2026年7月11日土曜日

思考の誕生 未来をつくる言葉2 環世界をつなぐ

 「環世界」とは各生物がとらえる千差万別な世界像のことだ。それぞれの生物にとっての「環世界」はそれぞれ違う。

 これは種の違った生物同士の「環世界」がどれほど違うかを示すために提唱された概念だが、ここでドミニク・チェンがあえてこの言葉を使って示すのは、我々人間同士でも、それぞれの「環世界」は実は違っている、という認識だ。

 こちらから見る世界は私の「環世界」だが、あちらから見る世界も同様にその人の「環世界」だ。それらが異なったものであることは、あらためて心に留めておく必要がある。


 これは我々は直接に外界に触れているわけではなく、「フィルター」を通して外界を認識する。そうした「フィルター」に包まれた「バブル(泡)」の中に我々は閉じ込められている。

 当然「フィルター」はそれぞれの人でさまざまに異なっているから、我々は一人一人それぞれのフィルターバブルの中にいることになる。

 それはすなわちそれぞれがそれぞれの環世界に生きているということだ。

 二つの認識は重なっている。


 それだけではない。問題は「身体という原初の」という表現だ。

 「原初の」という形容が差しはさまれているのは、それに続く何かが想定されていることを示す。

 「身体」に対する何が想定されているか?


 「原初の」とはいわば「先天的」という意味であり、となれば「後天的」なものとは何か、と考える。あるいは動物一般の条件が「原初の」であり、人間的な条件は何か、と考える。

 文中からいくつかの候補となる言葉を挙げてもらったが、ここでは「文化」が最も適切。「言葉」と対にするには。

 「身体というフィルター」と概念レベルを揃えて、「文化というフィルター」という言葉を挙げられるかどうかが国語力(読解力)だ。「身体というフィルターバブル」はすべての動物が先天的に持つが、「文化というフィルターバブル」は人間が後天的に身につけるものだ。

 そしてこの概念レベルの下に具体例が配置される。具体的には?

 「言語」がフィルターであるという認識は昨年度の言語論で論じられていた問題としておなじみ。

 他には「社会常識」であり「立場」であり「宗教」であり…。


 「身体というフィルターバブル」の例を挙げよう。

 それぞれの身体的な特徴や条件のことなのだが、ここに「性別」「人種」が挙がったのは、なかなかに考えるべき問題を含んでいる。

 確かに「性別」「人種」は「原初」ではある。生物学的な身体条件だ。

 だが同時に「文化」的なフィルターが、そこに分厚く塗り重ねられてもいる。

 この問題については「公共」で、「セックス」ならば「身体」で、「ジェンダー」ならば「文化」の問題だ、というような問題を扱ったかもしれない。

 例えば「女性ならではの視点から見た…」という形容が使われるとき、それは「身体というフィルター」のことを指しているのか? 多くの場合には「文化的」なフィルターなのではないか?

 性別を単に「身体」的な問題として語るとき、それが同時に「文化」的な問題であることが覆い隠され、ある種の偏見が見過ごされる。それが差別の温床になる危険がある。「人種」も同様だ。

 そうした危険については、よくよく注意が必要である。


 この文脈ではつまり、社会学で用いられる「フィルターバブル」という言葉を「身体という」形容によって生物学の方に拡大解釈して使っており、一方の「環世界」という生物学上の概念を、社会学的な捉え方に拡大解釈して使っていることになる。


 さて以上の話が理解できたとして、じゃあ説明してみる。「わたしたちは自己の身体という原初のフィルターバブルを持って生まれてくる」とはどういうことか?

 それはそれでひとすじなわではいかないことが、発表させてみるとわかる。

 一つには、結局我々はみんなフィルターバブルの中にいるのだ、という認識を語るだけになる。

 もう一つには「持って生まれてくる」に引っ張られて、「生まれつき」を強調しすぎると、やはりニュアンスが変わってくる。何も赤ん坊に限らず、それ以降の成長の過程でも、老人になっても、我々は「身体というフィルターバブルの中」から出られないのだ。


思考の誕生 未来をつくる言葉1 フィルターバブル

 間に『夢十夜』を挟んで、「思考の誕生」からの流れに戻る。「文学国語」から、ドミニク・チェンの「未来をつくる言葉」。

 この文章も一筋縄ではいかない。メッセージは、ある意味ではわかりやすいのだが、それがここまでの議論にどうからんでくるか?


 この文章全体の論旨と、ここまでの文章群とのかかわりを考える前に、この、一筋縄ではいかない文章については細部の考察もしてみよう。


 まず次の一節。

わたしたちは自己の身体という原初のフィルターバブルを持って生まれてくる

 どういうことか?


 「フィルターバブル」を問題化していたのは、去年読んだ文章としては「グーグルマップの世界」だ。そして今年度の「他者の言葉」。

 「フィルターバブル」は、現在のネット言説について考える上で避けられない問題の一つだ。

 「見たいものしか見ない」という態度に関しては、グーグルマップにかぎらず、パーソナライゼーションが進んだウェブのユーザー全般に当てはまる問題として、すでにメディア論において指摘されている。

 「グーグルマップの世界」では、「フィルターバブル」という言葉こそ使われていないが、上記の「パーソナライゼーション」がそこにつながっていく問題として指摘されているのは明らかだ。

 「未来をつくる言葉」でも、この一節の直前に「情報技術は…」と言っているのは同じ問題を指している。

 そして「他者の言葉」ではこれをプラトンの洞窟の比喩と重ね合わせた。


 だがここで問題なのは「身体という原初の」という形容だ。これはネットのアルゴリズムの問題ではない。直前の一節が「情報技術」つまりネットの問題だから、それとは区別された「フィルターバブル」について述べているのだ。

 これは何のことか?


 これとあわせて考えたいのが次の一節。

互いの一部をそれぞれの環世界に摂り込みつつ、時に「親」として、また別の時には「子」として関係することができる。

 「環世界」?


 脚注をたよりに、この記述と「フィルターバブル」の関係を考えた後、いったん「論理国語」の、日高敏隆「生物の作る環境」を迂回する。これは「環世界」という概念について生物学者が説明した文章だ。

 「環世界」とは、ユクスキュルの唱えた「ウンベルト」の訳語で、生物にとっての「世界観」とでもいったような概念だ。

 「世界観」は生物ごとに異なっていて、それぞれをその生物の「環世界」と呼ぶ。

 「生物の作る環境」という見出しはたぶん教科書編集 部のつけたものだろうが、この文章の主旨は「生物が環境を作る」という表現からイメージされる事象とはだいぶ違う。「生物の捉える世界」とでも言うべきだろう。「現代の国語」の「生物の多様性とは何か」もそうだが、聞き覚えのある言い回しを優先して、内容と合ってない題名を編集部の方でつけてしまうのはいかがなものか。

 さてフィルターバブルと環世界はつながっただろうか?


 さてこうした認識は昨年後半の「視点を変える」シリーズだ。今年度登場のフィルターバブルという言葉も、スキーマとゲシュタルトとセットで扱った。

 「見方を変えると見え方は変わる」は、まさしく上記の「生物の作る環境」と同じ認識だ。

 そういえば「木を見る、森を見る」は「アリの目に、この世界はどう見えているのだろうか。」と結ぶ。いかにもユクスキュル的問いかけではないか。


2026年7月8日水曜日

夢十夜 第一夜8 夢の論理

 「暁」とは何か?

 夜明けのことだ。

 「暁の星を見た」と表現される事態は、精確に言うと、「星を見た」→「『あれは暁の星だ』と認識した」と二段階に分解される。

 そして、あれは「暁の」星なのだ、という認識はつまり、もう夜が明けるのだ、という認識にほかならない。

 夜明け?

 だがそれまで「赤い日」がいくつも通り過ぎていった。そのたびに夜は明けていたではないか?


 そうは思えない。「赤い日」はただ書き割りのような空を背景として通り過ぎていくだけだ。昼に対応する夜も描かれていない。「自分」が眠ったり起きたりする様子もない。したがって、日が昇ったり沈んだりするからには、その度ごとに「暁」はあったはずなのだろうが、結局のところ時間がいくら経過していても、そこに本当の夜明けが来ていたような印象はない。

 「自分」はただ、女を埋めた時のまま、夜の底にひとり座り続けていたのではないか。

 そして「自分」が「暁の星」を見た瞬間にようやく夜明けがおとずれる。

 その時、そこまでの女をめぐるあれこれ、すなわち一夜の夢が終わる。


 「百年」とは、物語内部の論理レベルでは「女が来るまで」だ。だから「百年が来た」とは「女が来た」ということにほかならない。

 一方で例えば「百年」とは「永遠」を意味している、などという解釈も世間にはある。女の約束に「待っている」と答えてひたすら待つ男から「永遠の愛」が主題だなどと言ってみたり、「百年経ったら会いに来る」とは、もう会えないという意味であり、結末で男は死んでいるのだなどと解釈して、そこから「愛の不可能性」が主題だと言ってみたりする。

 今年度の授業ではF組Mさんから提示された解釈が印象深い。

 Mさんは、この小説は「死の受容」がテーマなのではないかという。百年とは女の再来を待つ時間でもあるが、これは実は男が女の死を受け容れるまでの時間を意味している。百年とは「百年が来ていたことに気づいた」とは、男が女の死を受け容れたということなのだ。

 こうした解釈は聞いたことがなかった。面白い。


 「百年」とは「永遠」という意味だ、という解釈は、物語内部の論理レベルを超えた抽象度で、その意味を捉えようとしている。「第六夜」で試みたのもそのような解釈だ。

 だが「第一夜」については、そうした解釈は、小説読者が純粋に小説を読むことから乖離した「解釈ごっこ」になっていると思う。「暁の星」が女の象徴だと言ったりする解釈もそうだ(とはいえ「百年とは死の受容までの期間」という解釈は面白かったが)。

 それに対して、「百年」とは「夢の終わりまで」を意味しているという解釈もまた、物語内部の具体レベルを超えた解釈ではある。

 「百年が来ていたことに気づいた」とは、夢が終わることを悟る刹那がその直後に訪れる気配を示している。「夢オチ」という表現があるが、それが夢だと気づく視点は、世界を外側から見ている。メタな視点からこの物語を「夢」として捉えている(「メタ」とは上の次元から対象を見る高次の階層のことだ)。

 

 それはちょうど、我々読者がこの物語を「小説」としてどう読んだかということと入れ子構造をなしている。


 夢は、目が覚めて思い出すときに作られるという。我々の語る夢は多かれ少なかれ、覚醒時から遡って解釈される。

 解釈とは合理化だ。そこに論理を見出す。

 そして夢の中の納得は、目覚めてから思い出すと、何だか奇妙な論理で成立していることがある。

 目覚めるということは夢が終わるということだ。夢が終わるからには、女との約束が果たされなければならない。すなわち百年が来なければならない。だとするとこの百合が女の生まれ変わりなのだ。

 こうした奇妙な納得のありようは夢の感触として我々には覚えがあるはずだ。ああ、これは…なんだなあ、と何だかよくわからない納得をしている。冒頭近くの「確かにこれは死ぬな」にもそうした感触が鮮やかに表現されていることは確認した。


 ということは先ほどの論理は転倒している。

 百合が女の生まれ変わりだと気づいたから「百年はもう来ていたんだな」と気づいたのではなく、むしろ百年が来ていたという結論から、百合が女の生まれ変わりだったのだという解釈が生まれたのだ。

 「百合が女の生まれ変わりであることに気づいた」という認識は、いわば遡って捏造されたのだ。

 そして振り返ってみた時にはそれが忘れられている。


 そしてそれは我々読者の思考だ。上の捏造は「自分」がしたのではなく、読者がしたのだ。

 我々読者は、百合が女の生まれ変わりだと気づいたりはしなかった。最後の一文で百年が既に来ていたことを知らされ、そこから遡って百合が女であると解釈したのだ。それ以外の読解がされようはずがない。

 だがそのことは忘れられてしまう。

 最初の要約課題の際に、「百合の花が咲いた」ことと「百年が来ていたことに気づいた」ことを、明らかな因果関係として記述した人は多い。例えば「咲いたので~」などという記述は珍しくない。「女が百合に生まれ変わって」とはっきり書いている者もいる。

 だがそうした因果関係もそのような事実も、小説に書かれているわけではない。読者がそう解釈したのだ。

 もちろん漱石はそうした解釈を誘導するように意図的に書いている。誘導にのってそのように解釈するとき、「物語」は完結する。

 それはあくまで読者による解釈によって生じた「物語」であり、それはまるで、我々が目覚めてから思い出す夢が「夢」そのものではなく実は「解釈」されたものでしかないように、読者が「解釈」した結果生じたものなのだ。


 こうして、いかにも夢らしい感触を感じさせる「夢の論理」は、同時に、我々が小説を読むということの四つ目の側面をも照らし出す。

 夢が終わるからには百年が来なければならないという「夢の論理」は、「物語」が終わるからには「欠落」が「回復」しなければならないという小説享受の論理と同型だ。我々は物語を完結せんとする要請によって、百年の到来という結末をまず受け入れたのだ。その後で、女が百合に生まれ変わって会いに来ることで約束が果たされたのだと信じたのだ。

 そのことを「思い出す」とき、「自分」が気づいた百年の到来が夢の終わりを意味しているという解釈も「思い出す」ように腑に落ちる。


 ずっと待っていた女の再来によって百年の終わりが来たという結末は、基本的には「欠落」→「回復」という型で認識されるハッピーエンドとして認識される。

 だが一方で夢の女とは夢の中でしか会えない。だから夢の終わりとは夢の女との永遠の訣別でもある。

 ここには約束の成就と約束成就の不能、「回復」の成功と失敗という正反対の論理が階層を違えて同居している。

 「第一夜」のハッピーエンドは喪失の切なさを内包して成立している。


 『夢十夜』の2編を読んで、「小説を読む」ということをいくつかの側面を明らかにしてきた。

 小説中の何かを象徴と見なすことで、小説から「意味」を抽象化する読み方。

 小説中の筋立てにある構造を見出すことで、それを「物語」として受け取る読み方。

 小説の文章そのものを源泉掛け流しの温泉を浴びるように読んで、その豊穣を味わう読み方。

 「解釈」という合理化の向こうにある「夢」の気配を微かに思い出す読み方。

 これらは相反するものではなく、同時に行われてもいる。そのこと自体が、小説を読むという行為の豊穣でもある。


夢十夜 第一夜7 暁の星を見る

 「暁の星を見た」から「百年が来ていたことに気づいた」と考えることは、どのような解釈を成立させるか?

 

 「暁の星」とは何を意味するか。もちろん、意味を見出せない要素は、この小説の中にいくらでもある。「真珠貝」然り、「星の破片」然り。あるいはそれらは、小説の構造を支える明確な「意味」をもった構成要素なのかもしれない。だが今のところ筆者の目には、それらはその「意味」について考えても仕方のないような単なる「ロマンチックな」ガジェットに過ぎないように映っている。

 「暁の星」も同様のギミックに過ぎないのだとすれば、bのような解釈は無意味だ。

 そうなのだろうか?


 例えば暁の星を女の隠喩としてみる解釈が世間にはある。この可能性を考えてみよう。

 普通の読者が星を女の隠喩として読むことは難しい。だが聞いてみると少数ながらそれを支持する者はいるし、考察・議論をすると支持者は増える。

 あえて星が女の隠喩なのだとする根拠を考えてみる。次のような根拠が挙がる。

  • 死ぬことを「昇天」「星になる」とする慣用表現がある。
  • 「瞬く」星は目を連想させ、百合に落ちる露は女が死ぬ際に流れる涙のイメージと重なる。
  • 「星の破片」「真珠貝に指す月の光」「遙かの上」など、天につながる要素が物語中にある。
  • 「暁の星」は「明けの明星」つまり「金星」を意味する。金星は西欧ではローマ神話に由来して「ヴィーナス」すなわち「美の女神」を意味する。

 いくらかもっともらしくなってきた。


 だが百合が女をイメージさせるように意図的に書いてあることは明白なのに、なんでこんな解釈をする必要があるのか?


 そこで、もうちょっと辻褄を合わせるために更に論理を構築する。

 百合が咲く契機は何か。男が「自分は欺されたのではなかろうかと思い出した」からだ。つまり女は男の疑いに対して、自分が約束を忘れていないことを示す自身の身代わりとして百合を咲かせ、天から露を落として、自分がいることを悟らせるための合図を送ったのだ。女は天から、いつだって自分を見守ってくれていたのだ。そう気づいた時に男は「もう百年は来ていた」と気づいたのだ。

 これはかなりもっともらしい解釈だ。百合も星も女なのであり、天との交感や露の「意味」についても回収している。問②の答え「女が会いに来たから」を発展・補完しているように思える。


 だが、このような解釈は筆者には何のカタルシスももたらさない。辻褄の合った理屈が構築される快感があって飛びつきたくなるが、なるほど確かにそうだという腑に落ちる感じはない。「第一夜」は既によく「わかっている」というのに、まるで人工的な、こんな解釈をすべき必要がわからない。

 「暁の星」にスポットを当てて、もう一度考えさせたのは別な狙いがある。


夢十夜 第一夜6 なぜ気づいたのか

 考える糸口は次の問い。

なぜ「自分」は

①「百年がまだ来ない」と考えたのか?

②「百年はもう来ていた」と気づいたのか?

 物語の最後で白い百合が咲く前に「自分」は女に欺されたのではなかろうかと考える。①はその直前に置かれた記述。②は百合に接吻して物語が終わる最後の一文だ。

 二つの問いに、整合的な論理で答える。


 どちらも、「勘定」が「百年」に達していない①、達した②ということではない。なぜか?


 自分は途中で数えることを放棄しているからだ(「いくつ見たかわからない」)。

 ではなぜ「まだ来ない」と考えたのか?


 言うまでもなく、①「女がまだ会いに来ないから」だ。女は「百年経ったらきっと会いに来る」と言った。その女が現れないから、百年はまだ来ていないと考えたのだ。

 これを裏返せば、「百年がもう来ていたことに気づいた」のは②「女が会いに来たから」ということになる。

 これはつまり、百合を女の再来と認めたということにほかならない。

 ①と②は裏表に補完し合っている。

 読者がこの小説を完結した「物語」として読めるのは、①②の論理を了解しているということだ。喪失によって生じた「欠落」は、試練の末「回復」したのだ。


 この明白な理屈に疑問を投げかける。

 自分は首を前へ出して、冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。

 「百年はもう来ていたんだな。」とこの時初めて気がついた。

③「この時初めて気がついた。」の「この時」とは上の一節のいつか?


 問題はどの時点か、ではなく「この」が指している事実が何かだ。

 そしてその事実と「気がついた」にどんな関係があるか、だ。

 とすれば、この二つの可能性は、ただちに次のように問い直される。


 ②なぜ「百年はもう来ていた」ことに気づいたのか? の答えは次のどちらか?

  1. a 女が百合として会いに来たから
  2. b 暁の星を見たから


 これは、どちらが正解か、という問いではない。

 aとbはどのような関係になっているか、が問われている。


夢十夜 第一夜5 夢の手触り

 『夢十夜』は夢という体裁で書かれた連作小説だ。そして、確かに「夢」らしいと感じさせる手触りがある。

 だがそれは「こんな夢を見た。」で始まっているからか。単に現実離れした出来事が起こるからか。

 「夢」らしさはどこから生じているのか?


 各クラスで共通して挙がったのは、時間・空間・場面の唐突な転換だ。場面が突然変わる。あるいはいつの間にか変わる。その転換は「ぬるっと」行われる。時間や場所や状況が飛躍していても、そこに注意が向けられることがない。

 もう一つ、授業者が挙げたかったのは、この語り手に見られる、よくわからない「納得」だ。

 夢の中では我々はさまざまなことを自然に受け容れている。上記の場面転換も、夢の中ではそれを不自然だとは思わない。そういうものかと思っている。

 「第一夜」は、女がもう死ぬと言う。唐突だ。だが男は「確かにこれは死ぬな」と思い、「そうかね、死ぬのかね」と返す。なのにその後の場面では「これでも死ぬのか」と思うが、さっき確かに死ぬなと思ったことは反省されない。

 こうした判断の曖昧さは、覚めてから思い出す夢の手触りとして覚えがある。


 「第一夜」にはもう一つ、ある種の夢の構造が表出している。それは上のような「夢らしさ」とは違って意識しにくいが、指摘してから、なるほどそれは「夢っぽい」と思ってほしい。

 同時にそれは「夢を見る」ことと「小説を読む」ことに同じ構造を見ることでもある。そこから「小説を読む」ことの四つ目の側面が浮かび上がってくる。


2026年7月6日月曜日

夢十夜 第一夜4 「小説を読む」とは

 「第一夜」の文体の特徴は、いわば過剰な「叙景」だ。

 「第一夜」には読者に映像を喚起させる描写が、しつこいほどに念入りに語られている。そしてさらにそれが異様とも言える密度で、形容詞や形容動詞や副詞によって修飾されている。

 逆に言えば「第一夜」には、ストーリーを語る上で必須とは言えない描写や形容が、過剰とも言える量・密度で書き込まれているのだ。


 ここで茂木健一郎の「見る」と、小林秀雄の「美を求める心」を読む。

茂木健一郎「見る」

 「見る」という体験は、その時々の意識の流れの中に消えてしまう「視覚的アウェアネス」と、概念化され、記憶に残るその時々に見ているものの「要約」という二つの要素からなる複合体なのである。(略)

 絵の前に立つとき、さまざまな要約が脳の中では現れ、深化し、変貌し、記憶される。その一方で、絵を構成する色や形などの細部は、決してそのすべてをとどめておくことができない「意識の流れ」の中で、時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる。

 何かをつかみつつも、指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われつつあるもの。その豊穣な喪失こそが、絵を見るという体験の本質である。 


小林秀雄「美を求める心」

 見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるのでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに入ってくれば、諸君はもう眼を閉じるのです。菫の花だと解るということは、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。言葉の邪魔のはいらぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見たこともなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。


 これらの論旨とここまでの授業の考察を重ねてみる。

 それらには何が共通しているか?


 まず、二つの文章に共通した論旨をつかむ。

 「共通している」とは両者が「対応している」ということだ。

 何と何が?


 茂木のいう「要約」が小林のいう「お喋りをする」「言葉に置き換える」に対応しているというのが最も重要な対応としてまず指摘されなければならない。

 だがそれはどのような論旨の把握によって「対応している」と考えられるのか?


 二つの文章に共通した問題を問いの形で表すなら、どちらも「『見る』とはどういうことか?」と表現できる。このような把握ができれば、その「こういうこと」の共通点は何か? を考えればいいとわかる。


 茂木は「見る」ことは「視覚的アウェアネス」と「要約」の複合体だと言う。

 小林の例えば「花の姿や色の美しい感じ」が「視覚的アウェアネス」に、「言葉で置き換える(「お喋り」はその比喩的表現)」が「要約」に対応している。

 茂木は両方をそれぞれ述べているが、小林は後者を否定している。だが、それは二つのうちの「要約」のみが「見る」ことだと思っているような人を批判するためだ。

 「言葉で置き換える」ことが見ることだとしか考えていない人はちゃんと「見る」ことをしていないのだ、というのが小林の力点だ。そしてただ「見る」こと=「視覚的アウェアネス」で捉えていることは簡単だと人は思っているが、そこには訓練がいるのだ、とも言っている。

 だが「言葉で置き換える」ことがなければ、茂木の言うように見たことは「消え去って」「失われて」しまう。「菫の花だ」と言ってそれ以上見ることをやめてしまう人は本当に「見て」はいないのかもしれないが、「菫の花だ」とも言わなければ、見たこと自体が流れ去ってしまう。

 こうした論旨とここまでの授業でやってきたことのあいだにはアナロジーがある。 


 そもそも授業で『夢十夜』を読む目的は何か? 何だと宣言したか?


 『夢十夜』では「第六夜」「第一夜」それぞれを読むことを通して、「小説を読む」という行為自体について考えることも目標としている、と宣言した。

 とすればもう明らかだ。

 「絵を見る」「花を見る」ことが「小説を読む」と対応しているのだ。

 「要約」なくして「絵を見る」ことはできないが、「絵を見る」という体験は同時に「絵を構成する色や形などの細部」が「時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる」ことでもある。

 「夢十夜」を読んで、それが何を語っている小説なのかを認識するために、我々は「第六夜」で試みたように抽象化した「意味」「主題」を捉えるために「解釈」したり、「第一夜」で試みたように「構造」を捉えたりする。そうしなければ読んだ小説はとりとめもないものとして流れ去ってしまう。それらの「解釈」は意識するとせざるとを問わず必ず行われている。

 だが一方で、その時「指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われ」てしまうものこそが小説の「豊穣」でもある。

 そうした「花の姿や色の美しい感じ」そのものを見ないで、小説が「わかる」ことは、本当に小説を「読んでいる」ことにはならない。

 「第一夜」の過剰とも言える描写や形容を施されたイメージ豊かな文章を読むことは、そうした「源泉掛け流しの温泉」の湯を浴びるように贅沢なことだ。

 漱石の紡ぐ物語は、そうした細部の「豊穣」によってこそ優れた小説たりえている。


夢十夜 第一夜3 「第一夜」の文体の特徴

 さらに小説を読むとはどのような行為かを考える。

 小説を読むとは、まず文章を読むことだ。そして「第一夜」は、どのような物語かを把握するよりもまず、その文章によって魅力的たりえている。文章を読むこと自体が快楽をもたらすのはなぜか?


 「第一夜」の冒頭を次のように音読して聞かせた。

腕組みをして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、もう死にますと言う。女は髪を枕に敷いて、瓜実顔をその中に横たえている。頬の底に血の色が差して、唇の色は赤い。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにしてきいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。睫に包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。その眸の奥に、自分の姿が浮かんでいる。

 原文とどこが違うか?


 さらに書き換える。

枕元に坐っていると、女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。その眸の奥に、自分の姿が浮かんでいる。

 これは原文とどう違うか?


 最初に抜いたのは「静かな」「長い」「柔らかな」「真っ白な」「温かい」「はっきり」「ぱっちり」「鮮やかに」など。

 次に抜いたのは「腕組みをして」「女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。」など。

 これらは何か? 何を削ったのか?


 第一段階については「修飾」が削られている、という意見が圧倒的に多かった。悪くないが「修飾」という概念はちょっと広過ぎる。

 第二段階は「様子」や「状態」を表す部分だ。

 どちらも悪くないが、サ変動詞にできる熟語で揃えよう。


 想定していたのは「形容」「描写」

 「形容」は、品詞としては形容詞・形容動詞・副詞など、ある名詞や動詞を修飾する一単語。

 「描写」は、何をした、何が起きた、というだけでなく、それがどんな「様子」だったかを視覚的に伝える情報。

 もちろん「形容」と「描写」の境目は明確ではないが、ともかくも例えば「形容」「描写」という言葉で表現できるかどうかもまた国語の力だ。


 さて、この改稿を全編にわたってやってみる。

 こんな夢を見た。

 枕元に坐っていると、女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。自分はこれでも死ぬのかと思った。それで、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまたきき返した。すると女は、でも、死ぬんですもの、しかたがないわと言った。じゃ、私の顔が見えるかいときくと、見えるかいって、そら、そこに、映ってるじゃありませんかと、笑ってみせた。自分は、どうしても死ぬのかなと思った。女がまたこう言った。「死んだら、埋めてください。そうして墓のそばに待っていてください。また逢いに来ますから。」自分は、いつ逢いに来るかねときいた。「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。―日が東から西へと落ちてゆくうちに、――あなた、待っていられますか。」自分はうなずいた。女は「百年待っていてください。きっと逢いに来ますから。」と言った。自分は、待っていると答えた。女の眼が閉じた。もう死んでいた。

 自分はそれから庭へ下りて、穴を掘った。女をその中に入れた。そうして土をかけた。それから星の破片の落ちたのを拾ってきて、土の上へのせた。自分は苔の上に坐った。これから百年の間、こうして待っているんだなと考えながら、墓石を眺めていた。そのうちに、日が東から出た。それがやがて西へ落ちた。一つと自分は勘定した。しばらくするとまた天道が上ってきた。そうして沈んでしまった。二つとまた勘定した。自分は日をいくつ見たか分からない。勘定しつくせないほど日が頭の上を通り越していった。それでも百年がまだ来ない。しまいには、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。

 すると石の下から茎が伸びてきて、百合が開いた。自分は花弁に接吻した。空を見たら、暁の星が瞬いていた。「百年はもう来ていたんだな。」とこの時はじめて気がついた。

 これで800字ほど。元の小説は1800字くらいあるから、半分以下になっているのだが、おそらく元の小説の印象とそれほど変わらないのではなかろうかと思う。

 この作業を通して浮かび上がるこの小説の文体の特徴とは何か?


2026年7月1日水曜日

夢十夜 第一夜2 「物語」の構造

 我々が「第一夜」を完結した「物語」として感じられる要因は何か?

 どうみても「虚構」だし、展開は因果関係によって継起していく。墓を掘るのも待つのも女との約束だからだということは読者に了解されている。

 さらに、ここには「物語」が持っている、ある普遍的な構造がある。それを「起承転結」などとそれを表現してもいいが、では「起」だの「結」だのがあると感じるとはどういうことか?


 こういう本質的な「そもそも」問題は、いろんな切り込み方があって考えてみると面白い問題なのだが、ここではそのうちの一つの考え方を紹介する。

 「物語」に広く見られる構造を汎用性のある言い方で言うなら「欠落と回復」と表現できる。物語は、あるものが欠けることで発動し(起)、それを埋めようとして駆動する(承)。障害をを乗り越え(転)、それが埋め合わされることによって決着する(結)。

 例えば「葛藤と解決」などという表現も、安定した状態が「欠落」していて、そうした「葛藤」状態を「解決」することで安定が「回復」するのだと言い換えることができる(あるいは「葛藤」とは欠落の回復を目指す上での障害を指しているともいえる。「回復」の前に挿入される「試練」である。その場合は「転」にあたる)。

 誰もが知っているような民話や童話を挙げ、この構造を指摘してみよう。あるいは誰もが知っている近現代の物語(小説・マンガ・映画・ゲームなど)では?


 多くの物語には「敵」がいる。敵の存在は安寧の「欠落」だし、敗北も自尊心の「欠落」を生む。「回復」は勝利によってもたらされる。

 また多くの民話・神話の主人公は「旅」をする。旅そのものが日常性の「欠落」だし、旅立ちの契機は欠けた物を探すことだ。それを見つけて帰ることで物語が終わる。

 「桃太郎」は村から収奪された財宝を鬼ヶ島から取り返して戻ってくる。あるいはそれは平穏の「欠落」が鬼の討伐によって「回復」したということでもある。

 同型の「一寸法師」でも鬼から宝を取り戻すのだが、さらに彼の場合は身長が「欠落」していたのだとも言える。結末では打出の小槌によって身長が「回復」して、お姫様と結婚する。

 ミステリーに代表されるように「謎」が物語を駆動するのも、そこには真相が「欠落」していて、その「回復」(真相の究明)が希求されるからだ。

 悲劇の場合は、そのように期待される「回復」が裏切られることが、やはり物語の決着として感じられる。

 さてでは「羅生門」における「欠落」と「回復」は?


 決定的なその一語を、全員が想起したい。

 下人には職も食も「欠落」しているが、直接その「回復」が果たされるわけではない。「主題」に至るように構造を把握するなら、最初門の下で下人に「欠落」していたのは盗人になる「勇気」であり、最後にそれが「回復」する(勇気が出る)。だがその「回復」の意味が不明瞭だから、解釈が要請される。


 「第六夜」は、運慶が明治の世に現れている不思議が「欠落」で、その「理由」がわかることが「回復」にあたる。だがこの納得感は薄い。だからここでも解釈が要請される。

 では「第一夜」は?


 言うまでもなく女の死が「欠落」を生み、再会によって「回復」する。

 このように理解するときこの物語は、女が百合に姿を変えて会いに来ることで、死に際の約束が成就するハッピーエンドの物語だと考えられる。

 物語前半の喪失による欠落が、試練の末に埋め合わされることで回復するというのは、「物語」の基本的なドラマツルギー(作劇技法)として完璧な要件を備えている。

 もちろん女がそのままの「女」でないことに、ハッピーエンドとしての十全な満足はない。だがその不全感も、喪失感として小説の味わいを増しているのであって、前半の約束が結末への推進力としてはたらく欠落補充の要請は、確かに満たされて終わる。

 だから読者はこの小説を、一編の「物語」として捉えることができている。


 こうした「欠落」→「回復」を大きな背骨とした構造を捉えることは、要約において必要な把握だ。だがそれは「意味」を捉えるような抽象化を伴っているわけではない。

 「第一夜」は「主題」を考えることなく「物語」として読める。


夢十夜 第一夜1 物語として読む

 「第六夜」について「解釈」することは、これが「夢」そのものではなく「小説」という物語として語られる以上、可能なアプローチとして認めてもいいように思われる。

 同様に「第一夜」にもさまざまな謎が、いかにも「解釈」を求めているような顔で並んでいる。なぜ女が唐突に「死にます」などと言うのか、「百年経ったら会いに来る」とはどのような意味か、女は結局会いに来たのか?

 あるいは「真珠貝」「星の破片」「赤い日」「露」は何を象徴しているのか?

 そもそも「女」や「百年」は何を象徴しているのか?

 こうしたいかにも「謎めいた」ガジェットに意味を見出したくなる人情もわかる。文学研究の世界では精神分析の手法を使ったり、漱石の伝記的事実を調べたりして、様々な解釈が行われている。死んでしまう女には、漱石が密かに思いを寄せていた兄嫁のイメージが重ねられている、とか。

 だがそういう、精神分析的分析や伝記的事実に結びつける解釈はどれもこじつけじみて感じられる。小説を読む読者の感動と乖離している。

 だから授業では結局のところこの物語を、「解釈」を目的として「使う」つもりはない。

 では何をするか?


 授業は当該の教材文の理解を目的としてはいない。理解を当面の目標として、言語活動をすることが国語の学習だ。

 「第六夜」では、小説内の具体レベルより一段抽象度の高い「意味=主題」を見出す、というひとつの読みのあり方を示した。

 だが「第一夜」はそのような解釈を必要とせず、既にその魅力が読者には感じ取れている。それ以上にどのような解釈が必要なのか。

 むしろ「第一夜」を「第六夜」のように「解釈」しないことによって、また別の小説享受のあり方を示そう。

 「主題」は作品が可能性として潜ませている、抽象的な「意味」だ。「第一夜」にそんなものは(あってもいいが)なくてもいいとも言える。

 「第一夜」が「第六夜」のような、「意味」を探ろうとする解釈を必要としないように感じられるのは、読者が「第一夜」を、既に「物語として」読んでいるからだ。

 「物語として」読む?


 我々は「第一夜」を「物語として」読んでいる。まるでとりとめもないイメージが散乱するばかりの、それこそ「夢」のようでしかない体験として読み終えるわけではない。

 読者は『夢十夜』の「第一夜」を、夢の感触を鮮やかに再現しつつ、だが創作物としての小説として完成されたもの、いわば「物語として」読んでもいる。


 「物語」とは何か?


 誰でも「物語」という言葉を知っている。使っている。

 だが「知っている」ことがどのようなものかを明示的に表現することは必ずしも容易ではない。「使う」という行為には無自覚・無意識な部分も大きい。

 小説を「物語として」読むという言い方は、「小説」と「物語」とは位相の違った概念だということを示している。

 例えば「物語」を評論と対比することはできない。

 「物語文」と評論を対比することはできる。

 「物語文」・小説・詩・評論などは「文章のジャンル」だが、「物語」はそれとは位相の違う概念だ。

 もちろん評論よりも詩よりも小説の方が「物語」と近親性が高いが、映画・マンガ・ゲームにも「物語」がある。つまり「物語」という概念は文章のジャンルともメディアの種類とも違った位相にある。

 とはいえ小説を「物語として読む」というのがどのような事態なのかを明らかにするためには、小説以外のジャンルの文章が「物語として」読まれない例を考え、それとの対比で「物語」という概念を明らかにするのがわかりやすい。


 文章というメディアにおける「物語」的な文章の代表はやはり小説だ。これを新聞記事と対比させたときに我々が「物語」という概念に見出す要素はひとまず「虚構性」だろう。

 また「一人称の語り手」「登場人物の心情」などの要素も挙がった。確かにそれらは新聞記事にはそぐわない要素だ。

 では随筆・日記はどうか。日記は一人称で「私」の「心情」を語る。友人や家族などの「登場人物」がいる。

 確かにある種の日記は「私小説」に近い。だがそもそも「私小説」は言わば「反物語」たらんとする小説の企てだとも言える。日記と「物語」はそれほど相性が良くはない。

 ノンフィクション、ルポルタージュなどの現実に基づく作品に「物語」を見出すこともある。

 「虚構性」「一人称の語り手」「登場人物の心情」などの要素は「物語」という概念になじみが良いが、それだけで輪郭は確定されない。「物語」がそれを許容するということと必須であるということは別だ。

 少なくとも単にニュースを伝える新聞記事や日記を「物語」と呼ぶことはない。そこには何が欠けているのか。

 さらに(それこそ夢のような)とりとめもないイメージを羅列した文章を「物語」の対比として考える。ここでは虚構性が「物語」を区別する条件とはならない。どうみてもそれが「現実」とは思えない記述が羅列されていて、だがそれを「物語」とは呼ばない、と感ずるとしたら、我々は何をもって「物語」を認識するのか?


 授業では「流れ」という言葉が提起された。確かに日記やとりとめもないイメージの羅列には「流れ」が感じられない。では「流れ」とは何か。

 「流れ」とは、時間軸に沿って提示される情報の間に、何らかの因果関係があるということだ。複数の出来事を時間軸に沿って並列的に述べていっても、我々はそれを「物語」とは感じない。それが「羅列」だ。それらのエピソードをつなげて、それらの出来事間に何らかの「因果関係」を見出す時に、我々はそこに「物語」の気配を感じる。

 だがまだそれだけでは「物語」といえる感触を捉えるには充分ではない。

 「起承転結」という言葉も挙がる。各要素は「因果関係」をもち、そこに「起承転結」といえるようなまとまり・完結性が備わったときに、それを「物語」と感じるのだ。一般的な新聞記事、歴史の教科書の記述にはまとまりがない。

 「起承転結=まとまり」とは何か?


2026年6月29日月曜日

夢十夜 第六夜7 運慶が生きている意味

 「第六夜」の主題は「西洋文明の流入によって、日本古来の文化が失われつつある『明治』という時代に対する冷ややかな眼差し」とでもいったようなものだ。「皮肉」と言ってもいいし「嘆き」と言ってもいいし、ストレートに「批判」と言ってもいい。

 これは「現代日本の開化」の主旨であり、それをそのまま「第六夜」の主題であるとみなしているだけだ。だがそれでいいようにも思える。

 こうした主題を語る上で「芸術」はどんな論理的整合性をもつのか。

 それよりも、次の発想ができれば論が展開できる(あるいは先の見通しがあればこのような発想ができる)。

芸術家=革新/職人=伝統

 この運慶は時代を超越するような形で出現する独創的な天才芸術家ではなく、熟練した職人として描かれている。運慶の仕事ぶりが芸術家としての創作だとしたら、②の問いの「明治の木には」という限定に何の意味があるのかがわからない。運慶の技を伝統的な職人技の発現としてのルーチン・ワークだと考えることによって「明治の」という条件が理解できる。

 職人の技術とは、単に繰り返した修練によって彼個人が体得した技術、というだけではない。それはその技を磨き上げてきた数知れない先人の営みの分厚い積み上げの上に成り立つものだ。運慶が体現しているのは、そうした職人集団の伝統なのだ。

 そして明治の文明開化によって脅かされているものは、天才の芸術ではなく、職人一個人が体得した技術でもなく、日本人の伝統であるはずだ。


 では「開化」という名の文化的な断絶を経験する時代状況において「運慶が今日まで生きている理由」とは何か? 「自分」は「なぜ生きていられるか」「なぜ生きていなければならないか」どちらの理由に納得したのか?

 上記の読解に従って言えば、そのような技を受け継いでいるからこそ運慶は今も「生きていられる」のだと言ってもいいし、運慶が体現する伝統の技は、この明治にこそ「生きていなければならない」と言ってもいい。後者のように言うなら、それは運慶がそう考えているのではなく、やはり我々が運慶に託した期待である。我々が運慶に生きていてほしいと思っているのだ。

 そのとき運慶は、時代を越えて継承されるべき伝統文化の象徴だ。

 だが実はもはや問①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か、の答えは大した問題ではない。むしろ「運慶が生きている理由」という語り手の悟りは、その内容が読者に自明でないことによって夢の感触を表現しているとも言える。だから「自分」が「ほぼわかった」というときに、読者が「よくわからない」と感じていることこそが「夢十夜」の正しい受け止め方だとも言える。

 「第六夜」の解釈において重要なのは「生きている理由」よりも「仁王が埋まっていない」ことだ。


 こんなふうに「第六夜」の主題を捉えた時、次の一節も意味あるものとして物語の文脈に位置づけられる。

裏へ出てみると、先だっての暴風(あらし)で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽きに挽かせた手ごろなやつが、たくさん積んであった。

 ここには「ダルメシアン犬」がいる。そのことは、スキーマがなければ見えてこない。

 仁王の埋まっていない「明治の木」は「先だっての暴風で倒れた樫」なのだ。

 この「先だっての暴風」とは何のことか?


 もはや明らかだ。「暴風」とは1853年の黒船来航に続く幕末の動乱とそれに続く文明開化のことに他ならない。西洋文明の流入は、「あらし」のように日本人の精神を、日本文化を薙ぎ倒したのだ。

 この付合が偶然であるとは到底思えない。「明治の木」の来歴としてさりげなく書き込まれたこのような形容を、漱石が意識せずに書き付けているはずはない。つまりこれは心霊写真ではなく、ダルメシアン犬の写真だ。

 全体を貫く論理が見えてきた時にのみ、その意味がわかるように、漱石はさりげなく、だが明らかに意図的に、こうした形容を付すのだ。


 「第六夜」はこんなふうに「運慶」や「仁王が埋まっていない」を象徴と見なす、物語内の具体レベルから一段抽象度の高い「主題」を想定することで、「意味」がわかったと感じられる小説だ。それは、そのような「主題」を必要としない「第一夜」を受容することとはかなり違った読解体験だ。


夢十夜 第六夜6 運慶が意味するもの

 「第六夜」が何を言っている小説なのかという「答え」はわかった。ここからは、言わば答え合わせのできている状態で、験算のために途中式を確認する。

 ②は前項の通りだから、問題は①と③の論理的整合だ。

 具体的には問③で運慶が表す概念語を③「今日まで生きている理由」に代入して、それを説明するために有用かを検討する。

 そのために、「運慶は芸術家か職人か」という選択肢に変形したことを糸口にする。まず芸術家と職人が意味するものを対比的な言葉に置き換えよう。

 どのクラスでも10組以上の対比表現が挙がった。

 多くのクラスで挙がったのは「芸術家=才能/職人=技術」だ。

 ミケランジェロもレオナルドも運慶も、間違いなく天才なのだろう。

 だが運慶が迷いなく仁王を掘り出せるのは、何万回と重ねてきた技術の研鑽の結果ではないか? それが見る者に神秘的な技と見えるほどに高められた熟練の技術の賜物なのではないか?

 だがむろん「自分」は芸術家でも職人でもない。天才を有しているわけでもないし、熟練の技術を持っているわけもない。

 「自分」個人についてもそれは明らかであるというだけでなく、そもそも「自分」は一個人ではなく「明治人」として物語に登場している。そして「明治人」が特定の「才能」や「技術」を有しているべき必然性はない。

 したがって「芸術家」とは才能を持った者、「職人」は技術を身につけた者と捉えることには、それほど発展的な考察は期待できない。「自分」にそれらが欠けているのは自明なことである上に、「明治の木には」という限定が意味をなさないからだ。


 では「芸術家=独創」はどうか? 芸術家にはオリジナリティが必要だ。

 「独創」の対義語は「模倣」だ。

 結論としての主題の在処が見えているから、それに合わせて筋道をつけることはできる。明治の文化は外国の文化を「模倣」することに汲々として、独自性を失っている。そういう時代にこそ運慶のように「独創」的な芸術を生み出すことのできる存在が生きていてほしいというような言い方は可能だ。

 自分は若い男の言葉を「模倣」する。その若い男の言葉は後述のとおりミケランジェロの「模倣」だ。そこへ仁王を掘り出せないという結末を用意することで、運慶のような「内発的」に生まれた「独創」的な芸術は明治にはもう生まれないのだ、と言っていることになる。

 これは世に流布している大方の「第六夜」の説明に沿っている。

 だが明治に失われた文化を「芸術」の語で代表させることも、それを運慶によって象徴させていると考えることも、授業者にとって納得感が薄い。そもそも授業者がこの問いを思いついたのは、世の「第六夜」論に「芸術」の語が頻出することに常々違和感を抱いていることによる。なぜ「第六夜」の解釈を語る上で「芸術」という語が必要なのか。

 そもそも「芸術」という言葉が「第六夜」を語る上で使われるのはなぜか?


 運慶の迷いのない彫刻作業を、若い男が「あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまで」と表現する。

 こういった表現は、ある種の「芸術」創造についての語り口として見覚えがある。

 実はこの表現はミケランジェロの以下のような言葉から発想されていると考えられる。

  • まだ彫られていない大理石は、偉大な芸術家が考えうるすべての形状を持っている。
  • どんな石の塊も内部に彫像を秘めている。それを発見するのが彫刻家の仕事だ。
  • 余分の大理石がそぎ落とされるにつれて、彫像は成長する。

 おそらく「若い男」の言っているのはこれらの受け売りだ。

 このように表現される創作活動とは「天啓」として降りてくるインスピレーションを形にする行為であり、その時、芸術家は神の声を聴く預言者だ。作品は彼自身が作ったものではなく彼の手を通じて神が地上にもたらしたのだ。

 あるいは「個人」の確立とともに芸術家と職人が区別されるようになった近代では、芸術とは芸術家個人の内面の発露であるとみなされるようになった。石や木の中から姿を現す彫像は、芸術家の精神そのものだ。

 では運慶が「生きている理由」とは、そのような芸術家的何か=神の代弁者か近代的個人が生きている(べき)理由ということなのか。


 だがこうした言い方は、授業者には芸術創造についての神話、神秘思想とでもいったもののように思える。芸術家を、凡人とは違った特別な存在として神秘化しているのだ。

 そもそも上記のようなことを言ったミケランジェロは芸術家か職人か?


 答えは「どちらでもある」だ。

 もちろんミケランジェロの作品を芸術であると言うことを否定する人はいまい。

 だが彼は明らかに職人である。工房に入って親方の元で修行して技術を身につけ、独立してからも自らの工房を開いて弟子をもった。教会や貴族の依頼によって作品を制作した。そのような在り方を普通「職人」と呼ぶ。

 これは例えばレオナルド・ダ・ヴィンチも同じだ。「モナリザ」や「最後の晩餐」は偉大な芸術作品だと見なされているが、それらは注文に応じて制作されたものだ。彼自身、工房で親方について修行し、後に自らの工房をもって弟子とともに作品を制作した。

 運慶もそうだ。仏師とは寺社や貴族の注文に応じて仏像を彫るのが仕事だ。運慶は親方について修行し、後に多くの弟子を率いる棟梁となった。これは我々がイメージする「職人」そのものだ。

 これは何を意味するか?


 芸術家と職人を区別するのは近代以降の発想なのだ。近代以前には芸術作品と工芸品に区別はなかったのだ。職人を意味するフランス語の「アルチザン」は「アーティスト」と語源が同じだ。

 近代以降「個人」の成立とともに、作品は「個人」の内面を表現するものと見なされるようになる。

 一方でそうした作品を、産業革命によって誕生した経済市場に乗せられる「商品」と区別する意識が生まれる。芸術作品は、本来売り買いされることを目的とした商品ではなく、芸術家個人の創作意欲の発露だというのである。一方で職人が作るものは「商品」だ。そうして「アーティスト」と「アルチザン」も対立的な概念として分岐していく。

 そうした前提によって運慶が芸術家か職人かを考えることには意味がない。

 では芸術家と職人をどのような違いとして捉えることが有効か?


夢十夜 第六夜5 主題

 結論に向けて最初に決着をつけるのは、②「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とはどういうことか?  という問いだ。

 「仁王は埋まっていない」は「彫れない」の隠喩的表現であることは明らかだ。だが「若い男」の言葉を受けた「埋まっていない」という表現から、読者は何らかの「意味」を読み取るべきだと促される。

 そこで考える手がかりとして「埋まっていない」が文字通りに意味する「木」の問題なのか、彫れないのは「自分」の問題なのに、それを「木」の問題だと認識している(したがっている)のか、という二択にしてみた。

 「木のせい」ということになれば「明治の木から仁王を掘り出すことは、運慶にもできない」あるいは「鎌倉の木なら自分にも掘り出すことができる」ということになる。だがこの仮定推論には違和感がある。運慶にそれができないとは思えないし、自分にできるとも思えない。

 つまり問題の立て方が間違っている。

 ここには運慶には彫れて自分には彫れないという対比がある。だがそれは運慶という傑出した個人と、平凡な個人という対比ではない。歴史に名を残す鎌倉人と、一明治人との対比だ。「自分」個人の問題ではなく「明治」という時代の問題なのだと考えなければ「明治の木には」という形容に意味を見出すことができない。

 仁王を堀り出せないのは、それが「明治の」木であったからだ。そして「明治の木」とは明治人であるところの「自分」が彫っている木を意味する。明治人の「自分」が彫ろうとすれば、木には仁王が「埋まっていない」のであり、それは明治人の「自分」には「彫れない」ことを意味する。

 したがって「埋まっていない」(木のせい)と「彫れない」(自分のせい)は同じことを意味している。

 つまり問題は「明治の」という条件付けだ。「自分」個人の問題ではなく、「明治」という時代なのだ。


 この想定を確認するため、漱石の講演録「現代日本の開化」を読む。幸い「論理国語」に収録されている。

 これは「夢十夜」連載の3年後に行われた講演だ。

 そこで漱石は、明治の日本の開化がどうだと言っているか?


 外国の圧力によって起こった開化を、漱石は「外発的」で「皮相上滑り」だという。「軽薄・虚偽」とまで言っている。

 これはもはや種明かしのようなものだ。あるいは答え合わせだ。

 つまり「第六夜」はそういう話だ。

 このことは、最初の「第六夜」の読解だけで見当がついていたという人もいる。それは素晴らしい。

 だが重要なのは結論ではない。こうした「主題」は、ネットに溢れる「第六夜」論でもいくつも見ることができる。それを知ることが国語の学習なのではない。

 問題は語り方だ。論の組み立て方、表現の選び方だ。


2026年6月24日水曜日

夢十夜 第六夜4 運慶とは何者か

 もうひとつ考えておきたいことがある。「運慶」とはそもそも何者か?


 「運慶が生きている理由」とは「自分」が「わかった」という「理由」だ。我々がそれを「わかる」べきだというのではない。なぜ運慶が生きているのか、と問われたら、そんなの夢なんだから別に意味はない、と答えてもいい。

 では「なぜ漱石は運慶を登場させたのか?」ではどうか?

 これも、夢なんだからどんな突飛なことだって起こりうるよ、と答えて済ますこともできる。実際に漱石がそうした夢を見たのか、小説のアイデアとして着想したのかも不明だし、考えてどこかに辿り着くという確証はない。

 だが少なくとも、実際に書かれた小説のテクストの中から、運慶がどのように書かれているかを読み取ることはできる。そこには何らかの作者の意図が読み取れる可能性がある。それを問いとして立てる。

③この小説における「運慶」とはどういう存在か?

 もう一つ、こういう問題を問いとして立てるためにはお決まりの言い方がある。

③「運慶」は何を象徴するか?

 「象徴」という言葉がただちに想起された人は考えるためのスキルが身についている。「どういう」という問いはどこをめざして考察すればいいのかがはっきりしない。それに対して「何の象徴」は、最終的に名詞か名詞句で表現するというゴールが明確だ。一方でそれは、飛躍を必要とする難しさもある。適切な名詞が想起されるかどうかはあらかじめ確約されているわけではない。

 両方を適宜行き来して考えよう。


 ①②は素直に「わからない」と感じるはずの謎を問いとして立てた。一方③のような問いの立て方は、小説の読み方として自覚的でないと思い浮かばない。

 運慶が何者であるかは、この小説に書かれていることから読み取らねばならない。

 「運慶は見物人の評判には委細頓着なく」「眼中に我々なし」といった描写から、見物人は運慶を見ているが、逆に運慶からはこちらが見えていないのではないか、と言った生徒がかつていた。単に集中力が高いという以上の意味を読み取ろうとすれば、これは「明治時代に鎌倉時代の運慶が現れた」ということではなく、運慶のいる時空と見物人のいる時空とが、本質的には違った位相にあって、それが一時重なっているように見えるだけだということかもしれない。

 面白い発想だが、これがどこに辿り着くのか、今のところわからない。それよりも注目したいのは次のような点だ。

 運慶が仁王の鼻のあたりを鮮やかに彫り出す動きを描写した後、その手際について見物の若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と語る。この表現が、先の、仁王が出てこないのは「木のせい」か「自分のせい」かという問いを生んでいる。

 このように表現される行為は何を意味するか。


 考えるために、これもまた選択肢のある問いにしてみよう。

③ここに登場する「運慶」は、「芸術家」か「職人」か?

 この問いはいささか突飛なものと感じられるかもしれない。問①②を変形して選択肢を作るには、単に日本語としての多義性を利用して、その意味合いを明確にしようとしたのだった。だが問③の選択肢はそのように、言葉に元々含まれる可能性から発想されたのではない。

 迷いなく仁王を彫れるのは運慶が芸術家だからなのか、職人だからなのか?

 仁王が彫れないのは、「自分」が芸術家ではないということなのか、職人ではないということなのか?

 むろん「自分」はどちらでもない。だがここでは、どちらでないことが重要なのか?


 こういう時はやはり、語るにふさわしい言葉を思い浮かべることができると語り易い。

「芸術家」「職人」それぞれが備えていて「自分」に備わっていないものは何か?

 これを対比的な言葉で捉えると論じやすくなる。


夢十夜 第六夜3 問いを分解する

 「主題」を考えるために、より具体的な小説中の謎(①②)を考える。抽象度の高い問いをいきなり考えようとしても手がかりがないかもしれないからだ。

 同様に、①②を考える上で、さらに問いを分解・変形して考える糸口をつかむ。


②「明治の木には到底仁王は埋まっていない」とはどういうことか?

 「どういうことか」という問いは、包括的であることに意義がある一方で、目標が定まらないから思考や論議が散漫になるきらいがある。

 ②は、「仁王が彫れない」であるはずなのに、なぜ「仁王は埋まっていない」と表現されるのか? という疑問でもある。

 そこでこれを次のように変形する。

②仁王が彫れないのは、「木のせい」か、「自分のせい」か?

 本文は「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」といっているのだから、言葉通りには「木のせい」ということになるが、どうもすんなりと納得はしがたい。なんとなく無責任に過ぎるような気もして、ではどういう意味で「自分のせい」だと言えるかと考えると、ことはそれほど簡単ではない。

 さしあたってこう考える。本当は「自分のせい」なのに、それを「木のせい」と勘違いの悟りを得たということなのか、本当にこの小説の中では「木のせい」だということを意味しているのか?


 同様に①についても分解・変形を試みる。

①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か?

 「生きている」のニュアンスを「生きているべき」と強調してみると、「べし」の意味「すいかとめてよ」のどのニュアンスが含意されているかを考えることができる。

 「今日まで生きている理由」とは「生きていなければならない理由」なのか、「今日まで生きていられた理由」なのか?

 複数の選択肢に分けて考えることは、思考を活性化させるために有効だ。人間の思考は、物事の対比において、差異線をなぞるようにしか成立しない。どちらが正解かを決定しようとしているわけではない。だがどちらが適切だろうか、と考えることで、文中から根拠となるべき情報を読み取ろうとすればいい。


 また「運慶が今日まで生きている理由」とは、誰にとっての「理由」なのか?

 運慶自身にとっての「理由」なのか、我々(語り手)にとっての「理由」なのか? つまり「運慶にとって自分が今日まで生きている理由」なのか、「我々にとって運慶が生きている理由」なのか?

 「生きていられる」は「べし」を可能の意味で解釈している。「生きていなければ」のニュアンスの場合、運慶自身にとってならば「べし」は意志だろうし、我々にとってならば「べし」は当然か適当だ(「命令」)?。

 これらは単に日本語の解釈の可能性を押し広げて創作した問いだ。二つの選択肢の組み合わせで4つの解釈ができる。

  1. 運慶が考える、自身が生きていられる理由
  2. 運慶が考える、自身が生きていなければならない理由
  3. 運慶が生きていられると『自分』が考える理由
  4. 運慶は生きていなければならない、と『自分』が考える理由


 上記の二択すべて、とりあえず現状の考えを聞いてみると、皆の立場は分かれる。

 自分は最初からあるニュアンスでその表現を受け取ってしまって、その上でその先を考えていたはずだ。違うニュアンスで読み取る可能性を検討した上で、それを否定したわけではない。公平にどちらか、と考えてみる。

 といってこれらの選択肢は、どれかを排他的に正解とすることを目指すのではない。どちらであるかを考えることが、思考を推し進めていくことに資すれば良い。

 このようにニュアンスを細分化することで、ここで明らかにしなければならない論理の筋道を互いに共有するのだ。


2026年6月9日火曜日

夢十夜 第六夜2 問いを立てる

 読解にあたって最初に立てるべき問いは決まっている。

「第六夜」の主題は何か?

 「第六夜」はつまり何を言っている小説なのか?

 常にテキスト読解にとって必要最小限にして最大の問いだ。とはいえいきなりこの問いに答えるのは難しい。随時この問いを思い出して、現在の位置付けや全体の意味づけを確かめる。


 次に、もっと具体的に、本文から導かれる問いを立てる。「羅生門」でいえば「下人はなぜ引剥をしたか?」だった。「羅生門」がとりあえず「わかった」と思えるために最低限解かねばならぬ謎だ。

 「第六夜」でこれにあたる問いは自明だ。

①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か?

 読んでいて、これを疑問に思わぬ者はいまい。

 末尾の一文で、「自分」はこの「理由」が「ほぼわかった」という。だが読者にはそれが自明なわけではない。なのにそれが何かを語ることなく小説は終わる。語り手が「わかった」というものを読者がわからないままに済ますわけにはいかない。いかんともしがたく「解釈」の欲求を誘う記述だ。

 これは「なぜ運慶が今まで生きているのか?」という問いではない。読者がその「理由」に納得したわけではないし、すべきかどうかも定かではない。夢なのだからそんなことに答えなくともよいのだ、ともいえる。

 ただ「自分」は何事かを得心したのだ。それがどのようなものであるのかを問うている。

 そうだとしてもやはり「答えは、ない」と答えることもできる。夢で我々は何かに奇妙な納得をしていて、だが起きてから考えても、なぜ夢の中ではそんな納得ができたのかが不思議であるような不思議な思考をしている。その不条理をとりあえず引き受けたところに「夢」の感触がある。とすれば「自分」は何事かを納得しているが、そこに読者が共感できるような中身はないかもしれない。

 だがそう即断せずに、漱石は何らかの「理由」を想定していて、それにあわせて物語の展開や描写をしている可能性も考えてみる。だとすればこの「理由」は、この小説が何を言っている小説なのか、という全体の理解の中に位置づけられるべきである。物語の締めくくりに置かれたこの「自分」の悟りが小説全体の「意味」を支えていると思われるからだ。

 ではその「理由」とは何なのか?


 さらに補助的な問いを立てておく。これもまた全ての読者に共感されるはずだ。

②「明治の木には到底仁王は埋まっていない」とはどういうことか?

 ①を明らかにするためには、まず②を解決する必要がある。②の認識によって、「それで」①が「わかった」と「自分」は言っているからだ。

 さて、「仁王は埋まっていない」とはどういうことか? という問いにどうアプローチしたらいいか?

 「仁王は埋まっていない」とは「仁王が掘り出せない=仁王像を彫れない」の隠喩だ。この隠喩で表される認識は「彫れない」という事実と同じだろうか? なぜ「仁王が彫れない」ではなく「仁王は埋まっていない」なのか? なぜそれが「到底」なのか?

 論理の順としては「主題」→②→①のはずだが、これは互いを根拠として成立する論理なので、順番通りである必要はない。補い合って一筋の論理となるよう考えを進める。

夢十夜 第六夜1 授業の目標

  「文豪」という名称に真にふさわしい小説家は、日本では夏目漱石と森鷗外が双璧だ。芥川龍之介も太宰治も、ノーベル文学賞を受賞した川端康成も大江健三郎も、受賞を期待されていた三島由紀夫も村上春樹も、漱石鷗外ほどには「文豪」の名称には似つかわしくない。

 別格二人の作品がどのようなものかは、今年度後期に漱石「こころ」、来年度に鷗外「舞姫」を読む時にたっぷりと味わってほしい。

 「こころ」に比べると小品だが、前期は漱石の「夢十夜」を読んでおこう。


 「夢十夜」は、夢(ということになっている)お話を、原稿用紙4~5枚の長さでまとめた連作短編であり、114年前の新聞に十日間にわたって連載された。

 テキストは「青空文庫」にもある。100年以上前の作品だ。著作権も切れている。

→青空文庫「夢十夜」

 テキストを見易い画面で見せてくれるサイトもある。

→えあ草紙

 YouTubeには朗読動画もいっぱいある。



 多くの1年生用「言語文化」教科書に「第一夜」と「第六夜」が収録されている。我々が使っている教科書には収録されていなかったが、まあ全国の高校生と教養を共用するということで、今回の授業でもこの二編を読む。

 授業は、『夢十夜』の二編を読み、それを読解しながら、「小説を読む」という行為自体を客観視することを目論む。

 これは昨年の「羅生門」でもそうだった。「羅生門」の理解など、授業の目標ではない。だがみんなは「羅生門」を「理解」しようと努めなければならない。その目標に向けた考察や議論が国語科の学習になるはずだからだ。併せて、「小説を読む」という行為がどのようなものかを体験するケーススタディになることを期待していたのだった。

 今回もそうだ。『夢十夜』の理解が目的ではない。読解を「体験」をするのだ。


 最初の通読は「第一夜」「第六夜」の順でいいが、読解は「第六夜」から行う。これは、「第六夜」の方が一般的なイメージとしての「読解」に適しているからだ。「第一夜」は、ただ読んで味わえば良い、といったたぐいの小説であるように思える。それ比べて「第六夜」は「解釈」ができそうなのである。

 ともかく、読んだだけでは何かわりきれない感触が残る小説には、何らかの「解釈」が欲求される。それは読者としての人情というだけでなく、国語科学習の好機だ。「解釈」は小説読解にとって必須の行為ではなく、国語科学習にとっての好機なのである。それは決して教師によって提示されるべきものではなく、生徒自身が取り組むべき課題だ。


 「夢十夜」は「夢」という体裁をとった小説だから、物語の筋立てにせよ、情景の描写にせよ、いちいち明瞭な、見慣れた、自明の「意味」をもたない記述に満ちている。「夢」だという建前を信ずるならば、それらを既存の「意味」に落とし込むようないたずらな「解釈」は必要ないかもしれない。単に不思議な話として受け取れば良いのかもしれない。

 だが、これが少なくとも「小説」という器に注がれて我々の前にある以上は、それに対して作者と読者である我々の間にコミュニケーションの成立する可能性はあるはずだ。夢そのものでさえ、語られる以上は精神分析という「解釈」の対象となりうる。小説という「作」品にそれができないと断ずる必要はない。

 まして授業という場では、その「意味」をめぐる考察は国語学習の好機となるべく期待をしても良いかもしれない。そして「第六夜」はそうした考察の対象となりそうな感触があるのだ。やってみよう。

 なおかつ、そうした「解釈」をすることは、後に続く「第一夜」の読解の特殊さを意識するための伏線にもなる。


2026年5月27日水曜日

思考の誕生 9 小論文「思考の誕生」と「他者の言葉」

 さて、例によってAIにも以上の考察をさせてみる。せっかくなので「スキーマ・ゲシュタルト・フィルターバブル」という言葉を使うことを条件づけた。


Copilot

 両者に共通する論旨は、思考や認識が個人の内面から自律的に生まれるのではなく、すでに社会に流通している言葉や他者との関係によって形づくられるという点にある。内田は、外国語を用いるとき、話者はその言語に内在する価値観や世界把握の枠組みを無意識に引き受けてしまうと述べ、言語が思考のスキーマとして機能することを明らかにする。

 その結果、私たちは特定の見方を自然なものとして受け入れ、世界を一つのゲシュタルトとして把握してしまう。蓮實もまた、「自分で考えること」が独立した思考であるという通念を否定し、思考は他人が考えたこととの遭遇と葛藤を通じてのみ生まれると論じる。ここでも思考は、既存の言説から切り離された純粋な内面活動ではない。

 両者は、言葉や他者から自由であろうとする態度そのものが幻想であることを示している。むしろ、人は特定の言語的・社会的環境というフィルターバブルの内部で思考しており、その制約を自覚することからしか、思考の更新は始まらない。内田と蓮實はいずれも、その困難で痛みを伴う自覚こそが人間の思考の条件であると考えている。


ChatGPT

 内田と蓮實は、ともに人間の思考は孤立した個人の内部から生まれるのではなく、他者や言語との関係の中で形成されると論じている。内田は、言語にはその社会の価値観や世界認識が埋め込まれており、他者の言葉を使うことは他者の精神を内面化することだと述べる。人は自分で自由に考えているつもりでも、実際には既存のスキーマに沿って世界を理解しているのである。

 また蓮實は、「自分で考えること」を重視する風潮を批判し、思考は他者との遭遇や葛藤の中で生まれると述べる。人は経験や知識をもとに世界をまとまりとして把握するゲシュタルトに依存するため、自分の見方を絶対視しやすい。しかし異質な他者との接触は、その固定化した認識を揺さぶり、新たな思考を生み出す契機となる。

 さらに両者は、人間が自分の属する閉じた認識世界から容易には抜け出せないことも指摘する。内田のいう「洞窟」は、現代でいえば似た価値観ばかりが反復されるフィルターバブルにも通じる。他者との出会いによって自分の限界を知り、変化を引き受けるところに、本当の思考の成立があると両者は考えている。

 AIは総じて頭括型のまとめ方をする。アメリカ型の論文の書き方だ。

 冒頭に「共通する論旨」がまとめられている。

・思考や認識は個人の内面から自律的に生まれるのではなく、すでに社会に流通している言葉や他者との関係によって形づくられる

・人間の思考は孤立した個人の内部から生まれるのではなく、他者や言語との関係の中で形成される

 これらは昨年の「共に生きる」シリーズの考え方としておなじみだ。


 もう一つの代表的AIにも書かせてみる。

Gemini

 私たちは常に、すでに存在する言葉や他者の思考というスキーマに拘束されて生きている。内田は、言語が中性的な道具ではなく他者の精神そのものであり、私たちはその言語的環境から抜け出せないという洞窟の比喩を用いた。蓮實も、純粋に自分ひとりで考えることの不可能性を説き、自律的と思える思考も既成の枠組みの反復に過ぎないと指摘する。

 このように、個人は言葉や知識のフィルターバブルに閉じ込められており、そこから自力で脱することは極めて困難である。私たちは言葉を通じて世界を都合よく統合し、自らのゲシュタルトを形成してしまうため、その内側に安住しがちになる。

 したがって、真の思考とは、この閉ざされた空間に安住することではない。内田の言う言語の制約という難問に直面し、蓮實の言う異質な他者との残酷な葛藤に身を晒すことで、自己を変化させていくプロセスにこそ共通する論旨がある。


 これもまた、「共通する論旨は」とは言わないものの、冒頭の一文が「共通した論旨」だ。

  • 私たちは常に、すでに存在する言葉や他者の思考というスキーマに拘束されて生きている

 これは前回確認した「視点を変える」の考え方だ。これもまたみんなおなじみのはず。

 二つの「共通する論旨」を結びつけるとこうなる。すなわち、他人の思考との関係で自分の(と思っている)思考が生まれるのだが、それはつまり、無自覚に他人の思考に拘束されているということでもある。

 ここから「洞窟から出る苦痛=思考の誕生の残酷さ」を引き受ける、という両者の主張=決着点へ論を進める。

 ちなみに、今回授業者の書いたものは上記のAIのものとはけっこう違っていて、どれがそうかクイズは出してもしょうがない感じだった。

 以下。

 内田は、我々の思考や感情(精神・観念・価値観…)が言語によって作られると述べる。すなわち我々は言語の作るフィルターバブルの中にいるのである。このことを内田はプラトンの「洞窟の比喩」で説明する。「私たちそれぞれの言語は私たちそれぞれの洞窟であ」り、洞窟の奥の壁に映る影絵芝居は、言語というスキーマによって立ち上がるゲシュタルト、すなわち我々の認識する世界の姿である。

 洞窟の外に出るには「他者の言葉」と出会わねばならない。そこに蓮實のいう「思考の誕生」の契機がある。

 だがそれは簡単なことではない。蓮實の言う「一人で考える」ことは自分の洞窟の中から出ないで考え(たつもりにな)ることだ。それは、実は洞窟の外から射す光=世間で流布する言説が壁に映す影絵を見ているに過ぎない。

 これは内田が語る、ストックフレーズ=決まり文句による借り物の思想に対応している。それは「他者の言葉」に由来するが、もはや内面化されて「自分の言葉」になっている。あるいは自己を投影した「他者」は、言葉通り自分の「影」だ。自分の影と対話しても洞窟という夢から覚めることはできない。

 だから本当に「他者」と出会うことは難しい。蓮實はそれを「希薄で残酷な体験」と言う。心の弱い人間は、もとの洞窟に戻してくれと泣訴する。だが「人間」の名に値する者は、その残酷さ・苦痛を引き受けなければならないのだと二人は若者に呼びかける。



 

2026年5月21日木曜日

思考の誕生 8 他者の言葉

 内田樹の文章は「現代の国語」の教科書にも「ちくま評論入門」にも載っているが、昨年度はどちらも読まなかった。そのかわりに「ことばとは何か」を読んだが、これは今年度の「現代の国語」に、若干収録部分は短くなって、載っている。

 さてここでもう一本、内田の文章を読む。「ちくま評論入門」の「他者の言葉」。

 これはここまでの議論にどう関わってくるか?


 急いで論旨をたどるため、ここでも一文要約をする。

 ただしこの文章は途中から論旨の方向が変わっているように思えるので、前後で一文ずつ。

  1. 他者の言葉は他者の精神を表している。
  2. 我々は皆洞窟の中にいる。

 この二文はどういう論理展開になっているのか?


 これが昨年度の「視点を変える」シリーズにも重なることに気づかねばならない。どこが?


 「視点を変える」といえばスキーマとゲシュタルトだ。

 前半をスキーマとゲシュタルトという言葉を使って言い換えよう。

我々は言語というスキーマによって外界を認識している。
言葉が違えばゲシュタルトも違う。

 後半はフィルターバブルという言葉を使って言い換えよう。

 フィルターバブルは、認識される情報が制限されることを言う比喩だ。これがプラトンの洞窟の比喩に似ていることはすぐわかる。本文では「言葉が洞窟だ」と言っているから、つまり我々は、言語というスキーマが認識を決定する「フィルターバブル=洞窟」の中にいるのだ。

 「他者の言葉」はこれでよし。これを「思考の誕生」に重ねる。

 共通した言葉が接点になるというのがこれまでの常套手段だったから、「他人」と「他者」が結びつけられそうではある。

 さらにここでは印象の類似を想起しよう。ダルメシアン犬が見えることと星座が見えることが似ていると直観したように。

 何か?


 「思考の誕生」で、思考の誕生が「残酷」と表現されていることと、「他者の言葉」で、洞窟の外に引き出されることを「苦痛」だと表現されていることが、まず「似ている」と感じられる。

 これを論理づける。


 前の「物語るという欲望」との読み比べでは、「物語る」が「主張」の明確でない文章だったところに「思考の誕生」との齟齬が生じた。

 だが「他者の言葉」はそれに比べると「主張」がある。わかりにくいが、最後の2文は是非を語っている。

人間は「洞窟の外」へ引き出されるという宿業を負っている。というより、そのような苦痛を引き受けるものだけが「人間」と呼ばれるのである。

 これは「人間」ならば苦痛を引き受けるべきだという「主張」だ。

 この主張が「思考の誕生」と重なってくる。蓮實は残酷さを引き受けるべきだと東大新入生に呼びかけている。

 これを前半の論旨から展開する。

 今回の読解では、それを小論文にまとめる。


思考の誕生 7 物語るという欲望

 「思考の誕生」がすっきりと解釈しきれたとは言わないが次の文章を読む。内田樹の「物語るという欲望」。

 内田樹は去年も読んだ。どれ? 「ことばとは何か」の人だ。

 これと「思考の誕生」とのつながりは、にわかにはわからないはずだ。

 接点は何?


 まず一文要約する。

 前から何度かやったのは題名を使うという方法だ。

物語るという欲望→人には物語るという欲望がある。

 これはまだまだ大事なところを言っていない感じがする。

 一文要約の核心は、主題を示す主述の組み合わせを選ぶことだ。

 みんなに聞いたところ、上のように「人(私たち)」を主語にしていたのは半分くらい。もう半分の人は「物語(物語ること)」を主語にしていた。

「物語」は亀裂を弥縫する解釈から生まれる。

 両者を混ぜると例えばこんな感じ。

人は亀裂・断絶に架橋して「物語」を作りたがる。


 読解のスキルとして「一文要約」以外に「対比をとる」「問いを立てる」などを練習してきた。

 もう一つ、「言い換えの表現をマークする」ことも推奨したい。

 キーワードとなる「物語る」は、文中でどのように変奏されているか?


 次のような言い換えが見つかればOK。

脈絡づける・解釈する・橋を架ける(架橋する)・読み込む(書き込む)

 「読み込む」と「書き込む(書き加える)」が言い換え可能な表現であると見なせるところが面白い。

 同様に、おそらく気になる「何もないところ」の言い換えを探そう。

 ひとまず「亀裂・断絶・飛躍・穴・隙間」を指摘したい。

 これ以外にもう一つ、この文章特有の表現はなかなか出なかった。なぜだろう。

 「反ー物語」がそうだと指摘できれば上出来。これが出てこないのは単に見慣れない表現に警戒しているということか、上の比喩とは違った位相にある表現だ(抽象度が違う)と感じられるからだろうか。


 これらの言い換えは、先の要約の一文で、入れ替え可能なはずだ。言い換え表現だとみなせるというのはそういう意味だ。いくらかは助詞や目的語を調整する必要はあるにせよ。

 こうした言い換えが自由に使いこなせる方が、論旨の共通性を捉えやすい。


 では「思考の誕生」との接点を探ろう。

 共通するキーワードは見当たらない。対応する言葉を探す。

 どのクラスでも「場所と経験」との読み比べで取りあげた「投影」が「解釈」に対応しているのではないかという指摘が相次ぐ。

 それよりやや少数ながら「思考」と「物語」が対応しているという意見も出る。

 やはり少数ながら、もう一つのキーワード「反-物語」が「他人(性)」に対応するのではないかという意見も出る。

投影―解釈・脈絡・架橋…

他人―断絶・亀裂・反-物語…

思考―物語

 言い換えが、同じ文中にあてはまることで確認されるように、対応も同じ(と見なせる)文型にあてはまることで確信できる。

 「他人に自己を投影する」は「断絶を脈絡づけて解釈する」に対応しているように思える。

 「思考が誕生する」は「物語が発動する」に対応するのだろうか。「思考が発動する」と言っても良さそうだし、「物語が生まれる」と言っても良さそうだ。


 だがこれらを一続きにしようとすると問題があることがわかる。一文にしてみると、どちらか一方の文章の主旨に反することになるのだ。例えば上の対応を単純につなげてみる。

  1. 断絶を脈絡づけて解釈することで物語が生まれる。
  2. 他人に自己を投影することで思考が誕生する。

 上が「物語るという欲望」の論旨に適っているとしても、下は「思考の誕生」の論旨にまるで反する。「投影」していては「思考」は生まれない、と蓮實は言っているのだから。

 もちろん逆にしてもだめだ。

他人に自己を投影することでは思考は誕生しない。

話の前後を脈絡づけて解釈しても物語は生まれない。

 内田の論旨にまるで反している。


 どう納得したらいいか?

 上の対応が間違っているのか?

 いやそもそも二人の主張が違っているから反していていいのだ?

 そんな単純に思考を放棄して納得せず、二人の論旨のどこが共通していて、どこで分かれるのかを見定めよう。


 上の3段の対応がそれなりに対応していることを示すために、3段とも使った一文も作れることを示そう。いささか表現に微妙なコントロールが必要だが、できないわけではない。

  1. 脈絡のない断絶に物語が生まれる。
  2. 自己を投影していない他人との間に思考が生まれる。

 これならば内田・蓮實双方の主旨に適う。つまり上の3段は対応しているのだ。

 にもかかわらず最初は上記のような食い違いが生ずると感じた。これはなぜか?


 どちらにも論旨が適うように書いた文型と、論旨が食い違ってしまう文型で表した内容はどういう関係になっているのか?


 共通する文型で表されているのは、つまり共通する認識なのだ。

 だがそれぞれの文章は、その方向性、決着点が違う。最初に表現しようとした文型はそれを表しており、そこに食い違いが生じているのだ。

 このことをうまく説明しよう。


 もう一度、共通する認識を並べてみよう。

  • 他人とともに考えることで思考は生まれる。
  • 断絶のあるところに架橋することで物語は生まれる。

 こう提示すれば、呆気ないと感ずるかも知れない。だがまあそれを切り取ってみせるのがそれほど簡単ではないが。

 これを裏返して、内田の論旨を明確にしてみる。

断絶のないところには物語は生まれない。

 これと対応する論旨を蓮實の用語で表現する。

  • 他人性が希薄だと思考は生まれない。
  • 他人に自己を投影していると思考は生まれない。

 蓮實が「自分で考えることは大事」という言説が喧伝されることを「危険」だというのは、この認識に基づいている。自分だけが宇宙に一人でいるだけでは何の断絶も亀裂もない。断絶・亀裂は異質な他人との間にある。だが他人に自己を投影したのでは、それは「他人」ではない。自分のコピーだ。断絶はない。そこには思考は生まれない。


 とすると、人は断絶を埋めようとして解釈をするが、そうして物語が生まれたとき、そこで思考は死ぬ。

 内田の文章は、そのことの是非を語っておらず、ただ人間はそうしたがるものだという認識を語っている。

 だが蓮實の文章はそれを非だと言っているのだ。 

 思考を始めるためには他人と出会わなければならない。蓮實が「あなたの知性は、その希薄さと残酷さへの感性をはぐくむために費やされねばなりません。」という「希薄さと残酷さ」はそうした自分と他人の間にある断絶を見つめ続けなければならないというメッセージだ。

 内田が「欲望」というのは、断絶から目を逸らして「もっともらしい」認識に安住したがる人間の傾向を言っている。

 だが次の文章では、内田もそのことについての是非を語る。


2026年4月24日金曜日

思考の誕生 6 場所と経験

 「他人とともに考える」ことを称揚する主張は「共鳴し引き出される力」などと共通する論旨だからわかりやすい。

 だが「自分で考えることは大事」だと誰もが言う風潮は「危険な兆候」だという蓮實重彦の問題意識が同じようにわかりやすいとは言い難い。特に「蔓延」などという物騒な言葉を使う問題意識は何を衝いているか?


 だがこれ以上「思考の誕生」の中で理屈をこねていても、中で循環して実感にはつながりにくい。こういう時は別の文章と読み比べる。

 相手は柄谷行人「場所と経験」。


 柄谷は蓮實とともに80年代には批評界・思想界のラスボスの東西横綱のように遇されていた批評家だ。

 彼らが80年代以降の思想界に大きな影響を与えていることは間違いないのだが、二人の多くの文章はともかく難しすぎて、あるいは語註の必要のある記述が多すぎて、教科書に載りにくい。大学入試にも出題されない(蓮實重彦の文章を問題にして「正解」など作るのは、どこの大学教師にとってもどれほど恐ろしいことか)。

 だが「思考の誕生」は大学新入生向けということで完結しているし、「場所と経験」も、比較的軽いエッセイとして雑誌に載ったものだから、かろうじて教科書に載りうる。「場所と経験」は、かつて「現代文」の複数の教科書に載っていた。


 「場所と経験」という文章の問題意識は、文章の印象がそれほど堅くないのと裏腹に、「思考の誕生」と同じようにわかりにくい。それがどのようなものかを捉えるために両者を読み比べることは、実は両者の問題意識に通ずる(それがどのようなものかは今はわかるまいが)。


 読み比べるには、まず共通点の把握だ。

 キーワードを対応させる。それぞれの文章に共通している語があればいいが、そのままでなくとも、対応していると見なせれば良い。

 「抽象的」はストレートに共通しているのですぐに挙がるとして、それ以外には?

 重要そうでいて、それに対応する語が他方にもある語…。

「場所と経験」

擬似的 感性的 他者 経験 知識 均質 意味づけ 

抽象的 具体的 他人 体験 思考 希薄 投影

「思考の誕生」

 多くのクラスでこのあたりが挙がった。

 これらを対応させようとする思考が、既に論旨の構造化、すなわち読解だ。「他者/他人」とか「経験/体験」あたりは字面の共通性もあるから見つけやすいが、「意味づけ/投影」をE組でH君が挙げたのは慧眼。

 「対応している」と思えるというのは、明示的かどうかはともかく、ある同じ構造の中に位置付けられるという感触を得ているということだ。

 「同じ構造」であることを示すためにどうするか。

 文を作る。

 同じ文型に対応する言葉が入って、それぞれの文章の内容を表していると思えれば、それらが同じ論理を語っているということになる。


 まずこれらの言葉を使った短文を作る。全部を一続きで一文にしなくともよい。2~3語を含むように短文を作っていく。

 そして、なるべく文の形を保ったままもう一方の文章の対応する語に入れ替えて、文の形を整える。

 最初の短文はどちらの文章から切り出しても良い。当然そちらの文章の内容を表しているわけだが、それをもう一方の言葉に入れ替えて、もう一方の文章の内容を表しているかを確かめながら細部を調整する。


 試みにひとつ。

 「場所と経験」のキーセンテンスはどれか?

 キーセンテンスというのはキーワードなどと同じく、重要な一文、という意味だ。

 多くの人は末尾近くの次の文がそうだと感じられるはず。

視たものだけを視たということのほかに、どうしてわれわれは真に「知識」をもつことができようか。

 まずこれを反語でない文(反語文に対する平叙文)にする。

視たものだけを視たということからしか、われわれは真に「知識」をもつことができない。

 これが最も簡便な言い換えだろう。この「できない」は打ち消しではない。限定だ。これをさらに「~できる。」という平叙文に言い換える。

視たものだけを視たということからのみ真に「知識」をもつことができる。

 これで「知識」を使った文が切り取れた。

 もう一つ、前の段落の次の文がこの言い換えであることに気づくだろうか。

生きた他者を見ずして、私は「人間」について何を知ることができるだろうか。

 これも同じ言い換えをしてみる。

  • 生きた他者を見なければ「人間」について何を知ることもできない。
  • 生きた他者を見ることからのみ「人間」について何かを知ることができる。
  • 「人間」について知るには、生きた他者を見るしかない。

 これで「他者」が切り取れた。

 この二つの文を混ぜる。

生きた他者を見ることからのみ真に「人間」についての「知識」をもつことができる。

 これを「思考の誕生」からピックアップした言葉に言い換える。

生きた他人とともに考えることによってのみ真に思考を始めることができる。

 こんなふうにそれぞれのキーワードについて文を作っていく。


 「意味づけ/投影」はどちらも動詞にできるので、実は対応させやすい。

 「抽象的」は共通しているにもかかわらず本文中での使い方がけっこう違っているので、文の形を合わせるのが難しい。だがどちらも主要な対比の中で否定側を形容するという意味ではやはり対応している。

 「均質/希薄」はどちらも形容動詞なので品詞としては揃っているが、やはり原文の前後が一致しない。「均質な空間/他人性が希薄」が対応しているのだ。これを同じ文型にするのはいくらか難しい。


 ある程度は生成AIのように、いきあたりばったりに言葉をつなげていって、同時に内容が原文と離れていないかを意識しつつ、文を作ることもできたほうがいい。だがこれはなかなかに難しい。

 基本的には本文中から切り取る。本文中での使い方を無闇に変えてはいけない。とはいえ簡潔な形で完結するよう文の形を整形する。

 「意味づけ」は「テレビの中で見聞きしたできごとに」「意味づけする」だし、「投影」は「他人に自己の内面的イメージを」「投影する」だ。これが対応するように作文する。

 例を一つ。

  • テレビの中のように均質な空間の中で起こっている出来事に意味づけしてもっともらしさを確保しても、それらは抽象的な出来事にすぎず、真の「知識」にはならない。
  • 「他人性」が希薄な他人に自己の内面的イメージを投影して対峙しても、そこに生まれるのは抽象的な思考にとどまり、本当の「思考」とはいえない。 

 これはいささか欲張りすぎだ。地道にやろう。


 ここに表れている問題意識は捉えられてきただろうか?

 次の文章を読む前に、問いをもう一つ。

 「自分で考える・個性・独創性の推奨」は「抽象的」「危険な兆候」として否定的に言及されている。

 また「『他人性』を希薄にする・他人に自己を投影する」も「問題」「蔓延」などと同様に否定的に表現されている。

 前者は後者の「風土」の上に生まれる、と言っている。この論理的つながりは何か?


 これは表現することが容易ではない。

 論理的つながりという前に、両者は正反対の方向性をもっている。何か?


 何かと聞いてB組のYさんが即答する。さすが。

 「自分で考える」は自分と他人が違うことを、「他人性を希薄にする」は同じであることを志向している。正反対の方向性だ。

 これが同じ根っこから生まれることをどう説明するか?


 「みんな同じ」と「みんな違う」が同居している状態については、前項でも昨年度の考察を確認した。

 これらを例えば因果関係のように表現することもできる。みんな同じになってきたので、その反省から個性化を志向しているのだ、などと。

 仮に「自分で考える」ことの推奨の心理がそのようにして生まれるとしても、蓮實はどちらも同じように否定している。蓮實は何を問題にしているのだろうか?

 両者に共通する要素・要因をどう言葉にすればいいか。

 例えばC組Y君は、それを「自己完結的」という言葉で表現した。

 こういうキーワードを見つけることができれば、その共通性をいくらかなりとたどることができる。

 だがこの問題は後で振り返る。


2026年4月21日火曜日

思考の誕生 5 希薄な「他人」

 なぜ現代社会では「他人性」は「希薄」になったか?

 直前の言い換えを使えば、上の問いは、なぜ「『他人』たちが、充分に『他人』として意識されがたい風土が蔓延し」ているのか? ということだ。

 また文末の「あなたの知性は、その希薄さと残酷さへの感性をはぐくむために費やされなければなりません」を使うならば、なぜ「希薄さ」への感性は鈍くなったのか? ということだ。

 本文ではこれがなぜかは説明されていない。昨年度以来の考察から「他人性」の「希薄」さという「風土」が成立したわけを説明しよう。

 なぜ現代社会では「他人性」は「希薄」になったか?


 前の考察を使うならば、思考とは自分一人で考えることだという、個人を完結して完成されたものと見做す近代的「個人」観から説明できそうではある。「個人」はカプセルの中に閉じこもって「他人」と隔絶されている、だから「他人性」は希薄なのだ…。

 例えば「『つながり』と『ぬくもり』」などでは語られていたのは、近代における個人の誕生は、やがて個人の孤立へといたるという認識だ。

 だが「『他人性』が『希薄』」は、「互いに自己の内面のイメージを投影しあうことが他人を理解することだと思われてしまう」と並列的な言い換えになっている。これと「個人の孤立」という説明はなじむだろうか?

 なぜ我々は「他人」をそうしたものとみるようになっているのか?


 近代史的な視野からこれを考えてみよう。

 宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」に次のような一節がある。

現代において個人主義は〈私〉の個人主義ですし、平等は〈私〉の平等です。価値の唯一の源泉であり、あらゆる社会関係の唯一の起点である〈私〉抜きに、社会を論じることはできなくなっています。そのような〈私〉は、一人一人が強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります。しかしながら、そのような一人一人の自意識は、社会全体として見ると、どことなく似通っており、誰一人特別な存在はいません。このようなパラドックスこそが〈私〉時代を特徴づけるのです。

 この一節もまた、「近代」における、ある「パラドックス」を語っている。

 同じような構造は「思考の誕生」にも示されている。

そもそも、「自分で考えること」の重要さを指摘する人のほとんどは、「個性重視」や「独創性」を主張する人びとの場合がそうであるように、「自分ひとりで考え」たことの帰結としてそう宣言しているわけではありません。多くの場合、まったく「自分で考えること」などせず、あたりに流通する言葉を機械的に反復してみたにすぎないのです。

 「自分の意見」は実は「みんなの意見」なのだ。


 例えば「『誰か』の欲望を模倣する」でも、自分の「主体的」な欲望だと思っているものが、実は他人の欲望を模倣したものなのだと語られていた。「個性的」な欲望は実は「社会的」なのだ。

 あるいは「多層性と多様性」でも、人間社会は「普遍性と多様性(一つであり、かつ多様)」をもつと言っていた。「普遍性」とは、すべての人間の共通点に注目することだ。

 こうした「『他人性』を希薄にすること」はなぜ生じたか?

 「近代」が人間に普遍性をみるようになった要因は何か?

 これはこれらの本文に詳述されているわけではない。が、考えればわかる。3点ほど指摘しよう。

 

 近代といえば産業革命による工業化に始まる。生活の中に大量の工業製品が出回るようになると、誰も似たような生活様式の中に置かれることになる。昨年割愛した「暇と退屈の倫理学」では、そこに資本主義の発達により、人々の生活が平準化してきた点を指摘していた。

 また科学の発達により交通手段も発達した。人々の移動が活発になれば、閉鎖された地域のガラパゴス化が解除されてくる。

 さらに、活版印刷の発明を緒とするマスメディアの発達。書籍の流通から新聞、ラジオ、テレビと進歩するにつれ、大量の言説が多くの人に届くことになる。さらに現代はインターネットの発達によるSNSの影響もそれに輪を掛ける。昨年ふれた「エコーチェンバー」現象はそうして皆の意見が平準化していくことを指している。

 そうした社会的な変化とともに生まれた「個人」が、再帰的な繰り返しの果てに融解していく…。


 近代の「個性を持った個人の称揚」は、実は「個人の平準化」と逆説的に同居している。こういう考察は昨年度に小論文として考察した。→

 自分の中にも他人の内面が投影されている。同様に「他人の内面」にも自分の心が投影されている。

 我々は、互いの固有性(他人性)を尊重しようとして、実は相手を自分の想像の範囲でしか見ていない。互いに「自己の内面のイメージを投影しあう」のである。


思考の誕生 4 危険な兆候

 「他人とともに考える」ことの重要さはわかったとして、蓮實の問題意識はそれだけなのか?

 「自分で考えることは大事」という言説をそこまで悪し様に罵る真意は?

 そこまでとらえないと蓮實のメッセージは十分には伝わってはいない。

 

 冒頭段落は次のように結ばれる。

この「自分で考えること」という概念ははなはだ疑わしい。疑わしいというより、そんなことばかりが推奨されているのは、いかにも危険な兆候だといわねばなりません。

 この「危険な兆候」とはどのような「危険」であり、なぜそのように言えるのか?

 この表現は2段落の終わりにも出てくるが、そこまで読んでも何のことかわからない。もっと先まで読み進めなくては考えようがない。


 もう一つ。

 分掌末尾で「思考の誕生」を「残酷」であるとともに「希薄」な体験でもあると蓮實は言う。

 この「希薄」とは何のことか?

 直前の一節で「思考の誕生」は「あなたの在学中に、かろうじて一度立ち会いうるかどうかという希薄な体験なのです」と言っている。とすればこれは「頻度が少ない」という意味だろう。

 確かに「希薄」はもともと「稀薄」と表記し、「稀」は「まれ」と訓読みできるから、頻度の少ない、めったにないこと、でもある。

 だが「希薄」という言葉は日常的には「稀薄な空気」などの気体の密度について言うか、「存在・意識・関係…」のような「空気」が比喩的に使えるような対象に使う。「まれ」より「うすい」のニュアンスの方で使われているのだ。だから「思考の誕生は希薄な体験だ」は妙な使い方だと感ずる。それを言うなら「希有(稀有=けう)な」体験だ、とでもいったところだろう。

 ところでもうちょっと前に次の一節もある。

「他人」の「他人性」を希薄にすることが、「他人」を理解することだと考えられてしまうのです。

 「『他人』の『他人性』」とは「他人」という「存在」に対する「意識・関係」のことだろうから、我々が普段使っている「希薄」の使い方として違和感はない。

 この「希薄」が文末に影響しているとみるのは穿ち過ぎだろうか?

 蓮實が知性を費やすべきだと言う「希薄さ」はおそらく単に頻度が低い(=希有)という意味ではない。この部分の「希薄さ」のことだ。


 この「危険な兆候」と「希薄」を結びつけて解釈する。


 これらを関連付けて、例えばこんなふうに言ってみる。

「自分で考えることは大事」という主張は他人との関係を希薄にするから危険だ。

 これがまったく見当外れな説明だと感じられるだろうか。

 蓮實が言っているのは全然そんな話ではない。


 「危険な兆候」とは誰にとっての「危険」なのか?

 「自分で考えることは大事」だと言う人? 教育を受ける子供?


 この「危険」を次のように言ってみる。

  1. 「自分で考える」ことは危険だ。
  2. 「自分で考えることは大事だ」と思うことは危険だ。
  3. 「自分で考える」ことの重要さが無闇に推奨されるのは危険だ。

 これらの違いが明確に意識されていないと議論が混乱する。 

 蓮實は1を「愚かだ」と言いはしても「危険」とは言うまい。

 2は確かに「危険」だろうが、それより本文通りに正確に言えば3のはず。

 つまり問題はどこにあるのか?


 「危険な兆候」を考えるために参照すべき箇所を探していくと、中盤に次のような文章がある。

問題なのは、そうした「他人」たちが、充分に「他人」として意識されがたい風土蔓延しがちなところにあります。たがいに自己の内面のイメージを投影しあうこと、「他人」の「他人性」を希薄にすることが、「他人」を理解することだと考えられてしまうのです。

 この部分の「問題なのは」とか「蔓延しがち」といった表現は「危険な兆候」という表現と結びつけてよさそうだ。「蔓延」するものは? といえば伝染病とかウイルスとかだ。

 つまり「危険」なのは「風土」、すなわち「社会」だ。社会にとって「危険な兆候」なのだ。

 さてこれで「危険な兆候」と「希薄さ」を結びつけて考える必然性がわかってきた。

 ではなぜ現在の我々にとって「他人性」は「希薄」なのか?

 

2026年4月17日金曜日

思考の誕生 3 残酷さ

  1. 「歴史的な役割」とは何か?
  2. 「別の主張」とはどのような「主張」か?
  3. 「残酷」とはどのような意味か?

 三つの問いを関係づけて通観する。

 とりあえずは文脈の整理。

 三つを結びつけるのは「自分で考えることが大事」という主張だ。それぞれをこの主張に関係づけよう。


 まず1。

 「自分で考えることが大事」という主張の「歴史的な役割」が終わったということは、かつて「歴史的な役割」があったということだ。

 それが何かを考えるためには、昨年から何度も使い回した言葉を想起したい。

 何か?


 もちろん語註にもある「ロマン主義」に結びつけて考えるべきではあるが、勘の良い人はこれが「近代」の問題だと気づくはずだ。

 ああ、またしても。

 この言葉が使えれば「歴史的な役割」について説明するのが随分楽になるはずだ。

 この歴史的な推移を前回の対比にあてはめてみる。

他人から教わる/自分で考える/他人とともに考える

 これはいわば

前近代/近代/現代=ポストモダン

の「自分」観に対応しているということになる。

 近代以前、人は属する集団や宗教によって規定される存在だった。「他人から」というのは、そうした共同体の中に生きることを指す。

 近代はそうしたさまざまな「くびき」から解放された「個人」が生まれた…といった表現は去年読んだ文章群で繰り返し使い回された。

 現代はそうした近代への反省が求められている。

 最初に読んだ「自立」シリーズでは、他人に依存しない「個人」を良しとする近代的「個人」観から、互いに緩やかに依存し合う社会のイメージが語られていた。

 この図式から「歴史的な役割」を捉える。


 2「別の主張」とは「自分で考えることが大事」という主張に対立する主張なのだと考えたくなる。

 そうなるとそれはこうした主張を否定する蓮實の主張と同じ側にいることになる。

 そうではない。蓮實は「自分で考えることが大事」もろとも「別の主張」も否定している。「別の主張」とは「自分で考えることは大事」という、表に表れた主張の裏に隠れた、いわばその人の本音とも言うべき「主張」だ。

 そしてその本音とは、「自分で考えること」の称揚の「歴史的な役割」が終わってしまったことを認めたくない、という欲求でもある。

 なぜ認めたくない?


 3。

 「思考の誕生」は「他人と考える」ことによって起こると言っているのだから、それは「自分で考えること」(つまり上の「役割」「主張」)を否定している。

 それが「残酷」だと言っているのだから、上の「主張」は、その「残酷」さを避けたい、すなわち「歴史的な役割」が終わってしまったことを認めたくないという欲求に基づいている。

 それはどんな「残酷」さか?


 それぞれを10字前後で表現してみよう。意見を交換するためには、表現が共有されていることが望ましい。もちろん一度で適切な表現ができるわけではないから、意見の交換の中で表現を修正し、精錬させていく。

 どう表現したらいいか?


 1「歴史的な役割」は?

 「近代」は1年時の様々な読解で何度も使った概念だ。今回もこれを使って表現する。もう何度も目にした表現だ。

 「近代における『個人』の確立(成立・誕生…)」とでも言っておこう。


 3「残酷」は?

 「思考の誕生」は「自分で考えることなどたかが知れている」ことを認めるところに成立するのだから、それは確かに「残酷」だ。

 これをどう言い表すか?

 今年はC組O君の班の表現が秀逸だった。いわく「自分がオンリーワンじゃなくなる」。なるほど、これはいい。

 「自分で考えること」の擁護とは、その「残酷」さに直面したくないという動機に基づいている。

 「別の主張」とはそうした情動・動機に基づいている。


 2「別の主張」は?

 「自分で考えることが大事」と言いたい人は、実は「別の主張」をしたいことに無自覚だと蓮實は言っている。

 おそらく最も微妙な工夫が必要になるのはこの「別の主張」をどう表現するかだ。この問題の山場は、ここに腑に落ちる表現を見つけることだ。

 各クラスでの発表の多くは、「別の主張」=蓮實重彦の主張になってしまってるか、「自分で考えることは大事」に似過ぎていて、それじゃあもう言葉が見つかっているじゃん、意識できているじゃん、になってしまっているかだった。

 もしくは「主張」と言うに値するような命題の形になっていないか。

 3年前のとある生徒の表現が秀逸だったので紹介したい。つまりここに隠れた本音は「俺ってすげえ」なのだ。

 これで関係づけられる。

 ただこれでは「主張」っぽくないので、もうちょっと一般論ふうに言い直そう。

 どういえばいいか?


 今年の授業ではB組W君の表現がうまかった。

人は皆それぞれ唯一性をもった存在だ。

 授業者が用意していたのは次のような表現。

人にはそれぞれ独自の価値がある。

 これは「個人の確立」から導き出される命題であり、それが「自分で考えることは大事だ」という形で語られる。

 この「人」という一般名詞の陰に実は「私」が隠れている。

 つまり「自分で考えることは大事」という主張は実は「私には独自の価値がある」と信じたい欲求の表れだと蓮實は言っているのだ。

 とすれば「思考の誕生」は確かに「残酷」だ。「俺ってすげえ」と思いたいのに、お前の考えなんか大したことはないと言われて、「オンリーワンの俺」などというものが幻想でしかないことを認めなければならないのだから。

 「思考の誕生」はその「残酷」さを引き受けることとひき換えに手にできる体験なのだ。


 それでも、その「残酷」さに向けてあなたの知性を費やしなさいと説く蓮實にならって、本授業者も同じように言いたい。

 「思考の誕生」のためには「他人」と出会わなければならない。

 だがそれには「感性」を研ぎ澄まさなければならない。

 授業で話し合う時も、互いの話に曖昧にうなずいているだけでは「思考の誕生」の瞬間は訪れない。「そうか…なるほど」はまあ話の潤滑油として必要でもあるが、それだけで終わらず、「えっ、どういうこと?」「そうかなあ…」と勇気を出して言ってみることによって、「他人」であるような互いの存在が濃密(「希薄」の対義語)になる瞬間が生まれるのだ。


2026年4月12日日曜日

思考の誕生 2 問い三つ

 蓮實が「自分で考えることを重要視する」ことを否定する論理はどのようなものなのか。そうした核心に迫る前に、細部を取り上げて少々読解する。


 「自分で考えることは大事」という主張を否定する蓮實は、しかしその論拠を明確には語らない。

 例えば次の一節。

「自分ひとりで考え」たことなど「たかが知れている」というのは、まぎれもない事実です。人間が社会的かつ歴史的な存在である以上、それは当然でしょう。

 「まぎれもない事実」とか「当然」というばかりで、なぜそうなのかを言わない。

 「社会的かつ歴史的な存在である以上」が論拠なのだが、これはどういうことか?


 「歴史的」は「自分で考えることは大事」を否定する論拠となっていて、「社会的」は「他人とともに考える」を肯定する根拠になっている。

 人間は一人で生きているわけではない。生きられはしない。「社会的」というのはそうした現実のことだ。

 同時に、今生きている我々は過去の人たちが作ってきた歴史の上に生きているし、その歴史の上に次の世代も生きる。

 いわば共時的な広がりと通時的な広がりの中に我々は存在している。

 「社会的かつ歴史的な存在である以上」はそうした「事実」の指摘だ。

 にもかかわらず、と蓮實は問いかける。

にもかかわらず、なお「自分で考えること」の重要さが改めて指摘されたりするのは、どうしてなのでしょうか。

 どうしてだと蓮實は考えているのか?

 細部から考えていく。


あたかも、この宇宙に自分一人しか存在していないかのような孤独な思考を「自分で考えること」として擁護する姿勢は、いかにもロマン主義的なものだというほかはありません。そんな姿勢の歴史的な役割は、遥か以前に終わっているはずなのです。

 この一節の「歴史的な役割」とは何か?


 この問いかけを解決することなくさらに次の問い。

 続く一節。

それは、そう主張する者の歴史的な無知をあからさまに示しています。あるいは、その指摘で何か別の主張をしたいと思いながら、それにふさわしい言葉が見当たらないのか、それとも別の主張をしたがっている「自分」自身に無意識なだけなのかもしれません。

 この一節の「別の主張」とは何か?

 「別の」なんだから、「自分で考えることが大事」以外なら何でもありか?

 そうではない。蓮實はここに入る「主張」がどのようなものかを想定しているはずだ。

 それはどんな「主張」?

 この問いはたぶんかなり難しい。


 さらにもう一つ、文末近くの次の一節についても問う。

思考の誕生に立ち会うことは、貴重で、残酷な体験ともなるでしょう。あなたの知性は、その希薄さと残酷さへの感性をはぐくむために費やされねばなりません。

 この一節で「思考の誕生に立ち会うこと」はなぜ「残酷」と形容されているのか? あるいはどのような意味で「残酷」なのか?


 以上三つの問いは、相互に関係づけて考えることでそれぞれが明確になる。

 どういうふうに関連しているのか?



2026年4月8日水曜日

思考の誕生 1 具体的な体験

 今年度最初に読むのは蓮實重彦「思考の誕生」。

 こんな、教科書の後ろの方にある文章を最初に読ませたいと思うのにはそれなりにわけがある。

 教科書の最初の文章は、年度当初にふさわしいメッセージ性をもったものが意図的に置かれている。昨年の教科書冒頭の「木を見る、森を見る」は、いろいろな視点から世界を見てみようという、高校1年生に向けたメッセージだった。読んだのは年度のすっかり後半になってからだったが。

 ところがこの教科書冒頭の「アイオワの玉葱」に、これからこの教科を学ぶ高校生へのメッセージがあるのかどうか、よくわからない。後でこの授業でも読むつもりではあるのだが、論旨は言語論だから「視点を変える」シリーズではある。メッセージ? まあメッセージは受け手の問題でもあるから、全ての文章にメッセージを見出すことは可能ではあるのだが。

 というわけで「思考の誕生」を最初に読むのは、そういうメッセージのある文章だからでもある。

 どんなメッセージ?


 蓮實は「自分で考えることが大事」という言説が世の中に蔓延っているが、そんなのは歴史的な無知の表れで、危険な兆候だ、という。

 これはいったいどんなメッセージなのか?


 この文章が書かれたのは蓮實重彦が東大総長だったときで、これは東大新入生へ向けたものだ。文中の「教育の場」とか「在学中」とかいう言葉は東大生が送る東大ライフを想定している。

 そこで総長は「自分で考えること」などたかがしれている、と言う。

 東大生にこれを言うことの意味は、よくよく噛みしめるべきだ。東大生よ、お前たちが自分の頭で考えたことなどたかがしれていると自覚しなさい、というのだ。手厳しい。

 ではどうしろと?


 「自分で考える」ことは何と対比されているか? 「自分で考える」がダメなら何が良いのか?

 肯定/否定 の対比で表すと?

自分で考える/他人から教わる

 これはつまり「謙虚のススメ」なのか?

 だが単にそんなことを若者に言っても耳にタコができているような聞き飽きたお説教にしか感じられまい。

 蓮實の言っているのはそれとはちょっと違う。

「他人の考え」を「自分の考え」としてうけいれることではありません。

とはっきり文中で言っている。

 蓮實の言っているのは次のように表現されるべき対比だ。

自分ひとりで考える/他人とともに考える


 蓮實の言っているのは「他人とともに考える」ことのススメであり、それは「具体的な体験」なのだと言う。

 こうしたメッセージは、当然授業者もまた東大生ならぬ君たちにも送りたい。1年生ならぬ2年生にも、また。

 授業は、教師の言うことを聞いて、それを覚えたり理解したりする場ではない。

 といって自分一人で考える場でもない。

 受け身でなく能動的に「考える」ことを日頃から奨めてはいるが、それは蓮實の言う抽象的なお題目ではなく、隣の席の級友と一緒に作り上げる具体的「体験」だ、と言っているのである。

 例えば授業とはそれが期待される「場」だ。


 メッセージとして、これまで読んだ文章で最も似ているのはどれか?

 共通する論旨をふくんでいるものとして連想されるのはどれか?


 そう思っていた人もいたと思うが、授業者は、この文章の趣旨はまるで「共鳴し引き出される力」だなあと思っていた。

 似ていることを示すには、両者の論旨を同じ構文で示せば良い。

 なるべくシンプルで互換性の見やすい文。

 すぐに次のような文が想起できれば上出来。

  • 人の能力は他人との共鳴によって引き出される。
  • 思考は他人との共同作業によって誕生する。




 そのために必要な姿勢とは何か?

 ここがこの文章のミソなのだが、それが何かわかるだろうか?


2026年4月6日月曜日

新年度 総合現代文

 2026年の授業を始める。

 科目名は「総合現代文」。文科省の学習指導要領にはない科目で、学校が独自に設定した科目だ。

 教科書は筑摩書房の「論理国語」と「文学国語」。これが文科省の定める科目名なのだが、両方を履修させるのは「標準単位数」に反するのでできない。といってどちらかだけを履修させるのは惜しい。そこで、本校では両方の教科書を使った独自科目にしたわけだ。

 昨年度は「現代の国語」という科目を「現国」、「言語文化」を「言文=ゲンブン」という略称で呼んでいたはず。だが、授業者にとって「ゲンブン」とは2022年からの新教育課程になるまで長らく「現代文」を指していた。昨年は「ゲンブン」といえば「言文」、つまりは「古典」のことだったのに、今年はまた「ゲンブン」が「総合現代文」のことを指し、「古典」はそのまま「コテン」と呼ばれることになるのだ。

 そして1年生との間では「ゲンブン」が指す科目は違ったものになってしまう。

 まぎらわしい。


 ブログ名はそのままに、これから2年間は「現代文」について書き綴っていく。


 去年の授業について少々。

 3月の生徒総会で「熟議をこらす」ことと「円滑な議事進行」の相克について話した。

 この二つは「時間がかかる/かからない」という反対の方向性をもっている。だがどちらかだけが大事なわけではない。どちらも大事だ。

 本当の対立は「熟議をこらす/拙速に結論を出す・議会が形骸化している」であり、「円滑な議事進行/停滞・混乱した議事進行」だ。

 だから「熟議をこらす」と「円滑な議事進行」は反対の方向性なのにどちらも大事なのだ。

 授業でも似たようなジレンマを感じていた。

 次々と文章を読んで、さまざまな問題を考えたい。

 だがじっくりと考えたい。

 時間のかかり方という点では相反する方向性をもった二つの希望だ。

 もちろん両方大事なのだから、どちらかといわずバランスをとるしかないのだが、せめてみんなには次のことを期待したい。

 授業中に対峙するいくつもの問題点について、常に「じっくり考え」てはきたものの、時間がいつも足りなかった。

 そういうとき、常にその時点での、自分なりの結論が表現できるところまでまとめきることにこだわってほしい。毎度毎度、最後のところで誰かが(授業者が)結論を言って終わってしまうことに流されないでほしい。

 ひとつひとつの考察を、次の考察に使う武器(スキーマ)として、確実に装備していってほしい。


2026年3月4日水曜日

視点を変える23 人工知能3 言語が見せる世界

 さて「物語」と言えば、もう一つの文章、野矢茂樹「言語が見せる世界」と接続する。

 この文章の「問い」は何か?


 「相貌とは何か?」「概念とは何か?」などの問いも文中には明示されているし、これらはもちろん重要な問いではある。「プロトタイプ」も気になる。

 だがそれらの問いがどこから生じたかと言えばこれだ。

我々は世界をどのように見ているか?

 この答えは?


通常は「物語」において見ている。

というのが端的な答えだ。

 とすると、これは松田の論と共通していることが明らかだ。人間が椅子に座れるのは「椅子に座る」という行為を「物語」として生きているからだ、というのが松田の主張だった。

 そしてその「物語」は身体によって成立する、というのだが、野矢茂樹は「物語」を論ずるのに身体を持ち出さない。言葉がすでに「物語」を携えているのだ。

 当然だ。言葉は単体で宙に浮いているわけではなく、前後の文脈の中で使われ、理解される。それはすなわち「物語」の中にあるということだ。

 となればますます現在のAIは「物語」において「椅子に座る」ことを捉えるに違いない。

 やはり人工知能は椅子に座れるのである。


 さて、ここまでの「視点を変える」の流れに、この二つの文章も位置付けよう。

 「言語が見せる世界」という題名は、もうそのままおなじみのソシュール言語学だ。我々は言葉によって世界を認識する。

 ここでは、言葉はスキーマでありメディアだった。

 一方「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」には次のような文章がある。

例えば、…初めてこの世界と対峙することになる赤ちゃんは、この世界を知るために、…彼ら(彼女ら)は、手足をばたつかせながら、「周囲の環境に何があるか」を発見するでしょう。それと同時に、「自分自身の身体がどのようなものであるか」を発見するでしょう。/無限定な空間において、私たちは、周囲の環境という「場」と、自分自身の身体を基準とする「自己」とを、順次、理解していくのです。

 これはつまり、身体はメディアであると言っているのだ。つまり身体も言語同様スキーマでありフィルター(フィルターバブルにおける)だ。

 そういえば「言語が見せる世界」と「メディアがつくる身体」は文構造が同じだ。つまりそっくりパラフレーズできる。言語が(メディアが)見せる(つくる)のは、世界「観」のことであり、身体「観」のことだ。

 身体「観」ということはゲシュタルトでもある。

 スキーマでもありゲシュタルトでもあるというのは、思い出してほしい、「地図」もそうだった。もちろん地図もメディアだった。


 我々は言語を通して、身体を通して、地図を通して、メディアを通して世界を認識する。それぞれの「世界」は、それぞれのスキーマによって様々だ。そのゲシュタルトがそれぞれの身体「観」であり、世界「観」であり、それを表現した地図なのだ。 

 スキーマがゲシュタルトをつくり、できたゲシュタルトはスキーマとして機能する。スキーマとゲシュタルトは循環する。

 授業を通して文章を理解するとは、つまりゲシュタルトが生成された(ダルメシアン犬が見えた)ということだ。

 それが次に読む文章を理解させるスキーマとして機能する。


視点を変える22 人工知能2 反論

 「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」という問いは「座れない」ことが前提されている。だがその前提には素朴な疑問が生ずる。

 ロボットに、椅子に座るようプログラムする。姿勢制御などの工学的な課題がクリアできるならば、ロボットは椅子に座れるだろう。工場のラインなどでロボットアームが複雑な作業をするのはもう数十年前から可能だった。

 これは「座れる」ことにはならないのか?

 この疑問に松田は、それは座れていることにはならない、と答えるだろう。だがどういう理屈で松田はこの実例に反論するか?


 ロボットが自主的・主体的・能動的に座っているわけではないという反論は無効だ。

 この例では、その行為が自主的であるかどうかを問題にはしていない。ロボットにはそもそも座りたいなどという動機はない。人間に対して「座って」と言ってその人が座るとしても、それは「自主的」ではない。

 問いは「なぜ座らないのか?」ではなく「座れないのか?」だ。

 では?


 「コミュニケーション」から話を始め、「意味」について考察する本論の展開では、単なる行為の実行ではなく、「座らせよう」という「意図」がロボットに理解できるかどうかが問われている。

 そうしてみると、やはりロボットは「座れる」ように思える。「コミュニケーション」とは、こちらの送った信号によって相手の振る舞いが変化することを言うのだと本文に書いてある。座るようにプログラムしてロボットが座ったら、それはコミュニケーションが成立していることになるはずだ。振る舞いが変わったのだから、「意図」は伝わっている。

 なのに松田はなぜ「できない」と言うのか?


 それはAI自らが「意図」して座ろうとしているのではないからだ、という反論は有効か?


 だが本人に「意図」があるかどうかが、なぜわかるのだろう?

 「座る」という動作ができてしまえば、それは「意図」があったということなのではないか? 彼は座ったが彼には座る意図はない、などということがなぜ言えるのか?


 だからここは本当にAIに「できない」例を挙げればいいのだ。

 例えば授業で挙がった例では、面接会場でロボットに椅子に座るよう促してロボットは座ったが、面接官の方を正しく向いていなかった、などという例。これはうまい。「適切に座る」ことはできない。自然さの判断ができない。

 では「面接官の方を向いて」と指示の中に記述すればできるのか?

 それはできるかもしれない。だが、椅子が複数ある部屋で「どれでもいいから座って」は難しいかもしれない。

 円筒形のスツールやソファしかない部屋で「椅子に座って」も難しいかもしれない。

 あるいは「適当にどこか座ってて」も。


 こういう例が挙がれば、動作として「座る」ことができるロボットでも、指示や命令によって「座る」ことができない、つまり命令の意味が理解できない場合が示せる。


 さて、さらに反論。今度は松田に対して。

 松田の論の趣旨がわかったとして、それでもやはり現在のAIは椅子に座れるのでは?

 この反論は「物語」とは何か? という問題に関わっている。

 「椅子に座る」ことが理解できるということは「椅子に座る」という「物語」を生きることができるということだ、それには身体が必要だ、というのが松田の論の核心だ。

 「物語」?


 物語と言えば、今年読んだ文章では「大きな物語」を想起したい。

 「大きな」は、多くの人に共有されている、という意味だが、「物語」とは何か? 

 それは言ってみれば、複数の要素がつながっている状態であり、それが、よくあるパターンとして学習されているということだ。典型的な連続性がそこに見られるということだ。次の展開が予想できる状態。

 ここから連想したいのは「メディアがつくる身体」の「予期の織物」だ。

 この考察はここ→にも書いた。

 「予期」とは「振る舞い」に対する「予期」だ。

(メディアは)自分が可能な振る舞いを変容させ、他人の振る舞いに対する予期を変容させ(る)

 こういうときにはこう振る舞うものだ、という「予期」が働くのが「社会的身体」であり、これは昨今の生成AIのLLM(大規模言語モデル)の仕組みと同じだ。

 これはAIが「物語」を理解しているということであり、むしろそれは身体を通してというより言葉(や画像)を通して学習されているのかもしれない。

 松田は、川原の岩に腰を下ろすのは身体があるからだと言う。これはAIにはそれができないという前提で挙げられた例だ。

 本当にそうなのか?

 いや「川原の岩に腰を下ろして」という文章(言葉)を学習したAIは、岩を座れるものとして認識することができるに違いない。

 現在のAIは、身体にとっての必要性を介することなく「物語」を理解できるはずだ。


 「振る舞いを変容させる」などというフレーズがあると、もっと時間があれば「メディアがつくる身体」と「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」を読み比べよ、と投げ出してしまうこともできたのに、と終わりが迫った年度末の授業の余裕の無さが残念ではある。


視点を変える21 人工知能1 読解メソッド

 松田雄馬「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」は、いくらかカットしたものが「ちくま評論入門」にも収録されている。これを野矢茂樹「言語が見せる世界」と読み比べる。松田は理系の研究者、野矢は哲学者。人工知能と言語。どうつながるか?

 そしてこれもまた「視点を変える」の流れに位置付けられることも意識して考えていこう。


 まず「人工知能は~」。

 今年度、何度も実行した読解のメソッドは「一文要約」「問いを立てる」「対比をとる」だ。

 このうち「問いを立てる」にしたがっていえば、これはもう題名が問いの形になっている。

 だが読んでみると、この問いは裏にもう一つの問いを隠していて、どちらかというとそちらの方の問いにこそ重点があることがわかる(わかってほしい)。

 その裏の問いを明らかにするには「対比」の考え方が有効だ。

 この文章のメインの対比は何か?


人工知能/人間

 これが最重要の対比であることがわかれば、裏の問いも明らかになる。

人間はなぜ椅子に座れるか?

 これらの問いに、最も端的に答えてみよう。


 授業ではまず「目的」「意図」「意志」「意味」「物語」などの言葉が挙がると面白い。これらの「ない/ある」は確かに「椅子に座れない/座れる」ことの理由ではある。

 だがこれらより根源的な理由があり、すぐにそこにたどりつくのは国語力が高いことを表している。何?

    身体がない/あるから。

 すぐにこう想起できたろうか? (誰かがすぐにこれを挙げてしまうと考察が進みすぎてしまって勿体ない)

 「身体」のあるなしが最も根源的であることがわかるだろうか?


 「意味がわからないから座れない」は正しいが、これは「どうしたら意味がわかるのか?」という問いを導き出す。その答えが「身体があるから」だ。

 「身体がないから意味がない」とは言えるが、「意味がないから身体がない」とは言えない。だから「身体」の方が根源的な原因なのだ(もちろんこれはこれで「なぜ身体がないと意味がわからないか?」という問いにつながり、それにも答えられるように読解する必要はある)。

 これで文章を読むためのスタートとゴールが確認できた。

 とはいえまだこれはスタートとゴールであって、この、問いと答えの間がどのような論理で結ばれているかを辿れてはじめて読解できているといえる。

 ついでに「一文要約」もこれでできている。「人工知能が椅子に座れないのは身体がないからだ。」「人工知能は身体がないので椅子に座れない。」といえば、確かにそういうことではある。

 だがこの文章の場合、これでは何のことやらわかりにくい。論理の飛躍があるように感じる。

 それでもこうしたメソッドは意識してでも使う。使ったときと使わないときの理解度には大きな差がある。使おうとすることが頭の使い方を集中させる。次には「椅子に座れない」と「身体がない」の関係を把握することに頭を使えばいい。

 さて、身体を持っているから椅子に座れる(身体がないから椅子に座れない)とはどのような論旨なのか?


 論理展開を概観するために、さらに一文要約を応用する。

 この文章には1行空きで中段落が示されているから、その区切りで1文にする。ただし、3段落目は長いので2文にする。計4文。

 1,2段落はひどく要約しにくい。そしてさらに、1段落から2段落への論理展開がよくわからない。

 それでもなんとかやってみて、さて、3段落に入ると、最初にこんな文章がある。

「コミュニケーション」とは、シャノンらによると、相手に信号を伝え、「意図」を伝えることで、相手の振る舞いを変化させるということでした。そして「意図」とは、自分自身の目的のようなものだと考えられます。ここからは、「椅子」を通したコミュニケーションについての考察を更に深めることで、振る舞いが変化していく様子について理解し、更に、生命が生きるということがどういうことかについて論じていきたいと思います。

 なんだ。本人がここまでをまとめている。前半は1,2段落の要約になっていて、後半が3段落の予告になっている。

 ここらでこの文章の問題点が見えてくる。

 この文章は、そこここで問いの投げかけやそこまでの「まとめ」が挿入されて、一見すると読者に対する気遣いの行き届いた、読みやすい文章のように見える。

 筆者である松田さん自身はそうしようとしている。だが実は論理展開はきわめてたどりにくい。その自覚は本人にはないだろうが。

 この、論理の辿りにくさが、例えば上の一節に現れている。

 上記の一節、1,2段落の要約を、いくらか形を整えて並べてみる。

  1. 「コミュニケーション」とは、相手に「意図」を伝えることで、相手の振る舞いを変化させるということである。
  2. 「意図」とは、自分自身の目的のようなものである。

 これが筆者自身による1,2段落の要約だ。

 これを続けて読んでも、論理展開は把握できない。それはこの1.2の「意図」の意味が全く違うからだ。

 それぞれ何を指しているか?


 違いを言うためにはむしろ言い方を揃える必要がある。「I was born」の「文法」と「蜉蝣」を対比するためには、「生まれる/生む」と言い方を揃える必要があったように。

 また、それぞれの「意図」がどういうことかを直接表現しようとすると話が抽象的な説明になってしまって、違いがわからない。

 そこでここでは「相手」「自分」「振る舞い」が何のことかを、ここでの例で特定する。何のこと?


 問題設定の「人工知能は椅子に座れるか?」からすれば、1の「意図」は座らせようとしている側の意図のはずだ。人間が人工知能の「振る舞いを変化させ」ようとしているのだから。

 だが2の「目的」「意図」は「椅子に座る」だから、「自分」とは座ろうとしている人、だ。上の問題設定をひきつぐなら、人工知能を指していることになる。

 端的に言うと以下のようになる。

1.AIを「座らせよう」とする人間の「意図」

2.「座ろう」とするAIの「意図」

 これは本当にひどい。重要なキーワードが、展開する中で全く違ったことを指している。これでは、論理がまともにたどれない。

 こういう、言葉の指し示すものが不統一なのに無自覚に論を進めているところが読みにくさなのだが、一方ではところどころで要約してみたり問いを明示したりして書き進めているところは、筆者なりには読者に配慮してもいるのだ。


 続けて後半を2文で要約してみよう。

  • 生物は身体によって世界を(対象を)認識する。
  • 生物は世界を(対象を)「物語」によって捉える。

 この長さにしてしまうと、何のことかちっともわからない。上の2文とつなげても、論理の展開がたどれない。

 試みにAIたちに要約させてみる。


Gemini

情報の真の意味は、受け手が送り手の意図を理解し、自身の行動を変化させて初めて成立する。人間が「椅子」を認識できるのは、身体を持ち、自らの人生という「物語」の中で「座る」という目的を即興的に作り出せるからだ。対して身体のない人工知能は、記号を処理できても行為の意味を理解できない。自らの意志で環境に意味を見出し、人生を生きるという行為は、現状では身体を持つ生命にのみ許された特権である。


ChatGPT

信号は受け手が意図を理解し行為に結びつけて初めて情報となる。椅子を形の特徴だけで定義しても例外が生じ、座るという行為の可能性を捉えられない。人間は身体をもち、疲労や作業といった目的を自ら生み出し、自己の物語の中で岩さえ椅子として意味づける。意味は身体と環境との関係の中で即興的に立ち現れるが、身体と物語をもたない人工知能は自ら意図を形成し意味を創出できない。


 これはかなりもっともらしく書き下ろされてはいる。だがやはり1文目から2文目にかけて、また前半と後半の論理的つながりがわかりにくい。これはつまり原文の問題がそのまま要約にも表れているのだ。

 とはいえ教材の文章は「わかりやすい」ことが第一義ではない。わかりにくいからこそ考察の対象として(つまり教材として)有効に働くということもある。



2026年2月27日金曜日

視点を変える20 地図3 グーグルマップ

 「グーグルマップの世界」でも、地図についての認識は若林と共通している。

 人は地図によって世界を、ある見方で把握する。縮尺によって、あるいは地図に盛り込まれた情報の種類によって。地図の中心をどこにするかでさえ、すでに世界の見方を示している。

 地図はメディアであり、スキーマなのだ。

 「グーグルマップの世界」は、そうした認識を元に、何を語るか?


 対比をとればはっきりする。基本的な対比、対比のラベルをまず見定める。

旧来の地図/グーグルマップ

 ここに、グーグルマップがどのようなものかを言うために、「~ではなく」型の対比を並べていく。

  社会/個人

  共有/個人化

見わたす/導く・追う

ひろげる/とざす

  相対/絶対

 こうした対比を使って、「グーグルマップの世界」の論旨を語り下ろしてみよう。


 グーグルマップというメディアは、世界の見方を「個人化」する。社会を見わたして自分の位置を相対化するはずの本来の地図の機能と違って、自分の世界をとざす方向に機能する。

 この問題は、文中でも言われているとおり、現在のネットメディア全般の問題でもある。

この「見たいものしか見ない」という態度に関しては、グーグルマップにかぎらず、パーソナライゼーションが進んだウェブのユーザー全般に当てはまる問題として、すでにメディア論において指摘されている。見たいものしか見なくなるということは、たとえば政治的な意見の形成という観点では、同じ意見をもった人びとだけで意見を参照し合うと、その意見が強化され、その延長線上にある極端な立場へとシフトしていく「集団分極化」を引き起こす。

 頭をなじませるために、この論旨を「フィルターバブル」「アルゴリズム」「エコーチェンバー」という言葉を使って説明してみよう。最近のネットメディアの問題を語る上で頻出の語・概念だ。

 これは単なる翻訳なのだが、言葉つまり概念は、辞書的な説明を覚えるより、「使う」ことで血肉化することが重要。

 後半が「エコーチェンバー」の話で、「同じ意見をもった人びとだけで意見を参照し合うと、その意見が強化され、その延長線上にある極端な立場へとシフトしていく集団分極化」がまさにそれ。

 「フィルターバブル」という問題はもうちょっと興味深い問題ではある。

 この文章は、グーグルマップのようなアルゴリズムが我々をフィルターバブルの中に閉じ込める、と言っているのか?


 そう言ってしまうことはあながち間違いでもない。

 だが一方でフィルターバブルの中にいることは、生物にとっての根源的な条件でもある。ことは単にネットメディアのアルゴリズムの問題に限らない。

 どういうことか?


 スキーマがないとゲシュタルトができない。それはそういう認識ができないということだ。とすると、我々の認識は、スキーマによってフィルタリングされていることになる。

 どんな生物だって、それぞれの感覚器官によって外界を知覚しているのだから、その器官がフィルターということになる。人間には見えない赤外線が見える生物もいる。超音波を聞く生物もいる。

 つまりフィルターバブルの中にいることから、生物は逃れられない。

 そこにグーグルマップのアルゴリズムがあらたなフィルターとして我々の認識のありように影響を与えるようになったというのがこの文章の主旨だ。

 それはどのような変化なのか?


 上の引用は一続きで言っている中で二つのことを言っているともいえる。

 「パーソナライゼーション」は文字通り個人化、つまりそれぞれが自分一人のバブルの中にいると言っていることになる。

 続く後半のエコーチェンバーの問題は、中規模のバブルに一定の人々がとざされているのだといえる。

 そしていずれも、アルゴリズムがそうしたフィルター機能を増幅させて、バブルの膜を強化しているということになる。


 とはいえ、「大きな物語」などという概念もまた、それが「大きい」とはいえやはりフィルターバブルの中に人々がいることを意味している。その物語を共有していない人はバブルの外にいるのだ。

 だから、地図にしろ言語にしろ、それらをフィルターとしたバブルは、それを使う人を同じバブルの中に囲い込む。それは比較的大きなバブルだ。

 そしてネットのアルゴリズムは、エコーチェンバーを引き起こすような大きさのバブルに、やはり人々を囲い込む。

 そしてグーグルマップのアルゴリズムはそのバブルが「個人化」していると言っているのだ。

 一人一人が自分一人のバブルの中に閉じ込められている。

 そしてそのことを自覚するのは難しい。


2026年2月15日日曜日

視点を変える19 地図2 スキーマ・ゲシュタルト

 さてこの文章にもソシュールが登場する。となれば言語と類比されているということだし、となれば「広告の形而上学」とも類比できるということになる。

 地図・言語・広告・貨幣。

 これらの共通点は何か?


 ここで先ほどの対比が登場する。

意味/記号

 これはすなわち、次の対比のことだ。

意味/言語

商品/広告・貨幣

 ということは次の対比もそれと類比的だということになる。

世界/地図

 これらはどのような意味で共通しているか?


 言語と広告と貨幣の類比は忘れてはいまい。そこではどのような論旨が語られていたか?


 とりあえず「恣意」「先後」について言おう。その際、普通はこう思われているが、実は~という語り方をする。文章が書かれるのは、常識に反することを言うためだ。

 「恣意」については「言語の恣意性について」で述べられていた「第一の恣意性」と「第二の恣意性」について、分けて言えればなお良い。


 「第一の恣意性」は上記の対比の左右の結びつきが恣意的だという時の恣意性だ。若林の文中にある、犬に対して「イヌ」とも「Dog」とも言える、というのがその例にあたる。

 「もの」の名前は必然的なものではなく恣意的なものだ。


 「第二の恣意性」は切り分け・分節化の恣意性のこと。

 虹は七色と言ってもいいが三色と言ってもいい。言語ごとに違う。虹の色の分節は何ら必然的ではない。


 これを広告や貨幣について言い、そのまま地図にも適用する。(広告・貨幣については

 すなわち、ある地域を表すのに、どんな地図でも描けるということだ。

 ここは例を挙げたい。どんなのを思い浮かべる?


 国土地理院が出しているような「ザ・地図」のようなものも、駅前の観光マップのようなものも、誰かに道案内するためにメモしたようなものでも「地図」だ。

 「ザ・地図」も、そこにどんな情報を盛り込むかは千差万別で、道路の接続を重視するか、土地の利用状況を記すか、土地の高低を表現する等高線を描くか、目的に応じて選ばれる。

 どの範囲をどの縮尺で切り取るかも自由だ。大抵の国では自国を中心にした世界地図を使う。あるいは、太平洋中心の世界地図か大西洋中心の世界地図か。南北が逆さであってもいい。


 では「先後」問題とは?


 普通は「もの」(意味)が先にあって、そこに後から名前(言葉)がつけられると思われるのだが、ソシュールは言葉が我々にその「もの」を認識させるのだと言う。

 商品に見合った価値の値段がつくのではなく、値段を見てその商品の価値がわかる。


 もちろん対象となる土地は物理的には既に存在する。

 だが我々は地図を通して、その土地を把握する。

 そういう意味で世界が先で地図が後なのではなく、地図が先で世界(の認識)が後なのだ。


 さて、これもまた「視点を変える」シリーズだということは、つまりスキーマとゲシュタルトの問題だ。

 まずはスキーマとゲシュタルトという概念の関係を確認する。これはつまり、一文をつくれ、ということだ。2種類以上。

 復習だ。迷ってはいけない。

  • スキーマが変わるとゲシュタルトが変わる。
  • スキーマにあてはめてゲシュタルトを構成する。
  • スキーマがないとゲシュタルトもできない。

 ここに地図を代入する。地図はスキーマか? ゲシュタルトか?


 勘の良い人はすぐわかるとおり、どちらでもある。

 どちらにもあてはめて、それぞれどのようなことを言っているのかが説明できれば良い。

 前の「メディアがつくる身体」に基づくと「メディア」=「スキーマ」=「地図」ということになる。文型を揃えてみよう。

  • メディアが身体観をつくる。
  • 地図が世界観をつくる。

 地図を通して人は「世界」や「社会」を捉える。

 これは、地図がスキーマであることを意味している。


 ここまでを総合していくと、言語・貨幣・広告・地図はいずれもメディアであり、記号であり、スキーマだということになる。

 そして、あるスキーマによってできたゲシュタルトが「社会的身体」であり地図だ。それらは実体ではなく概念・観念・イメージだとどちらの文中でも表現されていた。

 我々はそのようにして世界を、自分の身体を認識する。


視点を変える18 地図1 メディア・記号

 「ちくま評論入門」の松岡慧祐「グーグルマップの世界」を、若林幹夫「地図の想像力」と読み合わせる。

 共通項は「マップ=地図」だ。

 どんな論旨が共通して、それぞれにそこからどこへ論旨が発展しているか?


 まずは共通した論旨。単文で、しかも2文節の1文で言おう。

 主語と述語はそれぞれ何か?


 いろいろな言い方が考えられるが、2文節ということである程度は限定されてくる。なおかつ、前の文章からの流れを引き継いで、次のような文にしておく。

地図はメディアだ。

 どういうことか?


 解釈して作文するというより、それぞれの文中に、こうした記述が見つかる。だから、こうした一文が自然に想起されることが望ましいが、一方で、提示されたときにそれが説明できるようになっていることも必要だ。

 「メディア」とはもちろん「マスメディア」のことではなく、原義の「媒体」、つまり「媒介するもの」だ。

 地図は何と何を媒介しているか?


 人と世界あるいは社会を。

 地図は人と「世界」「社会」を媒介するメディアなのだ。


 この共通論旨を元に、それぞれの文章の論旨をみていこう。

 まず「地図の想像力」は、対比をとっていく。見出しで区切られた段落ごとに対比をとると、おおよそ次のような対比が見つかる。

写し取る/表現する

  複雑/単純

すべて・そのまま/まばら

そのもの/イメージ・概念

  内容/記号

  再現/意味

 これらを一直線上に書き出していくと、最初のうちはいいが、後半になって妙なことに気づく。

 「記号」は「意味」と対比されることが多い。なのにいずれも右にある。

 あるいは「内容/記号」というときの「内容」とはすなわち記号が示す「意味」のことだ。「意味」が左右のどちらにも出てきてしまう。

 それどころか、この文章の前半には次のような対比も出てくる。

 現前/再現

 これは上記の

 再現/意味

 と、どういう関係になっているのか。どちらも「~ではなく」型の対比だというのに。


 用語が厳密に選定されていないという意味では、これは若林の不注意でもあるが、それぞれの対比で言いたいことはそれぞれの文脈でわかるからいいのだ、とも言える。

 「地図は現前ではなく再現だ。」というときの「再現」は「表現」の言い換えであり、「現前」は「写し取る」の言い換えだ。

 一方「地図は再現ではなく意味だ。」という時の「再現」は上の「写し取る」「現前」のことであり、「意味」は「概念」や「解釈」に近い。

 混乱するからやめてほしいとも言えるが、このとおり、それでわかるようになっている、とも言える。


 さて「意味」が左右どちらにも出てきてしまうのは、もうちょっと厄介な問題ではある。

 とはいえ実は単なるミスリードでもある。

 列挙した対比は、いずれも「地図は」という主語に対して、右辺が述語になる対比だ。

 ただし、「意味/記号」以外は「ではなく」で左右が接続されるような対比になっているのに対し「意味/記号」は「地図は意味ではなく記号である」と言っているわけではない。したがって、それ以外の対比とは、対比軸が違っているのだ。

 単純には次のように書ける。

再現/意味/記号

 この二つの軸それぞれが文中にあるのだ。

 最も単純に言えば「地図は世界そのものを再現しているのではなく、それを解釈した意味を表す記号である。」という一文に翻訳できる。

 この「記号」を単に「地図記号」のことだと狭く理解してはならない。言語と地図が類比されているのだから、地図そのものが記号であると言っているのだ。

 記号とは何か。何かを表すもの、だ。地図は何を表すか。地表の姿を、世界を、表している。だから記号なのだ。


2026年2月1日日曜日

視点を変える17 メディアがつくる身体6 予期・義体

 さて、メディアが「つくる」のは「社会的身体」だった。この概念については、気になる表現が二つある。

 まずは、先に予告した次の一節。

社会的身体は(…)予期の織物のような存在である。

 「社会的身体」は、文中で何度も言い換えられているが、その中でもこの比喩はとりわけ含蓄があって「わかる人にはわかる」感じの表現になっている。これを説明してみよう。

 合わせて、具体例を挙げることも要求した(が、これがまた厄介だった)。

 まず、「織物」は比喩だ。これは何かが幾重にも組み合わされている様子を表しているのだろう。

 問題は「予期」だ。どこから出てきた?


 読解は、文中の情報を相互に結びつけることから始まる(そしてそれを構造化する=ゲシュタルト化する)。

 文中の他の表現と「予期」を結びつける。

 どんどん挙げて、と言って、何カ所も挙がるのは好ましいことだ。一人で何カ所も見つかるのは読解力が高い証拠だし、クラスで何カ所も挙がるのはそれだけ授業に対してクラス全体が活発であることを示している。

 例えば次のような一節。

  • あるコミュニケーション環境に適応するためには、さまざまな作法や慣習を身につけたり…
  • メディアを通じた特定の振る舞い方が学習されていく
  • そうした振る舞い一般化する
  • 「拡張された能力」が存在することを前提とする
  • 社会的に埋め込まれた「約束」になる

 これら「作法・慣習」「学習」「一般化」「前提」「約束」、あるいは「特定の」「文化的」などと「予期」は響き合っている。


 「予期」は「予期する」と動詞化できる。この場合、誰が何を「予期する」ことを言っているのか?


 がしかし、そもそも「予期」はもう一カ所、文中に登場するのだった。

(メディアは)自分が可能な振る舞いを変容させ、他人の振る舞いに対する予期を変容させ(る)

 もちろん「他人の振る舞い」だけでなく自分の振る舞いも「予期」される。それは「学習」され「一般化」した「約束」として「前提」されている「作法・慣習」だからだ。

 「社会的身体」とは、そのように「予期」された振る舞いをする存在なのだ。

 そうした振る舞いの例で挙げることにまた難渋した。ちっとも「振る舞い」でもなく「身体」でもない例を思い浮かべている者が多くて。

 「身体的」な「振る舞い」であり、「学習」された「文化的」「作法・慣習」の例を挙げることがそんなに難しいか?

 例えば、すれ違うときに会釈を交わし合うこと。相手に会釈をされたら、こちらもしないでいるのは居心地悪いと感じること。

 例えば日本家屋に上がるときには玄関で靴を脱ぐこと。外国人にはこの「予期」がはずれるかもしれない。

 これでは「メディア」っぽくないので、メディア的な例を挙げよう。みんながすぐに思い浮かべたのは、LINEの通知に既読スルーにならないよう、スタンプなりのリアクションを送ることだった。ただちにリアクションを返すという「振る舞い」が「予期」されているのだ。これはその前のEメールとか、さらに前の郵便による手紙では「予期」されない。

 あるいは画面の死角を見たいと思ったら思わず指でスクロールしてしまうこと。古いカーナビや多くのテレビ画面ではこれができないのがもどかしい。


 この段落の最初に生物学的身体は「もの」で、社会的身体は「言葉」だとある。「言葉」はわかりにくいが、実体を持たない概念として「観念」「イメージ」と並列していいのだろう。

 図らずも「言葉」と「予期の織物」が並ぶと、最近のホットな話題として連想されるものがある。LLM(大規模言語モデル)だ。

 これは生成AIが自然言語を操る仕組みのことだ。AIは、ある言葉の次に来る言葉(続く確率が高い言葉)を「予期」して、次々と言葉をつないでいく。たったそれだけで、自然な文章を書く。予期に反したら「不自然」になる。

 我々の振る舞いもほとんどは予期されたものであり、それに反すると不自然(挙動不審)と感じられる。

 生成AIが、我々の社会的身体と同じ「予期の織物」であるというのは奇妙でいて腑に落ちる認識だ。


 さて予告したのはもう一カ所。これもまた「社会的身体」について表現した一節だ。

今や、全ての身体は、象徴的な義体なのである。

 「義体」という言葉をこの世代の人が使うときは、間違いなく「攻殻機動隊」がイメージされている(3:40のカットがとりわけ有名)。

 上の劇場映画版第一作の監督をした押井守がインタビューで答えている。

 ここで1:14:00あたりから押井が喋っているのは、まるで上記の荻上の言葉そのものだ(2分くらい聞いてみて)。

 我々の身体はもはや単に血と肉と骨でできた生物的身体ではなく、ネットにつながって「電脳」を駆使し、半ばはネットの中でも生きている。それがメタバースであれ、「ポケモンGO」で一般化したAR(拡張現実)であれ、現実そのものであれ、我々はそこで生物的身体としてだけではなく、メディアを通じて世界と通じ合う「社会的身体」をもつ。

 「象徴的な」の解釈が若干揺れる。とりあえず二つ考えてみる。

 一つは、軽い、「比喩的な意味で」くらいのニュアンス。現実に身体に機械を埋め込んだ文字通りの「義体」ではなく、「義体」みたいなもの(=比喩的)、という意味での「義体」だ、と言っている。

 もう一つは、そうした身体の在り方が社会の在り方を「象徴している」ことを表す。「象徴」と言えば「具体物が抽象概念を表す」だから、ここでは「社会」とか「時代」とかを表していると言えればいい。

 どちらもそれほど違いはないが。たぶん荻上はそれほど厳密な意味を考えてはいない。


 「木を見る」ことに2時間かけた。それぞれに興味深い考察が必要な箇所ではあったが、一方で時間がかかりすぎるとも言える。

 これは荻上の文章の問題でもあるが、みんなの国語力の問題でもある。それは単に「読解力」とか「理解力」という問題だけではなく、どちらかというと「説明力」というか「問題の整理力」とでもいった問題だとも思う。

 上で解説したような解釈を、ほとんどすぐに「わかっていた」人も多いと思う。だがそれをそのように班員で共有することができたかといえばそうではないはずだ。いわば「議論力」が問われている。

 このあたりは今後の課題だな、と年度の終わりに心に留めておく。


視点を変える16 メディアがつくる身体5 「想起/記憶」

 「ソクラテスの文字批判」に続く一節はますます謎をはらんでいる。

文字によって私たちは…長文を「記憶」する必要もなく、いつでも膨大な情報へとアクセスでき、メディアを経由して「想起」することができる(もちろんこの「想起」は単なるインプットではなく、外部化された「記憶」の検索作業でもあるのだが。)

 考察対象としたのは括弧内。たぶんスッと意味が入ってくる言い回しではないはずだ。括弧内の内容がというだけでなく、なぜそれを言う必要があるかが納得されなければならない。括弧の前の部分に対して、括弧内のことを付け加える必要があると判断したのだ。なぜ?

 だが一方で「もちろん」というくらいには、読者が「わかる」ことが期待されてもいる。わからねばなるまい。


 さてこの部分が「わからない」と感じるのはなぜか?

 わからないと感じるのはなぜか? と考えるのは「I was born」の読解の時にも試みた。説明とは誰か「わからない」と感じている人に対してするものだ。その「わからなさ」がどのようなものであるかがわからなければ、適切な説明はできない。

 この括弧内の「わからなさ」を解消するには、次の3つの疑問に答える必要がある。

  1. 「想起」は「思い出す」のだから「インプット」ではなく「アウトプット」ではないか?
  2. ここにある「ではなく」型の対比では、何と何が対比されているのか?
  3. 「想起」と「記憶」になぜ括弧がついているのか?

 これらの疑問が解消するように説明をする。


 まず1。

 「彼は単なる高校生ではない」という表現で、彼は高校生か否か? もちろん高校生だ。

 とすると、「『想起』は単なるインプットではなく」と言うのはまず「想起はインプットである」ことを前提に「単に」それだけではない、と言っている。だが「想起」はインプットなのか? という疑問。


 2。

 対比されているのは何と何か?

 「インプット/検索作業」に見える。だとするとこの文は次の二文の合成であるということになる。

a「想起」はインプットである。

b「想起」は検索作業でもある。

 単にa「ではなく」bでもある、と言っているのだから、少なくともaでもあるのだ。

 そうして前の疑問に突き当たってしまう。


 3。括弧は単に強調ではない。結果的に強調されているとはいえ、符号の機能は「引用符」だ。どうしてここにそれをつける必要がある?

 さて、1の疑問が生じてしまうのは、そもそも2の文構造の把握が間違っている。対比されているのはそれではない。

 何か?


 対比されているのは「インプット/外部化された」だ。

 これが並列されて「記憶」に係っている。文脈を読むにはこの「係り受け」を正しく把握することが重要だ。

 この文の係り受けが把握しにくいのは荻上チキの文章が不親切だからであって、ここは「インプット(された)記憶」と「外部化された『記憶』」が並列なのだと、(された)を補って考える必要がある。

 それが把握できれば、この文は次の二つの文の合成であることがわかる。

A.想起とはインプットされた記憶の検索作業である。

B.「想起」とは外部化された「記憶」の検索作業でもある。

 つまり、脳内に覚えている記憶を検索して思い出す(A)のが普通の「想起」だが、それに加えて、文字で記録した情報(=「記憶」)を検索する(B)ことも「想起」だと言っているのだ。

 こうして文構造を把握してしまえば、言っていることは別に難解なことではない。暗記してあることでもメモしておいたこと(=「記憶」)でも、必要な情報が取り出せれば事足りる。それを「想起」と言おうというのだ。

 解釈が済んでしまえば、きわめて日常的に経験する事例であって、何か特に、抽象度の高い、深遠な、複雑な話をしているわけではない。

 「わからない」のは、その内容が複雑だったり深遠だったりするからではなく、単に文構造の把握が未整理だからなのだ(それを把握させにくくしている荻上のせいでもある。が、これくらい読み取ってくれよ、と言いたいのだろう)。


 このことをなぜ言い添える必要があるかといえば、括弧の直前の「想起」がそういう意味なので、念のため一応ことわっておこう、という身振りを演じつつ、そのようなメディアを通じた「想起」概念の拡張に読者の注意を促したいからでもある。

 このあたりのニュアンスも読み取りたい。

視点を変える15 メディアがつくる身体4 ソクラテス・感情的メンテナンス

 さて、ここまでは一文要約、つまり「森を見る」から入ったが、「メディアが作る身体」では、「木を見る」の方にも考えるネタが豊富にある。

 荻上チキの文章は、「わかる人にはわかるだろ」といったレトリックに満ちている。クールで切れ味がいいが、嫌味だと感じる人がいるかもしれない。

 そういう箇所をいくつか取り上げて考えてみる。


 次の一節は?

ソクラテスはタモスの言葉を借りて、文字を「記憶の秘訣ではなく、想起の秘訣」であると批判したが…

 これはなぜ「批判」なのか?


 もう一つ、次の一節を考える。

「昔に返れ。」といった説教が、感情的メンテナンスの役には立っても、システム構築の代案としては常に無効だったように…。

 それぞれの一節を説明するのも、それぞれに難しい。

 ところでなぜこの二カ所を同時に問うか?

 関連付けられるのだ。

 両者はそれぞれどのような趣旨のことを言っていて、どのような関係があるか?


 後者は、具体例を出して説明せよ、という条件をつけた。

 評論文の一節がなんだか「わからない」と思っている時には、具体と抽象の対応が不明確であることが原因であることがある。抽象的な記述は、どのような具体例を想起すればいいかわからないと「わからない」と感ずるし、具体例が挙がっていても、それが示す抽象的な意味がわからなければ「わからない」。

 実はこの、具体例の一つがソクラテスなのだ。

 どういうことか?

 そして条件の「具体例」はソクラテス以外に、最近の社会状況からも出す、という条件。


 さてソクラテスの批判は、一体どういう趣旨の「批判」なのか?

 この言い方のわかりにくさの原因の一端は「秘訣」だ。「想起の秘訣」? 「記憶の秘訣」?


 「秘訣」などと言わず、「文字は記憶に役立つ」「文字は想起に役立つ」と言ってみる。そして前者なら良いのに、実際は後者なのが好ましくない、と言っている。 

 これはつまり、文字で記録すると、思い出すときには役立つから、むしろ覚えることの妨げになると言っているのだ。書いておけば良いと思うと、人は覚えておかなくなる。

 そして(ここから先は本文からは読み取れないはずなので調べてしまうと)、ソクラテスの文字批判は、そうして文字によって伝わる情報は、本物ではない、という趣旨につながる。曰く、真実は対話によってはじめて伝わるのであって、文字を読んでわかったような気になるのは人間を愚かにする、のだそうだ。

 さて、これがなぜもう一方の一節に適用されるか?


 「感情的メンテナンス」はまず、どういう人のどういう「感情」?


 この人は「説教する/される人」のどちら寄りに立つ人?

 しばらく話し合った後でみんなにこう問うと意見が二分したのは、こちらの狙い通りで、しめしめと思いつつも困ったものでもある。これはどちらかに一致すべき問いだ。 


 「昔に返れ」という言い方から「初心に返れ」という「お説教」を連想している人が各クラスにいるが、この言い換えは見当外れ。


 「感情的メンテナンス」を必要としている人とはどのような人か?

 これを的確に言えることが適切な理解の条件。

 「時代に乗り遅れている人」は悪くないが、この文脈に必要なくらいに、もうちょっと解像度高く。

 「新しいメディアを使いこなせないことに不安や劣等感を抱いている人」と言えればOK。


 つまりソクラテスは「『昔に返れ。』といった説教」をしているのだ。

 「秘訣」という言葉は、ソクラテスの時代には、文字がまだ広く一般人に普及してはいない「新しいメディア」であったという時代背景を表している。文字という新しいメディアを批判し、文字のない「昔に返れ」と言っているのだ。文字などを頼っていると、人は馬鹿になる、と。

 「昔に返れ」という説教が「説教」であるためには、それなりの一理がなければならない。だから、新しいメディアの登場によって起こるマイナスの面を挙げなければ「説教」として成立しない。

 だからソクラテスの文字批判にも一理ある。文字を使うと人は覚えなくなるし、真実が伝わらないことに無頓着になる。

 ソクラテスは文字を操る一部のエリートに脅威を感ずる人々の不安な「感情」を「メンテナンス」する。だが世界はその後、否応なく、文字を使った「記録・伝達システム」を構築していく。いったん手にしたメディアを人々は手放しはしない。


 さて最近の例では?

 最も想起しやすいスマホでもAIでもいい。そんなものを使っていると馬鹿になるという主張=「説教」は世の中にある。それは、そうした新しい技術を使えないで不安を感じている人を安心させる(=メンテナンス)。

 だがそんな主張は、新しいメディアを組み込んだ新しいシステムの構築には役に立たない。

 時代は否応なく新しいメディアを組み込んだシステムによって動いていく。


2026年1月27日火曜日

視点を変える14 メディアがつくる身体3 メディアとは?

 一文要約をすると全体はそれなりにつかめる。だがもちろん隅々までクリアに、というわけにはいくまい。

 例えば「メディア」とは何か?


 題名にもあるこの言葉は、それが何を指しているのかを明示しないまま2ページあまり論が展開していくから、それが指しているものが具体的にイメージされない人には、何を言っているかがわかりにくいはずだ。

 後半に入って、たとえばそれはPCだったりスマホ(ケータイ)を指しているらしいことがわかってくる。だから問題はスマホが普及したネット社会のことを言っているんだろうと見当はつく。

 だが文中で最初に「メディア」の例として挙がっているのは「そろばん・電卓・コンピューター」であり、「紙や電子媒体」であり、「文字や数字」だ。

 これらはどういう意味で「メディア」なのか?


 「メディア」という言葉を我々が日常で目にするのはこんな用例だ。

・ そのニュースは、あらゆるメディアで一斉に報じられた。

・広報として、各メディアにプレスリリースを送った。

・ 彼女は有名人として、頻繁にメディアに露出している。

・メディアの報道内容が、必ずしも真実であるとは限らない。

 この「メディア」に「そろばん」を代入することはできない。「そろばんに露出する」って何だ?


 ここではメディアという言葉がそもそもどのような概念であるかを確認しておく。

 メディアは「媒体」と訳されている。「媒介するもの」という意味だ。媒介されるものの多くは情報だ。マスメディアは情報源と大衆を媒介して情報を伝えるものだ。

 日常使用される「メディア」の大半がこのマスメディアのことなので、我々はつい「メディア」と聞くとテレビや本やインターネットを思い浮かべてしまう。

 だがそれでは「文字はメディアだ」というのが何のことなのかわからない。

 だがこの文中ではマスメディアも含む原義の・広義の「媒体」という意味で「メディア」という言葉を使っているのだと了解したうえで考えよう。


 「そろばん・電卓・コンピューター」がメディアというのはわかりにくい。これらは道具・ツールとでも呼ぶべきものではある。でもまあ計算しようとする人の意志、頭の働き、手の働きを計算結果に「媒介する」ものであるともいえる。


 「紙や電子媒体」は? そもそもそのまま「媒体」と言っている。

 こういう時は例を想起できるかどうが問われる。しかも、概念の層を揃えるのが肝心。

 「紙」は、そこに文字や図、絵などを書いて(描いて)情報を伝える(媒介する)ことができる。

 それに対応する「電子媒体」は?

 PCとかタブレットとかいうのは概念の層が揃っていない。

 メディアとしての紙には文字や図が書ける。電子媒体には電子情報が載せられる。となると…。

 古くはカセット・テープ、ビデオ・テープなどのテープ類。その後継としてのCDやDVDなどのディスク類。さらにはHDや、メモリスティックやSDカードなどのフラッシュメモリ類などが想起できればいい。


 では文字はどのような意味でメディアなのか?

 文字は人と人、過去と未来を媒介して、情報を伝えるものだから、確かに媒体だ。

 文中では文字と「数字」が並列されているが、これは的確な記述ではない。数字は文字の一種だから、「文字と数字」は「動物と犬」のような包含関係になっている。並列ではない。

 では、文字と並列されるのは、例えば何か?


 概念の「層」を揃えよう。「文字と数字」は層を混同している(大した問題ではないから荻上は看過しているが)。「数字」は、「数字以外の文字(漢字や平仮名、アルファベット)」と、同じ層に並ぶ。

 では、文字と並列されるのは、例えば何か?

 例えば話し合いの中であちこちで挙がっている「記号」も「文字」とは並列しない。文字は「記号」の一種だから、これも包含関係になってしまう。

記号>文字>数字

 「文字はメディアである」と言う場合、文字によって伝えられる情報とは言葉だ。人から人へ言葉を伝える手段として、文字と並んで日常的な場面で多用されるのは何か?


 そう考えれば自ずと想起されるのはだ。

 書いて伝えるか話して伝えるか。

 上の問いに、まず音声を想起できるできるかどうかは、「文字はメディアである」という命題を正しく把握できているかどうかの試金石となる。



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