読みとることができる。

 この論理によれば、その願いの中身は問われない。妹の願いを叶えた、という論理があればよいからだ。

 だが「するために」がかかっていく重点が「たのんだのだ」ではなく、次の行にあると読むこともできる。つまり、とし子は兄を「あかるくする」ための依頼の内容を決めるにあたって、そのもの自体が兄を「あかるくする」ことができるものとして「こんなさつぱりした雪」を意識的に選んだのだ、という論理である。

 つまり「こんなさつぱりした雪のひとわん」だからこそ「あかるくする」ことができるのだ、という論理として読むことも可能なのだ。


 「死に水」「末期(まつご)の水」という言葉がある。さまざまな物語の中で「おまえの死に水はとってやる」などという科白を聞いたことのある者は多いはずだ(と思ったが、授業中のみんなの反応はそうでもなかった)。

 「死に水」「末期の水」とは死者の末期(まつご)に、口に注ぎ入れる水のことだ。釈迦の入滅の際のエピソードが元になっている風習だという。現在では、実際には医師に臨終を告げられてから、湿らせた綿で死者の唇を拭うのが一般的な作法だという。葬儀で行われるのを見たことがある人もいるかもしれない。

 この詩の中で兄がとってくる雪は、妹にとってのいわば「死に水」「末期の水」なのだ。それはどのようなイメージをおびたものとして描かれているか。

 具体的に詩の中の表現を挙げよう。


 最初のうち「雪」は「みぞれ」と呼ばれ、「陰惨」「びちよびちよ」「くらい」といった陰鬱なイメージで語られる。

 そのイメージが途中から変わる。「すきとほる」「まつしろ」「うつくしい」からは、前半とは明らかに異なった肯定的な雪のイメージが感じ取れる。

 途中から雪のイメージが変化したのはなぜか?


 これが前項の、雪をとってきてくれと頼んだ妹の意図に気づいたからだと言うのはいささか牽強付会にすぎるだろうか。


 さて、肯定的にイメージされる雪が妹の「末期の水」として、妹を苦しみから救うのだ、だから兄も救われるのだ、という論理は正しい。

 それだけではない。

 「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの/そらからおちた」「天上の」「聖い」などの形容からは、この妹の「さいごのたべもの=末期の水」である「雪」が、まぎれもない聖性をもったものとして描かれていることも感じ取れるはずだ。

 それが、妹の死を浄めるように感じられるのだ。

 読者にも、そして兄にも。

 それが兄を「いつしやうあかるくする」のだ。


 だがこれは、妹がそれを意図して兄に「たのんだ」のだということではない。妹が意図していたとすれば、兄に何か役割を与えようというところまでだろう。いやそれすら兄の妄想かもしれない。だが兄はそれを信じているし、同時に、聖性を持った「雪」を頼んだことも、それが兄を救うための妹の気遣いであったとすら言っているのである。

 ともあれ、どこまでが妹の意図であるかを詮索するまでもなく、兄にとっての聖性を帯びた「雪」のイメージが兄に救いをもたらし、「いつしやうあかるくする」のだという詩の論理は捉えておきたい。


永訣の朝 2 -なぜ頼んだのか?

 「永訣の朝」で、兄である「わたくし」は死にゆく妹のためにみぞれを採りに外へ走る。

 兄がみぞれを採りにおもてに出るのは「あめゆじゆとてちてけんじや」と妹に頼まれたからだ。

 なぜ妹は兄に、みぞれを採ってきてくれと頼んだのか?


 これも特に難しい問いではない。まだ準備体操の範疇だ。

 だが一見簡単そうに見えるこの問いから、ようやく手応えのある考察が展開できる。

 この問い「なぜ頼んだのか?」、つまり頼んだ理由は、二つ挙がる。次の二種類だ。

  1. 詩から直接引用できる理由。
  2. 詩に書かれてあることから間接的に推測される理由。

 二つの理由はそれぞれ次のようなものだ。

  1. 兄を一生明るくするため
  2. 高熱にあえぐ喉を潤すため

 2は、「おまへがたべるあめゆきをとらうとして(10行目)」から、とりあえずは「食べるため」とも言える。だが、なぜ食べるのか、まで含めていいたい。

 兄が妹の頼みでみぞれを採ってくるという行為は、兄に、また病室にいる人々に、どのように了解されているか。そうした了解を読者も共有しなければならない。理由は知らず、みぞれを食べたいと言う妹のためにみぞれを採りに走るわけではない。なぜ妹がみぞれを採ってきてくれと頼んでいるかは、それを食べるためであると病室の皆に了解されているし、なぜみぞれを食べたがっているのかも、妹がはっきりと口にしたかどうかはわからないが、やはり皆に了解されているはずだ。兄がそれを訝しんでいる様子がないのだから。そうした当然の了解を確認したい。

 したがって、「おまへがたべるあめゆき」と「はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから」を結びつけて、熱があるので冷たいものを口にしたがっているのだ、と考える。

 1は、18行目にそのまま「わたくしをいつしやうあかるくするために」とある。


 さてここからが考えどころだ。

 最初に問われた時に思い浮かべたのは、二つのうちどちらか?

 聞いてみると必ず両方に手が挙がる。どちらが多いとも言い難い。

 二つの答えはどちらも正しい。ではなぜ二つの答えが挙がってしまうのか。そして二つの理由はどのような関係になっているか


 この問いは抽象的でわかりにくい。

 もう少し準備運動をする。

 「みぞれを採ってくること」がなぜ「兄を一生明るくする」ことになるのか?


 この因果関係の機制は、必ずしも「わからない」わけではないはずだ。読者には、ある納得がある。

 だが「わかる」ことよりもそれをすっきりと「説明する」ことの方が難しい。説明し、相手に同意を得るところまでを含めての国語力を高めようというのが授業の目標だ(勉強とは「わかる」のではなく「できる」ことを目指す)。

 この「なぜ」はこんなふうに説明できる。

 妹のささやかな最後の頼みを叶えることが、妹の最期を看取る以外に何も出来ない兄の無力感を、いくらかなりと救う。その小さな救いが、それ以降の兄の生を明るくする、と妹は考えているのだ。

 さてでは、こうした妹の心理に基づく答1と答2はどういう関係になっているのか?


 もう一つ、準備運動。

 1と2を対照的な熟語で表すとすると、どんな対比で表せるか?


 「相手のため/自分のため」「利他的/利己的」「精神的/肉体的」「心理的/生理的」…。

 だがこれではまだ「関係」が明らかになったとはいえない。二つの理由はそれぞれ間違っていないとすると、それらは単に並列的な、一石二鳥といったようなものか?


 面白いのは、1と2を「本音/建前」と表現する者に対し、「建前/本音」ではないかという意見が出たことだ。

 同様に「一次的/二次的」というA組K君の表現も、逆に「二次的/一次的」ではないかとも考えられる。

 どちらにもそれなりに腑に落ちる感触があるとすると、これは一体何を意味しているのか?


 もう一つ、「想像/事実」という対比も上がった。「建前」は「嘘」に近いから、「事実」はどちらかというと「本音」側だろう。とすると「建前/本音」に一票というところか。

 だが逆に「事実/想像」は言えるか? 1と2のどちらが「事実」なのか?


 「正解」は、この詩の中では決定できない。

 これは作品における「事実」とは何か、という問題だ。

 どちらかというと2はおおよそ「事実」と認めていいだろうが、1については、語り手の主観が入っている。そして一人称の小説や詩の作品中で語り手が語ったことは、うっかりすると自動的に作品内の「事実」と見なされてしまう傾向がある(これは「こころ」でさんざん経験したことだ)。

 だがそこに保留が必要なのだ。だから1を「事実=本音」と断定するのは早い。これは単なる兄の「妄想」なのかもしれないのだ(C組T君は最初から「妄想/事実」と対比した)。

 だからこのような論理を自覚した上で、最後にどう納得するかは、読み手の好みの問題になる。


 最初の「関係」については?

 いくつかのクラスで「内包」「包含」という言葉が聞こえてきた。「入れ子構造」でもいい(入れ子ってなんだ? マトリョーシカを思い浮かべれば良い)

 ここには、次のような心理が入れ子状に重なり合っている。

  1. みぞれを食べたいというとし子の欲求(答①)
  2. とし子の1の欲求を叶えたいという賢治の希望
  3. 2の希望を実現させることで兄の無力感、罪悪感を軽くしたいというとし子の配慮(答②)
  4. 妹の要請が3の配慮に拠るものなのだと考える賢治の推理(妄想?)

 つまりこの一節から読み取れることは〈「『(妹のために何かしてやりたい)と兄が思っている』と妹が考えている」と兄が考えている〉ということだ(こういうのを「入れ子構造」という)。

 こうした、互いの心理についての推論の重層構造を、詩を読む我々が明晰に意識しているわけではない。しかしなおかつ詩を読む我々はそれを了解しているはずだ。

 自分が了解しているものを自覚的に分析すること、さらにそれを他人に説明することの難しさはいかばかりか。


 さてこの考察は、さらに後の読解の伏線になっている。


永訣の朝 1 -全体を捉える

 宮沢賢治「永訣の朝」を読む。

 文学史上に屹立する名作として、100年の間、多くの日本人に愛されてきたこの詩は、一方で教材として豊かな可能性をもったテクストでもある。

 ここでいう「可能性」とは、感動的な文学作品を読むことで高校生の「心を豊かに」してやろうなどと期待するものではない。国語学習の場たる授業のためのテクストとしてこの詩がもつ可能性だ。

 つまり毎度のごとく、ここでも、やることはただひたすらテクスト解釈だ。そういう意味で、詩も小説も評論も変わらない。テキストの情報を整合的に組み合わせて解釈することで、そのテキストが持っている「意味」が立ち上がる瞬間を体験しようというのだ。


 まずは肩慣らし。頭の準備体操

 この詩の形式は何か?


 詩の「形式」?

 漢詩ならば「五言/七言」か「絶句/律詩」を言えばいい。

 では日本語詞の現代詩では?


 中学校で習うはず。「口語/文語」と「定型詩/自由詩」を言えばいい(「叙情詩/叙景詩/叙事詩」は内容の区別)。

 では「永訣の朝」は?


 ところで教科書に収録されているあとの二つ、室生犀星「小景異情」と中原中也「サーカス」は?

 「定型詩」というのは日本語の韻文のでは和歌か俳句のことを意味するから、いずれも自由詩ということになる。短歌は教科書の、三つの詩の後の頁に収録されている。

 とはいえ「小景異情」と「サーカス」はいずれも、明らかに定型詩の韻律が意識されていることが、読んでみるとわかる。

 定型詩の韻律とは五音と七音によって、詩句が一定のリズムをもっていることをいう。「小景異情」「サーカス」いずれも、明らかに七五調の詩行が多い。「小景異情」の冒頭「ふるさとは/遠きにありて/思ふもの」は五七五だから発句(俳句)の形だ。

 したがって、言うならば定型の韻律を多用した自由詩、ということになる。

 それに比べて「永訣の朝」はそうした韻律が使われてはいない。したがってまさしく自由詩だ。


 では「口語/文語」?

 「小景異情」は文語詩だ。「かへらばや」の「ばや」が願望の終助詞であることは文語文法で学習済み。

 では「永訣の朝」は?


 まず「口語/文語」を「話し言葉/書き言葉」と思っているようでは話にならない。「現代語/古語」のことだとわかっていなければならない(本校生徒なら!)。

 その上で「永訣の朝」を文語詩だと勘違いしてしまうことはありうる。

 そうした勘違いがどこから生じるかを推測し、どう考えるのが正しいのかを説明してみよう。


 冒頭が「けふのうちにとほくへいつてしまふ」とくるから、これは文語だろうと思ってしまうのは無理もない。

 だが2行目の文末は「あかるいのだ」だ。「だ」は口語の助詞だ。

 では「けふ」は何なのだ?


 これは歴史的仮名遣い(旧仮名遣い)なのだ。

 「口語/文語」と「現代仮名遣い/歴史的仮名遣い」が別の要件なのだと認識しなければならない。そこを混同していると、うっかりこの詩は文語詩だと言ってしまう。通常、文語は必ず旧仮名遣いで書かれるし、口語は現代仮名遣いで書かれるものしか目にしない。だが文語かどうかと仮名遣いは別問題なのだ。

 この「永訣の朝」のように、口語が旧仮名遣いで書かれるとうっかりそこを混同して、これが文語詩であるかのように思ってしまうこともある。

 だが太平洋戦争前までは、口語でも旧仮名遣いで書いていたのだ。


 準備体操その2.「永訣」とは何か?

 辞書は引かない。知識を問うているのではない。

 「永訣」などという語は別の機会にあらかじめ知っているのでなければ、高校生がまず知っているはずのない知識だ。授業者とてこの詩でしかお目にかかったことはない。

 考える手がかりは、まずは詩の内容。この問いは、「永訣」という言葉の意味を教えようという目的で発しているのではなく、詩の内容を捉えようという思考を促すために発しているのだ。

 さらに熟語の意味は字の意味から考える。

 漢字の意味は、訓読みをするか、別の熟語を連想するかだ。

 だが「永」はともかく「訣」とは何か?

 熟語は「訣別」が思い浮かべば良い。「訣」が常用漢字ではないため、慣用的に「決」で代用しているが、「決別」=「別れを決める」では誤解を生ずる。本来は「訣別」なのだ。

 またどのクラスでも「たもとをわかつ」という声が聞こえてきたが「たもと」はころもへんで「袂」。だが連想がはたらくのは故あることでもある。「訣」は「~れ(る)」と送り仮名を振ることができる、とヒントを出すと、何人かが「わかれ」と答える。つまり「たもとをわかつ」の「わかつ=訣かつ」の方なのだ。

 つまり「永訣」とは「永遠の別れ」のことだ。これは妹との「永遠の別れ」=妹の死をうたった詩なのだ。


 まだ準備体操。この詩の中で語り手がしている最も大きな行為は何か?


 語り手は詩の中で「空を見上げる」「飛び出す」「みぞれを茶碗に掬う」「妹のために祈る」「願う」など、大小様々な「行為」をしている。そのうち「最も大きな行為」とは何か。

 「妹のためにみぞれを採ってくること」と答えるのは難しくない。ただ、ページをめくって全体を見回し、それが全体に渡って「最も大きな行為」であるかどうかを検討することに意味がある。ここまでの二つの問いで、「永訣の朝」とは、「妹との永遠の別れ」=「妹の死」に際して、「妹のためにみぞれを採ってくる」という詩であることが捉えられたからだ。

 これでこの詩を読むための構えができた。


2024年1月1日月曜日

こころ 63 -近代理性への疑義

 それぞれの場面・状況において「私」が「言わない」理由は、それぞれに説明しようとすればできる。

 そして基本的な構造として、「言わない」が「言えない」になってしまうのは、前に言わなかったから、なのだ。この先言うためには、なぜあの時は言わなかったのか、という疑問に答えなければならなくなる。つまり「言わなかった」こと自体を隠さなければならない。

 これはいわゆる悪循環・再帰性だ。言わなかったという結果が言えなくなることの原因になるという、循環した因果関係をつくっている。

 だから「言えなかった」という事実が「利害を考えて黙っていた」のではなく、「ただ」「言えなかった」のだという116頁の説明は、この場面で「言えなかった」ことに必然性を認めるような理由があったのだという説明よりも、この「遅れ」の感触を強調している。

 同様に、上に引用した「足を滑らした」に「つい」という、見ようによっては無責任な副詞が冠せられているのも、同じニュアンスだと考えればいいのではないか。

 「私」は「正直な道を歩くつもり」だったというが、そのような「つもり」がどこに存在したというのか。

 だが「私」の自覚としてはそうなのだ。そして「足を滑らした=黙っていた」ことは「つい」なのだ。

 まずとにかくそのことが起こる。そしてそのことのもつ意味は「遅れ」てやってくる。

「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖くなったんです」(「上/十四」)

 これは主に奥さんへの談判を指していると思われるが、上記の状況に重ねて言うならば「私」は「いや考えたんじゃない。言わなかったんです。」とでもいうことになる(「談判」もまた「言わずにやった」のだ)。

 だが、「言わなかった」ことが「もう言えない」になることを、「私」は予め知ることができない。そうなってから「遅れ」て、そのことを知るのだ。

 そしてこの「遅れ」が何をもたらすかも。


 「私」はこの時、自らも恋の告白を口にできなかったことで、この後のお嬢さんをめぐるKとの争いは決定的に困難な状況におかれることになる。これ以降、Kに対する秘密を抱えたままで全ての行動をおこなわなければならない。

 それは、「私」にはもう正当な手段でお嬢さんを手に入れることができないということを意味する。

 といって人知れずお嬢さんへの思いを断ち切ることはできない。それは愛するお嬢さんを失うというだけでなく、Kに対する敗北をも意味するからだ。

 つまり「私」は、自身の選択に決定的な制約を受け続ける事態の中で、しかし断念することもできずに宙吊りにされるのだ。


 また、Kが自殺してしまった今、Kに対する謝罪は勿論、後に妻になるお嬢さんにすら、このことを釈明することはできない。Kに謝罪できないままKに死なれてしまうということは、損なわれてしまった「倫理的に正しい自分」という自己イメージを取り戻せないということであり、しかもそのことをこの先、自分の妻に告白することもできないまま生きていかなければならないということだ。お嬢さんとの結婚が実現に向かって進んでいくにもかかわらず、そのことを公明正大に喜ぶことはできないのだ。

 ここでも、可能性の喪失はすぐさま完全な断念に決着せずに宙吊り状態におかれることになる。


 この宙吊り状態も、悪循環の再帰性も、「山月記」の李徴の陥っている状況に似ている。李徴もまた、エゴイスティックになろうとしながら、自分に利するように自由に何かをすることなどまるでできなかった。


 恋の自白も自殺も、Kがそれをすることに対する「予覚」が無論あるはずはないが、それよりも問題はそれによって引き起こされる事態への「予覚」だ。「私」はそのことについて周囲の人に「言えない」状態に陥るが、同時にそれは常に中途半端な宙吊り状態として「私」を捉え続ける。

 もちろん常に「言えばよかったのに」とは言える。そのことが潜在的であれ、予想ができていたのなら、そんなことは事前に充分に想定しておくべきだったのだ、などと「私」を断罪したり侮蔑したりすることもできる(そういう言説を目にすることがある)。

 だがそれは、人間の理性に対する過度の要求だ。

 「私」は事態の展開に致命的に「遅れ」ている。「遅れ」は、その事が終わってから、つまり「遅れ」たという事実が生じた後に確定されるしかない。

 この「遅れ」は不可知であり、それゆえ不可避だ。

 にもかかわらず、もっと早く行動を起こしていれば良かったのに、という後悔は猛然と襲ってくる。前もってそうした展開を想定すべきだったのではないかという非難が、誰知らず聞こえてくる。

 「私」はこの時、いわば相手がゴールした後で、実はそれまで競走をしていたのであり、それはもう終わってしまったのだということを初めて知らされたのだ。

 後には永遠に敗者となるべき結果だけが示されている。

 確かに走っていた自覚はある。だがそれがゴールの設定された、対戦相手の存在する競走だことは知らされていない。ただゴールも意識されぬまま「早く」という焦りだけが「私」を動かしていたのだ。そして相手がゴールした後で、もっと急げば良かったという後悔が襲ってくる。

 だがこれは実はKとの競走でもない。「先を越された」のは、Kに、ではない。Kは「私」よりも早く告白しようなどとはしていないし、先に告白したことによる何らの利益もない。

 Kもまた敗者だったのであり、誰を勝者とすることもなくただ「もう取り返しがつかない」結果だけが走者たちの前に投げ出されるのだ。

 「予覚」もないところに「後悔・悔恨」を想定するのは暢気に過ぎる。競走の自覚のなかった走者たちには、レースの終了は不意打ちでしかないのだから。


 こうした考察からは「黒い光」をどのように捉えられるか?


 「取り返しがつかない」というのは、レースの終了によって「私」が陥る状況を指すのだから、恋の自白の場面では、先にKに自白されてしまったことによって恋の競争において決定的な劣勢におかれてしまうことであり、自殺の発見の場面では、Kやお嬢さんに対する釈明の機会を失ったことだ。

 そして先に見た「黒い光」=「自意識の牢獄」に囚われてしまうことだ。

 物語の構造から考えてみた時、この「黒い光」が象徴する未来への影は、単なる「罪悪感」として「私」一人が背負うべきものでなく、登場人物すべてに投げかけられた、不可避的な運命の決定不能性に対する人間の無力さ、とでもいったようなものだ。

 この「黒い光」は、恋の自白の場面や自殺の場面だけでなく、無論、奥さんがKに婚約の件を話してしまったことを奥さんから聞く、土曜日の昼間の場面にも射している。それだけではない。上野公園の散歩の最中の会話の中でも、夜にKに声をかけられた時にも、談判をした時にも、夕飯の席でそのことを言えなかった時にも、常に「黒い光」は微かに「私」を照らしている。我々は常に状況に縛られて、そうせざるをえないようにふるまっているのであり、事態の展開に常に「遅れ」ているのだ。


 「エゴイズム」が主題だと考えるということは、「私」が自らに利するように何事かを選択し、行動しているとみなすことだ。「私」は「エゴイズム」ゆえに、その結果に対して「罪悪感」を抱く。

 それは近代における個人とは自由な存在であり、自らの意志で自らの行為を決定できるという前提の裏返しだ。

 だが「私」の行動は、いつも事態に「遅れ」、それに縛られるようにして決定されていく。

 とするとすれば「こころ」という小説は、主体的な選択をする自律した近代的個人のエゴイズムを描いているかのように見えながら、その実、運命に弄ばれるようにして事態の展開に「遅れ」続ける人間を描くことで、大げさに言えば「近代理性への疑義」を表明しているのだ。

 これが「こころ」という作品から見出される、もう一つの主題だ。


こころ 62 -不可避な「遅れ」

  恋の自白の場面と自殺の場面に共通する「ほぼ同じ」「感じ」とは、「私」とKの「こころ」が断絶し、それぞれが「たった一人」になった瞬間が突然訪れたということだ。

 こうした「黒い光」を「孤独」の象徴として見る解釈は、「こころ」の主題を「意思疎通の不全」と捉えることとも整合する。

 それはKの自殺に至る心理の考察から導かれた結論と一致する。

 確かにこの瞬間、二人は断絶し、「孤独」が決定づけられた。

 だが、「私」にはそのことがこの時直ちに認識されているとは言い難い。

 そうした認識は後から徐々に形をなしていくのではないか?

 Kの自己所決に「二日余り」が必要だったように、「私」がそうした認識にいたるのにも10年あまりの時間が必要だった。

 だからこれらの瞬間に「私」を襲った「感じ」について、もう一つ、別の相貌を捉えなければならない。

 それは、何事か致命的な「遅れ」とでもいったものだ。


 二つの場面で「私」はなぜその瞬間に「もう取り返しがつかない」と認識することができたのか。

 それは、どちらの場面も「私」は単なる受け身の状態で不意打ちを食らっているわけではなく、「私」自身は自分がすべきことを自覚しているからだ。

 115頁では、房総旅行以前から、Kよりも先に「私」こそお嬢さんへの思いを相手に伝えなければならないと思い続けていたのだし、Kの自殺の前にも「私はどうしても前へ出ずにはいられなかったのです。」とKへの釈明に迫られている。

 こうした強迫意識が、どちらの場面でもいわば意識下の「予覚」のような形で迫ってくる。後ろから追われているような焦燥感が、事態の展開への「予感」のようなものとして感じられている。

 だからこそ「私」にはその先に陥る窮境が、聞いた刹那にわかってしまう。Kから恋の告白を聞いてしまった以上、もう自分からは言えない。Kの自殺を発見した場面でもKや奥さんお嬢さんに釈明する機会は永遠に失われてしまったのだ。

 意識下でそうした展開を恐れていたからこそ、そうした悟りは、刹那におとずれる。


 注意すべきなのは、だからといって、そうなることを予め知ることはできない、という点だ。そうなって初めてそうした状況におかれることの意味がわかるのだ。「まるでなかった」のは、Kの告白を聞かされる「予覚」というばかりではなく、聞かされた後に訪れるこうした状況の意味する、致命的な身動きのとれなさに対する「予覚」だ。

 つまりそうした「予覚」をもてなかった「私」は、事態の展開に致命的に「遅れ」ているのだ。


 この認識は、保留にしていた、なぜ「私」はKの告白に続けて自分のお嬢さんに対する思いを告白できなかったのか、という問題に対する一つの解答を可能にする。

 Kには敵わないと思うから、実は自分も、と言い出せないのだという説明は、おそらく間違ってはいないが、「利害を考えて黙っていたのではありません。ただ何事も言えなかったのです。」という不可解な記述の意味を捉えていない。

 衝撃のあまり言い出せなかったのだ、というのも間違いではないかもしれないが、そのことがなぜ重要なことなのかを説明していない。 

 問題は、なぜその時言い出せなかったか、というだけではなく、なぜその後も言い出せないのか、でもある。

 Kに敵わないという認識は変わっていないのだから、告白の瞬間に限らず「言えない」状態は継続する。

 また、Kが死んでしまっては「言えない」ことに何の不思議もない。

 だがそれだけではない。次のような記述は、この「言えない」に共通する性質があることを物語っている。

私は当然自分の心をKに打ち明けるべきはずだと思いました。しかしそれにはもう時機が遅れてしまったという気も起こりました。なぜさっきKの言葉を遮って、こっちから逆襲しなかったのか、そこが非常な手ぬかりのように見えてきました。せめてKの後に続いて、自分は自分の思うとおりをその場で話してしまったら、まだよかったろうにとも考えました。Kの自白に一段落がついた今となって、こっちからまた同じことを切り出すのは、どう思案しても変でした。私はこの不自然に打ち勝つ方法を知らなかったのです。(116頁)

要するに私は正直な道を歩くつもりで、つい足を滑らしたばかものでした。…しかし立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑ったことをぜひとも周囲の人に知られなければならない窮境に陥ったのです。私はあくまで滑ったことを隠したがりました。同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。私はこの間に挟まってまた立ちすくみました。(136頁)

 二つの記述に共通する構造は何か?


こころ 61 -「黒い光」一つ目の結論

 ここまで考えて、「黒い光」について一つの結論を出そう。


 「Kの歩いた路」とは何か。引用部分から指摘するなら「Kが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決した」だ。これが「この友だちによって暗示された運命」であり、またこれが「私の前に横たわる全生涯」だとすると、それを照らす「黒い光」とは、「たった一人で」あることに他ならない。「黒い光」は「私」ばかりかKにも射している。

 この「黒い光」は端的に表現すれば「孤独」だ。自分の「こころ」を他人に対して正直に打ち明けることができない、登場人物それぞれが、「たった一人で」自閉している、自意識の牢獄に射す光こそ、Kや「私」を死に追い詰める「黒い光」なのだ。

 こうした把握は「Kはなぜ死んだか」の考察から導かれる「こころ」の主題と一致する。


 「黒い光」はKにも射しているのだから「罪悪感」ではありえない。

 同様に、自殺の場面同様、「孤独」としての「黒い光」は恋の自白の場面にも射しているか?


 恋の自白の場面とは、「私」がKを自分の「敵」として位置づけてしまう決定的な転換点だ。

 それまでもお嬢さんをめぐっては、Kは疑心暗鬼の対象だし、「私」は充分には言いたいことが言えずに迷っている。

 だがKが「敵」として立ちはだかることを宣言するならば、その後「私」はいよいよKに手の内を見せることなく策略をめぐらすしかなくなる。

 「私」とKの意思疎通の断絶が決定づけられたのは、まさしくこの瞬間だったのだ。


 この場面にはそのことが作者によってあからさまに書かれている。

私の心は半分その自白を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念にたえずかき乱されていましたから、細かい点になるとほとんど耳へ入らないと同様でした

 先にも一度引用したが、「私」はKの話をよく理解していない。

 これはまた、Kの方でも同じなのだ。

私は苦しくってたまりませんでした。おそらくその苦しさは、大きな広告のように、私の顔の上にはっきりした字で貼りつけられてあったろうと私は思うのです。いくらKでもそこに気のつかないはずはないのですが、彼はまた彼で、自分のことに一切を集中しているから、私の表情などに注意する暇がなかったのでしょう。

 二人はそれぞれ自分のことに囚われて、相手のことを見ていない。話をしていても、二人の意思疎通は断絶している。


 これ以降、Kの「こころ」は「私」の目からは完全に見えなくなる。

 続く三十七章は「襖」への言及が頻出する(117頁)。二人を隔てる襖は「いつまでたっても開きません」。

 そうして「彼が解しがたい男のように見え」た揚句、「彼が一種の魔物のように思え」てくる。

 二人がそれぞれ「黒い光」に照らされているのは明らかだ。

 とすれば、Kと「私」の断絶が決定づけられ、その後の自意識の牢獄に足を踏み入れた瞬間として、恋の自白の場面にもやはり「黒い光」は射しているのだ。


 この「黒い光」は、この瞬間だけでなくなぜその後も射し続けるのか?

 「私」はKを「「解しがたい男」と言いながら、一方で「罪のないKは穴だらけというよりむしろ開け放しと評するのが適当」(124頁)だなどと、すっかりKがわかっているつもりになってもいる。

 そこでのKは、「私」の恋の行く手に立ちふさがるかもしれない強い「敵」だ。だが実際のKは、自らの信じてきた道を進むことができずに苦悩する弱い男だ。「私」にはそれが見えない。

 それは相手に自分の「こころ」を投影して、わかっているつもりになっているからだ。この「つもり」は自覚できないから、そうした錯覚から逃れることはできない。「私」は自分の影を相手に無意味な画策をしつづける。

 「わかっているつもり」は「わかりあえない」ことと表裏一体だ。

 「私」は「黒い光」が照らす自意識の牢獄から出られない。


自由と独立と己(おのれ)とに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう。(「上/十四」)


こころ 60 -共通点

 前項の糸口の二つ目、四つの状況に共通する構造は何か?

  1. Kの告白
  2. 「足を滑らす」
  3. 奥さんがKに言ったと「私」に言った
  4. Kの自殺

 これらに共通する構造は、糸口の四つ目、「私」が常に直面している問題「言う/言わない」と三つ目の「しまった」を合わせれば発想できるはずだ。何を「取り返す」ことができないかといえば、「言う」機会だ。1や4ではKに、3では奥さんに「先を超されて」、自分から「言う」ことができなくなって「しまった」のだ。

 まずこの「感じ」を、このように表現するところが第一歩。


 2「足を滑らす」もまたそういうことなのだと授業者は考えている。

 多くの解説書がこれを、Kに黙って奥さんに談判したことだと説明している。

 「狡猾」までならその説明でいいかもしれない。だが「失策った」には対応しない。談判することのどこが「失策」なのか。

 だからこの比喩が指し示している「滑らした」状態とは、その談判の後で、それが秘密として「私」の手に余るようなものになっている状態を言うのだと捉えたい。談判の時点ではそうなることを十分に予測せずに行動して、気づいてみると言えなくなっている。これもまた「しまった。取り返しがつかない」なのだ。

 ただし1・3・4のように、明確な誰かに「先を越されて」いるという状況ではない。

 だが「言えなくなっている」という状況である点においては4つの状況とも共通しているし、それが、後からそれがわかる点においても共通している。2もまた、いささか無理矢理言うと、状況に「先を越されて」いるのだと言える。


 では糸口の一つ目、「予感」はどう考えたら良いか。

 その事が実際に起こる前に、自分はそれが起こることを知っていたのではないか?

 問題は、それ起きた時の「私」の構えだ。純粋にそれが出し抜けに起きたのだとすれば、超能力者でない身に、予感など抱きようもない。

 だが「私」は何の構えもなく、その瞬間を迎えているわけではない。

 四つの場面にいたる前提となる状況の共通性を確認しよう。

 どのような状況においてその瞬間を迎えるのか?


 とはいえ「自白」の場面については、そこが教科書の収録部分のほぼ始まりなので、その前の状況は直接本文から読み取ることができず、教科書の収録部分以前の「あらすじ」の記述や、この場面から後の数日間の記述を参照する。

 そして「自殺」の前の状況から、「自白」の前にも同じような状況があったとしたら、どのような状況なのかを推測する。

 結論としては、どの場面でも、「私」が何かをKに言おうとして言い出せずにいる、というのが共通した状況だ。

 恋の自白の場面では、Kだけでなく「私」こそがお嬢さんへの恋心をKに打ち明けようと長らく思い悩んでいるのだし、自殺の場面では、すべてをKに打ち明けて謝罪することが「私」の前に横たわる喫緊の課題だ。3も、奥さんがKに話してしまったということは、いっそう一刻も早い告白と釈明が必要だ(それなのに「私」はここでもそれをとりあえず明日に回す)。

 2「足を滑らす」は談判の後だから、新たに成立した婚約という事態は公開されなければならない。奥さんは始終それを要求してくる。それは「私」にとっても苦しい事態だ。

 どの状況でも「私」は、Kに何事かを言おうとして言い出せずに迷っていたのだった。

 とすれば、多くの人が感じる「予感」めいたものとは、後から振り返った時に捏造される錯覚かも知れない。言わなければいけないことはわかっていたのに先延ばししていたのだ。その焦燥感が、後から「予感」があったのだという感触として語られている。


 とすれば、「取り返しがつかない」とは、Kに「先を越され」て「しまった」から、この先はもう言えなくなって「しまった」ということにほかならない。

 どうしてそういうことになるのか?


 Kに先に恋の自白をされてしまうと、もう「私」には自らのお嬢さんへの思いを表明することはできない。この心理は容易に共感できるが、それがなぜかを説明することは容易ではない。だって言い出しづらいじゃん、ねえ? では説明にならない。

 なぜ、もう言えなくなるのか?

 自らもお嬢さんが好きだということは、既に潜在していた三角関係を顕在化することになるからだ。

 なぜ顕在化することを避けなければならないのか? だって気まずいじゃん(「Rの法則」の雛壇女子高生)、ではだめだ。

 三角関係が顕在化するのを「私」が避けなければと思ってしまうのは、「私」はKに敵わないと思っているからだ。三角関係とは「私」とKが競争相手になるということだ。だがKの方が頭が良く、意志が強く、背も高いし顔だって良いような気がする(と書いてある)。

 「私」は、三角関係が露わになってしまえば自分が敗者になるであろうことを予見しないではいられない。したがって三角関係であることは表面化してはならない。

 だからもう「私」が言うことはできない。


 だがこの説明は、次の一節と微妙に不整合だ。

Kの話がひととおり済んだ時、私はなんとも言うことができませんでした。こっちも彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうか、それとも打ち明けずにいるほうが得策だろうか、私はそんな利害を考えて黙っていたのではありません。ただ何事も言えなかったのです。また言う気にもならなかったのです。

 上記の説明は「利害を考えて黙っていた」のだということにはならないか?


 「私」が黙っていたことに理由をつけるならば、上記のように言うのはおそらく間違っていない。

 にもかかわらずなぜ上記の一節が書かれなければならないのか、という問題は、意外に深いところにつながっていそうだ。

 なぜとっさに「自分も」と言えなかったのかという問題だけではない。その後も「私」はずっと言えないままになってしまう。それはなぜか?

 この点については後で再説する。


 一方、138頁では、「私」はKを出し抜いたことについて、Kに釈明しなければ、と思いつつも踏み出せない。「五、六日」の間、蜿々と逡巡する、言い訳じみたくだくだしい思考が続く。

 そうするうちにKの自殺によってその機会は永遠に失われてしまう。

 このことはなぜかくも重大なのか?


 それまでの「卑怯な」ふるまいを自ら告白していれば、一時の恥辱を耐えれば再び「倫理的に正しい自分」を回復することができる。

 Kのいない今、その可能性は断たれてしまった。となれば「卑怯だった自分」を抱えて生きていくしかない。

 だがそうした痛みも、時間が経てばなし崩し的に忘れていくこともできるかもしれない。

 だが問題はそれだけではない。

私はただ苦笑していました。しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。私は寂寞でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。(「五十三」)

 先にも引用した一節だ。

 「言えない」はKに対してだけではない。Kの死という重大な結果を招いた以上、それをもたらした(と「私」が思っている)自らの行動については、これ以降、後に妻になるお嬢さんや奥さんに対しても「言えない」ことになるのだ。


 どれも、自分から言う前に「先を越され」ると、もう言えない、という「取り返しがつかない」状況に陥っている。


 「ほぼ同じ」という、既視感にも似た共通性は抽出できた。

 「ほぼ同じ」「感じ」を説明するために、「私」の反応の共通性を挙げても意味がない。問題は「私」に同じ反応をさせる状況の共通性だ。

 状況とは、直接的なKの行動のことではない。「恋の自白」と「自殺」という行為そのものの共通性を挙げても、状況の共通性は明らかにはならない。

 この瞬間の前後の変化、この出来事が及ぼす影響にこそ、「私」が看取した「ほぼ同じ」「感じ」の核心がある。


 ここから「黒い光」をどのように表現したらいいか?

  そしてこのことが示す「こころ」の主題とは?


こころ 59 -考察の糸口

 Kの恋の自白の場面と自殺を発見する場面に共通する構造とは何か?

 そこから見えてくる問題を、「こころ」の主題として捉える。ゴールの目印は近代的個人が持つとされる「自由と責任」の問題だ。


 考察も大詰めだから、考える時間をまとめてとるために、なるべくこちらから提供する情報や条件を揃えておこう。

 一つ目。

 授業でこの部分を考察すると、二つの場面とも、「私」にとって想定外の展開だったのだ、と語る生徒がいる一方で、どちらも、決定的な瞬間にいたる前に「私」は何か予感のようなものを感じている、と指摘する生徒もいる。

 こうした食い違いは何を意味するか(対立する意見というのは話し合いを盛り上げる良い契機だ)。

 予感はあったのか? なかったのか?


 「驚き」「衝撃」を共通要素として挙げるならば、予感はなかったというしかない。

 実際に恋の自白の場面では、「私の予覚はまるでなかったのです」とあからさまに言っている。恋の自白などということ自体が、Kの日頃の言動に不似合いだ。

 また、Kの自殺は、勿論それを事前に知ることなぞできるはずもなく、「意外」「予想外」であってこそ衝撃的な展開たりうるのだ。


 だが一方で先に指摘した「既視感」は、自覚されない予感があったことの裏返しなのではないか?

 三十六章の「私はまた何か出てくるなとすぐ感づいた」や、四十八章の「暗示を受けた人のように」などの記述は、「予覚はなかった」という言葉とは裏腹な不吉な「予感」のようなものがあったことを示してはいないだろうか?

 これは何を意味しているか?


 二つ目。

 この二つの「ほぼ同じ」場面に、さらに二つの状況を並列して共通点を探る。

 この「ほぼ同じ」と言われる場面と、似たような感触、似たような衝撃を覚える場面は、教科書に収録されている部分のエピソード、場面ではどれか?


 そう訊かれてあれこれの場面を思い返したとき、次の場面を想起できれば、授業者が感じているのと「ほぼ同じ感じ」を共有していることになる。

 最初の「曜日の特定」の展開の中ではエピソード6と称していたエピソード、奥さんが、娘と「私」の婚約の件をKが知っていることを「私」に伝える場面だ。

 同じような「感じ」が、この場面にもないだろうか?


 もう一つ。最後に「こころ」の主題を考え直すこの展開の中で考えた「正直な道を歩く」問題だ。

 結論を出さないまま、次の授業では「黒い光」「ほぼ同じ感じ」問題の考察に展開したのは、これらが同じ問題に通じていると授業者は考えているからだ。

 「正直な道」「歩くつもりで」の解釈を巡って、大きく二つの解釈を提示して議論をくり広げてきたが、問題は「足を滑らす」とはどのような事態を指しているか、だ。

 実はここにも、同じ要素、同じ構造があるというのが授業者の見通しなのだ。


 三つ目。

 四つの状況に共通した構造が何なのか考えるために、もう一度、そもそもの二つの場面の共通性を本文の表現で確認しておく。

 二つの場面(115/138頁)で共通した表現をそのまま抜き出す。

 共通するのは「しまった」という「私」の第一声だ。自殺の場面では「またああしまったと思いました」とあるから、これが「同じ」「感じ」を表現していることがわかる。

 115頁ではこの「しまった」が直後に「先(せん)を越された」と言い換えられ、138頁では「もう取り返しがつかない」と続く。

 これらはどちらも「しまった」の解説なのだから、同じことを表現していると見なしていいだろう。つまり「先を越され」ると「もう取り返しがつかな」くなるのだ。

 この「しまった」は、原文では「失策った」と表記され「しま」というルビがふられている。

 Kに「先を越され」て自白されたのは「失策」なのであり、Kの自殺も「取り返しのつかない」「失策」なのだ。

 それぞれの場面での「先を越された」=「もう取り返しがつかない」失策とは、具体的に何のことか?


 Kの自殺したこの場面を読む読者には、「もう取り返しがつかない」という表現は、Kの命が失われたという事態の重大さに釣り合っているように感じられる。

 だが先述の通り、「第一の感じ」が「しまった」に言い換えられていることを認めるならば、恋の自白の場面にも「もう取り返しがつかない」が(程度問題としてそこまで重大でないとしても)適用されるはずだ。

 「先を越され」ると、何の「取り返しがつかない」のか?


 なるべくみんなが一斉に結論にたどり着くよう誘導していく。

 糸口、四つ目。

 「こころ」の最初の授業で観たテレビ番組の中では、「こころ」が扱っている問題をどのように表現していたか?

 「恋の三角関係を扱った」は、まあ間違ってはいない。実はKにはその気があったわけではないのだとこの授業では考えているのだが、「私」の主観では、三人は確かに三角関係だ。

 その時、「私」の選択を、番組はどう表現していたか?


 「恋愛か友情か、あなたならどうする?」だ。

 これがまるで見当外れな「こころ」把握であることを、その時に指摘した。「私」がそのような選択に悩む場面は一度もない。「私」がお嬢さんとKを選択の天秤にかけているような場面は「こころ」には存在しない。

 にもかかわらずそのように表現されて、多くの人は不審に思わない。

 だがこれは人物関係と状況、出来事の展開を雑に捉えたときにのみ見えている「問題」なのだ。

 では「こころ」において「私」が決断に迷う選択肢は何か?


 教科書に収録されている展開の中で、「私」が常に迷っているのは「言うか言わないか」だ。

 問題は、これがどのような力の綱引きになっているか、だ。

 「恋愛/友情」は「エゴ/倫理」の綱引きになっている。そうして「私」は「恋愛」、つまり「エゴイズム」を選ぶ。そうした「こころ」把握が「エゴイズム」主題観なのだ。

 そして小説を真っ当に読んだ者が「言うか言わないか」が「私」の選択だと捉えたとしても、これがまた「エゴ/倫理」の綱引きになっていると短絡されてしまうことはありうる。すなわち「言わない(狡猾)=エゴ/倫理=言う(正直)」という対応だ。

 だが、まともな小説読者ならそんなふうに感じたりはしないはずだ。

 「言わない/言う」の綱引きには、確かに倫理観が関係している。だが「言う」動機は単に倫理観に拠るわけではない。「言う」方がいいという判断もまた、自分の立場を安定させようという「エゴイズム」だと言っても良い。

 これらの「問題」を扱った小説として、「こころ」をどんなふうに把握するか?

 それこそが「こころ」の主題だ。


こころ 58 -「ほぼ同じ」「感じ」

 「黒い光」は「罪悪感」の隠喩などではない。

 「黒い光」を罪悪感の象徴だと見なす解釈は、Kの死に対する「私」の勘違いに基づいている。「私」はこのとき確かに罪悪感に打ち震えているし、そこから逃れられない未来に絶望してもいる。だがこの言葉の重みは、そうして「私」の認識にとどまっている限りにおいて釣り合うのであり、いったんそうした罪悪感が勘違いであることを思い出すと、にわかに滑稽なものに見えてしまう。

 だが漱石はそうした認識が勘違いであることを承知の上で「黒い光」という印象的な表現をここにおいている。それは「私」の主観から見た大仰な(だが冷静に身を引いて見れば滑稽な)解釈として受け取るべきではない。

 では「黒い光」とは何なのか?


 それを考える糸口は、この段落の冒頭「その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。」という記述だ。

 この記述はとても奇妙だ。そのことにもっとみんな驚いてもいいのに、一方でその「感じ」はわかってしまうので、そのことの重要さが語られはしない。例えば教員向けの解説書などでも。そのわりに「黒い光」は注目され、「罪悪感」だと説明される。

 だがここで言われていることは、友人の自殺という重大な場面と、友人から恋の告白を聞かされた時が「同じ」だという、とても奇妙な比較なのだ。作者は、物語のクライマックスとも言えるKの自殺の場面で、なぜかKの恋の自白の場面を想起せよ、と読者に要求している。二つの場面を関連づけて、この場面を理解せよと言っているのだ。

 この、「ほぼ同じ」「感じ」とは何か?


 考察のためには、問題の「恋の自白を聞かされた時」を直接読まなければならない(115頁)。

 読み比べて、確かに「同じ」だと思えるのは何か?


 さて、この問いに対するありがちな説明は、どちらの場面でも驚きのあまり体が硬直するほどの大きな衝撃を受けたということだ、というものだ。

 むしろ読者こそ、この説明の馬鹿さ加減に驚くべきだ。

 これでは、友人の自殺を発見したことの衝撃を表現するのに、よりによって友人から恋の告白を受けた時の衝撃を引き合いに出していることになる。

 「Kの自殺を発見した時の私の衝撃は、Kに恋の告白をされたときのように大きかったのです。」と言い換えてみれば、こうした説明がまるで見当はずれなものだということがわかるはずだ。

 例え話を用いて何事かを強調しようとするレトリックにおいては、より重大な例を用いて、目前の事例を強調するものだ。だがここでの順序は逆だ。恋の自白の驚きを用いて、友人の死の驚きを強調するはずはない。

 だが驚くべきことに、多くの解説書が同様の説明をして済ませている。

 それこそ、このことの重要さが理解されていないことの証拠だ。

 なぜこんなことになるのか?


 これらの説明は、「ほぼ同じ」「感じ」を、それぞれの状況に置かれた「私」の「反応」の共通性として示している。

 だがこの場面で「私」の「反応」の共通点をいくら並べてみても、ここから読者が読み取るべき情報は明らかにならない。

 この「ほぼ同じ」「感じ」とは、「既視感」のようなものだ。「私」はKの自殺という事実を目の前にして、この光景は前にも一度見たことがある、と感じたのだ。

 それはすなわち、それらの状況に潜む構造の共通性が不意に「私」の目の前に姿を現したということだ。

 読者である我々はこの「感じ」が受け手に属するものではなく、むしろ状況に属するものであることを読み取っているはずだ(もちろん受け手自身もその「状況」に含まれているのだが)。

 では「ほぼ同じ感じ」、二つの場面の状況に含まれる共通性とは何か?


 このように問題を設定したとき、最初の問いに対する答え「黒い光=罪悪感」についても見直すことができる。

 「黒い光」は「ほぼ同じ」「感じ」と同じ形式段落に置かれている。この「黒い光」は、「私」が受け取った「感じ」の重要な要素なのだ。

 とすると、この「光」は恋の自白の場面にも、程度の差はあれ「私」に射しているということになる(「灰色の光」でもいいし、「全生涯」でなくてもいいし、「ものすごく」なくてもいいが、いずれにせよ)。

 だとすれば「黒い光」は「罪悪感」ではありえない。恋の自白の場面で「私」がKに抱くべき何らの「罪悪感」も想定できないからだ。

 「黒い光」=「罪悪感」という解釈は、この「ほぼ同じ」を無視して自殺の場面でだけ考えたものだ。

 「黒い光」が意味するもののを考えるためには、「ほぼ同じ」「感じ」が何なのかを考えなければならない。

 そうして初めて「黒い光」という表現に漱石が込めたものの重要性に触れることができる。


こころ 57 -「黒い光」とは何か

 近代における個人の主体性、自由と責任の問題に切り込むもう一つの端緒は、「こころ」のクライマックスでもある、Kの死の場面にある。

その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。私の眼は彼の室の中をひと目見るやいなや、あたかもガラスで作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立ちに立ちすくみました。それが疾風のごとく私を通過したあとで、私はまたああしまったと思いました。もう取り返しがつかないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました。(138頁)

 この一節の「黒い光」とは何か?


 すぐさま「絶望」「後悔」などの言葉が挙がるのだが、では何の望みが絶えたと言っているのか、何を悔いているのか?


 この問いに対する一般的な答えは次のようなものだ。

 この時「私」のこころを襲ったものは、自らの「エゴイズム」によって友人を死に追いやってしまった「罪悪感」から一生逃れることができないという「絶望」「後悔」だ。「黒い光」はこの「罪悪感」を象徴している…。

 こうした説明は一見不審なものとは感じられないはずだ。「罪悪感」「罪の意識」「良心の呵責」「自責の念」などのバリエーションはあろうが、いずれも内容的にはそれほど差はない。


 こうした解釈は考えるまでもなく自然に想起される。

 だがこのような説明に納得していてはいけない。

 こうした説明が不適切であることは、論理立てて証明できるのだが、まずはこれまでの授業の考察から、こうした説明に違和感を覚えなければならない。

 「黒い光」=「罪悪感」という解釈はなぜ不適切か?


 Kの死は結局はK自身の問題に過ぎない。「私」は決して、「私」が考えているような意味ではKを「死に追いやって」などいない。Kは上野公園の散歩の時点で既に「自己所決(自殺)の覚悟」があると言っていたではないか。

 つまり「私」のこの時抱いている罪悪感は、物語全体から言えば、いわば勘違いなのだ。

 「私」自身、この時点での「私」について「Kはまさしく失恋のために死んだものとすぐ決めてしまったのです」(「下/五十三」)と、後に反省を込めて自らその勘違いを認めている。

 とすると「私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました」などという大仰な表現で自らの罪悪感を表明するのは、まるで間抜けな田舎芝居のようなものではないか。「私」ばかりが自らの罪を引き受ける悲劇を悲痛な身振りで演じているが、そんな罪は存在しないのだ。

 もちろんこのとき「私」が罪悪感を感じていることは確かだし、それが「私」に重くのしかかる未来を見ていることも間違いない。

 だがそれはあくまでこの瞬間の「私」の主観に限定していえることであって、物語全体から見ればあくまでも勘違いだ。読者も、うっかりその勘違いにのせられてその罪の重さにおののいてしまったりするが、そんなことが正しい「文学」的享受であるわけではない。

 こうした解釈もまた「エゴイズム」主題観に基づいている。授業ではそうした「こころ」観を乗り越えて、あらためて真っ当に「こころ」という小説を読もうとしてきたのだ。


 「黒い光」が「罪悪感」ではないという論証を、もう一つ紹介しよう。

 問題の四十八章に続く四十九章に次の一節がある。

私は忽然と冷たくなったこの友だちによって暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです。

 この一節は「黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました。」と響き合っているような印象がある。

 ここまでならば、まだ「黒い光」を「罪悪感」だとみなすことは可能だ。

 だがここに次の一節を併せて考えたらどうだろう。

同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。(略)私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまたぞっとしたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横ぎり始めたからです。(「下/五十三」)

 先に、Kの自殺にいたる心理を考えた際にも読んだ一節だ。

 「黒い光」は「一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照ら」す。

 それは「この友だちによって暗示された運命の恐ろしさ」だろう。

 その「運命」は「Kと同じように辿っている」「Kの歩いた路」のことだ。

 ならば、もはや「黒い光」は「エゴイズム」の裏返しの「罪悪感」と見なすことはできない。「私」の自死が「黒い光」に照らされることによって導かれ、これがKの自死と重なるのなら、Kもまた「黒い光」に照らされているということになるからだ。

 だが、Kが感じるべき「罪」を想定することはできない。


 あくまで「黒い光」=「罪悪感」だと措定し、「黒い光」はKに射してなどいない、ということも可能ではある。「同じ」なのは自死についてだけで「黒い光」はKには無関係なのだ、と。

 だがそんなふうに言うのはいかにも無理だ。

 上の一連の表現を素直に辿るなら、「黒い光」はKをも照らしていると考えるしかない。そう考えてこそ、この印象的な隠喩によって語られる「黒い光」に「滑稽」以上の意味を見出すことができる。

 「黒い光」とは何か?


こころ 56 -「正直な道を歩く」

 主題再考の端緒として検討するのは次の一節だ。

要するに私は正直な道を歩くつもりでつい足を滑らしたばかものでした。もしくは狡猾な男でした。(136頁)

 Kが自殺する前、奥さんとの談判の結果成立した婚約の事実をKに打ち明けられずに逡巡する章段だ。

 これもまた、一読者としては「わかった」ような気になって読み流してもよさそうな感触があり、だが説明しようと思うと一筋縄ではいかないことがたちまち明らかになる、という箇所だ。


 まず「正直な道を歩く」とは何を比喩しているか。

 解釈は次の二つに分かれる。

  1. 自分の心に正直にふるまう
  2. 公明正大な行いをする

 1は、お嬢さんを自分のものにしたいとか、Kに負けたくないという自分の欲望・利己心に忠実にふるまうことを指すという解釈。

 2は、嘘をつかない、隠し事をしない、卑怯なことをしない、の意味。直前に「真面目な私」という表現がある。また教科書収録以前には「私は倫理的に生れた男です。また倫理的に育てられた男です。」といった表現もある。

 二つの解釈1と2は反対方向を向いている。ここでの「私」が自分の心に正直にふるまう(1)ことは、「卑怯」な、許すべからざる行いであり、公明正大な行い(2)ではないからだ。

 これらの解釈は、教員向けの解説書などにも、どちらも載っている。ただし、一つの解説書はどちらかの解釈だけを語る。別の解釈の可能性をいちいち考えているわけではないのだ。たまたまどちらかの解釈を思いつき、それを解説する。だが世の中には違った解釈をした人もいるのだ。

 実際にみんなに聞いてみると、それぞれを支持する人の割合は拮抗している。

 さて「正直な道」とはどちらなのか?


 「正直な道を歩くつもりで」の「歩くつもりで」も謎を含んでいる。「で」という接続助詞(口語文法では格助詞)は次のどちらか。

  1. 歩こうとして
  2. 歩こうとしていたのに

 1は順接的な接続という解釈。もっと強調して言えば「していたから」という因果関係があるような解釈だ。

 2は逆接。

 ほぼ、「正直な道」の解釈の1,2に対応している。 

 「自分の心に忠実にふるまおうとして、卑怯な行いをした」のか、「公明正大でありたいと思っていたにもかかわらず卑怯な行いをしてしまった」のか。


 また、それに続く「つい足を滑らした」は何を比喩しているか?

 この比喩は「Kに黙って奥さんと談判したこと」を指しているというのが、一般的な説明だ。

 「足を滑らす」という比喩は「道を踏み外す」という慣用表現と類似している。「人の道に外れた」、つまり倫理に反するというニュアンスでこの比喩が、Kを裏切った卑怯な行為に対して適用される、という解釈なのだろう。

 この解釈は「もしくは狡猾」とも整合する。奥さんへの談判はKに対する抜け駆けであり、「狡猾な」策略なのだ。

 「滑った」という比喩は続く記述中でも二回使われている。

滑ったことをぜひとも周囲の人に知られなければならない窮境に陥ったのです。私はあくまで滑ったことを隠したがりました。

 この「滑った」には「Kを裏切った」がそのまま代入できる。

 さらにこれはその前段の「弱点」に対応している。

もし奥さんにすべての事情を打ち明けて頼むとすれば、私は好んで自分の弱点を自分の愛人とその母親の前にさらけ出さなければなりません。真面目な私には、それが私の未来の信用に関するとしか思われなかったのです。

 「滑ったことを→周囲の人に知られなければならない」「弱点を→自分の愛人とその母親の前にさらけ出さなければなりません」という文脈の一致が見てとれる。

 さらに前段では「弱点」が次のように使われている。

私はなんとかして、私とこの家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置にたちました。しかし倫理的弱点をもっていると、自分で自分を認めている私には、それがまた至難のことのように感ぜられたのです。

 「私」が隠したいと思う「滑ったこと」は「自分の弱点」であり、それはまた「倫理的」な「弱点」なのだ。とすればそれはすなわち「卑怯」な「策略」によってKを裏切った行為を指すと考えられる。


 こうして順序立てて考えていけば、「足を滑らした」という比喩の解釈については疑う余地がないように見える。

 不思議なことに「正直な道を歩く」が1、2それぞれの解釈をとっても、この「足を滑らした」の解釈に整合する。

 1の解釈をとるなら、自分の心に正直にお嬢さんを得ようとしてKを裏切ってしまった自分は「狡猾」であり「ばかもの」だ、と言っていることになる。

 2の解釈をとるなら、公明正大な行いをしようとしてきたつもりだったのに、Kを裏切るという、「狡猾」で「人の道に外れた」行いをしてしまった自分は「ばかもの」だ、と言っていることになる。

 それぞれに可能な解釈だ。両立しないはずの1,2の解釈のどちらをとっても上のような「足を滑らした」の解釈に整合する。


 だが「足を滑らした」には、うっかり、失策、といったニュアンスがある。談判のように意図的な行為に使うには据わりの悪い比喩だ。ここに違和感はないだろうか?



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