2026年10月8日木曜日

こころ 7 曜日の特定1ープロットを立てる

 本文の精細な読解を始める前に、まず教科書収録部分の大きな流れを把握する。

 本文中で語られる出来事や、描かれている場面を、教科書を見ずに挙げる。どのようなエピソードがどのような順番で起こったか?

 教科書を閉じた状態で考えるというのがミソだ。ページを開いて探すのではなく物語全体を俯瞰してストーリーの流れ、出来事の因果関係を把握することが目的だ。

 「思い出す」というより「考える」。

 思いつく場面、出来事は、それぞれどのような順番で起こったと考えると、整合的な因果関係で捉えられるか?


 物語を短く要約したものを「粗筋(あらすじ)」と言うが、特にこのようなエピソード(イベント)を並べたものを、物語の脚本を考える際の用語として「プロット」と言う。

 漱石はどのようにプロットを立てて小説を書いたか?

 出来事も場面も、細かく挙げればいくらでも細かくできるが、「エピソード」といえるほどのまとまりを考えて、8つに整理する。

 こう指定したときに、本文を読んでいるはずの全員が同じ8つを数えることができなければならない。話し合いながら、プロットを立ててみよう。


 だがそれぞれの想起するエピソードはなかなか一致しない。単に記憶が曖昧ということもあるが、問題は、何をひとまとまりにするかの切れ目が人によって違ってしまうからだ。印象的な小さな「場面」がいくつも挙がったりする。

 あるいは心の動きのようなことを挙げる者もいる。いや、今並べようとしているのは、心理の推移よりも出来事・場面・エピソードだ。

 話し合いながら、必要に応じて訂正や追加を行う。


 始まってすぐは、正月のある日、Kがお嬢さんへの恋心を「私」に告白するエピソードだ。

 そのあとはKの思惑についてあれこれ思い悩む「私」の思考が述べられるばかりでこれといった出来事も起こらず、わずかにKに対して直接問題の告白の真意を問い質すが、明確な答えを得ないという場面が二つほど描かれるが、それもKの答えが曖昧なためにはっきりとした事態の変化につながらず、エピソードらしい立ち上がりとしては弱い。

 さて、それに続く「出来事」「場面」を7つ書き出す。

 「Kの告白」に続く7つのエピソードに、①~⑦の番号を付して並べる。


 教科書本文は次のエピソードで終わる。

⑦Kの自殺

 いくらなんでもこれが挙がらない人はいまい。さらに「Kの告白」と「Kの自殺」の間に6つのエピソードを挙げる。


 まず①、「Kの告白」の次に明確なエピソードとして把握できるのはこれだ。

①上野公園をKと散歩する

 この一部分を挙げてしまう人は多いだろう。①はかなり長い範囲を指している。印象的な「場面」がいくつもある。

 だが全体で8つとするまとまりを考えて、それらをまとめて①とする。

 さらにこの間に並ぶ②~⑥を班内で一致させよう。


 さて、①と⑦の次に挙げやすいのは、奥さんに、お嬢さんとの婚約を談判するエピソードだ。「ください、是非ください」は印象的だ。

 これを何番目とするかは、それ以外に何をエピソードとしてとりあげるかによる。ここでは「談判」を④とする。

①上野公園を散歩する

②

③

④奥さんと談判する

⑤

⑥

⑦Kの自殺

 ②③と⑤⑥が何かを考えよう。

 単に力任せに記憶を検索するだけではなく、展開の必然性、どのような推進力によって出来事が引き起こされるのかを考える。


 まず①と④をつなぐ②③は何か?

②夜中にKが声を掛ける

③翌朝、Kを追及する

 長大な①に比べると②や③は小さなエピソードで、独立させて想起することは相対的に難しい。だがそれぞれに重要なエピソードであり、今後、考察の機会がある。

 さてこのプロットの展開を、④談判にいたる因果関係として捉える。

 ①で登場するある言葉が、②③を経て④を要請する。

 その言葉は?


 勘の良い人は「覚悟」が想起されるはずだ。

 ①の会話の最後にKが口にした「覚悟」が、②を経て「私」の心にかかりだし、③を経て誤解を生じ、そのために焦って④が引き起こされる。この流れを捉えよう。


 さて④と⑦の間にあったはずの⑤⑥を揃えて挙げるのは難しい。

 ただし、「東京の街を彷徨する」「母子とKと夕飯を共にする」などの場面はここではとりあげない。それぞれに「場面」として明確だが、④「談判」に代表させる。

 それよりも「出来事」として明確なまとまりを二つ数えたい。

 誘導するなら、どちらも次の文型で表せるイベントだ。

奥さんが  を  に話す。

 話題は一つ前のイベントを指すから、つまりこういうことになる。

⑤奥さんが ④ を K に話す

⑥奥さんが ⑤ を 「私」 に話す

 ⑤と⑥をともに挙げられた者は、かなり的確に物語の流れを把握しているといっていい。

 このことが難しいのはなぜか?


 総じて⑥の方が挙がりにくいようだ。

 ⑥は「話した」という出来事であり、⑤はそこで「話された」内容だ。⑤が図で⑥が地という、入れ子型の階層構造をつくっている。その時、メタな階層にある⑥は背景に退いて盲点になってしまうのかもしれない。

 だが本文中に直接書かれている「場面」は⑥であって、⑤は具体的な場面として描かれはしない。

 さらに、紹介したアニメ「青い文学」では⑤の場面が描かれる。奥さんとKが玄関先で話すシーン。そして⑥はアニメでは省略されている。アニメを見たクラスではなおさら⑤が挙がって⑥が挙がらないことになる。

 こうした⑤と⑥の構造には、実は重大な問題がひそんでいる。何か?


 読者は⑤と⑥を混同してしまうのである。

 この混同が、「こころ」全体の理解にとって重要な錯覚をもたらしている。

 それは⑤と⑦の時間的間隔についての錯覚だ。この「錯覚」については後で明らかにしよう。



こころ 6 -「青い文学」

 もう一つ、有名な文学作品数編をアニメ化した、「青い文学」というテレビシリーズがある。この中に「こころ」の回がある。この一部を視聴した。

 これを見て「こころ」がわかった気になってはいけないのは「Rの法則」同様だ。だがアニメーションとしての質は高い。作画やカメラワークも巧みだし、BGMやSEなどの音響の演出もうまい。Kを演じた小山力也の声もとても良い。


 このアニメ化で注目すべきは、前後編2部構成にして、それを「私」の視点とKの視点から描き分けるという、きわめて興味深い試みをしていることだ(ただし授業では前後編を混ぜてストーリー順に編集したものを見せた。前編は夏を舞台にして、後編は冬を舞台にしているので、蝉が鳴いたかと思うと、次のシーンでは木枯らしが吹いたりする)。


 この試みがとりわけ面白いのは、同じ状況をそれぞれの視点から描き分けた二つの場面が対比できることだ。教科書収録場面より少し前の三十三章のエピソード、雨中のすれ違い(原作では雨上がりで泥濘の道をすれ違う)の場面が、最初「私」の目から描かれる。

 これは「Rの法則」でも紹介されていたエピソードだ。「私」がKとお嬢さんの関係について疑惑を深めることになる印象的な場面である。

 その後、同じ場面が今度はKの目から描かれる。

 それぞれが、互いの目から描かれたときに、どれほどその相貌を変えることか!

 お互いに相手が何を考えているのかわからない「魔物のように」見えてくる(この表現は教科書118頁にある。Kを表したものだが、逆にKから見れば「私」もまた「魔物」だったのかも知れないということだ)。


 「国語科」的な考察をしよう。

 すれ違いざまにKの言う「悪いな」のニュアンスが、二つの視点からそれぞれどう違っているか、的確に表現できるだろうか?


 表面的には、狭いすれ違いで道を譲ってもらったことに対する「悪いな」だ(石畳を外れると水溜まりに足を踏み入れることになる。長靴に水が浸みこむ描写がある)。

 それが「私」の目からはまるでKが「お前の好きなお嬢さんをいただいてしまって『悪いな』」と言っているように感じられる(このシーンの「道を譲る」が「お嬢さんを譲る」のメタファーになっているという指摘をした生徒がかつていた)。

 ところがKからすると、女に心を奪われている自らの状況に対する日頃の広言を恥じているように感じられる。「私」の目からはKが勝ち誇って言っているように見える「悪いな」を、K自身は身の竦むような懺悔の言葉として発している。

 この「視点が違うと物事が違って見える」という認識を、これからの読解では折にふれ思い出してほしい(そういえばこれは昨年度後半の考察を貫くテーマ「視点を変える」だ)。

 それは、何が小説内「事実」で、どこに語り手の主観のフィルターがかかっているかを選り分けていく繊細な読解作業だ。

 あくまでテキストにある情報から、表面的に見えている「物語」とは別の「物語」を浮かび上がらせるのだ。


 授業で見せた編集ではカットしたが、K編はきわめて創作的な改変があって、観るとびっくりする。お嬢さんの小悪魔ぶりは「Rの法則」の「どこへ行ったか、あててみて」どころではない。


こころ 5 -「Rの法則」

 「こころ」の授業は、この小説の主題とKの自殺の動機の関係について考え直すところから始めた。

 だが授業数に余裕のあるクラスでは、最初の授業で二つの動画を視聴した。かつては全クラスで見せていたのだが、今年度は多くのクラスでは見せずに授業に入った。必須の情報があるわけではないからだ。

 だが、二つの動画を見ることで、以下の考察において、構えがいくらか変わったものにもなるとも思う。その違いも興味深い。

 それぞれの動画には、それを見せることによって考えさせたい問題がある。見ていないクラスにも紹介したい。


 以前放送されていたNHKーEテレの「Rの法則」は、高校生を雛壇に並べて、高校生が関心を持っている様々な問題を話し合っていく番組だ。

 この2012年11月12日放送回では「こころ」が、高校生の関心事である恋愛とそれにまつわる三角関係を題材とする小説として紹介された。

 テレビ番組としては、ああいうふうに雛壇高校生にリアクションさせて一般視聴者の共感を喚ぼうとしているのはやむを得ない。

 だがあのようにして「こころ」を知った気になることと、実際に「こころ」という小説を読むことはまるで違う。

 何が問題なのか?


 まず、小説本文を読んでいない高校生に、小説中の問題について考えさせることが無謀であることを番組は全く明示していない。

 だから、あたかも「こころ」ではああいった問題が主題となっているような印象を視聴者に与えてしまう。

 小説の中の問題を、自分の問題として捉え直すことはもちろん大事なことだ。自分だったらどうするかを考えずに小説を楽しむことはできない。

 だが、本文を読んでいない者が「この時のこの人物の気持ちは…」などと語ることが、まるで当てのない好き勝手な憶測にしかならないという危険については、視聴者には伝えられない。これがまるで「こころ」という小説についての考察であるかのような誤解を視聴者に与えている。

 例えば「羅生門」を読んで「あなたは、生きるためにやむをえない悪は許されると思うか?」などと問いかけることが世の中で広く行われているが、そんなことは国語の授業としては間違っている。 「羅生門」はそのような問題を読者に問いかけてはいない。「羅生門」の主題をそんなふうに捉えるのは、まるで小説として「羅生門」を読んでいない。

 「こころ」においても、設定や粗筋から想定される「問題」が、あたかも「こころ」の主題であるかのように語られることがある。

 「Rの法則」で取り上げられていたのは、まさしく典型的なそれだ。

 例えば、小説では全く問題になっていないことが番組では問題として取り上げられている。

 番組冒頭で次のような問いが投げかけられる。

  • 親友と同じ人を好きになったらどうする?

 この問いに対しては具体的にある行動の選択が迫られる。街頭インタビューで何人かが答える。

 それが字幕で次のように言い換えられる。

  • 恋愛か友情か、あなたならどっちをとる?

 上の問題を一段抽象化して、選択肢として置き換えたのが下の問いだ。

 だがこの抽象化は間違っている。

 小説中で「私」は一度として「恋/友情」の選択に悩んだりはしていない。それは本文をその気になって読み返せばすぐわかることだ。

 では「私」はどんな行動の選択に迷っているか?


 教科書の収録部分で、「私」は一貫して「言う/言わない」という選択の前で迷い続ける。

 これが「友情/恋」という選択と同一視されている。

 設定と粗筋を頭に入れて「こころ」という物語を思い返した時、「私」が「恋か友情か」という問題に悩んでいたように錯覚する。しかもそれは大衆の共感・関心を喚びやすい。

 そうした錯覚に基づいて「こころ」が語られ、問いが突きつけられる。

 だが「こころ」が読者に投げかける「問題」は本当はそれではない。

 「私」が何に悩み、そこでどのような問題に直面することになるか?

 それは本文の読解によってしか明らかにはならない。


 「Rの法則」は、一般的に「こころ」がどのように受け止められているかを知る上で簡便な資料だ。ここに語られる「こころ」と、授業で読解していくことによって浮かび上がってくる「こころ」がどれほど違うものなのかを実感するためにも、この印象を覚えておいてほしい。


2026年10月7日水曜日

こころ 4 -「主題」と「動機」の整合性

①失恋

②友の裏切り

③自分への絶望

 Kの自殺の動機として最も支持を集めるのは経験上、③「道をはずれた自分への絶望」だ。

 こう考えることには、実は看過しがたい問題が含まれている。


 「動機」の選択肢群を並べ、「エゴイズムと倫理観の葛藤」と見比べる。

 これらの「動機」と「主題」は整合的か? 不整合か?

 前述の通り、「こころ」がどんな小説であるかという把握は、Kがなぜ死んだのかという把握と密接に関係している。この二つは整合していなければならない。

 Kの自殺の動機と「こころ」の主題の間にはどのような論理があるのか?


 「こころ」を、「エゴイズム」をテーマとする小説であると捉えることと整合的なのは、動機①②だ。

 一方、③はそれとは不整合だ。

 どういうことか?


 「エゴイズム」がテーマになっているという把握は、Kの自殺を「私」の「エゴイズム」によるものだと捉えていることを意味する。

 それはKが①失恋と②友の裏切りによって死んだということだ。つまり「私」がKを死に追いやったのだ(それによるKの死を「復讐」だとみなすことは整合的だが必須ではない)。


 一方③はこうした主題把握と不整合だ。

 ③はK自身の問題であり、「動機」が③ならば、「私」が「友人を死に追いやった」ことにはならないからだ。


 だがほとんどの者が、Kの自殺の動機として③を重視し、そしてそれが「エゴイズム」主題観と不整合であるということを意識しない。

 なぜか?


 このような「不整合」を、とりたてて「不整合」とはみなさない、ということも可能だからだ。

 確かにKの自殺はK自身の問題かもしれない。だがお嬢さんへの執着がその実行を踏み止まらせていたのだ。その生への紐帯を「私」の卑怯な裏切りが断ち切ったのだ。つまり③がKの自殺の主たる動機だとしても、最終的にそれを実行に踏み切らせたのはやはり①②であり、その原因となった「私」の「エゴイズム」の罪は否定できないのだ。


 だが、先の「重み付け」の想定において、①②の合計と③の重みのバランスはやはり問題だ。「エゴイズム」が主題だという把握は、やはりどうしても①②の重みが大きくなくてはならない。③の方が大きいとすれば、それは「エゴイズム」を主題とする把握とは別の主題把握を必要とするはずだ。

 「エゴイズム」を主題とする「こころ」の把握は、Kの死が③によるものであることを意識しないことによって納得されている。

 とはいえ多くの読者は、世に普及している「エゴイズム」という主題と、読者として捉えているKの自殺の動機が整合していないことを意識しない。するのは難しい。

 なぜか?


 これには明確な理由がある。

 「こころ」は一人称小説だからだ。

 すると?


 Kの自殺の動機を①②と見なすのは「私」の認識に基づいているのである。

 「私」はKの死を自分のせいだと思う。自らの「エゴイズム」の罪の重さが強く意識されている。

 つまり「エゴイズムと倫理観の葛藤」という主題は、「私」の目から見た「こころ」という物語の把握なのだ。


 面白いことに、宿題の段階では、①②を挙げた者が多い。それが、授業で聞き直すと支持の大勢が③へと重心を移す。

 初読の段階では、人物関係や出来事の推移といった物語の大きな枠組みが、それを語る「私」の視点から捉えられる。

 ところが授業であらためて考える段になると、我々読者はもう少し客観的に、公平に、Kの心情を熟慮するようになる。話し合いを通して妥当な解釈についての合意が形成される。そうすると、③が妥当なように思える者が増える。


 一般に理解されている「こころ」の主題は、Kの死を「私」が「追いやった」ものとみなすことによって成り立っている。「私」の目から見れば、事態はそのように把握されているのだから、それも無理はない。

 だがそれは読者が意識的に考えたKの自殺の動機と不整合だ。

 つまり「エゴイズム」主題観は、雑に、あるいは浅く考えたときにのみそう見える「こころ」把握なのだ。

 では自殺の動機を③だと考えるならば、「こころ」はどのような物語だということになるのか?


 さらに、そもそもKの自殺の動機は上記の①~③(④)で済ませていいのか、という問題もある。

 その重み付けのバランスだけを考えれば良いのか?

 もちろんそうではない。「Kはなぜ死んだのか?」という問いは、「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」と同じく、読解を重ねて考えていくべき問題だ。

 その果てに見えてくる「こころ」はどのような問題を描いた小説なのか?

 結論にいたるには、丁寧で根気強い考察が必要となる。


こころ 3 -Kの自殺の動機

 一方の、Kの自殺の動機についてはどう考えただろうか。

 最初に述べたとおり、これはいわば「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」のような、「こころ」における最大の問いだ。だからこれは読解の終盤まで考え続けることになる問いということになる(たぶんこれを論題に小論文を書いてもらう)。

 だが、現状でこれはそれほど「謎」とも感じられていないかもしれない。それなりにわかる気がする。ここがわからなかったら、小説全体がわからないと感じられてしまうはずだが、「こころ」は一般に、それほど「わからない」小説とは思われていない。

 だから、現状で、まずは出し合ってみる。

 いろいろに表現は可能だろうが、似たような内容であると認められるものをまとめていく。

 そうして、別の要素として分けるのが妥当だと考えられるのは、何項目になるか?


 さて、挙げられた動機は、次の項目のいずれかにあてはまるだろうか?

    ①失恋

    ②友の裏切り

    ③自分への絶望

 上の3項目のいずれにもあてはまらない見解を4番目以降に加えよう。

 以前からたびたび提案されるのは「『私』に対する復讐」だ。「私」に罪の意識を抱かせるための自死なのだ。

 あるいは過去の生徒からは「自分への罰」という「動機」が提出された。何についての罰? と訊くと、「精進の道を逸れたこと」という。それならば③と同じだ。

 だが、同じ「罰」という言い方で「友人やお嬢さんの気持ちに気付かなかったことに対する自己処罰」というような意見も出る。

 両者は違う。「道を逸れたこと」なら恋心を自覚して以降ずっとKの裡にあった可能性があるが、「気持ちに気付かなかった」なら自殺の直前、二日以内にはじめて生じた動機だ。

 そうするとそれは自分を恥じる気持ち、か? 気づかなかった相手に申し訳ない気持ち、か? それがKを死に追いやったのか?

 あるいは、「行動できなかった自分への絶望」というアイデアも出た。お嬢さんが好きなのに手を拱いていて何もできなかった後悔、という意味だ。これは③とは全く違う。

 今年度はここに時間をかけなかったせいもあるが、こうしたバリエーションはほとんど挙がらなかった。

 だがこれらの表現ではない心理をすくい上げたいという人は、その問題意識を持ち続けてほしい。


 そのようにして挙げられた「動機」は、排他的にどれかであると考える必要はない。このうちのいくつかが複合的に働いているのかもしれない。

 では上の項目のうち、どれがどのくらいの割合でKを死に追いやったのか。合計が10になる整数比で表してみよう。

 例えば①と②と③が、2:5:3くらいの割合だ、などとKの「動機」としての重みを量る。どれか一つが10でもいい。

 例えば「羅生門」でも、「老婆の論理」を二つに分けて、そのどちらが下人を動かして引剥ぎをさせたのか、などと問いかけた。その軽重によって「引剥ぎ」の意味はまるで違ったものになる。

 Kの死に至る心理をどう捉えるか?

 その把握は、どのような「こころ」の読みに結びつくか?


こころ 2 -主題

 授業前の宿題として次の二つの問いについて考えておいた。

問1 「こころ」の主題は何か?

問2 Kはなぜ自殺したか?

 なぜこの二つの問いなのか?


 これまでの「羅生門」「I was born」「夢十夜」でも、最初に問1を投げかけた。

 繰り返し言っている通り、主題・テーマというのは、その物語をどう捉えたのかという、把握の「表れ」だ。それはどういう話? と聞かれた時の答え方だ。

 だからこれが、テキスト読解にとっての最大の問いであることは、まあ当たり前と言えば当たり前だ。授業でもここを目指して読解を進め、ここへ収束するように考察する。

 これは、元々そのテキストに主題が内在している、というのとはちょっと違う。確かにその「可能性」はテキスト中にあったかもしれない。だがなにはともあれ、それをそのように捉えた受容者がいなければ主題は存在しない。

 ということは受容者によって主題はさまざまな形をとりうるということだ。

 だがそれは何でもアリなのだということではない。それはそのテキストの可能性の範囲内で適切でなければならない。そうでなければ、そもそも受容ですらない。


 一方、「どういう話?」という問いかけに対して、粗筋を語ることもできる。粗筋は具体レベル、主題は抽象レベルで、それぞれ「どういう話」かを語っている。

 教科書の収録部分で「こころ」を読み、その粗筋を語ろうとすると、終わりはKの自殺で締め括られる。その時、その自殺がどのようなものかについて語らないということはありえない。唐突にKが死んだとだけ付け加え、そこに至る因果や必然性がまるで示されてなければ、相手は「なにそれ?」と言うだろう。

 となると、何らかの形で、その死がどのようにもたらされるかを語っているはずだ。

 紹介の聞き手どころか、そもそもそれぞれの読者の「こころ」という小説の把握は、この、Kの死の把握に基づいている。Kの死はこの物語にとって最大の事件であり、そこまでの展開がそこへ収斂するように意味づけられる。読者はそのようにこの物語

を捉えるはずだ。

 したがって、「主題」と「自殺の動機」は論理的に整合していることになる。物語の展開の必然性として「自殺の動機」を把握し、それを抽象化したものが「主題」なのだ。

 みんなは「こころ」をどのように捉え、それをどう表現しただろうか?


 自分で考え、表現してほしいが、その後で調べてもほしい。ネット検索でもAI検索でも。

 世間では「こころ」はどういう話だと思われているか?

 そこには高頻度で、ある外来語が登場するはずだ。それは何?


 文庫本には裏表紙やカバーの折り返しに簡単な内容紹介が載っている。

 「こころ」のは例えばこんな感じ。

  • 友を死に追いやった「罪の意識」によって、ついには人間不信に至る近代知識人の心の暗部を描いた傑作。(ちくま文庫)
  • 近代知識人のエゴイズムと倫理観の葛藤を重厚な筆致で掘り下げた心理小説の名編。(講談社文庫)
  • エゴイズムと罪の意識の狭間で苦しむ先生の姿が克明に描かれた、時代をこえて読み継がれる夏目漱石の最高傑作。(角川文庫)
  • かつて親友を裏切って死に追いやったという過去を背負い、罪の意識に苛まれつつまるで生命を引きずるようにして生きる「先生」(岩波文庫)
  • 文豪・夏目漱石が人間のエゴイズムに迫った名作(イースト・プレス)

 これらは「こころ」は「こういう話」だと紹介しつつ、読者の購読意欲を喚起する惹句でもある。

 もちろん内容紹介全体には「あらすじ」的な部分もある。上はその中から「主題」的な部分を抽出してある。


 あるいは高校生が教科書とともに購入する「国語便覧(国語要覧・国語総覧)」の類ではこんな風に紹介されている。

  • 人を傷つけずにはおかぬ恐ろしいエゴイズムと、それゆえに犯した罪に対する苦悩、そして死をもっての清算を描いた作品。(浜島書店)
  • 人間のエゴイズムを追及した(数研出版)
  • 近代人のエゴイズムが絶望に至る過程を描いて見せた作品。(第一学習社)
  • 恋愛と金銭の問題をめぐる人間の我執(エゴ)を鋭く追及しつつ、日本近代への批判をも提示した作品(大修館書店)
  • 人間が持たざるをえないエゴイズムの醜さと、それを救済するには死以外にはないとする、明治の知識人の苦悩が描かれている。(東京書籍)

 あるいはおなじみの「Wikipedia」ではこんな感じ。

人間の深いところにあるエゴイズムと、人間としての倫理観との葛藤が表現されている。

 これらに頻出する言葉は一目瞭然、「エゴイズム」だ。

 「エゴイズム」?

 一般的には「利己心・利己的・自己中心」などという意味で理解されている。「こころ」本文中にも「利己心」という言葉が登場する。

 「文学」はこの「エゴイズム」がどうにも好きで、「羅生門」も「生きるために人間が持たざるをえないエゴイズムを描いている」などと一般的には言われている。来年読む「舞姫」も「エゴイズム」で語られる。へたをすると「山月記」もエゴイズムで語られる。

 では、さしあたり「こころ」のテーマを「エゴイズムと倫理観との葛藤」と表現しておくとして、「エゴイズム」「倫理観」「葛藤」とは、具体的に「こころ」のどのような点を指しているか?


 「なんとなくわかる」と「的確に表現する」の間には大きな差があって、上のテーマにうなずく人も、聞いてみると胡乱な表現をするケースが授業では頻発した。

 「エゴイズム」は「友人を裏切ってでもお嬢さんを自分のものにしたい」「お嬢さんを自分のものにするために友人を裏切る」くらいに表現しておけばいい。

 「倫理観」は、そうした裏切りは良くないことだとする感覚。観念。

 両者は複雑にからみあい(「葛藤」し)つつ、ぶつかり合う。

 「こころ」はこうした「私」の葛藤が描かれた小説だ。


2026年9月23日水曜日

こころ 1 準備

 後期、年内いっぱい「こころ」を読む。

 「こころ」は「羅生門」に次いで、その一部分とはいえ最も多くの日本人が読んでいる小説だ。

 既に著作権はフリーだから、「青空文庫」←リンクはもちろん、ほぼ全ての出版社が、文庫本のラインナップに「こころ」を入れており、その全てで累計では最大のベストセラーとなっている。

 たとえばこんなアンケートも。

東大生&京大生が選んだ『スゴイ本』ベスト30←リンク

 ここでは1位の「こころ」以外にも、4位に「羅生門」、7位に「山月記」も挙がっている。

 30位の「銀河鉄道の夜」の宮沢賢治は、代表作の一つ「永訣の朝」を年明けに読む予定。

 18位の「舞姫」は3年で読むことになる。

 東大生&京大生も、読書の入口はけっこう学校の国語の授業だったりするのだ。


 「こころ」という小説の全体像を把握しておこう。

 「こころ」は新聞連載小説で、各章の長さは連載一回分、1500字前後、原稿用紙4枚弱で揃っている。教科書本文中に挿入される「*」が連載一回分の切れ目を示している。これが合計110章、110日間、4か月弱、今から100年と少し前、毎日お茶の間に届けられたわけだ。

 全体が三部構成で、各部の章立ては次のとおり。

上「先生と私」  36章

中「両親と私」  18章

下「先生と遺書」 56章

 半分程が「下」であり、実際に「下」の内容が「こころ」として紹介されることも多い。

 教科書も、「下」の35章から49章までを収録している。

 「上」「中」で「先生」と呼ばれる人物が「中」の終わりに自殺することがほのめかされる。「下」は全体が「先生」の遺書そのものだ。

 したがって文中の「私」は、「下」では「上」「中」で「先生」と呼ばれていた人物となる(「上」「中」では「先生」より10歳ほど年下の大学生が「私」として語る)。だから授業で主人公を呼ぶときに「私」と言ったり「先生」と言ったりする(名前は小説中には明かされていない)。

 「私」は「わたくし」と読むべきなのだが、授業中は言いやすさ優先で「わたし」と言う。


 「こころ」全編を読むことは大いに推奨したいが、さしあたって教科書の収録部分は全員読んでから授業に臨むこと。

 そして読解も、基本的には教科書収録部分を対象に行う(時に、それ以外の部分を参考に示すこともある)。

 授業者は文庫本を複数持っているので、全編読みたい希望があれば貸す。

 またマンガ化されたものも複数持っているので、とりあえず全編をザッと辿っておきたいという人は申し出て。貸す。

 それから映画化された作品もあるので興味があれば(アマプラに古い実写映画が上がっている)。

 YouTubeには解説動画がいっぱいアップされているが、まあ授業との比較に見てみてもいいかも。


 授業に入る前に二つの問いに答えておく。

問1 「こころ」の主題は何か?

 「こころ」を読んだことのない友達に「こころ」ってこんな話、と紹介してみよう。

 ただし「あらすじ」よりも抽象的な言い回しで言うようにする。この話は「どういう話」なのかが言えれば、それが「主題」だ。

 「こころ」とはどういう話か?


 小説の主題を考えるという行為は、そのテクストをどんな枠組で捉えるかを自覚するということだ。

 「主題の考察」といえば、世の普通の授業では、何時間かの読解の後に、最後の考察として取り組む課題だろう。

 だが、これを最初にやっておく意義は、現状の読みを自覚することにある。一読した皆ひとりひとりは、ひとまず「こころ」をどのような物語であると捉えたのか。これを自覚し、教室で共有する。

 そして授業の中では、この読みの変化を体験したい。

 変化しないのなら、授業で小説を読むことには意味がない。一人で読めばわかることを辿ってもしょうがない。

 といって、読者としてわからないことを他人から「教わる」ことにもそれほど意味はない。

 一人一人が読んで、考える。そのうちに、最初に一人で読んだときとは違った「意味」が立ち上がっていく。

 認識の変容を表わす「コペルニクス的転回」という言葉があるが、「こころ」はこれが起こるテクストだ。

 この、目眩がするような読解を体験してほしい。


 もう一つの問い。

問2 Kの自殺の動機は?

 この問いも、数時間の授業の後で考察するのが普通だが、上記と同じ理由で、今は一読した段階でどう捉えられているかを自覚する。


 物語の主要な登場人物の死が受け手に与える衝撃は、物語を享受する情動のうちでも最も重大なものの一つだ。ともかくも小説を読んで、その死が衝撃的であるような登場人物の自殺について、その動機を考えずに済ます読者などいない。だからこの問いは、一読してさえあれば、問うことが可能だ。


 さて「こころ」とは何を言っている小説なのか?

 Kはなぜ自殺したのか?


2026年9月17日木曜日

思考の誕生 18 他者の声 実在の声2

 さて、「他我問題・外界問題」は清算されたが(哲学界隈では)、あらたに「他者性の問題・実在性の問題」が現れてきたという(哲学界隈では)。

 この移行に関わっている人を我々は知っている。授業に何度も登場した。誰?


 ソシュールの名が思い浮かんでほしい(他にもいろんな哲学者がこうした問題に影響してはいるのだろうが、哲学の授業ではないので割愛)。

 ではソシュールの思想が、この変遷にどう影響しているか?

 これも簡潔に表現してみよう。


 昨年度来のソシュールの思想については、それぞれの理解に応じていろいろな言い方ができるだろう。だがあれこれ言い過ぎると論理が複雑になって適切なのか不適切なのかが判別しにくい。だからどこをどう切り取ると、論理展開にはめ込めるかを考える。

 例えば、話し合っている声の断片に「恣意性」「切り分ける」「物が先ではなく言葉が先」などのフレーズが聞こえてくると、それは確かにソシュールの思想だが、ここで使うのには避けた方がいいなあと思われる。

 先に「外界問題」をすっきりと言ってみた。「どうしたら外界を確かめられるのか?」だ。

 では「実在性の問題」は?


  • 言語の「外」は実在するのか?
  • それはどうしたら確かめられるのか?

 などという言い方ができると見当をつけておく。

 ならばソシュールの思想をどのように表現すればその変化の間が埋まるか?


 ソシュールが出てきたのは「視点を変える」シリーズだから、おなじみのスキーマとゲシュタルトだ。

 スキーマとゲシュタルトという言葉を使う文は二通り作れる。

  • スキーマが変わるとゲシュタルトが変わる。
  • スキーマによってゲシュタルトができる。

 どちらが使えるか?


 この言い方をソシュールの問題に変換するなら「言語によって世界が認識できる」ということになる。これで論理がつながる。

外界はどのようにして認識されるのか?

という問いが

言語によって外界は認識される。

というソシュールの思想によって

では言語の外はどのようにして認識できるのか?

と形を変える。

 これは表現を調整しながら、論理をすっきりとつなげる国語力が問われる課題だ。

 最終的な形を見ると呆気ないように思えるかもしれないが、これを自力で成し遂げるのは相当に難しかったようだった。

 諦めずに取り組むべし。

 ブレスト的にぐちゃぐちゃと喋ることも有益だが、なるべく簡潔な形に収めることにも、各グループで努力してほしい。


 さて、「他者性の問題・実在性の問題」に、では野矢茂樹はどう答えているのか?

 鍵となるのは先に確認したとおり「言葉」だ。

 簡単に言ってしまえば、言葉が、言葉によるフィルターバブルの内と外を行き来させる、と言っているのだ。

 あれっ?

 これは「物と身体」を前のあれこれと読み比べたときにも出てきた話だ。身体はフィルターバブルを作るが、身体によってフィルターバブルの外側に出ることができる。身体は両義性を持っている。

 同様に両義性を持ったものが言葉だ。

 最近、ソシュールを思い出して確認したとおり、言葉が認識を可能にしている。だから言葉が認識を制限しているのではないか、というのだが、同時にそれを運用することによってその外側の「実在」が感じ取れる。


 時間がなくて1クラスだけしか読めなかったが、「論理国語」に収録されている熊野純彦「ことばへの問い」という文章でも同じことが述べられている。

 ことばこそが、ことばで語れるもの、ことばにならないものの両方を「発見」させるのだ、と。

 この文章は、こういう流れで読まないと、言い回しが韜晦に満ちてわかりにくいが、もうすんなり読めるようになっているはずだ。


 さて、言葉がフィルターバブルの外へ出る手がかりになるというのだが、となると、その糸口となる、例の「断絶/抵抗・障害/わかりあえなさ/他者/他人(性)」にあたる言葉はあるか?

 そのまま「意味の他者性」という表現もある。「語り得ぬもの」という言い方も「物語るという欲望」の「反-物語」「空白」っぽい。

 「わかりあえなさ」にストレートに通ずるのは「(他人との)ズレ」という言葉だ。

 やはりここでも同じ論理が反復されている。

 

 野矢の文章の最後

今は理解できない。今は語り出せない。しかし、それらを理解し、語り出すために、私は私自身の手持ちの言葉を変え、私自身を変えていくだろう。そうすれば、きっとそれらと出会うことができる。

は、もうほとんど「未来をつくる言葉」だ。野矢が哲学について語ることと、ドミニク・チェンが社会に対するメッセージとして語ることがよく似ているのは、ともにそれぞれの洞窟の外に出ようとする宿命(内田樹)を引き受けているからだろう。


 これで前期「思考の誕生」シリーズを一段落する。

 みんなの裡にはどんな「思考」が「誕生」しただろうか?



思考の誕生 17 他者の声 実在の声1

 「思考の誕生」から始まった今年度前期の比較読解の流れは、野矢茂樹の「他者の声 実在の声」で一段落とする。

 野矢茂樹は昨年度のテストで出題したので、みんな読んだことはある。ただ「論理国語」「文学国語」の教科書には文章が収録されていない。「ちくま評論入門」「ちくま評論選」には入っている。あれらは教科書をつくる際に集められた文章群の補遺だろうし、もちろん他の出版社の教科書では常連だ。ということはつまり大学入試にもよく出題される論者だということだ。


 一読して「物と身体」と同じ問題を扱っていることに気づく。そしてそれに対して違ったアプローチをしていることにも。

 それがどのような「問題」であるかを捉えることと、それがどのように違ったアプローチによるかを捉えることは相補的だから、おそらく同時に「わかる」。

 この「問題」を簡潔に表現し、それぞれの「アプローチ」を示すキーワードを一語ずつ挙げよう。


 もう一つ、文脈を大きく捉えよう。この文章は前後で二つの大きな塊に分けられると感ずるはずだ。前後を簡潔に表現してみよう。

 前半は「他我問題・外界問題」について、後半は「他者性の問題・実在性の問題」についてだとまとめるのが簡潔。

 この前後を、対比的な単語で表現しよう。単語で、というのも簡潔にする手段だ。


 簡潔に表現するというのは大事なことだ。情報はコンパクトにまとめると扱いやすい。いろんな要素が入った方がより正確さを保証するということもあるが、焦点がぼやけて捉えにくくもなる。何より記録性や再現性に劣る。コンパクトな情報は扱いが楽で便利。


 「他我問題・外界問題」を簡潔に表現してみよう。文中から引用できる部分はない。自分でそれがどういう「問題」かを捉え、表現し直すしかない。

 簡潔に、ということで10字程度。「問題」なのだから、文末は「~か?」で終わるよう。


 問いが簡潔に表現できたとして、それは答えが二択になる(Yes/No)問いか。

 もしそうならば、そこから当然導かれるべき問いをさらに表現する。

 答えを二択にしないためには、疑問詞を使う。


 「他我問題・外界問題」は、ひとまず次のように言い換えられる。

他我/外界はあるのか?

 これは、ある/ないで答えられる問いになっている。

 この問いはさらなる問いを必然的に生む。

 疑問詞として「何(どのような)」「どこ」を使う発言も出た。本文には確かに「外界はどこにあるのか?」という問いの形が提示されているが、本文全体をすくい上げてはいない。

 次のように言い換えるのが適切。

他我/外界があることはどうしたら(どのように)確かめられるのか?

 この「外界問題」は「物と身体」が問題にしていることでもある。「物と身体」では「物があることをどうしたら確かめられるのか?」だが、同じことだ。「物と身体」は机の上の消しゴムを例に語りはじめ、「他者の声 実在の声」では机の上のコーヒーカップから語り始める。

 さて共通した問いに対して、それぞれの文章がとるアプローチを対比的な言葉で表そう。

身体/言語

 それぞれ、身体/言葉によって確かめられるのだ、と言っている。


 「他者の声 実在の声」の前半と後半を対比的な言葉で表そう。

意識/言語

 「他我問題・外界問題」は意識の内と外をめぐる問題。

 「他者性の問題・実在性の問題」は言葉の内と外をめぐる問題。

 これで文章の構成が捉えられた。


 「他者の声 実在の声」の前半、「他我問題・外界問題」は出ることのできない洞窟のような問題だと結論づけられる(この「洞窟」は「他者の言葉」で紹介されるプラトンの「洞窟」とは対応していない。同じ言葉が出てきたからと跳びついてはいけない)。

 ここで「何人もの哲学者たちがそうして倒れていった。」と言われている哲学者の一人を、みんなは知っているはずだ。授業で出てきたから。

 「物と身体」で言及されるデカルトがそうだと気づかねばならない。

 上記のように二つの文章は同じ問題を扱っていて、前田はデカルトのアプローチを、否定するために援用している。とすれば野矢がその問題に「倒れていった」と評する哲学者の一人にデカルトを数えてもいいだろう。出口はないというのだから。

 もちろんデカルト本人は出たと言い張るだろうけれど。


 この「他我問題・外界問題」は、哲学者ならずとも共感する人が多い問題のはず。

 古くから、周りの人間は全てロボットで、自分だけが人間なのだという妄想を描いたSF作品は珍しくない。あるいはインベーダーでもいい。自分の家族がある日、外見はそのまま異形の物に入れ替わってしまっているのだという妄想には、古来多くの人が共感するのだ。

 これを扱った哲学問題が「哲学的ゾンビ」という思考実験だ。人間と同じように振る舞い、完全に見分けがつかないが意識を持たないゾンビを、ゾンビである/ないと確かめる方法はあるか、という問題。

 そのことを確かめることはできない、というのが結論。つまりこれは他我問題だ。

 野矢の結論は「他我問題」に出口はない、だから哲学はこれを解決ではなく「清算」したのだというのだが、これは最近また関心を集める問題として浮上してきた。

 何のせい?


 ここ5年の生成AIの進歩だ。あれほど巧みに自然言語を操る人工知能が現実化するとは誰も想像していなかった。それが現実に表れたとき、彼らにもやがて「意識」が生ずるのではないか、それをどうしたら否定できるのか、といった問題はいやおうなく人々の関心を喚起する。

 相手に「他我」があるかどうかは、言葉のやりとりによって確かめられるのではないか? そのようにして相手がロボットかどうかを確かめる「チューリングテスト」には、最近のAIはパスできるという。

 とすればAIに「意識」がないとどうして言えるのか?


2026年9月15日火曜日

思考の誕生 16 物と身体2

 さてでは本命の「思考の誕生」以下の文章だが、これは難易度が高い。抽象度を上げないと、つまり構造を抽出しないと重なってこない。

 一方で、印象の類似性を糸口にするという手もある。論理は後から組み立てる。言語論をスキーマとゲシュタルトの議論に載せるときに、ダルメシアン犬と星座の印象の類似がまず指摘できたように。

 ここでも、D組の授業での発言を糸口にして、それ以降のクラスでも同じ展開を使った。

 まずD組H君が、「物と身体」の「夢」が、ここまで何度も言及された「フィルターバブル」に似ているという印象を語った。

 なるほど。とするとそれが登場する「未来をつくる言葉」と対応させられるのだろうか。

 「未来をつくる言葉」では「身体という原初のフィルターバブル」というフレーズについて考察した。「身体」? これも重なっているのだろうか。

 フィルターバブルは「他者の言葉」で語られるプラトンの「洞窟」の比喩にも似ているという認識も共有されている。

 さて、これと似た印象を「思考の誕生」から指摘すると?


 どこのクラスでも「自分ひとりで考える」が挙がるから、やはりこうした印象は共有可能なのだろう。

夢/フィルターバブル/洞窟/自分ひとりで考える

 この印象の共通性を論理づけよう。

 正面からこれらの比喩・概念・フレーズが共通していることを説明によって示すこともできる。

 だが、まずは文の共通性で示す。

 それぞれの文章のメッセージをシンプルな文にする。

  • 「他者の言葉」は「洞窟を出よう」
  • 「未来をつくる言葉」は「フィルターバブルを出よう」
  • 「思考の誕生」は「ひとりの考えから出よう」

 とすると「物と身体」は「夢から覚めよう」だ。

 筆者はデカルトを対比的に援用して、デカルトの方法では夢から覚めることはできない、と言っている。それに対し、生活者の素朴な実感は、既に夢から覚めていることを示す。

 先ほどの対応は、同じ文型で示せる。つまり同じ論理があるのだ。


 何と何を対応させるかによっては、別の何かはズレてしまうかもしれない。例えば上で言及したように、「物と身体」と「未来をつくる言葉」では「身体」は共通しているのに、「夢」と「フィルターバブル」を対応させると、それぞれの「身体」は一致しない。

 なぜか?

 「未来をつくる言葉」では「身体という原初のフィルターバブル」なのだから、つまり身体によってフィルターバブルが作られている。

 だが「物と身体」では身体は夢から覚める手がかりとなる。

 方向が反対だ。

 だがそもそも身体はそのような両義性を持ったものだと言ってもいい。

 そのような存在がこの議論の中にもう一つある。

 「言葉」だ。

 「他者の言葉」では言葉が洞窟を作っている。

 だが「未来をつくる言葉」ではその「言葉」がフィルターバブルを乗り越えて他者とつながり合う手段として捉えられている。

 そういえば「身体という原初のフィルターバブル」の考察では「身体」が何と対比されているかを考えた。「文化」だ。フィルターバブルは身体が作るばかりではない。我々は生まれつき「身体というフィルターバブル」の中にいるのだが、もちろんその後、成長していく中でさまざまな「文化」的フィルターバブルの中にとりこまれていく。

 例えば宗教、生活習慣、価値観、あるいは「大きな物語」。

 そして「文化」の最大の例として「言葉」を確認したではないか。

 つまり身体も言葉もフィルターバブルを作る。

 だが同時に、そこから抜け出すための手段となるのが言葉であり身体なのだ。


 さて「夢/フィルターバブル/洞窟/自分ひとりで考える」という対応は有望そうな手応えがある。

 もう一つ、それと対にして論理を形成する要素を対応させよう。

 例えば「自分ひとりで考える」ことから抜け出すために必要なのは「他人と考える」ことだ。 「他人(性)」は「思考の誕生」の中できわめて重要な要素だった。

 「他者の言葉」にはそのまま「他者」が登場するし、「場所と経験」にも出てきた。

 「物語るという欲望」では、これに対応するものとして「断絶・亀裂」を確認した。ただしこの文章はメッセージが薄いうえに「夢/フィルターバブル…」にあたるものがない。

 「未来をつくる言葉」でこれにあたるのが「わかりあえなさ」であることは夏休み前に確認した。

 さてでは「物と身体」では?


 重要なキーワードは文中に複数回使われるものだ。「物と身体」では「抵抗」と「障害」がこれにあたる。

夢/フィルターバブル/洞窟/自分ひとりで考える

 の順に並べるなら

抵抗・障害/わかりあえなさ/他者/他人(性)

 それぞれの要素の結びつき方は完全に同じではない。

 「わかりあえなさ」は「フィルターバブル」そのものであるように思えるのに、「自分ひとりで考える」と「他人」は対極にある。論理を重ねるために文の形を揃えるのは簡単ではない。

 「わかりあえなさ」が「未来をつくる言葉」の文中に登場するのは1回。次の一節だ。

いずれの関係性においても、固有の「わかりあえなさ」のパターンが生起するが、それは埋められるべき隙間ではなく、新しい意味が生じる余白である。このような空白を前にする時、わたしたちは言葉を失う。そして、すでに存在するカテゴリに当てはめて理解しようとする誘惑に駆られる。しかし、じっと耳を傾け、眼差しを向けていれば、そこから互いをつなげる未知の言葉が溢れてくる。

 「新しい意味が生じる余白」という言い方は「物語るという欲望」の「断絶・亀裂・空白」から物語が生まれる、に通ずることは明らかだから、これを「思考の誕生」の「他人(性)」と重ねることもまた可能だ。

 「他者の言葉」の、言葉が作る洞窟も、つまりは自分の言葉が洞窟を作っているのだから、他人の言葉を聴くことが、そこから出る手がかりになる。


「他人性」をもった相手との間に「思考」が誕生する。

意味の「断絶」に橋を架けようとするときに「物語」が生まれる。

「わかりあえなさ」をつなごうとするときに我々の間に「言葉」が生まれる。

 物の実在についても同じことが言える。

「障害」を乗り越えようとするときに、我々の前に「物」が現れる。

 身体に対する「抵抗」が物の実在を我々に証すのだ。

 表現した命題を確かめるためには、逆にするか対偶をとるのがいい。

 「他人(性)・他者/断絶/わかりあえなさ/抵抗・障害」がないところには「思考」も「物語」も「言葉」も「物」も生まれない。

 「わかりあえなさ」がないということはフィルターバブルの中にいるということだ。そこから出ようとする者にとってのみ「わかりあえなさ」はある。「抵抗」がない状態は、何にも触れていない、何にも関係していないということだ。それは夢の中にいるということだ。「抵抗」が「物の実在」を証す。


 ちなみに「広告の形而上学」をここにつなげるとどう言えるか?

 キーワードである「差異」が想起されていればOK。


思考の誕生 15 物と身体1

 夏休みを挟んで9月の授業はわずか3時間程度。ここで2本の文章を読む。まずは前田英樹「物と身体」を読む。「ちくま評論入門」の兄貴分のアンソロジー「ちくま評論選」に収録されている文章だが、新課程になってからは購入していない。前田英樹の文章は「論理国語」教科書に「絵画の二十世紀」が収録されている。これは機会があれば。

 前田はフランス思想が専門で、ここでは哲学的な認識論を展開して、かつ「哲学」をおちょくってもいるのだが、専門が「思想」というのは、つまりは哲学者ということではないのか(自分では「哲学」をやらず、ただ哲学を勉強してます、ということなのか?)。

 この文章は今までのどの文章のどういう議論と通ずるか?


 一読してまず日高敏隆「生物の作る環境」と、昨年度の松田雄馬「人工知能はなぜ椅子に座れないか」が連想されるはず。

 それぞれの文章と「物と身体」の論旨の共通点を簡潔な一文にする。そしてそれらの論旨の関連を考える。


 論理的に先に置かれるのは「人工知能は…」との共通論旨。

人は(生物は)身体を通して「もの」を認識する。

くらいにまとめられる。身体は世界認識の為のメディアなのだ。

 この論旨がそれぞれの文章でどう展開されていて、何と何が対応しているか?

 「物と身体」では「人間/ナメクジ」という対比で語られ、「人工知能は」では「人間/人工知能」という対比で語られる。つまりナメクジとAIが対応していて、例として消しゴムと椅子が対応している。

 人間のように消しゴムを使わないナメクジは消しゴムを認識することはできず、人間のように椅子に座らないAIは椅子を認識することはできない(人間のようには)。


 この論旨が「生物が作る環境」との共通論旨に結びつく。

それぞれの生物にとっての「世界」はそれぞれ違っている。

 これがユクスキュルの「環世界」論だ。ユクスキュルはダニ・蠅・犬などの例で、前田はナメクジで、人間とは違う「環世界」を描写してみせる。

 二つの論旨は因果関係をなしている。

 生物は身体によって世界を認識するから、身体が違えば認識する世界も当然違ってくる。

 世界(物の実在)は、それぞれの生物の「身体」によって確かめられる。客観的な物の実在を疑わないとしても、そうした実在がすべての生物にとって同じ意味合いで現れるわけではない。違った「身体」には、物は違った姿で現れる。

 この、それぞれの物の実在はそれぞれの生物によって違う、というのはまさしく「環世界」論だ。

 異種の生物間の違いほどではないとはいえ、他人同士はやはりそれぞれに違った身体を持つ。大人と子供では、背の高い人と低い人とでは、暑さに弱い人と強い人とでは、世界の捉え方は違う。それぞれの身体によって認識される環世界はそれぞれ違う。ドミニク・チェンが環世界という言葉を使うときは、こうした身体による一人一人の認識の差異だけでなく、文化による認識の違いも問題にしている。


 ここまではすぐに考えつく。

 だがこれを「思考の誕生」「物語るという欲望」「未来をつくる言葉」と重ねようというのだ。

 これは抽象度を上げないと重なってこない。

 どう考えるか。


 その前に授業ではまず、どの文章を連想したかを聞いたのだが、ここで柄谷行人「場所と経験」が出てきたのは想定外だった。

 確かに「物と身体」にも「場所」という言葉が途中に一カ所出てくる。だからといって論旨が重なるのか? と思ったが、意外といける。

 「場所と経験」の論旨を簡単に言うのは難しい。ここまで読んだ文章の中でも印象がまとまりにくいはずだ。

 それでも簡単に言うなら、「経験」は「場所」と結びついている、とでもいおうか。裏返してみる。「場所」と結びつかない「経験」は「経験」にはならない、ということになる。

 柄谷は、このことを言うために場所の捉え方として二つの捉え方が対比する。本当は三つなのだが、さしあたり問題は二つだ。「歩く/地図を見る」だ(この対比を抽出するのがなかなかに難しかった)。

 この「地図を見る」ことによる場所の捉え方が「物と身体」のデカルト的捉え方に対応している。抽象的・観念的な捉え方だ。

 それと対比されているのが「歩いて場所を感じる」捉え方で、これはまさに足=「身体」で場所を捉えるということだ。

 前田が「生活者/デカルト」という対比で世界の捉え方を問題にしているのがちょうど柄谷の「歩く/地図を見る」という対比に重なる。


 もう一つ、C組ではH君から「広告の形而上学」が挙がった。これも想定外だったが、なるほど、面白い。

 これはどう重なるか?

 ヒントはメディア(媒介)という概念。

 これは「生物が作る環境」「人工知能は」のように、共通する論旨を表現することはできない。ただ、論理の共通性を言うためには、同じ文型でそれぞれの文章の論旨を言えば良い。

 どう言うか?

  • 商品の価値は広告を通して捉えられる。
  • 物の実在は身体を通して捉えられる。

 つまり「広告/身体」がメディアとして並置できるのだ。もちろん裏返してもいい。

  • 広告がなければ商品の価値はわからない。
  • 身体がなければ物の実在はわからない。


 こういう想定外があるのが授業の醍醐味。



2026年7月25日土曜日

思考の誕生 14 未来をつくる言葉4 論旨を重ねる

  さてここまで、今年度に入ってから7編の文章を読んできた。

  1. 「思考の誕生」
  2. 「場所と経験」
  3. 「物語るという欲望」
  4. 「他者の言葉」
  5. 「物語としての自己」
  6. 「未来をつくる言葉」
  7. 「生物の作る環境」


 ここに共通する論旨を抽出しよう。


 「未来をつくる言葉」の問題意識を、ここまで読んできた文章群と重ねてみよう。

 既にフィルターバブルと環世界を重ねて考えたから、「他者の言葉」と「生物の作る環境」につながることはわかる。我々はそれぞれの「フィルターバブル」=「環世界」の中にいる。それは「洞窟」の中にいるということだ。

 そしてフィルターバブルの膜を越境するために必要なのが「言葉」であり、さらにそれを生み出すために重要なものは「異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築くこと」だとドミニク・チェンは言う。その困難については「近代」の問題として「〈私〉時代のデモクラシー」などにもつなげて考えた。


 さらに、「未来をつくる言葉」の主旨を他の文章と重ねよう。

 それぞれの文章の主旨を、なるべくシンプルな一文で捉えることはその都度やってきたし、それぞれの論がどのように関連し合っているのかも確認してきた。

 論理の比較のためには、そうした一文の文型を揃えて、それぞれの文中から引用した言葉が対応していると感じられる必要がある。

 「一文で表す」というのは「命題」の形にするということだ。名詞で終わってはいけない。主語述語が揃った形だ。

 主旨を一文にするには、なるべく題名を利用するのが簡便だ。とはいえ上記のどれもこれも体言で終わっているので、それらの名詞が主語なのか述語なのか目的語なのか形容句になるのかは、内容を把握していないと判断できない。

 「思考の誕生」なら「思考の誕生は~。」とまとめて主語に置く文も「思考は~誕生する。」と主述に分ける文も作れる。

 「物語るという欲望」なら、「人には物語るという欲望がある。」か「物語は断絶から生まれる。」あたりだが、この二つなら後者の方が主旨が盛り込まれている。

 ならば「思考の誕生」は「思考は他人性から誕生する。」とすれば文型が合う。

  • 物語は断絶から生まれる。
  • 思考は他人性から誕生する。

 「物語」と「思考」、「断絶」と「他人性」がそれぞれ対応している。

 ここに「未来をつくる言葉」の主旨を重ねる。

 「未来をつくる言葉」の主旨を一文に表すのは容易だ。自動的にできる。

言葉は未来をつくる。

 だがこれは上の二つの文章と文型が合わない。主述を入れ替えよう。

  • 未来は言葉から生まれる。

 「思考」「物語」が「未来」と対応しそうだという見通しは悪くない。

 だが実は本文に「未来」という言葉は登場しない。ただ文末が次のように終わる。

わたしたちは目的の定まらない旅路を共に歩むための言語を紡いでいける。 

 この「目的の定まらない旅路」が「未来」の隠喩になっていることに気づけば、「言葉」が、そうした旅路を「共に歩む」よすがになるのだと言っていることはわかる。

 「主旨」というより「主張・メッセージ」くらいに拡張して言うなら?

未来をつくる言葉を共に探そう。

 くらいか。

 となるとさらに、そうした言葉はどのように探せば良いのか(そこにはどんな困難があるのか)、といったあたりが書かれている文章なのだと把握できる。


 だが単にフィルターバブルを越えて互いにつながり合おうとか、そのための「言葉」を探そうといったメッセージだけを、「気分」のように唱えるだけでは問題の核心が見えてはこない。

 問題は「言葉」が「断絶」や「他人性」と対応していると考えるには飛躍があることだ。どう考えたらいいか。

 「言葉」について、終盤に次の一節がある。

じっと耳を傾け、眼差 しを向けていれば、そこから互いをつなげる未知の言葉が溢れてくる。

 この「そこ」が指しているのは(人間同士の)「わかりあえなさ」だ。

 つまりこの一節はそのまま次のように言い換えられる。

  • 言葉は「わかりあえなさ」から生まれる。

 とすれば、三段論法によって次の一文が生成できる。

  • 未来は「わかりあえなさ」から生まれる。

 これは「思考の誕生」「物語るという欲望」が語っていることそのものではないか。

  • 物語は断絶から生まれる。
  • 思考は他人性から誕生する。

 つまり「わかりあえなさ」が「物語るという欲望」の「断絶」、「思考の誕生」の「他人性」に対応しているのだ。


 こうした主張の裏には何が批判されているか? どんな方向性に対するアンチとしてこうした主張がなされているのか? 仮想敵は誰か?


 断絶の前で「言葉を失う」とき、人は「既に存在するカテゴリに当てはめて理解しようとする誘惑に駆られる」。ドミニク・チェンがそう語る危険こそ、蓮實が「他人性」を希薄にする(=他人を理解する)ために「たがいに自己の内面のイメージを投影しあう」「風土」が「蔓延しがち」だと言っている現在の状況だ。「誘惑に駆られる」といい「風土が蔓延する」といい、そこが仮想敵であることを示すサインだ。

 つまり二人は「安易にわかった気になるな」と言っているのだ。「わかりあえなさ」に「じっと耳を傾け、眼差しを向け」ろ、と言っているのだ。

 すぐに「わかり」たがる安易な姿勢を戒めているという点で、蓮實とドミニク・チェンのメッセージは一致している。


 「未来をつくる言葉」の読解の中で、「生者と死者が交わるインタフェース」「人と微生物をつなぐロボット」は、何のことか、文中ではわからず、考察もせずに通り過ぎた。これは文章の外へ出て調べてみるしかない。

 「生者と死者が交わるインタフェース」は例えばこの記事の「心臓祭器」のこと。たぶん。

http://cocre.jalan.net/cocre/lab/interview_dominick01/


 「人と微生物をつなぐロボット」はたぶんこの記事の「ヌカボット」のこと。

https://diamond.jp/articles/-/310494

 「環世界」もおなじみのキーワードとして使われている。


思考の誕生 13 未来をつくる言葉3 対話と共話

  次は一段落まるごとを考察の対象にする。

差異を強調する「対話」以外にも、自他の境界を融かす「共話」を使うことによって、関係性の結び方を選ぶことができる。近代社会では、長らく対話こそが民主主義的で合理的な議論を牽引すると考えられてきたが、今日の社会はそのための合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている。この状況に対して、人の合理的な認知能力を引き上げようという努力も必要かもしれない。だが、それよりもまずは異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築くことこそが重要だと思う。

 この部分の「わからなさ」は何だろう?

 「『わからない』ところがわからない」と言いたくなる気持ちはわかるが、それを粘り強く考えて、どこに引っかかっているんだろうと、問題点を明らかにしたり、それを班のメンバーに投げかけることこそ思考の入り口だ(と蓮實は言っているのだ)。


 評論が「わからない」感じられる多くのケースは、具体例が想起できないことから生じている。なんだかよくわからない、ピンとこない、というのは抽象的な表現と、それに対応する具体的なイメージが結びついていない状態だ。

 特にこの段落では「合理性」が「十分に発揮できないことを露呈してしまっている」の部分だろう。「露呈してるよねえ」と言われて、うんそうだよね、と返せる?

 もう一つは「人の合理的な認知能力を引き上げようという努力」も、やはり例が思い浮かばないとピンとこないはず。

 この二つの具体的なイメージを描写してみよう。


 さらに三度登場する「合理性・合理的」がひっかかってもいるらしい。

 ひとまず「今日の社会はそのための合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている。」にしぼって考えてみる。

 まず、何の「合理性」?


 「そのための」が指しているのが何なのかがわかりにくい。前の部分を言い直すと「対話は合理的な議論を牽引する」の「合理的」を受けているから、議論が合理的であることを指しているのだと考えられる。

 議論が「合理的」とはどのような状態かがイメージできれば良い。

 例えば参加者の意図が充分に表明され、それらが理性的に応答され、必要なアイデアが提起され、合意に向けて心理的に調整されていく…。

 そのような議論はまた「民主的」でもあるだろう。

 結局、何にとって理に適っていると言っているのか?


 議論が、社会の課題に対する解決に向かって有効に働いている状態を「合理的」と考えるとちょうど文脈にはまる。

 このように説明するためには「社会の課題に対する解決」という表現を思いつく必要がある。文中に無い語を。こういうところに国語力が表れる。


 さらに、例を挙げる前に対比を確認しておく。思考の解像度を上げるにはいつも有効な手だ。

 言うまでもなく「対話/共話」という対比がある。これは単純な「否定/肯定」の対比ではない。「対話」がまるきり否定されているわけではない。どちらも大事だ。

 さてこの対比に対して以下のフレーズが対応している。

人の合理的な認知能力を引き上げる/異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築く

 「合理的/心理的」という対比が「引き上げる/築く」という対比によって確認できる。

 さらにもう一組。

 「近代/今日」が指摘できれば対比が見えてくる。

 さてこの対比から「合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている」ことの理由を説明してみよう。

 なぜ「対話」では不十分なのか?


 「近代」と言えばさらに「前近代/近代」という対比が前提されていることも想定する。

 「近代」と言えば条件反射のようにまず「個人の誕生」と言えなければならない。

 だがそれでは「近代」のことが言えるところまでで、そこから「今日」との対比を語る上ではもう一つ思い浮かべるべき概念がある。それは去年から何度か出てきている。あの表現。

 「大きな物語」だ。

 「大きな物語」とは何か?


 ひとまずは「多くの人に共有されている認識・観念・価値観」と言えること。

 例えば?


 「宗教」が挙がりがちだが、それは悪くないものの、この文脈では活かしにくい。宗教は前近代からの「大きな物語」であり、ここでは近代の「大きな物語」が想起されている必要があるからだ。

 前近代から近代への移行における「個人」の確立では、むしろ宗教の拘束からの離脱が必要だった。そして一人一人の「差異」が強調される必要があった。

 その時に力を持っていた「大きな物語」とは例えば「個人」の称揚であり、「民主主義」の理念であり、「国民国家」に対するナショナリズムであり。それらさまざまなイデオロギーだ。

 それらが共有されている時にはむしろ一人一人の「差異を強調する」=「対話」が近代理性では重視された。それが「個人」の称揚だ。

 だが「今日」ではそうした「大きな物語」が解体してきたから、今度は「共話」も必要となる。

 「共話」は「自他の境界を溶かす」というのだが、「対話」が「差異を強調する」なら「共話」はそれをひっくりかえして「共通点を確認する」とでも言った方がわかりやすい。


 前近代/近代/現代 のこのような推移は昨年度の「『私』時代のデモクラシー」でも確認した。「『私』時代」にデモクラシーが難しくなっているから「共話」が必要なのだといえば、すんなりここにつながる。

 「大きな物語」が出てきたのは「空虚な承認ゲーム」だ。

 「近代社会では、長らく対話こそが民主主義的で合理的な議論を牽引すると考えられてきたが、今日の社会はそのための合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている。」などという一節は背景にこうした認識がないとすんなりとは読み下せない。

 ま、逆に言えばみんなにはそれができる素地ができているはず、でもある。 


 では対話が「合理性を十分に発揮できない」具体的なイメージを描写しよう。

 文中からでも「異なる価値観を持つ人間同士が分断される」「今日のSNS上では、互いに「わかりあえる」集団と「わかりあえない」集団の区分がますます明確に浮き上がってきている」といった一節が指摘できるし、「フィルターバブル」の話を受けていることを捉えれば、例は思い浮かぶ。

 大小さまざまな話し合いの場を想定していい。国際紛争をめぐる停戦協議でも、国会の法案審議でも、自治体の住民投票でも、生徒総会でも、クラスの文化祭の発表を決める会議でも、話し合っても埒が開かない場面は想像できる。それらは対話が「合理性を十分に発揮できない」場面だ。


 といって「合理的な認知能力」も否定されているわけではない。

 だがそれって何?

 ここは「非認知能力」との対比でイメージしておこう。

 「認知能力」とはテストなどによって数値で表せるような「能力」のこと。「論理的思考力」やリテラシー、シンプルに「知識」など。

 それに対して最近流行りの「非認知能力」といえば、「自己肯定感」「やり抜く力」「自己制御力(自制心)」「共感性」「協調性」「好奇心」…。


 したがって「人の合理的な認知能力を引き上げようという努力」に合う例を思い浮かべるならば、例えば人種差別、性差別などに対する教育や啓蒙・啓発などといった活動の必要性が挙げられる。「~人は(女性は)人種として劣っている」などといった偏見は「合理的な認知能力」が欠けている状態だ。

 そういう「努力」も必要だが、それと並行してまずは「心理的な土台を築くこと」が重要だ、というのだ。


 さてこんなふうにして読解の解像度を上げて、イメージを共有したいくつかのケースの中では、あの生徒総会の例が妙に腑に落ちたのだった。

 体育館を二分した議論の場の設定は、意見の対立を空間の対立として視覚化したものだ。そこでやりとりした、それぞれの主張のぶつかり合いは「対話」だ。

 それによって、それぞれの主張の論理が明確化され、それぞれが何を重視しているかが明らかになった。

 だが結論はどちらかにするしかない。だから時には対立したままで多数決による決定をするしかない。

 あのとき印象的だったのは、決着の後、少数派の中にも、妙な満足感があったように見えたことだった。あれは自分たちの主張に対立する決定に、しかし納得もしたということなのではないか。

 それはつまり、「対話」による論点の明確化すなわち「差異の強調」と同時に、それでも両者の共通性の確認、すなわち良い行事をつくりたいと思いは一緒だという「心理的な土台」が築かれていったことによる納得なのではないかと思う。


2026年7月11日土曜日

思考の誕生 12 未来をつくる言葉2 環世界をつなぐ

 「環世界」とは各生物がとらえる千差万別な世界像のことだ。それぞれの生物にとっての「環世界」はそれぞれ違う。

 これは種の違った生物同士の「環世界」がどれほど違うかを示すために提唱された概念だが、ここでドミニク・チェンがあえてこの言葉を使って示すのは、我々人間同士でも、それぞれの「環世界」は実は違っている、という認識だ。

 こちらから見る世界は私の「環世界」だが、あの人の見る世界も同様にその人の「環世界」だ。それらが異なったものであることは、あらためて心に留めておく必要がある。


 これは我々は直接に外界に触れているわけではなく、「フィルター」を通して外界を認識する。そうした「フィルター」に包まれた「バブル(泡)」の中に我々は閉じ込められている。

 当然「フィルター」はそれぞれの人でさまざまに異なっているから、我々は一人一人それぞれのフィルターバブルの中にいることになる。

 それはすなわちそれぞれがそれぞれの環世界に生きているということだ。

 二つの認識は重なっている。


 それだけではない。問題は「身体という原初の」という表現だ。

 「原初の」という形容が差しはさまれているのは、それに続く何かが想定されていることを示す。

 「身体」に対する何が想定されているか?


 「原初の」とはいわば「先天的」という意味であり、となれば「後天的」なものとは何か、と考える。あるいは動物一般の条件が「原初の」であり、人間的な条件は何か、と考える。

 文中からいくつかの候補となる言葉を挙げてもらったが、ここでは「文化」が最も適切。「身体」と対にするには。

 「身体というフィルター」と概念レベルを揃えて、「文化というフィルター」という言葉を挙げられるかどうかが国語力(読解力)だ。「身体というフィルターバブル」はすべての動物が先天的に持つが、「文化というフィルターバブル」は人間が後天的に身につけるものだ。

 そしてこの概念レベルの下に具体例が配置される。具体的には?

 「言語」がフィルターであるという認識は昨年度の言語論で論じられていた問題としておなじみ。すぐに想起したい。

 他には「社会常識」であり「立場」であり「宗教」であり…。


 「身体というフィルターバブル」の例を挙げよう。

 それぞれの身体的な特徴や条件のことなのだが、ここに「性別」「人種」が挙がったのは、なかなかに考えるべき問題を含んでいる。

 確かに「性別」「人種」は「原初」ではある。生物学的な身体条件だ。

 だが同時に「文化」的なフィルターが、そこに分厚く塗り重ねられてもいる。

 この問題については「公共」で、「セックス」ならば「身体」で、「ジェンダー」ならば「文化」の問題だ、というような問題を扱ったかもしれない。

 例えば「女性ならではの視点から見た…」という形容が使われるとき、それは「身体というフィルター」のことを指しているのか? 多くの場合には「文化的」なフィルターなのではないか?

 性別を単に「身体」的な問題として語るとき、それが同時に「文化」的な問題であることが覆い隠され、ある種の偏見が見過ごされる。それが差別の温床になる危険がある。「人種」も同様だ。

 そうした危険については、よくよく注意が必要だ。


 この文脈ではつまり、社会学で用いられる「フィルターバブル」という言葉を「身体という」形容によって生物学の方に拡大解釈して使っており、一方の「環世界」という生物学上の概念を、社会学的な捉え方に拡大解釈して使っていることになる。


 さて以上の話が理解できたとして、じゃあ説明してみる。「わたしたちは自己の身体という原初のフィルターバブルを持って生まれてくる」とはどういうことか?

 それはそれでひとすじなわではいかないことが、発表させてみるとわかる。

 一つには、結局我々はみんなフィルターバブルの中にいるのだ、という認識を語るだけになる。

 もう一つには「持って生まれてくる」に引っ張られて、「生まれつき」を強調しすぎると、やはりニュアンスが変わってくる。何も赤ん坊に限らず、それ以降の成長の過程でも、老人になっても、我々は「身体というフィルターバブルの中」から出られないのだ。

 「わかる」で終わってはならない。「語れる」まで視野に入れて授業に臨むことが大事。


思考の誕生 11 未来をつくる言葉1 フィルターバブル

 間に『夢十夜』を挟んで、「思考の誕生」からの流れに戻る。「文学国語」から、ドミニク・チェンの「未来をつくる言葉」。

 この文章も一筋縄ではいかない。メッセージは、ある意味ではわかりやすいのだが、それがここまでの議論にどうからんでくるか?


 この文章全体の論旨と、ここまでの文章群とのかかわりを考える前に、この、一筋縄ではいかない文章については細部の考察もしてみよう。


 まず次の一節。

わたしたちは自己の身体という原初のフィルターバブルを持って生まれてくる

 どういうことか?


 「フィルターバブル」を問題化していたのは、去年読んだ文章としては「グーグルマップの世界」だ。そして今年度の「他者の言葉」。

 「フィルターバブル」は、現在のネット言説について考える上で避けられない問題の一つだ。

 「見たいものしか見ない」という態度に関しては、グーグルマップにかぎらず、パーソナライゼーションが進んだウェブのユーザー全般に当てはまる問題として、すでにメディア論において指摘されている。

 「グーグルマップの世界」では、「フィルターバブル」という言葉こそ使われていないが、上記の「パーソナライゼーション」がそこにつながっていく問題として指摘されている。

 「未来をつくる言葉」でも、この一節の直前に「情報技術は…」と言っているのは同じ問題を指している。

 そして「他者の言葉」ではこれをプラトンの洞窟の比喩と重ね合わせた。


 だがここで問題なのは「身体という原初の」という形容だ。これはネットのアルゴリズムの問題ではない。直前の一節が「情報技術」つまりネットの問題だから、それとは区別された「フィルターバブル」について述べているのだ。

 これは何のことか?


 これとあわせて考えたいのが次の一節。

互いの一部をそれぞれの環世界に摂り込みつつ、時に「親」として、また別の時には「子」として関係することができる。

 「環世界」?


 脚注をたよりに、この記述と「フィルターバブル」の関係を考えた後、いったん「論理国語」の、日高敏隆「生物の作る環境」を迂回する。これは「環世界」という概念について生物学者が説明した文章だ。

 「環世界」とは、ユクスキュルの唱えた「ウンベルト」の訳語で、生物にとっての「世界観」とでもいったような概念だ。

 「世界観」は生物ごとに異なっていて、それぞれをその生物の「環世界」と呼ぶ。

 「生物の作る環境」という見出しはたぶん教科書編集部のつけたものだろうが、この文章の主旨は「生物が環境を作る」という表現からイメージされる事象とはだいぶ違う。「生物の捉える世界」とでも言うべきだろう。「現代の国語」の「生物の多様性とは何か」もそうだが、聞きなじみのある言い回しを優先して、内容と合ってない題名を編集部の方でつけてしまうのは困ったものだ。。

 さてフィルターバブルと環世界はつながっただろうか?


 さてこうした認識は昨年後半の「視点を変える」シリーズだ。今年度登場のフィルターバブルという言葉も、スキーマとゲシュタルトとセットで扱った。

 「見方を変えると見え方は変わる」は、まさしく上記の「生物の作る環境」と同じ認識だ。

 そういえば「木を見る、森を見る」は「アリの目に、この世界はどう見えているのだろうか。」と結ぶ。いかにもユクスキュル的問いかけではないか。


2026年7月8日水曜日

夢十夜 第一夜8 夢の論理

 「暁」とは何か?

 夜明けのことだ。

 「暁の星を見た」と表現される事態は、精確に言うと、「星を見た」→「『あれは暁の星だ』と認識した」と二段階に分解される。

 そして、あれは「暁の」星なのだ、という認識はつまり、もう夜が明けるのだ、という認識にほかならない。

 夜明け?

 だがそれまで「赤い日」がいくつも通り過ぎていった。そのたびに夜は明けていたではないか?


 そうは思えない。「赤い日」はただ書き割りのような空を背景として通り過ぎていくだけだ。昼に対応する夜も描かれていない。「自分」が眠ったり起きたりする様子もない。したがって、日が昇ったり沈んだりするからには、その度ごとに「暁」はあったはずなのだろうが、結局のところ時間がいくら経過していても、そこに本当の夜明けが来ていたような印象はない。

 「自分」はただ、女を埋めた時のまま、夜の底にひとり座り続けていたのではないか。

 そして「自分」が「暁の星」を見た瞬間にようやく夜明けがおとずれる。

 その時、そこまでの女をめぐるあれこれ、すなわち一夜の夢が終わる。


 「百年」とは、物語内部の論理レベルでは「女が来るまで」だ。だから「百年が来た」とは「女が来た」ということにほかならない。

 一方で例えば「百年」とは「永遠」を意味している、などという解釈も世間にはある。女の約束に「待っている」と答えてひたすら待つ男から「永遠の愛」が主題だなどと言ってみたり、「百年経ったら会いに来る」とは、もう会えないという意味であり、結末で男は死んでいるのだなどと解釈して、そこから「愛の不可能性」が主題だと言ってみたりする。

 今年度の授業ではF組Mさんから提示された解釈が印象深い。

 Mさんは、この小説は「死の受容」がテーマなのではないかという。百年とは女の再来を待つ時間でもあるが、これは実は男が女の死を受け容れるまでの時間を意味している。百年とは「百年が来ていたことに気づいた」とは、男が女の死を受け容れたということなのだ。

 こうした解釈は聞いたことがなかった。面白い。


 「百年」とは「永遠」という意味だ、という解釈は、物語内部の論理レベルを超えた抽象度で、その意味を捉えようとしている。「第六夜」で試みたのもそのような解釈だ。

 だが「第一夜」については、そうした解釈は、小説読者が純粋に小説を読むことから乖離した「解釈ごっこ」になっていると思う。「暁の星」が女の象徴だと言ったりする解釈もそうだ(とはいえ「百年とは死の受容までの期間」という解釈は面白かったが)。

 それに対して、「百年」とは「夢の終わりまで」を意味しているという解釈もまた、物語内部の具体レベルを超えた解釈ではある。

 「百年が来ていたことに気づいた」とは、夢が終わることを悟る刹那がその直後に訪れる気配を示している。「夢オチ」という表現があるが、それが夢だと気づく視点は、世界を外側から見ている。メタな視点からこの物語を「夢」として捉えている(「メタ」とは上の次元から対象を見る高次の階層のことだ)。

 

 それはちょうど、我々読者がこの物語を「小説」としてどう読んだかということと入れ子構造をなしている。


 夢は、目が覚めて思い出すときに作られるという。我々の語る夢は多かれ少なかれ、覚醒時から遡って解釈される。

 解釈とは合理化だ。そこに論理を見出す。

 そして夢の中の納得は、目覚めてから思い出すと、何だか奇妙な論理で成立していることがある。

 目覚めるということは夢が終わるということだ。夢が終わるからには、女との約束が果たされなければならない。すなわち百年が来なければならない。だとするとこの百合が女の生まれ変わりなのだ。

 こうした奇妙な納得のありようは夢の感触として我々には覚えがあるはずだ。ああ、これは…なんだなあ、と何だかよくわからない納得をしている。冒頭近くの「確かにこれは死ぬな」にもそうした感触が鮮やかに表現されていることは確認した。


 ということは先ほどの論理は転倒している。

 百合が女の生まれ変わりだと気づいたから「百年はもう来ていたんだな」と気づいたのではなく、むしろ百年が来ていたという結論から、百合が女の生まれ変わりだったのだという解釈が生まれたのだ。

 「百合が女の生まれ変わりであることに気づいた」という認識は、いわば遡って捏造されたのだ。

 そして振り返ってみた時にはそれが忘れられている。


 そしてそれは我々読者の思考だ。上の捏造は「自分」がしたのではなく、読者がしたのだ。

 我々読者は、百合が女の生まれ変わりだと気づいたりはしなかった。最後の一文で百年が既に来ていたことを知らされ、そこから遡って百合が女であると解釈したのだ。それ以外の読解がされようはずがない。

 だがそのことは忘れられてしまう。

 最初の要約課題の際に、「百合の花が咲いた」ことと「百年が来ていたことに気づいた」ことを、明らかな因果関係として記述した人は多い。例えば「咲いたので~」などという記述は珍しくない。「女が百合に生まれ変わって」とはっきり書いている者もいる。

 だがそうした因果関係もそのような事実も、小説に書かれているわけではない。読者がそう解釈したのだ。

 もちろん漱石はそうした解釈を誘導するように意図的に書いている。誘導にのってそのように解釈するとき、「物語」は完結する。

 それはあくまで読者による解釈によって生じた「物語」であり、それはまるで、我々が目覚めてから思い出す夢が「夢」そのものではなく実は「解釈」されたものでしかないように、読者が「解釈」した結果生じたものなのだ。


 こうして、いかにも夢らしい感触を感じさせる「夢の論理」は、同時に、我々が小説を読むということの四つ目の側面をも照らし出す。

 夢が終わるからには百年が来なければならないという「夢の論理」は、「物語」が終わるからには「欠落」が「回復」しなければならないという小説享受の論理と同型だ。我々は物語を完結せんとする要請によって、百年の到来という結末をまず受け入れたのだ。その後で、女が百合に生まれ変わって会いに来ることで約束が果たされたのだと信じたのだ。

 そのことを「思い出す」とき、「自分」が気づいた百年の到来が夢の終わりを意味しているという解釈も「思い出す」ように腑に落ちる。


 ずっと待っていた女の再来によって百年の終わりが来たという結末は、基本的には「欠落」→「回復」という型で認識されるハッピーエンドとして認識される。

 だが一方で夢の女とは夢の中でしか会えない。だから夢の終わりとは夢の女との永遠の訣別でもある。

 ここには約束の成就と約束成就の不能、「回復」の成功と失敗という正反対の論理が階層を違えて同居している。

 「第一夜」のハッピーエンドは喪失の切なさを内包して成立している。


 『夢十夜』の2編を読んで、「小説を読む」ということをいくつかの側面を明らかにしてきた。

 小説中の何かを象徴と見なすことで、小説から「意味」を抽象化する読み方。

 小説中の筋立てにある構造を見出すことで、それを「物語」として受け取る読み方。

 小説の文章そのものを源泉掛け流しの温泉を浴びるように読んで、その豊穣を味わう読み方。

 「解釈」という合理化の向こうにある「夢」の気配を微かに思い出す読み方。

 これらは相反するものではなく、同時に行われてもいる。そのこと自体が、小説を読むという行為の豊穣でもある。


夢十夜 第一夜7 暁の星を見る

 「暁の星を見た」から「百年が来ていたことに気づいた」と考えることは、どのような解釈を成立させるか?

 

 「暁の星」とは何を意味するか。もちろん、意味を見出せない要素は、この小説の中にいくらでもある。「真珠貝」然り、「星の破片」然り。あるいはそれらは、小説の構造を支える明確な「意味」をもった構成要素なのかもしれない。だが今のところ筆者の目には、それらはその「意味」について考えても仕方のないような単なる「ロマンチックな」ガジェットに過ぎないように映っている。

 「暁の星」も同様のギミックに過ぎないのだとすれば、bのような解釈は無意味だ。

 そうなのだろうか?


 例えば暁の星を女の隠喩としてみる解釈が世間にはある。この可能性を考えてみよう。

 普通の読者が星を女の隠喩として読むことは難しい。だが聞いてみると少数ながらそれを支持する者はいるし、考察・議論をすると支持者は増える。

 あえて星が女の隠喩なのだとする根拠を考えてみる。次のような根拠が挙がる。

  • 死ぬことを「昇天」「星になる」とする慣用表現がある。
  • 「瞬く」星は目を連想させ、百合に落ちる露は女が死ぬ際に流れる涙のイメージと重なる。
  • 「星の破片」「真珠貝に指す月の光」「遙かの上」など、天につながる要素が物語中にある。
  • 「暁の星」は「明けの明星」つまり「金星」を意味する。金星は西欧ではローマ神話に由来して「ヴィーナス」すなわち「美の女神」を意味する。

 いくらかもっともらしくなってきた。


 だが百合が女をイメージさせるように意図的に書いてあることは明白なのに、なんでこんな解釈をする必要があるのか?


 そこで、もうちょっと辻褄を合わせるために更に論理を構築する。

 百合が咲く契機は何か。男が「自分は欺されたのではなかろうかと思い出した」からだ。つまり女は男の疑いに対して、自分が約束を忘れていないことを示す自身の身代わりとして百合を咲かせ、天から露を落として、自分がいることを悟らせるための合図を送ったのだ。女は天から、いつだって自分を見守ってくれていたのだ。そう気づいた時に男は「もう百年は来ていた」と気づいたのだ。

 これはかなりもっともらしい解釈だ。百合も星も女なのであり、天との交感や露の「意味」についても回収している。問②の答え「女が会いに来たから」を発展・補完しているように思える。


 だが、このような解釈は筆者には何のカタルシスももたらさない。辻褄の合った理屈が構築される快感があって飛びつきたくなるが、なるほど確かにそうだという腑に落ちる感じはない。「第一夜」は既によく「わかっている」というのに、まるで人工的な、こんな解釈をすべき必要がわからない。

 「暁の星」にスポットを当てて、もう一度考えさせたのは別な狙いがある。


夢十夜 第一夜6 なぜ気づいたのか

 考える糸口は次の問い。

なぜ「自分」は

①「百年がまだ来ない」と考えたのか?

②「百年はもう来ていた」と気づいたのか?

 物語の最後で白い百合が咲く前に「自分」は女に欺されたのではなかろうかと考える。①はその直前に置かれた記述。②は百合に接吻して物語が終わる最後の一文だ。

 二つの問いに、整合的な論理で答える。


 どちらも、「勘定」が「百年」に達していない①、達した②ということではない。なぜか?


 自分は途中で数えることを放棄しているからだ(「いくつ見たかわからない」)。

 ではなぜ「まだ来ない」と考えたのか?


 言うまでもなく、①「女がまだ会いに来ないから」だ。女は「百年経ったらきっと会いに来る」と言った。その女が現れないから、百年はまだ来ていないと考えたのだ。

 これを裏返せば、「百年がもう来ていたことに気づいた」のは②「女が会いに来たから」ということになる。

 これはつまり、百合を女の再来と認めたということにほかならない。

 ①と②は裏表に補完し合っている。

 読者がこの小説を完結した「物語」として読めるのは、①②の論理を了解しているということだ。喪失によって生じた「欠落」は、試練の末「回復」したのだ。


 この明白な理屈に疑問を投げかける。

 自分は首を前へ出して、冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。

 「百年はもう来ていたんだな。」とこの時初めて気がついた。

③「この時初めて気がついた。」の「この時」とは上の一節のいつか?


 問題はどの時点か、ではなく「この」が指している事実が何かだ。

 そしてその事実と「気がついた」にどんな関係があるか、だ。

 とすれば、この二つの可能性は、ただちに次のように問い直される。


 ②なぜ「百年はもう来ていた」ことに気づいたのか? の答えは次のどちらか?

  1. a 女が百合として会いに来たから
  2. b 暁の星を見たから


 これは、どちらが正解か、という問いではない。

 aとbはどのような関係になっているか、が問われている。


夢十夜 第一夜5 夢の手触り

 『夢十夜』は夢という体裁で書かれた連作小説だ。そして、確かに「夢」らしいと感じさせる手触りがある。

 だがそれは「こんな夢を見た。」で始まっているからか。単に現実離れした出来事が起こるからか。

 「夢」らしさはどこから生じているのか?


 各クラスで共通して挙がったのは、時間・空間・場面の唐突な転換だ。場面が突然変わる。あるいはいつの間にか変わる。その転換は「ぬるっと」行われる。時間や場所や状況が飛躍していても、そこに注意が向けられることがない。

 もう一つ、授業者が挙げたかったのは、この語り手に見られる、よくわからない「納得」だ。

 夢の中では我々はさまざまなことを自然に受け容れている。上記の場面転換も、夢の中ではそれを不自然だとは思わない。そういうものかと思っている。

 「第一夜」は、女がもう死ぬと言う。唐突だ。だが男は「確かにこれは死ぬな」と思い、「そうかね、死ぬのかね」と返す。なのにその後の場面では「これでも死ぬのか」と思うが、さっき確かに死ぬなと思ったことは反省されない。

 こうした判断の曖昧さは、覚めてから思い出す夢の手触りとして覚えがある。


 「第一夜」にはもう一つ、ある種の夢の構造が表出している。それは上のような「夢らしさ」とは違って意識しにくいが、指摘してから、なるほどそれは「夢っぽい」と思ってほしい。

 同時にそれは「夢を見る」ことと「小説を読む」ことに同じ構造を見ることでもある。そこから「小説を読む」ことの四つ目の側面が浮かび上がってくる。


2026年7月6日月曜日

夢十夜 第一夜4 「小説を読む」とは

 「第一夜」の文体の特徴は、いわば過剰な「叙景」だ。

 「第一夜」には読者に映像を喚起させる描写が、しつこいほどに念入りに語られている。そしてさらにそれが異様とも言える密度で、形容詞や形容動詞や副詞によって修飾されている。

 逆に言えば「第一夜」には、ストーリーを語る上で必須とは言えない描写や形容が、過剰とも言える量・密度で書き込まれているのだ。


 ここで茂木健一郎の「見る」と、小林秀雄の「美を求める心」を読む。

茂木健一郎「見る」

 「見る」という体験は、その時々の意識の流れの中に消えてしまう「視覚的アウェアネス」と、概念化され、記憶に残るその時々に見ているものの「要約」という二つの要素からなる複合体なのである。(略)

 絵の前に立つとき、さまざまな要約が脳の中では現れ、深化し、変貌し、記憶される。その一方で、絵を構成する色や形などの細部は、決してそのすべてをとどめておくことができない「意識の流れ」の中で、時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる。

 何かをつかみつつも、指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われつつあるもの。その豊穣な喪失こそが、絵を見るという体験の本質である。 


小林秀雄「美を求める心」

 見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるのでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに入ってくれば、諸君はもう眼を閉じるのです。菫の花だと解るということは、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。言葉の邪魔のはいらぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見たこともなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。


 これらの論旨とここまでの授業の考察を重ねてみる。

 それらには何が共通しているか?


 まず、二つの文章に共通した論旨をつかむ。

 「共通している」とは両者が「対応している」ということだ。

 何と何が?


 茂木のいう「要約」が小林のいう「お喋りをする」「言葉に置き換える」に対応しているというのが最も重要な対応としてまず指摘されなければならない。

 だがそれはどのような論旨の把握によって「対応している」と考えられるのか?


 二つの文章に共通した問題を問いの形で表すなら、どちらも「『見る』とはどういうことか?」と表現できる。このような把握ができれば、その「こういうこと」の共通点は何か? を考えればいいとわかる。


 茂木は「見る」ことは「視覚的アウェアネス」と「要約」の複合体だと言う。

 小林の例えば「花の姿や色の美しい感じ」が「視覚的アウェアネス」に、「言葉で置き換える(「お喋り」はその比喩的表現)」が「要約」に対応している。

 茂木は両方をそれぞれ述べているが、小林は後者を否定している。だが、それは二つのうちの「要約」のみが「見る」ことだと思っているような人を批判するためだ。

 「言葉で置き換える」ことが見ることだとしか考えていない人はちゃんと「見る」ことをしていないのだ、というのが小林の力点だ。そしてただ「見る」こと=「視覚的アウェアネス」で捉えていることは簡単だと人は思っているが、そこには訓練がいるのだ、とも言っている。

 だが「言葉で置き換える」ことがなければ、茂木の言うように見たことは「消え去って」「失われて」しまう。「菫の花だ」と言ってそれ以上見ることをやめてしまう人は本当に「見て」はいないのかもしれないが、「菫の花だ」とも言わなければ、見たこと自体が流れ去ってしまう。

 こうした論旨とここまでの授業でやってきたことのあいだにはアナロジーがある。 


 そもそも授業で『夢十夜』を読む目的は何か? 何だと宣言したか?


 『夢十夜』では「第六夜」「第一夜」それぞれを読むことを通して、「小説を読む」という行為自体について考えることも目標としている、と宣言した。

 とすればもう明らかだ。

 「絵を見る」「花を見る」ことが「小説を読む」と対応しているのだ。

 「要約」なくして「絵を見る」ことはできないが、「絵を見る」という体験は同時に「絵を構成する色や形などの細部」が「時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる」ことでもある。

 「夢十夜」を読んで、それが何を語っている小説なのかを認識するために、我々は「第六夜」で試みたように抽象化した「意味」「主題」を捉えるために「解釈」したり、「第一夜」で試みたように「構造」を捉えたりする。そうしなければ読んだ小説はとりとめもないものとして流れ去ってしまう。それらの「解釈」は意識するとせざるとを問わず必ず行われている。

 だが一方で、その時「指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われ」てしまうものこそが小説の「豊穣」でもある。

 そうした「花の姿や色の美しい感じ」そのものを見ないで、小説が「わかる」ことは、本当に小説を「読んでいる」ことにはならない。

 「第一夜」の過剰とも言える描写や形容を施されたイメージ豊かな文章を読むことは、そうした「源泉掛け流しの温泉」の湯を浴びるように贅沢なことだ。

 漱石の紡ぐ物語は、そうした細部の「豊穣」によってこそ優れた小説たりえている。


夢十夜 第一夜3 「第一夜」の文体の特徴

 さらに小説を読むとはどのような行為かを考える。

 小説を読むとは、まず文章を読むことだ。そして「第一夜」は、どのような物語かを把握するよりもまず、その文章によって魅力的たりえている。文章を読むこと自体が快楽をもたらすのはなぜか?


 「第一夜」の冒頭を次のように音読して聞かせた。

腕組みをして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、もう死にますと言う。女は髪を枕に敷いて、瓜実顔をその中に横たえている。頬の底に血の色が差して、唇の色は赤い。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにしてきいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。睫に包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。その眸の奥に、自分の姿が浮かんでいる。

 原文とどこが違うか?


 さらに書き換える。

枕元に坐っていると、女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。その眸の奥に、自分の姿が浮かんでいる。

 これは原文とどう違うか?


 最初に抜いたのは「静かな」「長い」「柔らかな」「真っ白な」「温かい」「はっきり」「ぱっちり」「鮮やかに」など。

 次に抜いたのは「腕組みをして」「女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。」など。

 これらは何か? 何を削ったのか?


 第一段階については「修飾」が削られている、という意見が圧倒的に多かった。悪くないが「修飾」という概念はちょっと広過ぎる。

 第二段階は「様子」や「状態」を表す部分だ。

 どちらも悪くないが、サ変動詞にできる熟語で揃えよう。


 想定していたのは「形容」と「描写」。

 「形容」は、品詞としては形容詞・形容動詞・副詞など、ある名詞や動詞を修飾する一単語。

 「描写」は、何をした、何が起きた、というだけでなく、それがどんな「様子」だったかを視覚的に伝える情報。

 もちろん「形容」と「描写」の境目は明確ではないが、ともかくも例えば「形容」「描写」という言葉で表現できるかどうかもまた国語の力だ。


 さて、この改稿を全編にわたってやってみる。

 こんな夢を見た。

 枕元に坐っていると、女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。自分はこれでも死ぬのかと思った。それで、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまたきき返した。すると女は、でも、死ぬんですもの、しかたがないわと言った。じゃ、私の顔が見えるかいときくと、見えるかいって、そら、そこに、映ってるじゃありませんかと、笑ってみせた。自分は、どうしても死ぬのかなと思った。女がまたこう言った。「死んだら、埋めてください。そうして墓のそばに待っていてください。また逢いに来ますから。」自分は、いつ逢いに来るかねときいた。「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。―日が東から西へと落ちてゆくうちに、――あなた、待っていられますか。」自分はうなずいた。女は「百年待っていてください。きっと逢いに来ますから。」と言った。自分は、待っていると答えた。女の眼が閉じた。もう死んでいた。

 自分はそれから庭へ下りて、穴を掘った。女をその中に入れた。そうして土をかけた。それから星の破片の落ちたのを拾ってきて、土の上へのせた。自分は苔の上に坐った。これから百年の間、こうして待っているんだなと考えながら、墓石を眺めていた。そのうちに、日が東から出た。それがやがて西へ落ちた。一つと自分は勘定した。しばらくするとまた天道が上ってきた。そうして沈んでしまった。二つとまた勘定した。自分は日をいくつ見たか分からない。勘定しつくせないほど日が頭の上を通り越していった。それでも百年がまだ来ない。しまいには、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。

 すると石の下から茎が伸びてきて、百合が開いた。自分は花弁に接吻した。空を見たら、暁の星が瞬いていた。「百年はもう来ていたんだな。」とこの時はじめて気がついた。

 これで800字ほど。元の小説は1800字くらいあるから、半分以下になっているのだが、おそらく元の小説の印象とそれほど変わらないのではなかろうかと思う。

 この作業を通して浮かび上がるこの小説の文体の特徴とは何か?


2026年7月1日水曜日

夢十夜 第一夜2 「物語」の構造

 我々が「第一夜」を完結した「物語」として感じられる要因は何か?

 どうみても「虚構」だし、展開は因果関係によって継起していく。墓を掘るのも待つのも女との約束だからだということは読者に了解されている。

 さらに、ここには「物語」が持っている、ある普遍的な構造がある。それを「起承転結」などとそれを表現してもいいが、では「起」だの「結」だのがあると感じるとはどういうことか?


 こういう本質的な「そもそも」問題は、いろんな切り込み方があって考えてみると面白い問題なのだが、ここではそのうちの一つの考え方を紹介する。

 「物語」に広く見られる構造を汎用性のある言い方で言うなら「欠落と回復」と表現できる。物語は、あるものが欠けることで発動し(起)、それを埋めようとして駆動する(承)。障害をを乗り越え(転)、それが埋め合わされることによって決着する(結)。

 例えば「葛藤と解決」などという表現も、安定した状態が「欠落」していて、そうした「葛藤」状態を「解決」することで安定が「回復」するのだと言い換えることができる(あるいは「葛藤」とは欠落の回復を目指す上での障害を指しているともいえる。「回復」の前に挿入される「試練」である。その場合は「転」にあたる)。

 誰もが知っているような民話や童話を挙げ、この構造を指摘してみよう。あるいは誰もが知っている近現代の物語(小説・マンガ・映画・ゲームなど)では?


 多くの物語には「敵」がいる。敵の存在は安寧の「欠落」だし、敗北も自尊心の「欠落」を生む。「回復」は勝利によってもたらされる。

 また多くの民話・神話の主人公は「旅」をする。旅そのものが日常性の「欠落」だし、旅立ちの契機は欠けた物を探すことだ。それを見つけて帰ることで物語が終わる。

 「桃太郎」は村から収奪された財宝を鬼ヶ島から取り返して戻ってくる。あるいはそれは平穏の「欠落」が鬼の討伐によって「回復」したということでもある。

 同型の「一寸法師」でも鬼から宝を取り戻すのだが、さらに彼の場合は身長が「欠落」していたのだとも言える。結末では打出の小槌によって身長が「回復」して、お姫様と結婚する。

 ミステリーに代表されるように「謎」が物語を駆動するのも、そこには真相が「欠落」していて、その「回復」(真相の究明)が希求されるからだ。

 悲劇の場合は、そのように期待される「回復」が裏切られることが、やはり物語の決着として感じられる。

 さてでは「羅生門」における「欠落」と「回復」は?


 決定的なその一語を、全員が想起したい。

 下人には職も食も「欠落」しているが、直接その「回復」が果たされるわけではない。「主題」に至るように構造を把握するなら、最初門の下で下人に「欠落」していたのは盗人になる「勇気」であり、最後にそれが「回復」する(勇気が出る)。だがその「回復」の意味が不明瞭だから、解釈が要請される。


 「第六夜」は、運慶が明治の世に現れている不思議が「欠落」で、その「理由」がわかることが「回復」にあたる。だがこの納得感は薄い。だからここでも解釈が要請される。

 では「第一夜」は?


 言うまでもなく女の死が「欠落」を生み、再会によって「回復」する。

 このように理解するときこの物語は、女が百合に姿を変えて会いに来ることで、死に際の約束が成就するハッピーエンドの物語だと考えられる。

 物語前半の喪失による欠落が、試練の末に埋め合わされることで回復するというのは、「物語」の基本的なドラマツルギー(作劇技法)として完璧な要件を備えている。

 もちろん女がそのままの「女」でないことに、ハッピーエンドとしての十全な満足はない。だがその不全感も、喪失感として小説の味わいを増しているのであって、前半の約束が結末への推進力としてはたらく欠落補充の要請は、確かに満たされて終わる。

 だから読者はこの小説を、一編の「物語」として捉えることができている。


 こうした「欠落」→「回復」を大きな背骨とした構造を捉えることは、要約において必要な把握だ。だがそれは「意味」を捉えるような抽象化を伴っているわけではない。

 「第一夜」は「主題」を考えることなく「物語」として読める。


夢十夜 第一夜1 物語として読む

 「第六夜」について「解釈」することは、これが「夢」そのものではなく「小説」という物語として語られる以上、可能なアプローチとして認めてもいいように思われる。

 同様に「第一夜」にもさまざまな謎が、いかにも「解釈」を求めているような顔で並んでいる。なぜ女が唐突に「死にます」などと言うのか、「百年経ったら会いに来る」とはどのような意味か、女は結局会いに来たのか?

 あるいは「真珠貝」「星の破片」「赤い日」「露」は何を象徴しているのか?

 そもそも「女」や「百年」は何を象徴しているのか?

 こうしたいかにも「謎めいた」ガジェットに意味を見出したくなる人情もわかる。文学研究の世界では精神分析の手法を使ったり、漱石の伝記的事実を調べたりして、様々な解釈が行われている。死んでしまう女には、漱石が密かに思いを寄せていた兄嫁のイメージが重ねられている、とか。

 だがそういう、精神分析的分析や伝記的事実に結びつける解釈はどれもこじつけじみて感じられる。小説を読む読者の感動と乖離している。

 だから授業では結局のところこの物語を、「解釈」を目的として「使う」つもりはない。

 では何をするか?


 授業は当該の教材文の理解を目的としてはいない。理解を当面の目標として、言語活動をすることが国語の学習だ。

 「第六夜」では、小説内の具体レベルより一段抽象度の高い「意味=主題」を見出す、というひとつの読みのあり方を示した。

 だが「第一夜」はそのような解釈を必要とせず、既にその魅力が読者には感じ取れている。それ以上にどのような解釈が必要なのか。

 むしろ「第一夜」を「第六夜」のように「解釈」しないことによって、また別の小説享受のあり方を示そう。

 「主題」は作品が可能性として潜ませている、抽象的な「意味」だ。「第一夜」にそんなものは(あってもいいが)なくてもいいとも言える。

 「第一夜」が「第六夜」のような、「意味」を探ろうとする解釈を必要としないように感じられるのは、読者が「第一夜」を、既に「物語として」読んでいるからだ。

 「物語として」読む?


 我々は「第一夜」を「物語として」読んでいる。まるでとりとめもないイメージが散乱するばかりの、それこそ「夢」のようでしかない体験として読み終えるわけではない。

 読者は『夢十夜』の「第一夜」を、夢の感触を鮮やかに再現しつつ、だが創作物としての小説として完成されたもの、いわば「物語として」読んでもいる。


 「物語」とは何か?


 誰でも「物語」という言葉を知っている。使っている。

 だが「知っている」ことがどのようなものかを明示的に表現することは必ずしも容易ではない。「使う」という行為には無自覚・無意識な部分も大きい。

 小説を「物語として」読むという言い方は、「小説」と「物語」とは位相の違った概念だということを示している。

 例えば「物語」を評論と対比することはできない。

 「物語文」と評論を対比することはできる。

 「物語文」・小説・詩・評論などは「文章のジャンル」だが、「物語」はそれとは位相の違う概念だ。

 もちろん評論よりも詩よりも小説の方が「物語」と近親性が高いが、映画・マンガ・ゲームにも「物語」がある。つまり「物語」という概念は文章のジャンルともメディアの種類とも違った位相にある。

 とはいえ小説を「物語として読む」というのがどのような事態なのかを明らかにするためには、小説以外のジャンルの文章が「物語として」読まれない例を考え、それとの対比で「物語」という概念を明らかにするのがわかりやすい。


 文章というメディアにおける「物語」的な文章の代表はやはり小説だ。これを新聞記事と対比させたときに我々が「物語」という概念に見出す要素はひとまず「虚構性」だろう。

 また「一人称の語り手」「登場人物の心情」などの要素も挙がった。確かにそれらは新聞記事にはそぐわない要素だ。

 では随筆・日記はどうか。日記は一人称で「私」の「心情」を語る。友人や家族などの「登場人物」がいる。

 確かにある種の日記は「私小説」に近い。だがそもそも「私小説」は言わば「反物語」たらんとする小説の企てだとも言える。日記と「物語」はそれほど相性が良くはない。

 ノンフィクション、ルポルタージュなどの現実に基づく作品に「物語」を見出すこともある。

 「虚構性」「一人称の語り手」「登場人物の心情」などの要素は「物語」という概念になじみが良いが、それだけで輪郭は確定されない。「物語」がそれを許容するということと必須であるということは別だ。

 少なくとも単にニュースを伝える新聞記事や日記を「物語」と呼ぶことはない。そこには何が欠けているのか。

 さらに(それこそ夢のような)とりとめもないイメージを羅列した文章を「物語」の対比として考える。ここでは虚構性が「物語」を区別する条件とはならない。どうみてもそれが「現実」とは思えない記述が羅列されていて、だがそれを「物語」とは呼ばない、と感ずるとしたら、我々は何をもって「物語」を認識するのか?


 授業では「流れ」という言葉が提起された。確かに日記やとりとめもないイメージの羅列には「流れ」が感じられない。では「流れ」とは何か。

 「流れ」とは、時間軸に沿って提示される情報の間に、何らかの因果関係があるということだ。複数の出来事を時間軸に沿って並列的に述べていっても、我々はそれを「物語」とは感じない。それが「羅列」だ。それらのエピソードをつなげて、それらの出来事間に何らかの「因果関係」を見出す時に、我々はそこに「物語」の気配を感じる。

 だがまだそれだけでは「物語」といえる感触を捉えるには充分ではない。

 「起承転結」という言葉も挙がる。各要素は「因果関係」をもち、そこに「起承転結」といえるようなまとまり・完結性が備わったときに、それを「物語」と感じるのだ。一般的な新聞記事、歴史の教科書の記述にはまとまりがない。

 「起承転結=まとまり」とは何か?


2026年6月29日月曜日

夢十夜 第六夜7 運慶が生きている意味

 「第六夜」の主題は「西洋文明の流入によって、日本古来の文化が失われつつある『明治』という時代に対する冷ややかな眼差し」とでもいったようなものだ。「皮肉」と言ってもいいし「嘆き」と言ってもいいし、ストレートに「批判」と言ってもいい。

 これは「現代日本の開化」の主旨であり、それをそのまま「第六夜」の主題であるとみなしているだけだ。だがそれでいいようにも思える。

 こうした主題を語る上で「芸術」はどんな論理的整合性をもつのか。

 それよりも、次の発想ができれば論が展開できる(あるいは先の見通しがあればこのような発想ができる)。

芸術家=革新/職人=伝統

 この運慶は時代を超越するような形で出現する独創的な天才芸術家ではなく、熟練した職人として描かれている。運慶の仕事ぶりが芸術家としての創作だとしたら、②の問いの「明治の木には」という限定に何の意味があるのかがわからない。運慶の技を伝統的な職人技の発現としてのルーチン・ワークだと考えることによって「明治の」という条件が理解できる。

 職人の技術とは、単に繰り返した修練によって彼個人が体得した技術、というだけではない。それはその技を磨き上げてきた数知れない先人の営みの分厚い積み上げの上に成り立つものだ。運慶が体現しているのは、そうした職人集団の伝統なのだ。

 そして明治の文明開化によって脅かされているものは、天才の芸術ではなく、職人一個人が体得した技術でもなく、日本人の伝統であるはずだ。


 では「開化」という名の文化的な断絶を経験する時代状況において「運慶が今日まで生きている理由」とは何か? 「自分」は「なぜ生きていられるか」「なぜ生きていなければならないか」どちらの理由に納得したのか?

 上記の読解に従って言えば、そのような技を受け継いでいるからこそ運慶は今も「生きていられる」のだと言ってもいいし、運慶が体現する伝統の技は、この明治にこそ「生きていなければならない」と言ってもいい。後者のように言うなら、それは運慶がそう考えているのではなく、やはり我々が運慶に託した期待である。我々が運慶に生きていてほしいと思っているのだ。

 そのとき運慶は、時代を越えて継承されるべき伝統文化の象徴だ。

 だが実はもはや問①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か、の答えは大した問題ではない。むしろ「運慶が生きている理由」という語り手の悟りは、その内容が読者に自明でないことによって夢の感触を表現しているとも言える。だから「自分」が「ほぼわかった」というときに、読者が「よくわからない」と感じていることこそが「夢十夜」の正しい受け止め方だとも言える。

 「第六夜」の解釈において重要なのは「生きている理由」よりも「仁王が埋まっていない」ことだ。


 こんなふうに「第六夜」の主題を捉えた時、次の一節も意味あるものとして物語の文脈に位置づけられる。

裏へ出てみると、先だっての暴風(あらし)で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽きに挽かせた手ごろなやつが、たくさん積んであった。

 ここには「ダルメシアン犬」がいる。そのことは、スキーマがなければ見えてこない。

 仁王の埋まっていない「明治の木」は「先だっての暴風で倒れた樫」なのだ。

 この「先だっての暴風」とは何のことか?


 もはや明らかだ。「暴風」とは1853年の黒船来航に続く幕末の動乱とそれに続く文明開化のことに他ならない。西洋文明の流入は、「あらし」のように日本人の精神を、日本文化を薙ぎ倒したのだ。

 この付合が偶然であるとは到底思えない。「明治の木」の来歴としてさりげなく書き込まれたこのような形容を、漱石が意識せずに書き付けているはずはない。つまりこれは心霊写真ではなく、ダルメシアン犬の写真だ。

 全体を貫く論理が見えてきた時にのみ、その意味がわかるように、漱石はさりげなく、だが明らかに意図的に、こうした形容を付すのだ。


 「第六夜」はこんなふうに「運慶」や「仁王が埋まっていない」を象徴と見なす、物語内の具体レベルから一段抽象度の高い「主題」を想定することで、「意味」がわかったと感じられる小説だ。それは、そのような「主題」を必要としない「第一夜」を受容することとはかなり違った読解体験だ。


夢十夜 第六夜6 運慶が意味するもの

 「第六夜」が何を言っている小説なのかという「答え」はわかった。ここからは、言わば答え合わせのできている状態で、験算のために途中式を確認する。

 ②は前項の通りだから、問題は①と③の論理的整合だ。

 具体的には問③で運慶が表す概念語を③「今日まで生きている理由」に代入して、それを説明するために有用かを検討する。

 そのために、「運慶は芸術家か職人か」という選択肢に変形したことを糸口にする。まず芸術家と職人が意味するものを対比的な言葉に置き換えよう。

 どのクラスでも10組以上の対比表現が挙がった。

 多くのクラスで挙がったのは「芸術家=才能/職人=技術」だ。

 ミケランジェロもレオナルドも運慶も、間違いなく天才なのだろう。

 だが運慶が迷いなく仁王を掘り出せるのは、何万回と重ねてきた技術の研鑽の結果ではないか? それが見る者に神秘的な技と見えるほどに高められた熟練の技術の賜物なのではないか?

 だがむろん「自分」は芸術家でも職人でもない。天才を有しているわけでもないし、熟練の技術を持っているわけもない。

 「自分」個人についてもそれは明らかであるというだけでなく、そもそも「自分」は一個人ではなく「明治人」として物語に登場している。そして「明治人」が特定の「才能」や「技術」を有しているべき必然性はない。

 したがって「芸術家」とは才能を持った者、「職人」は技術を身につけた者と捉えることには、それほど発展的な考察は期待できない。「自分」にそれらが欠けているのは自明なことである上に、「明治の木には」という限定が意味をなさないからだ。


 では「芸術家=独創」はどうか? 芸術家にはオリジナリティが必要だ。

 「独創」の対義語は「模倣」だ。

 結論としての主題の在処が見えているから、それに合わせて筋道をつけることはできる。明治の文化は外国の文化を「模倣」することに汲々として、独自性を失っている。そういう時代にこそ運慶のように「独創」的な芸術を生み出すことのできる存在が生きていてほしいというような言い方は可能だ。

 自分は若い男の言葉を「模倣」する。その若い男の言葉は後述のとおりミケランジェロの「模倣」だ。そこへ仁王を掘り出せないという結末を用意することで、運慶のような「内発的」に生まれた「独創」的な芸術は明治にはもう生まれないのだ、と言っていることになる。

 これは世に流布している大方の「第六夜」の説明に沿っている。

 だが明治に失われた文化を「芸術」の語で代表させることも、それを運慶によって象徴させていると考えることも、授業者にとって納得感が薄い。そもそも授業者がこの問いを思いついたのは、世の「第六夜」論に「芸術」の語が頻出することに常々違和感を抱いていることによる。なぜ「第六夜」の解釈を語る上で「芸術」という語が必要なのか。

 そもそも「芸術」という言葉が「第六夜」を語る上で使われるのはなぜか?


 運慶の迷いのない彫刻作業を、若い男が「あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまで」と表現する。

 こういった表現は、ある種の「芸術」創造についての語り口として見覚えがある。

 実はこの表現はミケランジェロの以下のような言葉から発想されていると考えられる。

  • まだ彫られていない大理石は、偉大な芸術家が考えうるすべての形状を持っている。
  • どんな石の塊も内部に彫像を秘めている。それを発見するのが彫刻家の仕事だ。
  • 余分の大理石がそぎ落とされるにつれて、彫像は成長する。

 おそらく「若い男」の言っているのはこれらの受け売りだ。

 このように表現される創作活動とは「天啓」として降りてくるインスピレーションを形にする行為であり、その時、芸術家は神の声を聴く預言者だ。作品は彼自身が作ったものではなく彼の手を通じて神が地上にもたらしたのだ。

 あるいは「個人」の確立とともに芸術家と職人が区別されるようになった近代では、芸術とは芸術家個人の内面の発露であるとみなされるようになった。石や木の中から姿を現す彫像は、芸術家の精神そのものだ。

 では運慶が「生きている理由」とは、そのような芸術家的何か=神の代弁者か近代的個人が生きている(べき)理由ということなのか。


 だがこうした言い方は、授業者には芸術創造についての神話、神秘思想とでもいったもののように思える。芸術家を、凡人とは違った特別な存在として神秘化しているのだ。

 そもそも上記のようなことを言ったミケランジェロは芸術家か職人か?


 答えは「どちらでもある」だ。

 もちろんミケランジェロの作品を芸術であると言うことを否定する人はいまい。

 だが彼は明らかに職人である。工房に入って親方の元で修行して技術を身につけ、独立してからも自らの工房を開いて弟子をもった。教会や貴族の依頼によって作品を制作した。そのような在り方を普通「職人」と呼ぶ。

 これは例えばレオナルド・ダ・ヴィンチも同じだ。「モナリザ」や「最後の晩餐」は偉大な芸術作品だと見なされているが、それらは注文に応じて制作されたものだ。彼自身、工房で親方について修行し、後に自らの工房をもって弟子とともに作品を制作した。

 運慶もそうだ。仏師とは寺社や貴族の注文に応じて仏像を彫るのが仕事だ。運慶は親方について修行し、後に多くの弟子を率いる棟梁となった。これは我々がイメージする「職人」そのものだ。

 これは何を意味するか?


 芸術家と職人を区別するのは近代以降の発想なのだ。近代以前には芸術作品と工芸品に区別はなかったのだ。職人を意味するフランス語の「アルチザン」は「アーティスト」と語源が同じだ。

 近代以降「個人」の成立とともに、作品は「個人」の内面を表現するものと見なされるようになる。

 一方でそうした作品を、産業革命によって誕生した経済市場に乗せられる「商品」と区別する意識が生まれる。芸術作品は、本来売り買いされることを目的とした商品ではなく、芸術家個人の創作意欲の発露だというのである。一方で職人が作るものは「商品」だ。そうして「アーティスト」と「アルチザン」も対立的な概念として分岐していく。

 そうした前提によって運慶が芸術家か職人かを考えることには意味がない。

 では芸術家と職人をどのような違いとして捉えることが有効か?


夢十夜 第六夜5 主題

 結論に向けて最初に決着をつけるのは、②「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とはどういうことか?  という問いだ。

 「仁王は埋まっていない」は「彫れない」の隠喩的表現であることは明らかだ。だが「若い男」の言葉を受けた「埋まっていない」という表現から、読者は何らかの「意味」を読み取るべきだと促される。

 そこで考える手がかりとして「埋まっていない」が文字通りに意味する「木」の問題なのか、彫れないのは「自分」の問題なのに、それを「木」の問題だと認識している(したがっている)のか、という二択にしてみた。

 「木のせい」ということになれば「明治の木から仁王を掘り出すことは、運慶にもできない」あるいは「鎌倉の木なら自分にも掘り出すことができる」ということになる。だがこの仮定推論には違和感がある。運慶にそれができないとは思えないし、自分にできるとも思えない。

 つまり問題の立て方が間違っている。

 ここには運慶には彫れて自分には彫れないという対比がある。だがそれは運慶という傑出した個人と、平凡な個人という対比ではない。歴史に名を残す鎌倉人と、一明治人との対比だ。「自分」個人の問題ではなく「明治」という時代の問題なのだと考えなければ「明治の木には」という形容に意味を見出すことができない。

 仁王を堀り出せないのは、それが「明治の」木であったからだ。そして「明治の木」とは明治人であるところの「自分」が彫っている木を意味する。明治人の「自分」が彫ろうとすれば、木には仁王が「埋まっていない」のであり、それは明治人の「自分」には「彫れない」ことを意味する。

 したがって「埋まっていない」(木のせい)と「彫れない」(自分のせい)は同じことを意味している。

 つまり問題は「明治の」という条件付けだ。「自分」個人の問題ではなく、「明治」という時代なのだ。


 この想定を確認するため、漱石の講演録「現代日本の開化」を読む。幸い「論理国語」に収録されている。

 これは「夢十夜」連載の3年後に行われた講演だ。

 そこで漱石は、明治の日本の開化がどうだと言っているか?


 外国の圧力によって起こった開化を、漱石は「外発的」で「皮相上滑り」だという。「軽薄・虚偽」とまで言っている。

 これはもはや種明かしのようなものだ。あるいは答え合わせだ。

 つまり「第六夜」はそういう話だ。

 このことは、最初の「第六夜」の読解だけで見当がついていたという人もいる。それは素晴らしい。

 だが重要なのは結論ではない。こうした「主題」は、ネットに溢れる「第六夜」論でもいくつも見ることができる。それを知ることが国語の学習なのではない。

 問題は語り方だ。論の組み立て方、表現の選び方だ。


2026年6月24日水曜日

夢十夜 第六夜4 運慶とは何者か

 もうひとつ考えておきたいことがある。「運慶」とはそもそも何者か?


 「運慶が生きている理由」とは「自分」が「わかった」という「理由」だ。我々がそれを「わかる」べきだというのではない。なぜ運慶が生きているのか、と問われたら、そんなの夢なんだから別に意味はない、と答えてもいい。

 では「なぜ漱石は運慶を登場させたのか?」ではどうか?

 これも、夢なんだからどんな突飛なことだって起こりうるよ、と答えて済ますこともできる。実際に漱石がそうした夢を見たのか、小説のアイデアとして着想したのかも不明だし、考えてどこかに辿り着くという確証はない。

 だが少なくとも、実際に書かれた小説のテクストの中から、運慶がどのように書かれているかを読み取ることはできる。そこには何らかの作者の意図が読み取れる可能性がある。それを問いとして立てる。

③この小説における「運慶」とはどういう存在か?

 もう一つ、こういう問題を問いとして立てるためにはお決まりの言い方がある。

③「運慶」は何を象徴するか?

 「象徴」という言葉がただちに想起された人は考えるためのスキルが身についている。「どういう」という問いはどこをめざして考察すればいいのかがはっきりしない。それに対して「何の象徴」は、最終的に名詞か名詞句で表現するというゴールが明確だ。一方でそれは、飛躍を必要とする難しさもある。適切な名詞が想起されるかどうかはあらかじめ確約されているわけではない。

 両方を適宜行き来して考えよう。


 ①②は素直に「わからない」と感じるはずの謎を問いとして立てた。一方③のような問いの立て方は、小説の読み方として自覚的でないと思い浮かばない。

 運慶が何者であるかは、この小説に書かれていることから読み取らねばならない。

 「運慶は見物人の評判には委細頓着なく」「眼中に我々なし」といった描写から、見物人は運慶を見ているが、逆に運慶からはこちらが見えていないのではないか、と言った生徒がかつていた。単に集中力が高いという以上の意味を読み取ろうとすれば、これは「明治時代に鎌倉時代の運慶が現れた」ということではなく、運慶のいる時空と見物人のいる時空とが、本質的には違った位相にあって、それが一時重なっているように見えるだけだということかもしれない。

 面白い発想だが、これがどこに辿り着くのか、今のところわからない。それよりも注目したいのは次のような点だ。

 運慶が仁王の鼻のあたりを鮮やかに彫り出す動きを描写した後、その手際について見物の若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と語る。この表現が、先の、仁王が出てこないのは「木のせい」か「自分のせい」かという問いを生んでいる。

 このように表現される行為は何を意味するか。


 考えるために、これもまた選択肢のある問いにしてみよう。

③ここに登場する「運慶」は、「芸術家」か「職人」か?

 この問いはいささか突飛なものと感じられるかもしれない。問①②を変形して選択肢を作るには、単に日本語としての多義性を利用して、その意味合いを明確にしようとしたのだった。だが問③の選択肢はそのように、言葉に元々含まれる可能性から発想されたのではない。

 迷いなく仁王を彫れるのは運慶が芸術家だからなのか、職人だからなのか?

 仁王が彫れないのは、「自分」が芸術家ではないということなのか、職人ではないということなのか?

 むろん「自分」はどちらでもない。だがここでは、どちらでないことが重要なのか?


 こういう時はやはり、語るにふさわしい言葉を思い浮かべることができると語り易い。

「芸術家」「職人」それぞれが備えていて「自分」に備わっていないものは何か?

 これを対比的な言葉で捉えると論じやすくなる。


夢十夜 第六夜3 問いを分解する

 「主題」を考えるために、より具体的な小説中の謎(①②)を考える。抽象度の高い問いをいきなり考えようとしても手がかりがないかもしれないからだ。

 同様に、①②を考える上で、さらに問いを分解・変形して考える糸口をつかむ。


②「明治の木には到底仁王は埋まっていない」とはどういうことか?

 「どういうことか」という問いは、包括的であることに意義がある一方で、目標が定まらないから思考や論議が散漫になるきらいがある。

 ②は、「仁王が彫れない」であるはずなのに、なぜ「仁王は埋まっていない」と表現されるのか? という疑問でもある。

 そこでこれを次のように変形する。

②仁王が彫れないのは、「木のせい」か、「自分のせい」か?

 本文は「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」といっているのだから、言葉通りには「木のせい」ということになるが、どうもすんなりと納得はしがたい。なんとなく無責任に過ぎるような気もして、ではどういう意味で「自分のせい」だと言えるかと考えると、ことはそれほど簡単ではない。

 さしあたってこう考える。本当は「自分のせい」なのに、それを「木のせい」と勘違いの悟りを得たということなのか、本当にこの小説の中では「木のせい」だということを意味しているのか?


 同様に①についても分解・変形を試みる。

①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か?

 「生きている」のニュアンスを「生きているべき」と強調してみると、「べし」の意味「すいかとめてよ」のどのニュアンスが含意されているかを考えることができる。

 「今日まで生きている理由」とは「生きていなければならない理由」なのか、「今日まで生きていられた理由」なのか?

 複数の選択肢に分けて考えることは、思考を活性化させるために有効だ。人間の思考は、物事の対比において、差異線をなぞるようにしか成立しない。どちらが正解かを決定しようとしているわけではない。だがどちらが適切だろうか、と考えることで、文中から根拠となるべき情報を読み取ろうとすればいい。


 また「運慶が今日まで生きている理由」とは、誰にとっての「理由」なのか?

 運慶自身にとっての「理由」なのか、我々(語り手)にとっての「理由」なのか? つまり「運慶にとって自分が今日まで生きている理由」なのか、「我々にとって運慶が生きている理由」なのか?

 「生きていられる」は「べし」を可能の意味で解釈している。「生きていなければ」のニュアンスの場合、運慶自身にとってならば「べし」は意志だろうし、我々にとってならば「べし」は当然か適当だ(「命令」)?。

 これらは単に日本語の解釈の可能性を押し広げて創作した問いだ。二つの選択肢の組み合わせで4つの解釈ができる。

  1. 運慶が考える、自身が生きていられる理由
  2. 運慶が考える、自身が生きていなければならない理由
  3. 運慶が生きていられると『自分』が考える理由
  4. 運慶は生きていなければならない、と『自分』が考える理由


 上記の二択すべて、とりあえず現状の考えを聞いてみると、皆の立場は分かれる。

 自分は最初からあるニュアンスでその表現を受け取ってしまって、その上でその先を考えていたはずだ。違うニュアンスで読み取る可能性を検討した上で、それを否定したわけではない。公平にどちらか、と考えてみる。

 といってこれらの選択肢は、どれかを排他的に正解とすることを目指すのではない。どちらであるかを考えることが、思考を推し進めていくことに資すれば良い。

 このようにニュアンスを細分化することで、ここで明らかにしなければならない論理の筋道を互いに共有するのだ。


2026年6月9日火曜日

夢十夜 第六夜2 問いを立てる

 読解にあたって最初に立てるべき問いは決まっている。

「第六夜」の主題は何か?

 「第六夜」はつまり何を言っている小説なのか?

 常にテキスト読解にとって必要最小限にして最大の問いだ。とはいえいきなりこの問いに答えるのは難しい。随時この問いを思い出して、現在の位置付けや全体の意味づけを確かめる。


 次に、もっと具体的に、本文から導かれる問いを立てる。「羅生門」でいえば「下人はなぜ引剥をしたか?」だった。「羅生門」がとりあえず「わかった」と思えるために最低限解かねばならぬ謎だ。

 「第六夜」でこれにあたる問いは自明だ。

①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か?

 読んでいて、これを疑問に思わぬ者はいまい。

 末尾の一文で、「自分」はこの「理由」が「ほぼわかった」という。だが読者にはそれが自明なわけではない。なのにそれが何かを語ることなく小説は終わる。語り手が「わかった」というものを読者がわからないままに済ますわけにはいかない。いかんともしがたく「解釈」の欲求を誘う記述だ。

 これは「なぜ運慶が今まで生きているのか?」という問いではない。読者がその「理由」に納得したわけではないし、すべきかどうかも定かではない。夢なのだからそんなことに答えなくともよいのだ、ともいえる。

 ただ「自分」は何事かを得心したのだ。それがどのようなものであるのかを問うている。

 そうだとしてもやはり「答えは、ない」と答えることもできる。夢で我々は何かに奇妙な納得をしていて、だが起きてから考えても、なぜ夢の中ではそんな納得ができたのかが不思議であるような不思議な思考をしている。その不条理をとりあえず引き受けたところに「夢」の感触がある。とすれば「自分」は何事かを納得しているが、そこに読者が共感できるような中身はないかもしれない。

 だがそう即断せずに、漱石は何らかの「理由」を想定していて、それにあわせて物語の展開や描写をしている可能性も考えてみる。だとすればこの「理由」は、この小説が何を言っている小説なのか、という全体の理解の中に位置づけられるべきである。物語の締めくくりに置かれたこの「自分」の悟りが小説全体の「意味」を支えていると思われるからだ。

 ではその「理由」とは何なのか?


 さらに補助的な問いを立てておく。これもまた全ての読者に共感されるはずだ。

②「明治の木には到底仁王は埋まっていない」とはどういうことか?

 ①を明らかにするためには、まず②を解決する必要がある。②の認識によって、「それで」①が「わかった」と「自分」は言っているからだ。

 さて、「仁王は埋まっていない」とはどういうことか? という問いにどうアプローチしたらいいか?

 「仁王は埋まっていない」とは「仁王が掘り出せない=仁王像を彫れない」の隠喩だ。この隠喩で表される認識は「彫れない」という事実と同じだろうか? なぜ「仁王が彫れない」ではなく「仁王は埋まっていない」なのか? なぜそれが「到底」なのか?

 論理の順としては「主題」→②→①のはずだが、これは互いを根拠として成立する論理なので、順番通りである必要はない。補い合って一筋の論理となるよう考えを進める。

夢十夜 第六夜1 授業の目標

  「文豪」という名称に真にふさわしい小説家は、日本では夏目漱石と森鷗外が双璧だ。芥川龍之介も太宰治も、ノーベル文学賞を受賞した川端康成も大江健三郎も、受賞を期待されていた三島由紀夫も村上春樹も、漱石鷗外ほどには「文豪」の名称には似つかわしくない。

 別格二人の作品がどのようなものかは、今年度後期に漱石「こころ」、来年度に鷗外「舞姫」を読む時にたっぷりと味わってほしい。

 「こころ」に比べると小品だが、前期は漱石の「夢十夜」を読んでおこう。


 「夢十夜」は、夢(ということになっている)お話を、原稿用紙4~5枚の長さでまとめた連作短編であり、114年前の新聞に十日間にわたって連載された。

 テキストは「青空文庫」にもある。100年以上前の作品だ。著作権も切れている。

→青空文庫「夢十夜」

 テキストを見易い画面で見せてくれるサイトもある。

→えあ草紙

 YouTubeには朗読動画もいっぱいある。



 多くの1年生用「言語文化」教科書に「第一夜」と「第六夜」が収録されている。我々が使っている教科書には収録されていなかったが、まあ全国の高校生と教養を共用するということで、今回の授業でもこの二編を読む。

 授業は、『夢十夜』の二編を読み、それを読解しながら、「小説を読む」という行為自体を客観視することを目論む。

 これは昨年の「羅生門」でもそうだった。「羅生門」の理解など、授業の目標ではない。だがみんなは「羅生門」を「理解」しようと努めなければならない。その目標に向けた考察や議論が国語科の学習になるはずだからだ。併せて、「小説を読む」という行為がどのようなものかを体験するケーススタディになることを期待していたのだった。

 今回もそうだ。『夢十夜』の理解が目的ではない。読解を「体験」をするのだ。


 最初の通読は「第一夜」「第六夜」の順でいいが、読解は「第六夜」から行う。これは、「第六夜」の方が一般的なイメージとしての「読解」に適しているからだ。「第一夜」は、ただ読んで味わえば良い、といったたぐいの小説であるように思える。それ比べて「第六夜」は「解釈」ができそうなのである。

 ともかく、読んだだけでは何かわりきれない感触が残る小説には、何らかの「解釈」が欲求される。それは読者としての人情というだけでなく、国語科学習の好機だ。「解釈」は小説読解にとって必須の行為ではなく、国語科学習にとっての好機なのである。それは決して教師によって提示されるべきものではなく、生徒自身が取り組むべき課題だ。


 「夢十夜」は「夢」という体裁をとった小説だから、物語の筋立てにせよ、情景の描写にせよ、いちいち明瞭な、見慣れた、自明の「意味」をもたない記述に満ちている。「夢」だという建前を信ずるならば、それらを既存の「意味」に落とし込むようないたずらな「解釈」は必要ないかもしれない。単に不思議な話として受け取れば良いのかもしれない。

 だが、これが少なくとも「小説」という器に注がれて我々の前にある以上は、それに対して作者と読者である我々の間にコミュニケーションの成立する可能性はあるはずだ。夢そのものでさえ、語られる以上は精神分析という「解釈」の対象となりうる。小説という「作」品にそれができないと断ずる必要はない。

 まして授業という場では、その「意味」をめぐる考察は国語学習の好機となるべく期待をしても良いかもしれない。そして「第六夜」はそうした考察の対象となりそうな感触があるのだ。やってみよう。

 なおかつ、そうした「解釈」をすることは、後に続く「第一夜」の読解の特殊さを意識するための伏線にもなる。


2026年5月31日日曜日

思考の誕生 10 物語としての自己

 これは軽く読み切る。「読解」というほどの労力も必要としない。

 それよりも、これはまあ呆れるほど、今まで読んできたあれこれの文章の論旨と共通した論旨が語られる。それらを思い出せればOK。


 まず昨年来の文章。「共に生きる」「視点を変える」両シリーズのあれこれ。

 「ほんとうの自分」という表現が出てくる。そのまま「ほんとうの『わたし』とは?」だ。「偽の自分」も聞き覚えがある。

 どんな論旨が共通している?


 わたし=自分とは完結した存在ではなく、他人との関係によってできるのだ。だから「本当の自分」などという幻想に囚われる必要はない。「偽の自分」などという必要もなく、それはそうした局面で他人と関わる中で出来た「分人」のひとつなのだ。

 平野啓一郎の「分人」というのは流行りのキーワードでもあるから、この際思い出しておこう。


 さらに、「支配的な物語」は「大きな物語」だ。ということは「空虚な承認ゲーム」。となれば「近代」をつないで「〈私〉時代のデモクラシー」もつながってくる。

 どんな論旨が共通している?


 「物語」が我々の精神・認識・思考を形作る。近代以前にあった「大きな物語」、例えば宗教や、近代では「民主主義」だったり「個人の自由」だったりが人々に共有された。ところが、現代それらは共有の拘束力を弱め、小さい共同体にのみ通用する「小さな物語」によって人々は自分の存在を確認しようとしている…といったところか。


 上記二つの論点は「共に生きる」シリーズで、「視点を変える」シリーズからも共通した論旨を抽出しよう。

 「視点を変える」といえばスキーマとゲシュタルトだ。

 これが何に対応してるか。

スキーマ=物語

ゲシュタルト=自己

 であることが把握できれば良い。

 対応しているということは同じ文型にはまるということだが、そもそも同じ文型にはまることがわかっているから対応していると思えたはずだ。

 「スキーマによってゲシュタルトができる」は、認識という現象を説明しているが、これを「物語によって自己ができる」といえば、そのまま野口が言う自己認識のことだ。

 「によって」ということは、それが認識を制約することにもなるということだ。スキーマが認識を方向付け、かつ制約する。

 これもまたそのまま野口が言っていることだ。物語が自己認識を方向付け、制約もする。

 

 さて今年度は、言うまでもなく「物語」が共通項になるのだが、「物語るという欲望」はそれほど共通した論旨が汲み出せるわけではない。それよりも「他者の言葉」に共通した論旨が見てとれる。

 どんな論旨?


 つまりは「物語」というのはスキーマだ、と言っているのだな、と読み取れればよい。「物語」が現実理解を制約する=洞窟の中に我々をとじこめる。


 「物語」が我々の精神・認識・思考を形作るのだが、それは何より「物語る」ことによって、それを内面化することによってそうなるのだ。「物語」がストックフレーズ(他者の言葉)として他者からもたらされるというだけでなく、我々はそれを他者に「語る」ことによって、自分をそのように形作っているのだと、内田も野口も言っている。


 以上、なんだかここ1年余りの評論の総復習みたいな文章なのだった。


2026年5月27日水曜日

思考の誕生 9 小論文「思考の誕生」と「他者の言葉」

 さて、例によってAIにも以上の考察をさせてみる。せっかくなので「スキーマ・ゲシュタルト・フィルターバブル」という言葉を使うことを条件づけた。


Copilot

 両者に共通する論旨は、思考や認識が個人の内面から自律的に生まれるのではなく、すでに社会に流通している言葉や他者との関係によって形づくられるという点にある。内田は、外国語を用いるとき、話者はその言語に内在する価値観や世界把握の枠組みを無意識に引き受けてしまうと述べ、言語が思考のスキーマとして機能することを明らかにする。

 その結果、私たちは特定の見方を自然なものとして受け入れ、世界を一つのゲシュタルトとして把握してしまう。蓮實もまた、「自分で考えること」が独立した思考であるという通念を否定し、思考は他人が考えたこととの遭遇と葛藤を通じてのみ生まれると論じる。ここでも思考は、既存の言説から切り離された純粋な内面活動ではない。

 両者は、言葉や他者から自由であろうとする態度そのものが幻想であることを示している。むしろ、人は特定の言語的・社会的環境というフィルターバブルの内部で思考しており、その制約を自覚することからしか、思考の更新は始まらない。内田と蓮實はいずれも、その困難で痛みを伴う自覚こそが人間の思考の条件であると考えている。


ChatGPT

 内田と蓮實は、ともに人間の思考は孤立した個人の内部から生まれるのではなく、他者や言語との関係の中で形成されると論じている。内田は、言語にはその社会の価値観や世界認識が埋め込まれており、他者の言葉を使うことは他者の精神を内面化することだと述べる。人は自分で自由に考えているつもりでも、実際には既存のスキーマに沿って世界を理解しているのである。

 また蓮實は、「自分で考えること」を重視する風潮を批判し、思考は他者との遭遇や葛藤の中で生まれると述べる。人は経験や知識をもとに世界をまとまりとして把握するゲシュタルトに依存するため、自分の見方を絶対視しやすい。しかし異質な他者との接触は、その固定化した認識を揺さぶり、新たな思考を生み出す契機となる。

 さらに両者は、人間が自分の属する閉じた認識世界から容易には抜け出せないことも指摘する。内田のいう「洞窟」は、現代でいえば似た価値観ばかりが反復されるフィルターバブルにも通じる。他者との出会いによって自分の限界を知り、変化を引き受けるところに、本当の思考の成立があると両者は考えている。

 AIは総じて頭括型のまとめ方をする。アメリカ型の論文の書き方だ。

 冒頭に「共通する論旨」がまとめられている。

・思考や認識は個人の内面から自律的に生まれるのではなく、すでに社会に流通している言葉や他者との関係によって形づくられる

・人間の思考は孤立した個人の内部から生まれるのではなく、他者や言語との関係の中で形成される

 これらは昨年の「共に生きる」シリーズの考え方としておなじみだ。


 もう一つの代表的AIにも書かせてみる。

Gemini

 私たちは常に、すでに存在する言葉や他者の思考というスキーマに拘束されて生きている。内田は、言語が中性的な道具ではなく他者の精神そのものであり、私たちはその言語的環境から抜け出せないという洞窟の比喩を用いた。蓮實も、純粋に自分ひとりで考えることの不可能性を説き、自律的と思える思考も既成の枠組みの反復に過ぎないと指摘する。

 このように、個人は言葉や知識のフィルターバブルに閉じ込められており、そこから自力で脱することは極めて困難である。私たちは言葉を通じて世界を都合よく統合し、自らのゲシュタルトを形成してしまうため、その内側に安住しがちになる。

 したがって、真の思考とは、この閉ざされた空間に安住することではない。内田の言う言語の制約という難問に直面し、蓮實の言う異質な他者との残酷な葛藤に身を晒すことで、自己を変化させていくプロセスにこそ共通する論旨がある。


 これもまた、「共通する論旨は」とは言わないものの、冒頭の一文が「共通した論旨」だ。

  • 私たちは常に、すでに存在する言葉や他者の思考というスキーマに拘束されて生きている

 これは前回確認した「視点を変える」の考え方だ。これもまたみんなおなじみのはず。

 二つの「共通する論旨」を結びつけるとこうなる。すなわち、他人の思考との関係で自分の(と思っている)思考が生まれるのだが、それはつまり、無自覚に他人の思考に拘束されているということでもある。

 ここから「洞窟から出る苦痛=思考の誕生の残酷さ」を引き受ける、という両者の主張=決着点へ論を進める。

 ちなみに、今回授業者の書いたものは上記のAIのものとはけっこう違っていて、どれがそうかクイズは出してもしょうがない感じだった。

 以下。

 内田は、我々の思考や感情(精神・観念・価値観…)が言語によって作られると述べる。すなわち我々は言語の作るフィルターバブルの中にいるのである。このことを内田はプラトンの「洞窟の比喩」で説明する。「私たちそれぞれの言語は私たちそれぞれの洞窟であ」り、洞窟の奥の壁に映る影絵芝居は、言語というスキーマによって立ち上がるゲシュタルト、すなわち我々の認識する世界の姿である。

 洞窟の外に出るには「他者の言葉」と出会わねばならない。そこに蓮實のいう「思考の誕生」の契機がある。

 だがそれは簡単なことではない。蓮實の言う「一人で考える」ことは自分の洞窟の中から出ないで考え(たつもりにな)ることだ。それは、実は洞窟の外から射す光=世間で流布する言説が壁に映す影絵を見ているに過ぎない。

 これは内田が語る、ストックフレーズ=決まり文句による借り物の思想に対応している。それは「他者の言葉」に由来するが、もはや内面化されて「自分の言葉」になっている。あるいは自己を投影した「他者」は、言葉通り自分の「影」だ。自分の影と対話しても洞窟という夢から覚めることはできない。

 だから本当に「他者」と出会うことは難しい。蓮實はそれを「希薄で残酷な体験」と言う。心の弱い人間は、もとの洞窟に戻してくれと泣訴する。だが「人間」の名に値する者は、その残酷さ・苦痛を引き受けなければならないのだと二人は若者に呼びかける。



 

2026年5月21日木曜日

思考の誕生 8 他者の言葉

 内田樹の文章は「現代の国語」の教科書にも「ちくま評論入門」にも載っているが、昨年度はどちらも読まなかった。そのかわりに「ことばとは何か」を読んだが、これは今年度の「現代の国語」に、若干収録部分は短くなって、載っている。

 さてここでもう一本、内田の文章を読む。「ちくま評論入門」の「他者の言葉」。

 これはここまでの議論にどう関わってくるか?


 急いで論旨をたどるため、ここでも一文要約をする。

 ただしこの文章は途中から論旨の方向が変わっているように思えるので、前後で一文ずつ。

  1. 他者の言葉は他者の精神を表している。
  2. 我々は皆洞窟の中にいる。

 この二文はどういう論理展開になっているのか?


 これが昨年度の「視点を変える」シリーズにも重なることに気づかねばならない。どこが?


 「視点を変える」といえばスキーマとゲシュタルトだ。

 前半をスキーマとゲシュタルトという言葉を使って言い換えよう。

我々は言語というスキーマによって外界を認識している。
言葉が違えばゲシュタルトも違う。

 後半はフィルターバブルという言葉を使って言い換えよう。

 フィルターバブルは、認識される情報が制限されることを言う比喩だ。これがプラトンの洞窟の比喩に似ていることはすぐわかる。本文では「言葉が洞窟だ」と言っているから、つまり我々は、言語というスキーマが認識を決定する「フィルターバブル=洞窟」の中にいるのだ。

 「他者の言葉」はこれでよし。これを「思考の誕生」に重ねる。

 共通した言葉が接点になるというのがこれまでの常套手段だったから、「他人」と「他者」が結びつけられそうではある。

 さらにここでは印象の類似を想起しよう。ダルメシアン犬が見えることと星座が見えることが似ていると直観したように。

 何か?


 「思考の誕生」で、思考の誕生が「残酷」と表現されていることと、「他者の言葉」で、洞窟の外に引き出されることを「苦痛」だと表現されていることが、まず「似ている」と感じられる。

 これを論理づける。


 前の「物語るという欲望」との読み比べでは、「物語る」が「主張」の明確でない文章だったところに「思考の誕生」との齟齬が生じた。

 だが「他者の言葉」はそれに比べると「主張」がある。わかりにくいが、最後の2文は是非を語っている。

人間は「洞窟の外」へ引き出されるという宿業を負っている。というより、そのような苦痛を引き受けるものだけが「人間」と呼ばれるのである。

 これは「人間」ならば苦痛を引き受けるべきだという「主張」だ。

 この主張が「思考の誕生」と重なってくる。蓮實は残酷さを引き受けるべきだと東大新入生に呼びかけている。

 これを前半の論旨から展開する。

 今回の読解では、それを小論文にまとめる。


思考の誕生 7 物語るという欲望

 「思考の誕生」がすっきりと解釈しきれたとは言わないが次の文章を読む。内田樹の「物語るという欲望」。

 内田樹は去年も読んだ。どれ? 「ことばとは何か」の人だ。

 これと「思考の誕生」とのつながりは、にわかにはわからないはずだ。

 接点は何?


 まず一文要約する。

 前から何度かやったのは題名を使うという方法だ。

物語るという欲望→人には物語るという欲望がある。

 これはまだまだ大事なところを言っていない感じがする。

 一文要約の核心は、主題を示す主述の組み合わせを選ぶことだ。

 みんなに聞いたところ、上のように「人(私たち)」を主語にしていたのは半分くらい。もう半分の人は「物語(物語ること)」を主語にしていた。

「物語」は亀裂を弥縫する解釈から生まれる。

 両者を混ぜると例えばこんな感じ。

人は亀裂・断絶に架橋して「物語」を作りたがる。


 読解のスキルとして「一文要約」以外に「対比をとる」「問いを立てる」などを練習してきた。

 もう一つ、「言い換えの表現をマークする」ことも推奨したい。

 キーワードとなる「物語る」は、文中でどのように変奏されているか?


 次のような言い換えが見つかればOK。

脈絡づける・解釈する・橋を架ける(架橋する)・読み込む(書き込む)

 「読み込む」と「書き込む(書き加える)」が言い換え可能な表現であると見なせるところが面白い。

 同様に、おそらく気になる「何もないところ」の言い換えを探そう。

 ひとまず「亀裂・断絶・飛躍・穴・隙間」を指摘したい。

 これ以外にもう一つ、この文章特有の表現はなかなか出なかった。なぜだろう。

 「反ー物語」がそうだと指摘できれば上出来。これが出てこないのは単に見慣れない表現に警戒しているということか、上の比喩とは違った位相にある表現だ(抽象度が違う)と感じられるからだろうか。


 これらの言い換えは、先の要約の一文で、入れ替え可能なはずだ。言い換え表現だとみなせるというのはそういう意味だ。いくらかは助詞や目的語を調整する必要はあるにせよ。

 こうした言い換えが自由に使いこなせる方が、論旨の共通性を捉えやすい。


 では「思考の誕生」との接点を探ろう。

 共通するキーワードは見当たらない。対応する言葉を探す。

 どのクラスでも「場所と経験」との読み比べで取りあげた「投影」が「解釈」に対応しているのではないかという指摘が相次ぐ。

 それよりやや少数ながら「思考」と「物語」が対応しているという意見も出る。

 やはり少数ながら、もう一つのキーワード「反-物語」が「他人(性)」に対応するのではないかという意見も出る。

投影―解釈・脈絡・架橋…

他人―断絶・亀裂・反-物語…

思考―物語

 言い換えが、同じ文中にあてはまることで確認されるように、対応も同じ(と見なせる)文型にあてはまることで確信できる。

 「他人に自己を投影する」は「断絶を脈絡づけて解釈する」に対応しているように思える。

 「思考が誕生する」は「物語が発動する」に対応するのだろうか。「思考が発動する」と言っても良さそうだし、「物語が生まれる」と言っても良さそうだ。


 だがこれらを一続きにしようとすると問題があることがわかる。一文にしてみると、どちらか一方の文章の主旨に反することになるのだ。例えば上の対応を単純につなげてみる。

  1. 断絶を脈絡づけて解釈することで物語が生まれる。
  2. 他人に自己を投影することで思考が誕生する。

 上が「物語るという欲望」の論旨に適っているとしても、下は「思考の誕生」の論旨にまるで反する。「投影」していては「思考」は生まれない、と蓮實は言っているのだから。

 もちろん逆にしてもだめだ。

他人に自己を投影することでは思考は誕生しない。

話の前後を脈絡づけて解釈しても物語は生まれない。

 内田の論旨にまるで反している。


 どう納得したらいいか?

 上の対応が間違っているのか?

 いやそもそも二人の主張が違っているから反していていいのだ?

 そんな単純に思考を放棄して納得せず、二人の論旨のどこが共通していて、どこで分かれるのかを見定めよう。


 上の3段の対応がそれなりに対応していることを示すために、3段とも使った一文も作れることを示そう。いささか表現に微妙なコントロールが必要だが、できないわけではない。

  1. 脈絡のない断絶に物語が生まれる。
  2. 自己を投影していない他人との間に思考が生まれる。

 これならば内田・蓮實双方の主旨に適う。つまり上の3段は対応しているのだ。

 にもかかわらず最初は上記のような食い違いが生ずると感じた。これはなぜか?


 どちらにも論旨が適うように書いた文型と、論旨が食い違ってしまう文型で表した内容はどういう関係になっているのか?


 共通する文型で表されているのは、つまり共通する認識なのだ。

 だがそれぞれの文章は、その方向性、決着点が違う。最初に表現しようとした文型はそれを表しており、そこに食い違いが生じているのだ。

 このことをうまく説明しよう。


 もう一度、共通する認識を並べてみよう。

  • 他人とともに考えることで思考は生まれる。
  • 断絶のあるところに架橋することで物語は生まれる。

 こう提示すれば、呆気ないと感ずるかも知れない。だがまあそれを切り取ってみせるのがそれほど簡単ではないが。

 これを裏返して、内田の論旨を明確にしてみる。

断絶のないところには物語は生まれない。

 これと対応する論旨を蓮實の用語で表現する。

  • 他人性が希薄だと思考は生まれない。
  • 他人に自己を投影していると思考は生まれない。

 蓮實が「自分で考えることは大事」という言説が喧伝されることを「危険」だというのは、この認識に基づいている。自分だけが宇宙に一人でいるだけでは何の断絶も亀裂もない。断絶・亀裂は異質な他人との間にある。だが他人に自己を投影したのでは、それは「他人」ではない。自分のコピーだ。断絶はない。そこには思考は生まれない。


 とすると、人は断絶を埋めようとして解釈をするが、そうして物語が生まれたとき、そこで思考は死ぬ。

 内田の文章は、そのことの是非を語っておらず、ただ人間はそうしたがるものだという認識を語っている。

 だが蓮實の文章はそれを非だと言っているのだ。 

 思考を始めるためには他人と出会わなければならない。蓮實が「あなたの知性は、その希薄さと残酷さへの感性をはぐくむために費やされねばなりません。」という「希薄さと残酷さ」はそうした自分と他人の間にある断絶を見つめ続けなければならないというメッセージだ。

 内田が「欲望」というのは、断絶から目を逸らして「もっともらしい」認識に安住したがる人間の傾向を言っている。

 だが次の文章では、内田もそのことについての是非を語る。


2026年4月24日金曜日

思考の誕生 6 場所と経験

 「他人とともに考える」ことを称揚する主張は「共鳴し引き出される力」などと共通する論旨だからわかりやすい。

 だが「自分で考えることは大事」だと誰もが言う風潮は「危険な兆候」だという蓮實重彦の問題意識が同じようにわかりやすいとは言い難い。特に「蔓延」などという物騒な言葉を使う問題意識は何を衝いているか?


 だがこれ以上「思考の誕生」の中で理屈をこねていても、中で循環して実感にはつながりにくい。こういう時は別の文章と読み比べる。

 相手は柄谷行人「場所と経験」。


 柄谷は蓮實とともに80年代には批評界・思想界のラスボスの東西横綱のように遇されていた批評家だ。

 彼らが80年代以降の思想界に大きな影響を与えていることは間違いないのだが、二人の多くの文章はともかく難しすぎて、あるいは語註の必要のある記述が多すぎて、教科書に載りにくい。大学入試にも出題されない(蓮實重彦の文章を問題にして「正解」など作るのは、どこの大学教師にとってもどれほど恐ろしいことか)。

 だが「思考の誕生」は大学新入生向けということで完結しているし、「場所と経験」も、比較的軽いエッセイとして雑誌に載ったものだから、かろうじて教科書に載りうる。「場所と経験」は、かつて「現代文」の複数の教科書に載っていた。


 「場所と経験」という文章の問題意識は、文章の印象がそれほど堅くないのと裏腹に、「思考の誕生」と同じようにわかりにくい。それがどのようなものかを捉えるために両者を読み比べることは、実は両者の問題意識に通ずる(それがどのようなものかは今はわかるまいが)。


 読み比べるには、まず共通点の把握だ。

 キーワードを対応させる。それぞれの文章に共通している語があればいいが、そのままでなくとも、対応していると見なせれば良い。

 「抽象的」はストレートに共通しているのですぐに挙がるとして、それ以外には?

 重要そうでいて、それに対応する語が他方にもある語…。

「場所と経験」

擬似的 感性的 他者 経験 知識 均質 意味づけ 

抽象的 具体的 他人 体験 思考 希薄 投影

「思考の誕生」

 多くのクラスでこのあたりが挙がった。

 これらを対応させようとする思考が、既に論旨の構造化、すなわち読解だ。「他者/他人」とか「経験/体験」あたりは字面の共通性もあるから見つけやすいが、「意味づけ/投影」をE組でH君が挙げたのは慧眼。

 「対応している」と思えるというのは、明示的かどうかはともかく、ある同じ構造の中に位置付けられるという感触を得ているということだ。

 「同じ構造」であることを示すためにどうするか。

 文を作る。

 同じ文型に対応する言葉が入って、それぞれの文章の内容を表していると思えれば、それらが同じ論理を語っているということになる。


 まずこれらの言葉を使った短文を作る。全部を一続きで一文にしなくともよい。2~3語を含むように短文を作っていく。

 そして、なるべく文の形を保ったままもう一方の文章の対応する語に入れ替えて、文の形を整える。

 最初の短文はどちらの文章から切り出しても良い。当然そちらの文章の内容を表しているわけだが、それをもう一方の言葉に入れ替えて、もう一方の文章の内容を表しているかを確かめながら細部を調整する。


 試みにひとつ。

 「場所と経験」のキーセンテンスはどれか?

 キーセンテンスというのはキーワードなどと同じく、重要な一文、という意味だ。

 多くの人は末尾近くの次の文がそうだと感じられるはず。

視たものだけを視たということのほかに、どうしてわれわれは真に「知識」をもつことができようか。

 まずこれを反語でない文(反語文に対する平叙文)にする。

視たものだけを視たということからしか、われわれは真に「知識」をもつことができない。

 これが最も簡便な言い換えだろう。この「できない」は打ち消しではない。限定だ。これをさらに「~できる。」という平叙文に言い換える。

視たものだけを視たということからのみ真に「知識」をもつことができる。

 これで「知識」を使った文が切り取れた。

 もう一つ、前の段落の次の文がこの言い換えであることに気づくだろうか。

生きた他者を見ずして、私は「人間」について何を知ることができるだろうか。

 これも同じ言い換えをしてみる。

  • 生きた他者を見なければ「人間」について何を知ることもできない。
  • 生きた他者を見ることからのみ「人間」について何かを知ることができる。
  • 「人間」について知るには、生きた他者を見るしかない。

 これで「他者」が切り取れた。

 この二つの文を混ぜる。

生きた他者を見ることからのみ真に「人間」についての「知識」をもつことができる。

 これを「思考の誕生」からピックアップした言葉に言い換える。

生きた他人とともに考えることによってのみ真に思考を始めることができる。

 こんなふうにそれぞれのキーワードについて文を作っていく。


 「意味づけ/投影」はどちらも動詞にできるので、実は対応させやすい。

 「抽象的」は共通しているにもかかわらず本文中での使い方がけっこう違っているので、文の形を合わせるのが難しい。だがどちらも主要な対比の中で否定側を形容するという意味ではやはり対応している。

 「均質/希薄」はどちらも形容動詞なので品詞としては揃っているが、やはり原文の前後が一致しない。「均質な空間/他人性が希薄」が対応しているのだ。これを同じ文型にするのはいくらか難しい。


 ある程度は生成AIのように、いきあたりばったりに言葉をつなげていって、同時に内容が原文と離れていないかを意識しつつ、文を作ることもできたほうがいい。だがこれはなかなかに難しい。

 基本的には本文中から切り取る。本文中での使い方を無闇に変えてはいけない。とはいえ簡潔な形で完結するよう文の形を整形する。

 「意味づけ」は「テレビの中で見聞きしたできごとに」「意味づけする」だし、「投影」は「他人に自己の内面的イメージを」「投影する」だ。これが対応するように作文する。

 例を一つ。

  • テレビの中のように均質な空間の中で起こっている出来事に意味づけしてもっともらしさを確保しても、それらは抽象的な出来事にすぎず、真の「知識」にはならない。
  • 「他人性」が希薄な他人に自己の内面的イメージを投影して対峙しても、そこに生まれるのは抽象的な思考にとどまり、本当の「思考」とはいえない。 

 これはいささか欲張りすぎだ。地道にやろう。


 ここに表れている問題意識は捉えられてきただろうか?

 次の文章を読む前に、問いをもう一つ。

 「自分で考える・個性・独創性の推奨」は「抽象的」「危険な兆候」として否定的に言及されている。

 また「『他人性』を希薄にする・他人に自己を投影する」も「問題」「蔓延」などと同様に否定的に表現されている。

 前者は後者の「風土」の上に生まれる、と言っている。この論理的つながりは何か?


 これは表現することが容易ではない。

 論理的つながりという前に、両者は正反対の方向性をもっている。何か?


 何かと聞いてB組のYさんが即答する。さすが。

 「自分で考える」は自分と他人が違うことを、「他人性を希薄にする」は同じであることを志向している。正反対の方向性だ。

 これが同じ根っこから生まれることをどう説明するか?


 「みんな同じ」と「みんな違う」が同居している状態については、前項でも昨年度の考察を確認した。

 これらを例えば因果関係のように表現することもできる。みんな同じになってきたので、その反省から個性化を志向しているのだ、などと。

 仮に「自分で考える」ことの推奨の心理がそのようにして生まれるとしても、蓮實はどちらも同じように否定している。蓮實は何を問題にしているのだろうか?

 両者に共通する要素・要因をどう言葉にすればいいか。

 例えばC組Y君は、それを「自己完結的」という言葉で表現した。

 こういうキーワードを見つけることができれば、その共通性をいくらかなりとたどることができる。

 だがこの問題は後で振り返る。


2026年4月21日火曜日

思考の誕生 5 希薄な「他人」

 なぜ現代社会では「他人性」は「希薄」になったか?

 直前の言い換えを使えば、上の問いは、なぜ「『他人』たちが、充分に『他人』として意識されがたい風土が蔓延し」ているのか? ということだ。

 また文末の「あなたの知性は、その希薄さと残酷さへの感性をはぐくむために費やされなければなりません」を使うならば、なぜ「希薄さ」への感性は鈍くなったのか? ということだ。

 本文ではこれがなぜかは説明されていない。昨年度以来の考察から「他人性」の「希薄」さという「風土」が成立したわけを説明しよう。

 なぜ現代社会では「他人性」は「希薄」になったか?


 前の考察を使うならば、思考とは自分一人で考えることだという、個人を完結して完成されたものと見做す近代的「個人」観から説明できそうではある。「個人」はカプセルの中に閉じこもって「他人」と隔絶されている、だから「他人性」は希薄なのだ…。

 例えば「『つながり』と『ぬくもり』」などでは語られていたのは、近代における個人の誕生は、やがて個人の孤立へといたるという認識だ。

 だが「『他人性』が『希薄』」は、「互いに自己の内面のイメージを投影しあうことが他人を理解することだと思われてしまう」と並列的な言い換えになっている。これと「個人の孤立」という説明はなじむだろうか?

 なぜ我々は「他人」をそうしたものとみるようになっているのか?


 近代史的な視野からこれを考えてみよう。

 宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」に次のような一節がある。

現代において個人主義は〈私〉の個人主義ですし、平等は〈私〉の平等です。価値の唯一の源泉であり、あらゆる社会関係の唯一の起点である〈私〉抜きに、社会を論じることはできなくなっています。そのような〈私〉は、一人一人が強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります。しかしながら、そのような一人一人の自意識は、社会全体として見ると、どことなく似通っており、誰一人特別な存在はいません。このようなパラドックスこそが〈私〉時代を特徴づけるのです。

 この一節もまた、「近代」における、ある「パラドックス」を語っている。

 同じような構造は「思考の誕生」にも示されている。

そもそも、「自分で考えること」の重要さを指摘する人のほとんどは、「個性重視」や「独創性」を主張する人びとの場合がそうであるように、「自分ひとりで考え」たことの帰結としてそう宣言しているわけではありません。多くの場合、まったく「自分で考えること」などせず、あたりに流通する言葉を機械的に反復してみたにすぎないのです。

 「自分の意見」は実は「みんなの意見」なのだ。


 例えば「『誰か』の欲望を模倣する」でも、自分の「主体的」な欲望だと思っているものが、実は他人の欲望を模倣したものなのだと語られていた。「個性的」な欲望は実は「社会的」なのだ。

 あるいは「多層性と多様性」でも、人間社会は「普遍性と多様性(一つであり、かつ多様)」をもつと言っていた。「普遍性」とは、すべての人間の共通点に注目することだ。

 こうした「『他人性』を希薄にすること」はなぜ生じたか?

 「近代」が人間に普遍性をみるようになった要因は何か?

 これはこれらの本文に詳述されているわけではない。が、考えればわかる。3点ほど指摘しよう。

 

 近代といえば産業革命による工業化に始まる。生活の中に大量の工業製品が出回るようになると、誰も似たような生活様式の中に置かれることになる。昨年割愛した「暇と退屈の倫理学」では、そこに資本主義の発達により、人々の生活が平準化してきた点を指摘していた。

 また科学の発達により交通手段も発達した。人々の移動が活発になれば、閉鎖された地域のガラパゴス化が解除されてくる。

 さらに、活版印刷の発明を緒とするマスメディアの発達。書籍の流通から新聞、ラジオ、テレビと進歩するにつれ、大量の言説が多くの人に届くことになる。さらに現代はインターネットの発達によるSNSの影響もそれに輪を掛ける。昨年ふれた「エコーチェンバー」現象はそうして皆の意見が平準化していくことを指している。

 そうした社会的な変化とともに生まれた「個人」が、再帰的な繰り返しの果てに融解していく…。


 近代の「個性を持った個人の称揚」は、実は「個人の平準化」と逆説的に同居している。こういう考察は昨年度に小論文として考察した。→

 自分の中にも他人の内面が投影されている。同様に「他人の内面」にも自分の心が投影されている。

 我々は、互いの固有性(他人性)を尊重しようとして、実は相手を自分の想像の範囲でしか見ていない。互いに「自己の内面のイメージを投影しあう」のである。


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