「思考の誕生」がすっきりと解釈しきれたとは言わないが次の文章を読む。内田樹の「物語るという欲望」。
内田樹は去年も読んだ。どれ? 「ことばとは何か」の人だ。
これと「思考の誕生」とのつながりは、にわかにはわからないはずだ。
接点は何?
まず一文要約する。
前から何度かやったのは題名を使うという方法だ。
物語るという欲望→人には物語るという欲望がある。
これはまだまだ大事なところを言っていない感じがする。
一文要約の核心は、主題を示す主述の組み合わせを選ぶことだ。
みんなに聞いたところ、上のように「人(私たち)」を主語にしていたのは半分くらい。もう半分の人は「物語(物語ること)」を主語にしていた。
「物語」は亀裂を弥縫する解釈から生まれる。
両者を混ぜると例えばこんな感じ。
人は亀裂・断絶に架橋して「物語」を作りたがる。
読解のスキルとして「一文要約」以外に「対比をとる」「問いを立てる」などを練習してきた。
もう一つ、「言い換えの表現をマークする」ことも推奨したい。
キーワードとなる「物語る」は、文中でどのように変奏されているか?
次のような言い換えが見つかればOK。
脈絡づける・解釈する・橋を架ける(架橋する)・読み込む(書き込む)
「読み込む」と「書き込む(書き加える)」が言い換え可能な表現であると見なせるところが面白い。
同様に、おそらく気になる「何もないところ」の言い換えを探そう。
ひとまず「亀裂・断絶・飛躍・穴・隙間」を指摘したい。
これ以外にもう一つ、この文章特有の表現はなかなか出なかった。なぜだろう。
「反ー物語」がそうだと指摘できれば上出来。これが出てこないのは単に見慣れない表現に警戒しているということか、上の比喩とは違った位相にある表現だ(抽象度が違う)と感じられるからだろうか。
これらの言い換えは、先の要約の一文で、入れ替え可能なはずだ。言い換え表現だとみなせるというのはそういう意味だ。いくらかは助詞や目的語を調整する必要はあるにせよ。
こうした言い換えが自由に使いこなせる方が、論旨の共通性を捉えやすい。
では「思考の誕生」との接点を探ろう。
共通するキーワードは見当たらない。対応する言葉を探す。
どのクラスでも「場所と経験」との読み比べで取りあげた「投影」が「解釈」に対応しているのではないかという指摘が相次ぐ。
それよりやや少数ながら「思考」と「物語」が対応しているという意見も出る。
やはり少数ながら、もう一つのキーワード「反-物語」が「他人(性)」に対応するのではないかという意見も出る。
投影―解釈・脈絡・架橋…
他人―断絶・亀裂・反-物語…
思考―物語
言い換えが、同じ文中にあてはまることで確認されるように、対応も同じ(と見なせる)文型にあてはまることで確信できる。
「他人に自己を投影する」は「断絶を脈絡づけて解釈する」に対応しているように思える。
「思考が誕生する」は「物語が発動する」に対応するのだろうか。「思考が発動する」と言っても良さそうだし、「物語が生まれる」と言っても良さそうだ。
だがこれらを一続きにしようとすると問題があることがわかる。一文にしてみると、どちらか一方の文章の主旨に反することになるのだ。例えば上の対応を単純につなげてみる。
- 断絶を脈絡づけて解釈することで物語が生まれる。
- 他人に自己を投影することで思考が誕生する。
上が「物語るという欲望」の論旨に適っているとしても、下は「思考の誕生」の論旨にまるで反する。「投影」していては「思考」は生まれない、と蓮實は言っているのだから。
もちろん逆にしてもだめだ。
他人に自己を投影することでは思考は誕生しない。
話の前後を脈絡づけて解釈しても物語は生まれない。
内田の論旨にまるで反している。
どう納得したらいいか?
上の対応が間違っているのか?
いやそもそも二人の主張が違っているから反していていいのだ?
そんな単純に思考を放棄して納得せず、二人の論旨のどこが共通していて、どこで分かれるのかを見定めよう。
上の3段の対応がそれなりに対応していることを示すために、3段とも使った一文も作れることを示そう。いささか表現に微妙なコントロールが必要だが、できないわけではない。
- 脈絡のない断絶に物語が生まれる。
- 自己を投影していない他人との間に思考が生まれる。
これならば内田・蓮實双方の主旨に適う。つまり上の3段は対応しているのだ。
にもかかわらず最初は上記のような食い違いが生ずると感じた。これはなぜか?
どちらにも論旨が適うように書いた文型と、論旨が食い違ってしまう文型で表した内容はどういう関係になっているのか?
共通する文型で表されているのは、つまり共通する認識なのだ。
だがそれぞれの文章は、その方向性、決着点が違う。最初に表現しようとした文型はそれを表しており、そこに食い違いが生じているのだ。
このことをうまく説明しよう。
もう一度、共通する認識を並べてみよう。
- 他人とともに考えることで思考は生まれる。
- 断絶のあるところに架橋することで物語は生まれる。
こう提示すれば、呆気ないと感ずるかも知れない。だがまあそれを切り取ってみせるのがそれほど簡単ではないが。
これを裏返して、内田の論旨を明確にしてみる。
断絶のないところには物語は生まれない。
これと対応する論旨を蓮實の用語で表現する。
- 他人性が希薄だと思考は生まれない。
- 他人に自己を投影していると思考は生まれない。
蓮實が「自分で考えることは大事」という言説が喧伝されることを「危険」だというのは、この認識に基づいている。自分だけが宇宙に一人でいるだけでは何の断絶も亀裂もない。断絶・亀裂は異質な他人との間にある。だが他人に自己を投影したのでは、それは「他人」ではない。自分のコピーだ。断絶はない。そこには思考は生まれない。
とすると、人は断絶を埋めようとして解釈をするが、そうして物語が生まれたとき、そこで思考は死ぬ。
内田の文章は、そのことの是非を語っておらず、ただ人間はそうしたがるものだという認識を語っている。
だが蓮實の文章はそれを非だと言っているのだ。
思考を始めるためには他人と出会わなければならない。蓮實が「あなたの知性は、その希薄さと残酷さへの感性をはぐくむために費やされねばなりません。」という「希薄さと残酷さ」はそうした自分と他人の間にある断絶を見つめ続けなければならないというメッセージだ。
内田が「欲望」というのは、断絶から目を逸らして「もっともらしい」認識に安住したがる人間の傾向を言っている。
だが次の文章では、内田もそのことについての是非を語る。