「グーグルマップの世界」でも、地図についての認識は若林と共通している。
人は地図によって世界を、ある見方で把握する。縮尺によって、あるいは地図に盛り込まれた情報の種類によって。地図の中心をどこにするかでさえ、すでに世界の見方を示している。
地図はメディアであり、スキーマなのだ。
「グーグルマップの世界」は、そうした認識を元に、何を語るか?
対比をとればはっきりする。基本的な対比、対比のラベルをまず見定める。
旧来の地図/グーグルマップ
ここに、グーグルマップがどのようなものかを言うために、「~ではなく」型の対比を並べていく。
社会/個人
共有/個人化
見わたす/導く・追う
ひろげる/とざす
相対/絶対
こうした対比を使って、「グーグルマップの世界」の論旨を語り下ろしてみよう。
グーグルマップというメディアは、世界の見方を「個人化」する。社会を見わたして自分の位置を相対化するはずの本来の地図の機能と違って、自分の世界をとざす方向に機能する。
この問題は、文中でも言われているとおり、現在のネットメディア全般の問題でもある。
この「見たいものしか見ない」という態度に関しては、グーグルマップにかぎらず、パーソナライゼーションが進んだウェブのユーザー全般に当てはまる問題として、すでにメディア論において指摘されている。見たいものしか見なくなるということは、たとえば政治的な意見の形成という観点では、同じ意見をもった人びとだけで意見を参照し合うと、その意見が強化され、その延長線上にある極端な立場へとシフトしていく「集団分極化」を引き起こす。
頭をなじませるために、この論旨を「フィルターバブル」「アルゴリズム」「エコーチェンバー」という言葉を使って説明してみよう。最近のネットメディアの問題を語る上で頻出の語・概念だ。
これは単なる翻訳なのだが、言葉つまり概念は、辞書的な説明を覚えるより、「使う」ことで血肉化することが重要。
後半が「エコーチェンバー」の話で、「同じ意見をもった人びとだけで意見を参照し合うと、その意見が強化され、その延長線上にある極端な立場へとシフトしていく集団分極化」がまさにそれ。
「フィルターバブル」という問題はもうちょっと興味深い問題ではある。
この文章は、グーグルマップのようなアルゴリズムが我々をフィルターバブルの中に閉じ込める、と言っているのか?
そう言ってしまうことはあながち間違いでもない。
だが一方でフィルターバブルの中にいることは、生物にとっての根源的な条件でもある。ことは単にネットメディアのアルゴリズムの問題に限らない。
どういうことか?
スキーマがないとゲシュタルトができない。それはそういう認識ができないということだ。とすると、我々の認識は、スキーマによってフィルタリングされていることになる。
どんな生物だって、それぞれの感覚器官によって外界を知覚しているのだから、その器官がフィルターということになる。人間には見えない赤外線が見える生物もいる。超音波を聞く生物もいる。
つまりフィルターバブルの中にいることから、生物は逃れられない。
そこにグーグルマップのアルゴリズムがあらたなフィルターとして我々の認識のありように影響を与えるようになったというのがこの文章の主旨だ。
それはどのような変化なのか?
上の引用は一続きで言っている中で二つのことを言っているともいえる。
「パーソナライゼーション」は文字通り個人化、つまりそれぞれが自分一人のバブルの中にいると言っていることになる。
続く後半のエコーチェンバーの問題は、中規模のバブルに一定の人々がとざされているのだといえる。
そしていずれも、アルゴリズムがそうしたフィルター機能を増幅させて、バブルの膜を強化しているということになる。
とはいえ、「大きな物語」などという概念もまた、それが「大きい」とはいえやはりフィルターバブルの中に人々がいることを意味している。その物語を共有していない人はバブルの外にいるのだ。
だから、地図にしろ言語にしろ、それらをフィルターとしたバブルは、それを使う人を同じバブルの中に囲い込む。それは比較的大きなバブルだ。
そしてネットのアルゴリズムは、エコーチェンバーを引き起こすような大きさのバブルに、やはり人々を囲い込む。
そしてグーグルマップのアルゴリズムはそのバブルが「個人化」していると言っているのだ。
一人一人が自分一人のバブルの中に閉じ込められている。
そしてそのことを自覚するのは難しい。
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