2026年3月4日水曜日

視点を変える22 人工知能2 反論

 「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」という問いは「座れない」ことが前提されている。だがその前提には素朴な疑問が生ずる。

 ロボットに、椅子に座るようプログラムする。姿勢制御などの工学的な課題がクリアできるならば、ロボットは椅子に座れるだろう。工場のラインなどでロボットアームが複雑な作業をするのはもう数十年前から可能だった。

 これは「座れる」ことにはならないのか?

 この疑問に松田は、それは座れていることにはならない、と答えるだろう。だがどういう理屈で松田はこの実例に反論するか?


 ロボットが自主的・主体的・能動的に座っているわけではないという反論は無効だ。

 この例では、その行為が自主的であるかどうかを問題にはしていない。ロボットにはそもそも座りたいなどという動機はない。人間に対して「座って」と言ってその人が座るとしても、それは「自主的」ではない。

 問いは「なぜ座らないのか?」ではなく「座れないのか?」だ。

 では?


 「コミュニケーション」から話を始め、「意味」について考察する本論の展開では、単なる行為の実行ではなく、「座らせよう」という「意図」がロボットに理解できるかどうかが問われている。

 そうしてみると、やはりロボットは「座れる」ように思える。「コミュニケーション」とは、こちらの送った信号によって相手の振る舞いが変化することを言うのだと本文に書いてある。座るようにプログラムしてロボットが座ったら、それはコミュニケーションが成立していることになるはずだ。振る舞いが変わったのだから、「意図」は伝わっている。

 なのに松田はなぜ「できない」と言うのか?


 それはAI自らが「意図」して座ろうとしているのではないからだ、という反論は有効か?


 だが本人に「意図」があるかどうかが、なぜわかるのだろう?

 「座る」という動作ができてしまえば、それは「意図」があったということなのではないか? 彼は座ったが彼には座る意図はない、などということがなぜ言えるのか?


 だからここは本当にAIに「できない」例を挙げればいいのだ。

 例えば授業で挙がった例では、面接会場でロボットに椅子に座るよう促してロボットは座ったが、面接官の方を正しく向いていなかった、などという例。これはうまい。「適切に座る」ことはできない。自然さの判断ができない。

 では「面接官の方を向いて」と指示の中に記述すればできるのか?

 それはできるかもしれない。だが、椅子が複数ある部屋で「どれでもいいから座って」は難しいかもしれない。

 円筒形のスツールやソファしかない部屋で「椅子に座って」も難しいかもしれない。

 あるいは「適当にどこか座ってて」も。


 こういう例が挙がれば、動作として「座る」ことができるロボットでも、指示や命令によって「座る」ことができない、つまり命令の意味が理解できない場合が示せる。


 さて、さらに反論。今度は松田に対して。

 松田の論の趣旨がわかったとして、それでもやはり現在のAIは椅子に座れるのでは?

 この反論は「物語」とは何か? という問題に関わっている。

 「椅子に座る」ことが理解できるということは「椅子に座る」という「物語」を生きることができるということだ、それには身体が必要だ、というのが松田の論の核心だ。

 「物語」?


 物語と言えば、今年読んだ文章では「大きな物語」を想起したい。

 「大きな」は、多くの人に共有されている、という意味だが、「物語」とは何か? 

 それは言ってみれば、複数の要素がつながっている状態であり、それが、よくあるパターンとして学習されているということだ。典型的な連続性がそこに見られるということだ。次の展開が予想できる状態。

 ここから連想したいのは「メディアがつくる身体」の「予期の織物」だ。

 この考察はここ→にも書いた。

 「予期」とは「振る舞い」に対する「予期」だ。

(メディアは)自分が可能な振る舞いを変容させ、他人の振る舞いに対する予期を変容させ(る)

 こういうときにはこう振る舞うものだ、という「予期」が働くのが「社会的身体」であり、これは昨今の生成AIのLLM(大規模言語モデル)の仕組みと同じだ。

 これはAIが「物語」を理解しているということであり、むしろそれは身体を通してというより言葉(や画像)を通して学習されているのかもしれない。

 松田は、川原の岩に腰を下ろすのは身体があるからだと言う。これはAIにはそれができないという前提で挙げられた例だ。

 本当にそうなのか?

 いや「川原の岩に腰を下ろして」という文章(言葉)を学習したAIは、岩を座れるものとして認識することができるに違いない。

 現在のAIは、身体にとっての必要性を介することなく「物語」を理解できるはずだ。


 「振る舞いを変容させる」などというフレーズがあると、もっと時間があれば「メディアがつくる身体」と「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」を読み比べよ、と投げ出してしまうこともできたのに、と終わりが迫った年度末の授業の余裕の無さが残念ではある。


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