2026年2月1日日曜日

視点を変える17 メディアがつくる身体6 予期・義体

 さて、メディアが「つくる」のは「社会的身体」だった。この概念については、気になる表現が二つある。

 まずは、先に予告した次の一節。

社会的身体は(…)予期の織物のような存在である。

 「社会的身体」は、文中で何度も言い換えられているが、その中でもこの比喩はとりわけ含蓄があって「わかる人にはわかる」感じの表現になっている。これを説明してみよう。

 合わせて、具体例を挙げることも要求した(が、これがまた厄介だった)。

 まず、「織物」は比喩だ。これは何かが幾重にも組み合わされている様子を表しているのだろう。

 問題は「予期」だ。どこから出てきた?


 読解は、文中の情報を相互に結びつけることから始まる(そしてそれを構造化する=ゲシュタルト化する)。

 文中の他の表現と「予期」を結びつける。

 どんどん挙げて、と言って、何カ所も挙がるのは好ましいことだ。一人で何カ所も見つかるのは読解力が高い証拠だし、クラスで何カ所も挙がるのはそれだけ授業に対してクラス全体が活発であることを示している。

 例えば次のような一節。

  • あるコミュニケーション環境に適応するためには、さまざまな作法や慣習を身につけたり…
  • メディアを通じた特定の振る舞い方が学習されていく
  • そうした振る舞い一般化する
  • 「拡張された能力」が存在することを前提とする
  • 社会的に埋め込まれた「約束」になる

 これら「作法・慣習」「学習」「一般化」「前提」「約束」、あるいは「特定の」「文化的」などと「予期」は響き合っている。


 「予期」は「予期する」と動詞化できる。この場合、誰が何を「予期する」ことを言っているのか?


 がしかし、そもそも「予期」はもう一カ所、文中に登場するのだった。

(メディアは)自分が可能な振る舞いを変容させ、他人の振る舞いに対する予期を変容させ(る)

 もちろん「他人の振る舞い」だけでなく自分の振る舞いも「予期」される。それは「学習」され「一般化」した「約束」として「前提」されている「作法・慣習」だからだ。

 「社会的身体」とは、そのように「予期」された振る舞いをする存在なのだ。

 そうした振る舞いの例で挙げることにまた難渋した。ちっとも「振る舞い」でもなく「身体」でもない例を思い浮かべている者が多くて。

 「身体的」な「振る舞い」であり、「学習」された「文化的」「作法・慣習」の例を挙げることがそんなに難しいか?

 例えば、すれ違うときに会釈を交わし合うこと。相手に会釈をされたら、こちらもしないでいるのは居心地悪いと感じること。

 例えば日本家屋に上がるときには玄関で靴を脱ぐこと。外国人にはこの「予期」がはずれるかもしれない。

 これでは「メディア」っぽくないので、メディア的な例を挙げよう。みんながすぐに思い浮かべたのは、LINEの通知に既読スルーにならないよう、スタンプなりのリアクションを送ることだった。ただちにリアクションを返すという「振る舞い」が「予期」されているのだ。これはその前のEメールとか、さらに前の郵便による手紙では「予期」されない。

 あるいは画面の死角を見たいと思ったら思わず指でスクロールしてしまうこと。古いカーナビや多くのテレビ画面ではこれができないのがもどかしい。


 この段落の最初に生物学的身体は「もの」で、社会的身体は「言葉」だとある。「言葉」はわかりにくいが、実体を持たない概念として「観念」「イメージ」と並列していいのだろう。

 図らずも「言葉」と「予期の織物」が並ぶと、最近のホットな話題として連想されるものがある。LLM(大規模言語モデル)だ。

 これは生成AIが自然言語を操る仕組みのことだ。AIは、ある言葉の次に来る言葉(続く確率が高い言葉)を「予期」して、次々と言葉をつないでいく。たったそれだけで、自然な文章を書く。予期に反したら「不自然」になる。

 我々の振る舞いもほとんどは予期されたものであり、それに反すると不自然(挙動不審)と感じられる。

 生成AIが、我々の社会的身体と同じ「予期の織物」であるというのは奇妙でいて腑に落ちる認識だ。


 さて予告したのはもう一カ所。これもまた「社会的身体」について表現した一節だ。

今や、全ての身体は、象徴的な義体なのである。

 「義体」という言葉をこの世代の人が使うときは、間違いなく「攻殻機動隊」がイメージされている(3:40のカットがとりわけ有名)。

 上の劇場映画版第一作の監督をした押井守がインタビューで答えている。

 ここで1:14:00あたりから押井が喋っているのは、まるで上記の荻上の言葉そのものだ(2分くらい聞いてみて)。

 我々の身体はもはや単に血と肉と骨でできた生物的身体ではなく、ネットにつながって「電脳」を駆使し、半ばはネットの中でも生きている。それがメタバースであれ、「ポケモンGO」で一般化したAR(拡張現実)であれ、現実そのものであれ、我々はそこで生物的身体としてだけではなく、メディアを通じて世界と通じ合う「社会的身体」をもつ。

 「象徴的な」の解釈が若干揺れる。とりあえず二つ考えてみる。

 一つは、軽い、「比喩的な意味で」くらいのニュアンス。現実に身体に機械を埋め込んだ文字通りの「義体」ではなく、「義体」みたいなもの(=比喩的)、という意味での「義体」だ、と言っている。

 もう一つは、そうした身体の在り方が社会の在り方を「象徴している」ことを表す。「象徴」と言えば「具体物が抽象概念を表す」だから、ここでは「社会」とか「時代」とかを表していると言えればいい。

 どちらもそれほど違いはないが。たぶん荻上はそれほど厳密な意味を考えてはいない。


 「木を見る」ことに2時間かけた。それぞれに興味深い考察が必要な箇所ではあったが、一方で時間がかかりすぎるとも言える。

 これは荻上の文章の問題でもあるが、みんなの国語力の問題でもある。それは単に「読解力」とか「理解力」という問題だけではなく、どちらかというと「説明力」というか「問題の整理力」とでもいった問題だとも思う。

 上で解説したような解釈を、ほとんどすぐに「わかっていた」人も多いと思う。だがそれをそのように班員で共有することができたかといえばそうではないはずだ。いわば「議論力」が問われている。

 このあたりは今後の課題だな、と年度の終わりに心に留めておく。


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