2026年5月27日水曜日

思考の誕生 9 小論文「思考の誕生」と「他者の言葉」

 さて、例によってAIにも以上の考察をさせてみる。せっかくなので「スキーマ・ゲシュタルト・フィルターバブル」という言葉を使うことを条件づけた。


Copilot

 両者に共通する論旨は、思考や認識が個人の内面から自律的に生まれるのではなく、すでに社会に流通している言葉や他者との関係によって形づくられるという点にある。内田は、外国語を用いるとき、話者はその言語に内在する価値観や世界把握の枠組みを無意識に引き受けてしまうと述べ、言語が思考のスキーマとして機能することを明らかにする。

 その結果、私たちは特定の見方を自然なものとして受け入れ、世界を一つのゲシュタルトとして把握してしまう。蓮實もまた、「自分で考えること」が独立した思考であるという通念を否定し、思考は他人が考えたこととの遭遇と葛藤を通じてのみ生まれると論じる。ここでも思考は、既存の言説から切り離された純粋な内面活動ではない。

 両者は、言葉や他者から自由であろうとする態度そのものが幻想であることを示している。むしろ、人は特定の言語的・社会的環境というフィルターバブルの内部で思考しており、その制約を自覚することからしか、思考の更新は始まらない。内田と蓮實はいずれも、その困難で痛みを伴う自覚こそが人間の思考の条件であると考えている。


ChatGPT

 内田と蓮實は、ともに人間の思考は孤立した個人の内部から生まれるのではなく、他者や言語との関係の中で形成されると論じている。内田は、言語にはその社会の価値観や世界認識が埋め込まれており、他者の言葉を使うことは他者の精神を内面化することだと述べる。人は自分で自由に考えているつもりでも、実際には既存のスキーマに沿って世界を理解しているのである。

 また蓮實は、「自分で考えること」を重視する風潮を批判し、思考は他者との遭遇や葛藤の中で生まれると述べる。人は経験や知識をもとに世界をまとまりとして把握するゲシュタルトに依存するため、自分の見方を絶対視しやすい。しかし異質な他者との接触は、その固定化した認識を揺さぶり、新たな思考を生み出す契機となる。

 さらに両者は、人間が自分の属する閉じた認識世界から容易には抜け出せないことも指摘する。内田のいう「洞窟」は、現代でいえば似た価値観ばかりが反復されるフィルターバブルにも通じる。他者との出会いによって自分の限界を知り、変化を引き受けるところに、本当の思考の成立があると両者は考えている。

 AIは総じて頭括型のまとめ方をする。アメリカ型の論文の書き方だ。

 冒頭に「共通する論旨」がまとめられている。

・思考や認識は個人の内面から自律的に生まれるのではなく、すでに社会に流通している言葉や他者との関係によって形づくられる

・人間の思考は孤立した個人の内部から生まれるのではなく、他者や言語との関係の中で形成される

 これらは昨年の「共に生きる」シリーズの考え方としておなじみだ。


 もう一つの代表的AIにも書かせてみる。

Gemini

 私たちは常に、すでに存在する言葉や他者の思考というスキーマに拘束されて生きている。内田は、言語が中性的な道具ではなく他者の精神そのものであり、私たちはその言語的環境から抜け出せないという洞窟の比喩を用いた。蓮實も、純粋に自分ひとりで考えることの不可能性を説き、自律的と思える思考も既成の枠組みの反復に過ぎないと指摘する。

 このように、個人は言葉や知識のフィルターバブルに閉じ込められており、そこから自力で脱することは極めて困難である。私たちは言葉を通じて世界を都合よく統合し、自らのゲシュタルトを形成してしまうため、その内側に安住しがちになる。

 したがって、真の思考とは、この閉ざされた空間に安住することではない。内田の言う言語の制約という難問に直面し、蓮實の言う異質な他者との残酷な葛藤に身を晒すことで、自己を変化させていくプロセスにこそ共通する論旨がある。


 これもまた、「共通する論旨は」とは言わないものの、冒頭の一文が「共通した論旨」だ。

  • 私たちは常に、すでに存在する言葉や他者の思考というスキーマに拘束されて生きている

 これは前回確認した「視点を変える」の考え方だ。これもまたみんなおなじみのはず。

 二つの「共通する論旨」を結びつけるとこうなる。すなわち、他人の思考との関係で自分の(と思っている)思考が生まれるのだが、それはつまり、無自覚に他人の思考に拘束されているということでもある。

 ここから「洞窟から出る苦痛=思考の誕生の残酷さ」を引き受ける、という両者の主張=決着点へ論を進める。

 ちなみに、今回授業者の書いたものは上記のAIのものとはけっこう違っていて、どれがそうかクイズは出してもしょうがない感じだった。

 以下。

 内田は、我々の思考や感情(精神・観念・価値観…)が言語によって作られると述べる。すなわち我々は言語の作るフィルターバブルの中にいるのである。このことを内田はプラトンの「洞窟の比喩」で説明する。「私たちそれぞれの言語は私たちそれぞれの洞窟であ」り、洞窟の奥の壁に映る影絵芝居は、言語というスキーマによって立ち上がるゲシュタルト、すなわち我々の認識する世界の姿である。

 洞窟の外に出るには「他者の言葉」と出会わねばならない。そこに蓮實のいう「思考の誕生」の契機がある。

 だがそれは簡単なことではない。蓮實の言う「一人で考える」ことは自分の洞窟の中から出ないで考え(たつもりにな)ることだ。それは、実は洞窟の外から射す光=世間で流布する言説が壁に映す影絵を見ているに過ぎない。

 これは内田が語る、ストックフレーズ=決まり文句による借り物の思想に対応している。それは「他者の言葉」に由来するが、もはや内面化されて「自分の言葉」になっている。あるいは自己を投影した「他者」は、言葉通り自分の「影」だ。自分の影と対話しても洞窟という夢から覚めることはできない。

 だから本当に「他者」と出会うことは難しい。蓮實はそれを「希薄で残酷な体験」と言う。心の弱い人間は、もとの洞窟に戻してくれと泣訴する。だが「人間」の名に値する者は、その残酷さ・苦痛を引き受けなければならないのだと二人は若者に呼びかける。



 

2026年5月21日木曜日

思考の誕生 8 他者の言葉

 内田樹の文章は「現代の国語」の教科書にも「ちくま評論入門」にも載っているが、昨年度はどちらも読まなかった。そのかわりに「ことばとは何か」を読んだが、これは今年度の「現代の国語」に、若干収録部分は短くなって、載っている。

 さてここでもう一本、内田の文章を読む。「ちくま評論入門」の「他者の言葉」。

 これはここまでの議論にどう関わってくるか?


 急いで論旨をたどるため、ここでも一文要約をする。

 ただしこの文章は途中から論旨の方向が変わっているように思えるので、前後で一文ずつ。

  1. 他者の言葉は他者の精神を表している。
  2. 我々は皆洞窟の中にいる。

 この二文はどういう論理展開になっているのか?


 これが昨年度の「視点を変える」シリーズにも重なることに気づかねばならない。どこが?


 「視点を変える」といえばスキーマとゲシュタルトだ。

 前半をスキーマとゲシュタルトという言葉を使って言い換えよう。

我々は言語というスキーマによって外界を認識している。
言葉が違えばゲシュタルトも違う。

 後半はフィルターバブルという言葉を使って言い換えよう。

 フィルターバブルは、認識される情報が制限されることを言う比喩だ。これがプラトンの洞窟の比喩に似ていることはすぐわかる。本文では「言葉が洞窟だ」と言っているから、つまり我々は、言語というスキーマが認識を決定する「フィルターバブル=洞窟」の中にいるのだ。

 「他者の言葉」はこれでよし。これを「思考の誕生」に重ねる。

 共通した言葉が接点になるというのがこれまでの常套手段だったから、「他人」と「他者」が結びつけられそうではある。

 さらにここでは印象の類似を想起しよう。ダルメシアン犬が見えることと星座が見えることが似ていると直観したように。

 何か?


 「思考の誕生」で、思考の誕生が「残酷」と表現されていることと、「他者の言葉」で、洞窟の外に引き出されることを「苦痛」だと表現されていることが、まず「似ている」と感じられる。

 これを論理づける。


 前の「物語るという欲望」との読み比べでは、「物語る」が「主張」の明確でない文章だったところに「思考の誕生」との齟齬が生じた。

 だが「他者の言葉」はそれに比べると「主張」がある。わかりにくいが、最後の2文は是非を語っている。

人間は「洞窟の外」へ引き出されるという宿業を負っている。というより、そのような苦痛を引き受けるものだけが「人間」と呼ばれるのである。

 これは「人間」ならば苦痛を引き受けるべきだという「主張」だ。

 この主張が「思考の誕生」と重なってくる。蓮實は残酷さを引き受けるべきだと東大新入生に呼びかけている。

 これを前半の論旨から展開する。

 今回の読解では、それを小論文にまとめる。


思考の誕生 7 物語るという欲望

 「思考の誕生」がすっきりと解釈しきれたとは言わないが次の文章を読む。内田樹の「物語るという欲望」。

 内田樹は去年も読んだ。どれ? 「ことばとは何か」の人だ。

 これと「思考の誕生」とのつながりは、にわかにはわからないはずだ。

 接点は何?


 まず一文要約する。

 前から何度かやったのは題名を使うという方法だ。

物語るという欲望→人には物語るという欲望がある。

 これはまだまだ大事なところを言っていない感じがする。

 一文要約の核心は、主題を示す主述の組み合わせを選ぶことだ。

 みんなに聞いたところ、上のように「人(私たち)」を主語にしていたのは半分くらい。もう半分の人は「物語(物語ること)」を主語にしていた。

「物語」は亀裂を弥縫する解釈から生まれる。

 両者を混ぜると例えばこんな感じ。

人は亀裂・断絶に架橋して「物語」を作りたがる。


 読解のスキルとして「一文要約」以外に「対比をとる」「問いを立てる」などを練習してきた。

 もう一つ、「言い換えの表現をマークする」ことも推奨したい。

 キーワードとなる「物語る」は、文中でどのように変奏されているか?


 次のような言い換えが見つかればOK。

脈絡づける・解釈する・橋を架ける(架橋する)・読み込む(書き込む)

 「読み込む」と「書き込む(書き加える)」が言い換え可能な表現であると見なせるところが面白い。

 同様に、おそらく気になる「何もないところ」の言い換えを探そう。

 ひとまず「亀裂・断絶・飛躍・穴・隙間」を指摘したい。

 これ以外にもう一つ、この文章特有の表現はなかなか出なかった。なぜだろう。

 「反ー物語」がそうだと指摘できれば上出来。これが出てこないのは単に見慣れない表現に警戒しているということか、上の比喩とは違った位相にある表現だ(抽象度が違う)と感じられるからだろうか。


 これらの言い換えは、先の要約の一文で、入れ替え可能なはずだ。言い換え表現だとみなせるというのはそういう意味だ。いくらかは助詞や目的語を調整する必要はあるにせよ。

 こうした言い換えが自由に使いこなせる方が、論旨の共通性を捉えやすい。


 では「思考の誕生」との接点を探ろう。

 共通するキーワードは見当たらない。対応する言葉を探す。

 どのクラスでも「場所と経験」との読み比べで取りあげた「投影」が「解釈」に対応しているのではないかという指摘が相次ぐ。

 それよりやや少数ながら「思考」と「物語」が対応しているという意見も出る。

 やはり少数ながら、もう一つのキーワード「反-物語」が「他人(性)」に対応するのではないかという意見も出る。

投影―解釈・脈絡・架橋…

他人―断絶・亀裂・反-物語…

思考―物語

 言い換えが、同じ文中にあてはまることで確認されるように、対応も同じ(と見なせる)文型にあてはまることで確信できる。

 「他人に自己を投影する」は「断絶を脈絡づけて解釈する」に対応しているように思える。

 「思考が誕生する」は「物語が発動する」に対応するのだろうか。「思考が発動する」と言っても良さそうだし、「物語が生まれる」と言っても良さそうだ。


 だがこれらを一続きにしようとすると問題があることがわかる。一文にしてみると、どちらか一方の文章の主旨に反することになるのだ。例えば上の対応を単純につなげてみる。

  1. 断絶を脈絡づけて解釈することで物語が生まれる。
  2. 他人に自己を投影することで思考が誕生する。

 上が「物語るという欲望」の論旨に適っているとしても、下は「思考の誕生」の論旨にまるで反する。「投影」していては「思考」は生まれない、と蓮實は言っているのだから。

 もちろん逆にしてもだめだ。

他人に自己を投影することでは思考は誕生しない。

話の前後を脈絡づけて解釈しても物語は生まれない。

 内田の論旨にまるで反している。


 どう納得したらいいか?

 上の対応が間違っているのか?

 いやそもそも二人の主張が違っているから反していていいのだ?

 そんな単純に思考を放棄して納得せず、二人の論旨のどこが共通していて、どこで分かれるのかを見定めよう。


 上の3段の対応がそれなりに対応していることを示すために、3段とも使った一文も作れることを示そう。いささか表現に微妙なコントロールが必要だが、できないわけではない。

  1. 脈絡のない断絶に物語が生まれる。
  2. 自己を投影していない他人との間に思考が生まれる。

 これならば内田・蓮實双方の主旨に適う。つまり上の3段は対応しているのだ。

 にもかかわらず最初は上記のような食い違いが生ずると感じた。これはなぜか?


 どちらにも論旨が適うように書いた文型と、論旨が食い違ってしまう文型で表した内容はどういう関係になっているのか?


 共通する文型で表されているのは、つまり共通する認識なのだ。

 だがそれぞれの文章は、その方向性、決着点が違う。最初に表現しようとした文型はそれを表しており、そこに食い違いが生じているのだ。

 このことをうまく説明しよう。


 もう一度、共通する認識を並べてみよう。

  • 他人とともに考えることで思考は生まれる。
  • 断絶のあるところに架橋することで物語は生まれる。

 こう提示すれば、呆気ないと感ずるかも知れない。だがまあそれを切り取ってみせるのがそれほど簡単ではないが。

 これを裏返して、内田の論旨を明確にしてみる。

断絶のないところには物語は生まれない。

 これと対応する論旨を蓮實の用語で表現する。

  • 他人性が希薄だと思考は生まれない。
  • 他人に自己を投影していると思考は生まれない。

 蓮實が「自分で考えることは大事」という言説が喧伝されることを「危険」だというのは、この認識に基づいている。自分だけが宇宙に一人でいるだけでは何の断絶も亀裂もない。断絶・亀裂は異質な他人との間にある。だが他人に自己を投影したのでは、それは「他人」ではない。自分のコピーだ。断絶はない。そこには思考は生まれない。


 とすると、人は断絶を埋めようとして解釈をするが、そうして物語が生まれたとき、そこで思考は死ぬ。

 内田の文章は、そのことの是非を語っておらず、ただ人間はそうしたがるものだという認識を語っている。

 だが蓮實の文章はそれを非だと言っているのだ。 

 思考を始めるためには他人と出会わなければならない。蓮實が「あなたの知性は、その希薄さと残酷さへの感性をはぐくむために費やされねばなりません。」という「希薄さと残酷さ」はそうした自分と他人の間にある断絶を見つめ続けなければならないというメッセージだ。

 内田が「欲望」というのは、断絶から目を逸らして「もっともらしい」認識に安住したがる人間の傾向を言っている。

 だが次の文章では、内田もそのことについての是非を語る。


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