2024年1月1日月曜日

こころ 61 -「黒い光」一つ目の結論

 ここまで考えて、「黒い光」について一つの結論を出そう。


 「Kの歩いた路」とは何か。引用部分から指摘するなら「Kが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決した」だ。これが「この友だちによって暗示された運命」であり、またこれが「私の前に横たわる全生涯」だとすると、それを照らす「黒い光」とは、「たった一人で」あることに他ならない。「黒い光」は「私」ばかりかKにも射している。

 この「黒い光」は端的に表現すれば「孤独」だ。自分の「こころ」を他人に対して正直に打ち明けることができない、登場人物それぞれが、「たった一人で」自閉している、自意識の牢獄に射す光こそ、Kや「私」を死に追い詰める「黒い光」なのだ。

 こうした把握は「Kはなぜ死んだか」の考察から導かれる「こころ」の主題と一致する。


 「黒い光」はKにも射しているのだから「罪悪感」ではありえない。

 同様に、自殺の場面同様、「孤独」としての「黒い光」は恋の自白の場面にも射しているか?


 恋の自白の場面とは、「私」がKを自分の「敵」として位置づけてしまう決定的な転換点だ。

 それまでもお嬢さんをめぐっては、Kは疑心暗鬼の対象だし、「私」は充分には言いたいことが言えずに迷っている。

 だがKが「敵」として立ちはだかることを宣言するならば、その後「私」はいよいよKに手の内を見せることなく策略をめぐらすしかなくなる。

 「私」とKの意思疎通の断絶が決定づけられたのは、まさしくこの瞬間だったのだ。


 この場面にはそのことが作者によってあからさまに書かれている。

私の心は半分その自白を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念にたえずかき乱されていましたから、細かい点になるとほとんど耳へ入らないと同様でした

 先にも一度引用したが、「私」はKの話をよく理解していない。

 これはまた、Kの方でも同じなのだ。

私は苦しくってたまりませんでした。おそらくその苦しさは、大きな広告のように、私の顔の上にはっきりした字で貼りつけられてあったろうと私は思うのです。いくらKでもそこに気のつかないはずはないのですが、彼はまた彼で、自分のことに一切を集中しているから、私の表情などに注意する暇がなかったのでしょう。

 二人はそれぞれ自分のことに囚われて、相手のことを見ていない。話をしていても、二人の意思疎通は断絶している。


 これ以降、Kの「こころ」は「私」の目からは完全に見えなくなる。

 続く三十七章は「襖」への言及が頻出する(117頁)。二人を隔てる襖は「いつまでたっても開きません」。

 そうして「彼が解しがたい男のように見え」た揚句、「彼が一種の魔物のように思え」てくる。

 二人がそれぞれ「黒い光」に照らされているのは明らかだ。

 とすれば、Kと「私」の断絶が決定づけられ、その後の自意識の牢獄に足を踏み入れた瞬間として、恋の自白の場面にもやはり「黒い光」は射しているのだ。


 この「黒い光」は、この瞬間だけでなくなぜその後も射し続けるのか?

 「私」はKを「「解しがたい男」と言いながら、一方で「罪のないKは穴だらけというよりむしろ開け放しと評するのが適当」(124頁)だなどと、すっかりKがわかっているつもりになってもいる。

 そこでのKは、「私」の恋の行く手に立ちふさがるかもしれない強い「敵」だ。だが実際のKは、自らの信じてきた道を進むことができずに苦悩する弱い男だ。「私」にはそれが見えない。

 それは相手に自分の「こころ」を投影して、わかっているつもりになっているからだ。この「つもり」は自覚できないから、そうした錯覚から逃れることはできない。「私」は自分の影を相手に無意味な画策をしつづける。

 「わかっているつもり」は「わかりあえない」ことと表裏一体だ。

 「私」は「黒い光」が照らす自意識の牢獄から出られない。


自由と独立と己(おのれ)とに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう。(「上/十四」)


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