「黒い光」は「罪悪感」の隠喩などではない。
「黒い光」を罪悪感の象徴だと見なす解釈は、Kの死に対する「私」の勘違いに基づいている。「私」はこのとき確かに罪悪感に打ち震えているし、そこから逃れられない未来に絶望してもいる。だがこの言葉の重みは、そうして「私」の認識にとどまっている限りにおいて釣り合うのであり、いったんそうした罪悪感が勘違いであることを思い出すと、にわかに滑稽なものに見えてしまう。
だが漱石はそうした認識が勘違いであることを承知の上で「黒い光」という印象的な表現をここにおいている。それは「私」の主観から見た大仰な(だが冷静に身を引いて見れば滑稽な)解釈として受け取るべきではない。
では「黒い光」とは何なのか?
それを考える糸口は、この段落の冒頭「その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。」という記述だ。
この記述はとても奇妙だ。そのことにもっとみんな驚いてもいいのに、一方でその「感じ」はわかってしまうので、そのことの重要さが語られはしない。例えば教員向けの解説書などでも。そのわりに「黒い光」は注目され、「罪悪感」だと説明される。
だがここで言われていることは、友人の自殺という重大な場面と、友人から恋の告白を聞かされた時が「同じ」だという、とても奇妙な比較なのだ。作者は、物語のクライマックスとも言えるKの自殺の場面で、なぜかKの恋の自白の場面を想起せよ、と読者に要求している。二つの場面を関連づけて、この場面を理解せよと言っているのだ。
この、「ほぼ同じ」「感じ」とは何か?
考察のためには、問題の「恋の自白を聞かされた時」を直接読まなければならない(115頁)。
読み比べて、確かに「同じ」だと思えるのは何か?
さて、この問いに対するありがちな説明は、どちらの場面でも驚きのあまり体が硬直するほどの大きな衝撃を受けたということだ、というものだ。
むしろ読者こそ、この説明の馬鹿さ加減に驚くべきだ。
これでは、友人の自殺を発見したことの衝撃を表現するのに、よりによって友人から恋の告白を受けた時の衝撃を引き合いに出していることになる。
「Kの自殺を発見した時の私の衝撃は、Kに恋の告白をされたときのように大きかったのです。」と言い換えてみれば、こうした説明がまるで見当はずれなものだということがわかるはずだ。
例え話を用いて何事かを強調しようとするレトリックにおいては、より重大な例を用いて、目前の事例を強調するものだ。だがここでの順序は逆だ。恋の自白の驚きを用いて、友人の死の驚きを強調するはずはない。
だが驚くべきことに、多くの解説書が同様の説明をして済ませている。
それこそ、このことの重要さが理解されていないことの証拠だ。
なぜこんなことになるのか?
これらの説明は、「ほぼ同じ」「感じ」を、それぞれの状況に置かれた「私」の「反応」の共通性として示している。
だがこの場面で「私」の「反応」の共通点をいくら並べてみても、ここから読者が読み取るべき情報は明らかにならない。
この「ほぼ同じ」「感じ」とは、「既視感」のようなものだ。「私」はKの自殺という事実を目の前にして、この光景は前にも一度見たことがある、と感じたのだ。
それはすなわち、それらの状況に潜む構造の共通性が不意に「私」の目の前に姿を現したということだ。
読者である我々はこの「感じ」が受け手に属するものではなく、むしろ状況に属するものであることを読み取っているはずだ(もちろん受け手自身もその「状況」に含まれているのだが)。
では「ほぼ同じ感じ」、二つの場面の状況に含まれる共通性とは何か?
このように問題を設定したとき、最初の問いに対する答え「黒い光=罪悪感」についても見直すことができる。
「黒い光」は「ほぼ同じ」「感じ」と同じ形式段落に置かれている。この「黒い光」は、「私」が受け取った「感じ」の重要な要素なのだ。
とすると、この「光」は恋の自白の場面にも、程度の差はあれ「私」に射しているということになる(「灰色の光」でもいいし、「全生涯」でなくてもいいし、「ものすごく」なくてもいいが、いずれにせよ)。
だとすれば「黒い光」は「罪悪感」ではありえない。恋の自白の場面で「私」がKに抱くべき何らの「罪悪感」も想定できないからだ。
「黒い光」=「罪悪感」という解釈は、この「ほぼ同じ」を無視して自殺の場面でだけ考えたものだ。
「黒い光」が意味するもののを考えるためには、「ほぼ同じ」「感じ」が何なのかを考えなければならない。
そうして初めて「黒い光」という表現に漱石が込めたものの重要性に触れることができる。
0 件のコメント:
コメントを投稿