内田樹の文章は「現代の国語」の教科書にも「ちくま評論入門」にも載っているが、昨年度はどちらも読まなかった。そのかわりに「ことばとは何か」を読んだが、これは今年度の「現代の国語」に、若干収録部分は短くなって、載っている。
さてここでもう一本、内田の文章を読む。「ちくま評論入門」の「他者の言葉」。
これはここまでの議論にどう関わってくるか?
急いで論旨をたどるため、ここでも一文要約をする。
ただしこの文章は途中から論旨の方向が変わっているように思えるので、前後で一文ずつ。
- 他者の言葉は他者の精神を表している。
- 我々は皆洞窟の中にいる。
この二文はどういう論理展開になっているのか?
これが昨年度の「視点を変える」シリーズにも重なることに気づかねばならない。どこが?
「視点を変える」といえばスキーマとゲシュタルトだ。
前半をスキーマとゲシュタルトという言葉を使って言い換えよう。
我々は言語というスキーマによって外界を認識している。
言葉が違えばゲシュタルトも違う。
後半はフィルターバブルという言葉を使って言い換えよう。
フィルターバブルは、認識される情報が制限されることを言う比喩だ。これがプラトンの洞窟の比喩に似ていることはすぐわかる。本文では「言葉が洞窟だ」と言っているから、つまり我々は、言語というスキーマが認識を決定する「フィルターバブル=洞窟」の中にいるのだ。
「他者の言葉」はこれでよし。これを「思考の誕生」に重ねる。
共通した言葉が接点になるというのがこれまでの常套手段だったから、「他人」と「他者」が結びつけられそうではある。
さらにここでは印象の類似を想起しよう。ダルメシアン犬が見えることと星座が見えることが似ていると直観したように。
何か?
「思考の誕生」で、思考の誕生が「残酷」と表現されていることと、「他者の言葉」で、洞窟の外に引き出されることを「苦痛」だと表現されていることが、まず「似ている」と感じられる。
これを論理づける。
前の「物語るという欲望」との読み比べでは、「物語る」が「主張」の明確でない文章だったところに「思考の誕生」との齟齬が生じた。
だが「他者の言葉」はそれに比べると「主張」がある。わかりにくいが、最後の2文は是非を語っている。
人間は「洞窟の外」へ引き出されるという宿業を負っている。というより、そのような苦痛を引き受けるものだけが「人間」と呼ばれるのである。
これは「人間」ならば苦痛を引き受けるべきだという「主張」だ。
この主張が「思考の誕生」と重なってくる。蓮實は残酷さを引き受けるべきだと東大新入生に呼びかけている。
これを前半の論旨から展開する。
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