「環世界」とは各生物がとらえる千差万別な世界像のことだ。それぞれの生物にとっての「環世界」はそれぞれ違う。
これは種の違った生物同士の「環世界」がどれほど違うかを示すために提唱された概念だが、ここでドミニク・チェンがあえてこの言葉を使って示すのは、我々人間同士でも、それぞれの「環世界」は実は違っている、という認識だ。
こちらから見る世界は私の「環世界」だが、あちらから見る世界も同様にその人の「環世界」だ。それらが異なったものであることは、あらためて心に留めておく必要がある。
これは我々は直接に外界に触れているわけではなく、「フィルター」を通して外界を認識する。そうした「フィルター」に包まれた「バブル(泡)」の中に我々は閉じ込められている。
当然「フィルター」はそれぞれの人でさまざまに異なっているから、我々は一人一人それぞれのフィルターバブルの中にいることになる。
それはすなわちそれぞれがそれぞれの環世界に生きているということだ。
二つの認識は重なっている。
それだけではない。問題は「身体という原初の」という表現だ。
「原初の」という形容が差しはさまれているのは、それに続く何かが想定されていることを示す。
「身体」に対する何が想定されているか?
「原初の」とはいわば「先天的」という意味であり、となれば「後天的」なものとは何か、と考える。あるいは動物一般の条件が「原初の」であり、人間的な条件は何か、と考える。
文中からいくつかの候補となる言葉を挙げてもらったが、ここでは「文化」が最も適切。「言葉」と対にするには。
「身体というフィルター」と概念レベルを揃えて、「文化というフィルター」という言葉を挙げられるかどうかが国語力(読解力)だ。「身体というフィルターバブル」はすべての動物が先天的に持つが、「文化というフィルターバブル」は人間が後天的に身につけるものだ。
そしてこの概念レベルの下に具体例が配置される。具体的には?
「言語」がフィルターであるという認識は昨年度の言語論で論じられていた問題としておなじみ。
他には「社会常識」であり「立場」であり「宗教」であり…。
「身体というフィルターバブル」の例を挙げよう。
それぞれの身体的な特徴や条件のことなのだが、ここに「性別」「人種」が挙がったのは、なかなかに考えるべき問題を含んでいる。
確かに「性別」「人種」は「原初」ではある。生物学的な身体条件だ。
だが同時に「文化」的なフィルターが、そこに分厚く塗り重ねられてもいる。
この問題については「公共」で、「セックス」ならば「身体」で、「ジェンダー」ならば「文化」の問題だ、というような問題を扱ったかもしれない。
例えば「女性ならではの視点から見た…」という形容が使われるとき、それは「身体というフィルター」のことを指しているのか? 多くの場合には「文化的」なフィルターなのではないか?
性別を単に「身体」的な問題として語るとき、それが同時に「文化」的な問題であることが覆い隠され、ある種の偏見が見過ごされる。それが差別の温床になる危険がある。「人種」も同様だ。
そうした危険については、よくよく注意が必要である。
この文脈ではつまり、社会学で用いられる「フィルターバブル」という言葉を「身体という」形容によって生物学の方に拡大解釈して使っており、一方の「環世界」という生物学上の概念を、社会学的な捉え方に拡大解釈して使っていることになる。
さて以上の話が理解できたとして、じゃあ説明してみる。「わたしたちは自己の身体という原初のフィルターバブルを持って生まれてくる」とはどういうことか?
それはそれでひとすじなわではいかないことが、発表させてみるとわかる。
一つには、結局我々はみんなフィルターバブルの中にいるのだ、という認識を語るだけになる。
もう一つには「持って生まれてくる」に引っ張られて、「生まれつき」を強調しすぎると、やはりニュアンスが変わってくる。何も赤ん坊に限らず、それ以降の成長の過程でも、老人になっても、我々は「身体というフィルターバブルの中」から出られないのだ。
