2022年11月26日土曜日

夢十夜 17 運慶が生きている意味

 問題は「明治」という時代なのだと先に確認した。

 そして小論文を書く前に、漱石の講演録「現代日本の開化」の一部を読んだ(もっと長いものが2,3年生が使っている「現代文」の教科書に収録されている)。

 これは「夢十夜」の3年後に行われた講演だ。そこで漱石は、明治の日本の開化は、外国の圧力によって「外発的」に起こった開化だと言っている。そしてそのような開化を「皮相上滑り(表面的で中身の伴っていない)の開化」だと皮肉っている。

 これはもはや種明かしのようなものだ。ここで語っている主張を「第六夜」の主題だと考えると、すんなり腑に落ちる。外発的で急激な開化によって、「明治の木」にはもはや仁王は埋まっていないのだ。

 こうした結論は、ネットに溢れる「第六夜」論にもいくつも見ることができる。

 答えは既に出ているのだ。

 だから問題は語り方だ。論の組み立て方、表現の選び方だ。


 「第六夜」の主題は「西洋文明の流入によって、日本古来の文化が失われつつある『明治』という時代に対する冷ややかな眼差し」とでもいったようなものだ。「皮肉」と言ってもいいし「嘆き」と言ってもいいし、ストレートに「批判」と言ってもいい。

 こうした主題を語る上で「芸術」という語がどれほど有効だろう。世に溢れる「第六夜」論が、主題については大方妥当な見方をしているにもかかわらず、多くが「芸術」に言及しているのは、若い男の言葉からミケランジェロの言葉や、それが一般にひろまった「芸術」神話を連想するからだろう。だがそれはどんな論理的整合性をもつのか。

 芸術家と職人という対比で象徴される概念として、「才能/技術」以外にどんな語を想起すると、論を組み立てる上で有効か?


 「芸術家=独創」はどうか? 芸術家にはオリジナリティが必要だ。

 「独創」の対義語は「模倣」だ。だが運慶を「独創」と表現することは可能だろうが、「模倣」と見なすことはそもそもできない。だから選択にならない。

 「芸術家=独創」に対する別の対比を考える。

 次の発想ができれば論が展開できる(あるいは先の見通しがあればこのような発想ができる)。

芸術家=独創/職人=伝統


 この運慶は時代を超越するような形で出現する独創的な天才芸術家ではなく、熟練した職人として描かれている。運慶の仕事ぶりが芸術家としての創作だとしたら、②の問いの「明治の木には」という限定に何の意味があるのかがわからない。運慶の技を伝統的な職人技の発現としてのルーチン・ワークだと考えることによって「明治の」という条件が理解できる。

 職人の技術とは、単に繰り返した修練によって彼個人が体得した技術、というだけではない。それはその技を磨き上げてきた数知れない先人の営みの分厚い積み上げの上に成り立つものだ。運慶が体現しているのは、そうした職人集団の伝統なのだ。

 そして明治の文明開化によって脅かされているものは、天才の芸術ではなく、職人一個人が体得した技術でもなく、日本人の伝統であるはずだ。


 ただ「独創」の語を活かそうとするなら、外国の文化の「模倣」ばかりする明治に対して、運慶が日本固有の文化を体現しているという文脈で論理に組み込むことが可能ではある。「自分」が仁王を彫ろうとする動機も、若い男の言葉に誘導されて運慶の「模倣」をしようとしたのだ。

 だがそれは運慶の体現しているものを(あるいは「自分」に欠けているものを)「芸術」の語で語るということではない。


 では「開化」という名の文化的な断絶を経験する時代状況において「運慶が今日まで生きている理由」とは何か? 「自分」は「なぜ生きていられるか」「なぜ生きていなければならないか」どちらの理由に納得したのか?

 実はもはや①の問いの答えは大した問題ではない。

 上記の読解に従って言えば、そのような技を受け継いでいるからこそ運慶は今も「生きていられる」のだと言ってもいいし、運慶が体現する伝統の技は、この明治にこそ「生きていなければならない」と言ってもいい。後者のように言うなら、それは運慶がそう考えているのではなく、やはり我々が運慶に託した期待である。我々が運慶に生きていてほしいと思っているのだ。

 そのとき運慶は、時代を越えて継承されるべき伝統文化の象徴である。


 「第六夜」はこんなふうに「運慶」や「仁王が埋まっていない」を象徴と見なす、物語内の具体レベルから一段抽象度の高い「主題」を想定することで、「意味」がわかったと感じられる小説だ。それは、そのような「主題」を必要としない「第一夜」を受容することとはかなり違った読解体験である。

 これが授業者にとっての一応の結論だが、それは、これ以外の解釈が成立する可能性がないということではない。

 小論文は、説得力に応じた評価をしていい。


 さて、評価直前に一つの「種明かし」をしたのだが、これ、明かされる前に気づいた人はいたろうか? いたら是非名乗り出てほしい。みんなの前で賞讃したい。

 以上のように「第六夜」の主題を捉えた時、次の一節も意味あるものとして物語の文脈に位置づけられる。

裏へ出てみると、先だっての 暴風 あらし で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽きに挽かせた手ごろなやつが、たくさん積んであった。

 仁王の埋まっていない「明治の木」は「先だっての暴風で倒れた樫」なのだ。

 この「先だっての暴風」とは何のことか?


 もはや明らかだ。「暴風」とは1853年の黒船来航に続く幕末の動乱とそれに続く文明開化のことに他ならない。西洋文明の流入は、「あらし」のように日本人の精神を、日本文化を薙ぎ倒したのだ。

 この付合が偶然であるとは到底思えない。「明治の木」の来歴としてさりげなく書き込まれたこのような形容を、漱石が意識せずに書き付けているはずはない。全体を貫く論理が見えてきた時にのみ、その意味がわかるように、漱石はさりげなく、だが明らかに意図的に、こうした形容を付すのである。



2022年11月15日火曜日

夢十夜 16 運慶が意味するもの

  もう一つ、運慶の存在が意味するものを考える。

 鎌倉時代の人物が明治という時代に現れるという設定は、夢らしい荒唐無稽さであるというより、むしろ小説としての意図がありそうである。「夢十夜」の他の話でも明治以外の時代の人物が登場したりそうした時代が舞台になっていたりするが、登場するのは誰ともわからない人々だ。だがこの篇に限って運慶という誰もが知っている実在の人物を登場させる意味を捉えることが、この小説の主題につながるかもしれない。

 歴史に名を残す天才仏師の偉大さを誉め称えることがこの物語の主題だとは誰も思わない。問題は運慶の仕事ぶりと、それを見た明治の人々の反応だ。

 なぜか「自分」は、いったんは自分にも仁王が彫れるはずだと思い、彫れない理由を「明治の木には仁王は埋まっていない」からだと考える。

 この「埋まっていない」=「彫れない」が意味することを考えるために、掘り出せる=彫れる運慶を「自分」と対比する必要がある。運慶が仁王を掘り出せて、自分が掘り出せない必然性を考えるのである。

 前項の考察に拠れば、問題は運慶という傑出した個人と、平凡な「自分」という対比ではない。

 歴史に名を残す鎌倉人と、一明治人との対比である。


 糸口として運慶が芸術家なのか職人なのかと問うた。

 実は授業者がこの問いを思いついたのは、世の「第六夜」論に「芸術」の語が頻出するのを知っていることによる。

 運慶の迷いのない彫刻作業を、若い男が「あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまで」と表現する。

 こういった表現は、ある種の「芸術」創造についての語り口として見覚えがある。

 実はこの表現はミケランジェロの以下のような言葉から発想されていると考えられる。

  • まだ彫られていない大理石は、偉大な芸術家が考えうるすべての形状を持っている。
  • どんな石の塊も内部に彫像を秘めている。それを発見するのが彫刻家の仕事だ。
  • 余分の大理石がそぎ落とされるにつれて、彫像は成長する。

 おそらく「若い男」の言っているのはこれらの受け売りだ。

 このように表現される創作活動とは「天啓」として降りてくるインスピレーションを形にする行為であり、その時、芸術家は神の声を聴く預言者である。作品は彼自身が作ったものではなく彼の手を通じて神が地上にもたらしたのだ、あるいは本人にもコントロールできない衝動が内側から湧き出して、それが形を成したのだ。


 だがこうした言い方は、授業者には芸術創造についての神話、神秘思想とでもいったもののように思える。芸術家を、凡人とは違った特別な存在として神秘化しているのだ。


 そもそも上記のようなことを言ったミケランジェロは芸術家か職人か?

 答えは「どちらでもある」だ。

 もちろんミケランジェロの作品を芸術であると言うことを否定する人はいまい。

 だが彼は明らかに職人である。工房に入って親方の元で修行して技術を身につけ、独立してからも自らの工房を開いて弟子をもった。教会や貴族の依頼によって作品を制作した。そのような在り方を普通「職人」と呼ぶ。

 これは例えばレオナルド・ダ・ヴィンチも同じだ。「モナリザ」や「最後の晩餐」は偉大な芸術作品だと見なされているが、それらは注文に応じて制作されたものだ。彼自身、工房で親方について修行し、後に自らの工房をもって弟子とともに作品を制作した。

 運慶もそうだ。仏師とは寺社や貴族の注文に応じて仏像を彫るのが仕事だ。運慶は親方について修行し、後に多くの弟子を率いる棟梁となった。これは我々がイメージする「職人」そのものだ。

 これは何を意味するか?


 芸術家と職人を区別するのは近代以降の発想なのだ。近代以前には芸術作品と工芸品に区別はなかったのだ。職人を意味するフランス語の「アルチザン」は「アーティスト」と語源が同じだ。

 近代以降「個人」の成立とともに、作品は「個人」の内面を表現するものと見なされるようになる。

 一方でそうした作品を、産業革命によって誕生した経済市場に乗せられる「商品」と区別する意識が生まれる。芸術作品は、本来売り買いされることを目的とした商品ではなく、芸術家個人の創作意欲の発露だというのである。一方で職人が作るものは「商品」だ。そうして「アーティスト」と「アルチザン」も対立的な概念として分岐していく。

 そうした前提によって運慶が芸術家か職人かを考えることには意味がない。

 では芸術家と職人をどのような違いとして捉えることが有効か?


 この問題について論ずるには、芸術家と職人が意味するものをまず対比的な言葉に置き換える必要がある。

 ただちに想起されるのは「芸術家=才能/職人=技術」といったところだ。

 ミケランジェロもレオナルドも運慶も、間違いなく天才なのだろう。

 だが運慶が迷いなく仁王を掘り出せるのは、何万回と重ねてきた技術の研鑽の結果ではないか? それが見る者に神秘的な技と見えるほどに高められた熟練の技術の賜物なのではないか?

 だがむろん「自分」は芸術家でも職人でもない。天才を有しているわけでもないし、熟練の技術を持っているわけもない。

 「自分」個人についてもそれは明らかであるというだけでなく、そもそも「自分」は一個人ではなく「明治人」として物語に登場している。そして「明治人」が特定の「才能」や「技術」を有しているべき必然性はない。

 したがって「芸術家」とは才能を持った者、「職人」は技術を身につけた者と捉えることには、それほど発展的な考察は期待できない。「自分」にそれらが欠けているのは自明なことである上に、「明治の木には」という限定が意味をなさないからだ。

 ここに登場する運慶を捉えるために、「芸術家=才能/職人=技術」ではなく、どんな概念を想定すれば良いか?


2022年11月10日木曜日

夢十夜 15 第六夜再考

  さて「第六夜」については小論文としてまとめた。

 みんな、満足のいくものが書けただろうか。


 保留してある論点のうち、②「明治の木には仁王は埋まっていない」については、執筆の前に考える糸口を示しておいたクラスもあった。

 「埋まっていない」とは実際には「彫れない」ということだ。だがそれを「埋まっていない」と表現することにどんな意味があるのか?


 「明治の木には仁王は埋まっていない」とは「運慶には彫れるが自分には彫れない」ということなのか「鎌倉時代の木には仁王が埋まっているが明治の木には埋まっていない」ということなのか、と言い換えることができる。前者を「木のせい」、後者を「自分のせい」と表現しておいた。

 そして、再考においては、この区別がそもそも意味を成していないのだという授業者の見解を示しておいた。

 どういうことか?

 上の問いは「運慶にも、明治の木から仁王を掘り出すことはできないのか?」という問いを背後に隠し持っている。裏返して言えば鎌倉の木からなら自分にも掘り出すことができるということになる。

 だが運慶にそれができないとは思えないし、自分にできるとも思えない。

 それはつまり問題の立て方が間違っているということだ。


 「自分」が「仁王は埋まっていない」と思ったのは「明治の木」だ。

 「明治の木」とは何か?

 それは運慶にも仁王が掘り出せないような木なのか。では山門で彫っているのは「鎌倉の木」なのか。

 そんな想定が無意味に思えるということは、つまり「明治の木」とは明治人であるところの「自分」が彫っている木のことなのであって、運慶が掘ればそれはすなわち「鎌倉の木」ということになるのだ。明治人の「自分」が彫ろうとすれは、木には仁王が「埋まっていない」のであり、それは明治人の「自分」には「彫れない」ことを意味する。したがって「埋まっていない」と「彫れない」は同じことを意味している。

 ここから導かれる結論は、問題は「明治の」という条件付けであり、「自分」個人の問題ではなく、「明治」という時代なのだ、ということである。


夢十夜 14 夢の論理

 「暁」とは夜明けのことだ。

 「暁の星を見た」と表現される事態は、精確に言うと、「星を見た」→「『あれは暁の星だ』と認識した」と二段階に分解される。

 そして、あれは「暁の」星なのだという認識は、もう夜が明けるのだ、という認識にほかならない。

 夜明け?

 だがそれまで「赤い日」がいくつも通り過ぎていった。そのたびに夜は明けていたではないか?

 そうは思えない。「赤い日」はただ書き割りのような空を背景として通り過ぎていくだけだ。昼に対応する夜も描かれていない。「自分」が眠ったり起きたりする様子もない。したがって、日が昇ったり沈んだりするからには、その度ごとに「暁」はあったはずなのだろうが、結局のところ時間がいくら経過していても、そこに本当の夜明けが来ていたような印象はない。

 「自分」はただ、女を埋めた時のまま、夜の底にひとり座り続けていたのではないか?

 そして「自分」が「暁の星」を見た瞬間にようやく夜明けがおとずれる。

 その時、そこまでの女をめぐるあれこれ、すなわち一夜の夢が終わる。


 「百年」とは、物語内部の論理レベルでは「女が来るまで」である。「百年が来た」とは、すなわち「女が来た」ということだ。

 一方で例えば「百年」とは「永遠」を意味している、などという解釈もある。女の約束に「待っている」と答えてひたすら待つ男から「永遠の愛」が主題だなどと言ってみたり、「百年経ったら会いに来る」とは、もう会えないという意味であり、結末で男は死んでいるのだなどと解釈して、そこから「愛の不可能性」が主題だと言ってみたりする。

 「百年」とは「永遠」という意味だ、という解釈は、物語内部の論理レベルを超えた抽象度で、その意味を捉えようとしている。「象徴」あるいは「隠喩」である。「第六夜」で試みたのもそのような解釈だ。

 だが「第一夜」については、そうした解釈は、小説読者が純粋に小説を読むことから乖離した「解釈ごっこ」になっていると思う(「暁の星」が女の象徴だと言ったりする解釈もそうだ)。

 一方、上で示した解釈は「百年」を「夢の終わりまで」を意味しているとするものだ。これもまた、物語内部の具体レベルを超えた解釈ではある。

 「百年がもう来ていたことに気づいた」とは、夢が終わることを悟る刹那の気配を示している。

 「夢オチ」という表現があるが、それが夢だと気づく視点は、世界を外側から見ている。メタな視点からこの物語を「夢」として捉えている(「メタ」とは上の次元から対象を見る高次の階層だ)。

 それはちょうど、我々読者がこの物語を「小説」としてどう読んだかということと入れ子構造をなしている。


 夢は、目が覚めて思い出すときに作られるという。我々の語る夢は多かれ少なかれ、覚醒時から遡って解釈される。

 解釈とは何らかの合理化だ。そこに論理を見出すのである。

 そして夢の中の納得は、目覚めてから思い出すと、何だか奇妙な論理で成立していることがある。

 目覚めるということは夢が終わるということだ。夢が終わるからには、女との約束が果たされなければならない。すなわち百年が来なければならない。だとするとこの百合が女の生まれ変わりなのだ。

 こうした奇妙な納得のありようは夢の感触として我々には覚えがあるはずだ。ああ、これは…なんだなあ、と何だかよくわからない納得をしている。「百年はもう来ていた」の「もう」という副詞も、「来ていた」の過去完了も、既に終わったことを今になって思い出す時の既視感のようなニュアンスをうまく表現している。冒頭近くの「確かにこれは死ぬな」にもそうした感触が鮮やかに表現されている。


 ということは先ほどの論理は転倒している。

 百合が女の生まれ変わりだと気づいたから「百年はもう来ていたんだな」と気づいたのではなく、むしろ百年が来ていたという結論から、百合が女の生まれ変わりだったのだという解釈が生まれたのだ。「百合が女の生まれ変わりであることに気づいた」という認識は、いわば遡って捏造されたのだ。そして振り返ってみた時にはそれが忘れられているのである。


 そしてそれは我々読者の思考である。上の捏造は「自分」がしたのではなく、読者がしたのだ。「自分」がそれに「気づいた」と、小説中に書かれてはいない。

 我々読者もまた、百合が女の生まれ変わりだと気づいたりはしなかった。最後の一文で百年が既に来ていたことを知らされ、そこから遡って百合が女であると解釈したのだ。それ以外の読解がされようはずがない。

 だがそのことは忘れられてしまう。

 最初の要約課題の際に、「百合の花が咲いた」ことと「百年が来ていたことに気づいた」ことを、明らかな因果関係として記述した人は多い。例えば「咲いたので~」などという記述は珍しくない。「女が百合に生まれ変わって」とはっきり書いている者もいる。

 だがそうした因果関係もそのような事実も、小説に書かれているわけではない。読者がそう解釈したのだ。

 もちろん漱石はそうした解釈を誘導するように意図的に書いている。だからある意味ではそれは「正しい」解釈だ。誘導にのってそのように解釈するとき、「物語」は完結する。


 こうして、いかにも夢らしい感触を感じさせる「夢の論理」は、同時に、我々が小説を読むということの三つ目の側面をも照らし出す。

 夢が終わるからには百年が来なければならないという「夢の論理」は、「物語」が終わるからには「欠落」が「回復」しなければならないという小説享受の論理と同型だ。我々は物語を完結させんとする要請によって、百年の到来=女の再来という結末をまず受け入れたのだ。その後で、女が百合に生まれ変わって会いに来たのだと信じたのだ。

 そのことを思い出すとき、「自分」が気づいた百年の到来が夢の終わりを意味しているという解釈も「思い出す」ように腑に落ちる。


 ずっと待っていた女の再来によって百年の終わりが来たという結末は、基本的には「欠落」→「回復」という型で認識されるハッピーエンドとして認識される。

 だが一方で夢の女とは夢の中でしか会えない。だから夢の終わりとは夢の女との永遠の訣別でもある。

 ここには約束の成就と約束成就の不能、「回復」の成功と失敗という正反対の論理が階層を違えて同居している。

 「第一夜」のハッピーエンドは喪失の切なさを内包して成立している。


夢十夜 13 暁の星を見る

 「自分」はなぜ「百年がもう来ていたことに気づいた」のか?

 先に示したのは「①女がまだ来ないから」と裏表で整合する「②女が会いに来たから」という論理だ。こうした論理によって我々は「第一夜」が欠落→回復という「物語」の構造を成していると見なしていたのだった。

 ではbの「暁の星を見た」から「百年が来ていたことに気づいた」と考えることは、どのような解釈を成立させるか?

 

 「暁の星」とは何を意味するか。もちろん、意味を見出せない要素は、この小説の中にいくらでもある。「真珠貝」然り、「星の破片」然り。あるいはそれらは、小説の構造を支える明確な「意味」をもった構成要素なのかもしれない。だが今のところ授業者の目には、それらはその「意味」について考えても仕方のないような単なる「ロマンチックな」ガジェットに過ぎないように映っている。

 「暁の星」も同様のギミックに過ぎないのだろうか?


 例えば暁の星を女の象徴としてみる解釈が世間にはある。

 「暁の星」は「明けの明星」つまり「金星」を意味する。金星は西欧ではローマ神話に由来して「ヴィーナス」と呼ばれる。すなわち「美の神」だ。

 つまり「暁の星」こそが女なのである

 こういうことは、好事家のネット記事というだけでなく、大学の教授やら文芸評論家やらが言ってたりもする(たぶん。あろうことか、まさしくそういう解説を中学時代に教わったという話をF組で聞いた。まるっきりそのまんまのノートを見せてもらった)。

 なんなんだ? この解釈は?

 百合が女をイメージさせるように意図的に書いてあることは明白なのに、なんでこんな解釈をする必要があるのか?


 そこで、もうちょっと辻褄を合わせるために更に理屈をこねる。

 女は「昇天」したのだから天にいる。真珠貝に月の光が射したり、星の破片や露が天から落ちてくるのは女との交感を暗示している。

 百合は、男の疑いに対して、自分が約束を忘れていないことを示す女の身代わりで、露はそれが自分であることを悟らせるための合図だ。

 つまり女は天から、いつだって自分を見守ってくれていたのだ。

 そう気づいた時に「もう百年は来ていた」と気づくのだ。

 よし、もっともらしい解釈になった。


 だが、このような解釈は授業者には何のカタルシスももたらさない。なるほど、という腑に落ちる感じはない。「第一夜」は既によく「わかっている」というのに、まるで人工的な、こんな解釈をすべき必要がわからない。

 「暁の星」にスポットを当てて、もう一度考えさせたのは別な狙いがある。

 

 ところで「暁」とは上に見たとおり、夜明けのことだ。

 とすると、これから上っている太陽こそが女なのか?

 もちろんこんな解釈もばかばかしい。

 とすると?


2022年11月6日日曜日

夢十夜 12 なぜ気づいたのか

  「第一夜」は「死んだ女が百合の花として帰ってくることで、百年待っているという約束が成就する物語」であると読める。

 だが本文を見直してみると、明確にそのようには書かれていない。

 「自分」は本当に百合が女の生まれ変わりであると気づいたのだろうか?


 なぜこんな疑問をわざわざ投げかけるのか不審に思うかもしれない。百合の描写からは、それが女の生まれ変わりであることは自明であるように感じられる。「首を傾けていた」という擬人的表現も「骨にこたえるほど匂った」という比喩も女の官能性を感じさせる。「自分」が思わず接吻してしまうのも、それが女の生まれ変わりだからだ。花弁に露が落ちるのは、女が死ぬ瞬間の「涙が頬へ垂れた。」のイメージと重ねられているのだろう。明らかに作者はそのような印象を読者に与えようとしている。

 したがって、百合が女の生まれ変わりであることに気づく=女との約束が成就したことに気づく=百年が来ていたことに気づく、という論理に疑問はない。だからこそ「第一夜」を「物語」として読めるのだ。

 だが、あらためて読んでみると「自分」がそのことに気づいたとは直截的には書いてはいない。

 その間隙を衝くために次のような問いを投げる。

自分は首を前へ出して、冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。「百年はもう来ていたんだな。」とこの時初めて気がついた。
 ③「この時」とはいつか?


 上の論理に従えば、「この時」とは、百合に接吻してから顔を離した「時」のことだ。

 だが素直に本文を見直してみると、「気がつ」く直前に「自分」は「暁の星がたった一つ瞬いてい」るのを見ている。

 もちろんこの二つは同じ「時」だ。「顔を離す拍子に思わず遠い空を見た」のだから。

 だが問題は「時」と指定されるある時点というより、「この」が指している事実が何かだ。

 そしてその事実と「気がついた」におそらく因果関係があるのである。

 とすれば、上の二つの可能性は、ただちに次のように問い直される。


「なぜ『百年はもう来ていた』ことに気づいたのか?」答えは次のどちらか?

a 百合が女だと気づいたから

b 暁の星を見たから


 どちらが正解か、という問いではない。aとbはどのような関係になっているか?


2022年11月4日金曜日

夢十夜 11 第一夜も解釈する

 「第一夜」を素材に、皆に考えてほしかったのは、小説を読むという体験がいかなるものであるか、だ。ここまでの作業を通してその二つの側面を浮かび上がらせた。「構造」を捉え、細部の豊穣を源泉掛け流しの温泉のように身に浴びる(そして「第六夜」のように抽象化された「意味」を捉えることもまた小説を読むという行為の別の側面だ)。

 だが「第一夜」を読むことからは、もう一つ興味深い体験になりうる可能性が引き出せる。それはやはりある種の「解釈」だ。だがそれは「第六夜」で考察したような、主題を抽象したり、象徴を読み取ったりする「解釈」ではない。

「第一夜」には、ある種の夢の構造が表出している。そして「夢を見る」ことと「小説を読む」ことを重ねてみることで、「小説を読む」ことのまた別の側面が明らかになる。


 考える糸口は次の問い。

なぜ「自分」は

①「百年がまだ来ない」と考えたのか?

②「百年はもう来ていた」と気づいたのか?


 物語の最後で白い百合が咲く前に「自分」は女に欺されたのではなかろうかと考える。①はその直前に置かれた記述。②は百合に接吻して物語が終わる最後の一文だ。

 二つの問いに、整合的な論理で答える。


 まず①。

 カウントが「百年」に達していないということではない。なぜか?


 自分は途中で数えることを放棄しているからである(「いくつ見たかわからない」)。

 ではなぜ「まだ来ない」と考えられるのか?


 ①「女がまだ会いに来ないから」である。

 女は「百年経ったらきっと会いに来る」と言った。その女が現れないから、百年はまだ来ていないと考えたのだ。

 これを裏返せば、「百年がもう来ていたことに気づいた」のは②「女が会いに来たから」ということになる。

 これはつまり、百合を女の再来と認めたということにほかならない。

 ①と②は裏表に補完し合っている。


 先に、読者はこの小説を完結した「物語」として読める、と述べた。それは①②の論理を了解しているということだ。喪失によって生じた「欠落」は、試練の末「回復」したのだ。


 こんな明白な論理について問答をしたのはさらに次のように問うためだ。

本当に「女が百合になって会いに来た」と本文に書いてあるのか?


 答えは、、である。


夢十夜 10 「小説を読む」とは

 ここで茂木健一郎の「見る」と、小林秀雄の「美を求める心」を読む。

茂木健一郎「見る」

 「見る」という体験は、その時々の意識の流れの中に消えてしまう「視覚的アウェアネス」と、概念化され、記憶に残るその時々に見ているものの「要約」という二つの要素からなる複合体なのである。(略)

 視野の中に見える「モナ・リザ」の部分部分が集積してある印象を与えることで人間の脳は深い感銘を受ける。印象を結ぶ脳の編集、要約作業の過程で、ある抽象的な「要約」が生まれるからこそ、「モナ・リザ」は特別な意味を持つ。

 しかし、その「要約」だけでは、「モナ・リザ」の前に立つという体験を再現することはできない。その絵の前に立つとき、さまざまな要約が脳の中では現れ、深化し、変貌し、記憶される。その一方で、絵を構成する色や形などの細部は、決してそのすべてをとどめておくことができない「意識の流れ」の中で、時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる。

 何かをつかみつつも、指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われつつあるもの。その豊穣な喪失こそが、絵を見るという体験の本質である。 


小林秀雄「美を求める心」

 見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるのでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに入ってくれば、諸君はもう眼を閉じるのです。菫の花だと解るということは、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。言葉の邪魔のはいらぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見たこともなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。

 これらの論旨とここまでの授業の考察を重ねてみる。

 それらには何が共通しているか?


 まず、二つの文章に共通した論旨をつかむ。

 「共通している」とは両者が「対応している」ということだ。

 何と何が?


 茂木のいう「要約」が小林のいう「言葉に置き換える」に対応しているというのが最も重要な対応としてまず指摘されなければならない。

 だがそれはどのような論旨の把握によって「対応している」と考えられるのか?


 二つの文章に共通した問題を問いの形で表すなら、どちらも「『見る』とはどういうことか?」と表現できる。このような把握ができれば、その「こういうこと」の共通点は何か? を考えればいいとわかる。

 また、授業のテーマが何だったのかを、同じように問いの形にする。

 何度か繰り返した。「小説を読むとはどういうことか?」だ。となれば、その「こういうこと」を共通した言い方でいえばいい。


 茂木は「見る」ことは「視覚的アウェアネス」と「要約」の複合体だと言う。

 小林の例えば「花の姿や色の美しい感じ」が「視覚的アウェアネス」に、「言葉で置き換える(「お喋り」はその比喩的表現)」が「要約」に対応している。

 茂木は両方をそれぞれ述べているが、小林は後者を否定している。だが、それは二つのうちの「要約」のみが「見る」ことだと思っているような人を批判するためだ。

 「言葉で置き換える」ことが見ることだとしか考えていない人はちゃんと「見る」ことをしていないのだ、というのが小林の論の力点だ。そしてただ「見る」こと=「視覚的アウェアネス」で捉えていることは簡単だと人は思っているが、そこには訓練がいるのだ、とも言っている。

 だが「言葉で置き換える」ことがなければ、茂木の言うように見たことは「消え去って」「失われて」しまう。「菫の花だ」と言ってそれ以上見ることをやめてしまう人は本当に「見て」はいないのかもしれないが、「菫の花だ」とも言わなければ、見たこと自体が流れ去ってしまう。

 こうした論旨とここまでの授業でやってきたことは同型である。 


 「絵を見る」「花を見る」ことが「小説を読む」と対応しているのである。

 「要約」なくして「絵を見る」ことはできないが、「絵を見る」という体験は同時に「絵を構成する色や形などの細部」が「時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる」ことでもある。

 「夢十夜」を読んで、それが何を語っている小説なのかを認識するために、我々は「第六夜」で試みたように抽象化した「意味」「主題」を捉えるために「解釈」したり、「第一夜」で試みたように「構造」を捉えて「要約」したりする。そうしなければ読んだ小説はとりとめもないものとして流れ去ってしまう。それらの「解釈」は意識するとせざるとを問わず必ず行われている。

 だが一方で、その時「指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われ」てしまうものこそが小説の「豊穣」でもあるのである。

 そうした「花の姿や色の美しい感じ」そのものを見ないで、小説が「わかる」ことは、本当に小説を「読んでいる」ことにはならない。

 「第一夜」の過剰とも言える描写や形容を施されたイメージ豊かな文章を読むことは、湯量の豊富な「源泉掛け流しの温泉」の湯を浴びるように贅沢なことだ。

 漱石の紡ぐ物語は、そうした細部の「豊穣」によってこそ魅力的な小説たりえている。


2022年11月1日火曜日

夢十夜 9 小説の「骨」と「肉」と「皮」

  「第一夜」の文体の特徴は、いわば過剰な「叙景」だ。

 「第一夜」には読者に映像を喚起させる描写が、しつこいほどに念入りに語られている。そしてさらにそれが異様とも言える密度で、形容詞や形容動詞や副詞によって修飾されている。

 実際にそのようにして「詰め」てみた文章を通読する。

こんな夢を見た。/枕元に坐っていると、女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。 /自分はこの目を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまたきき返した。すると女は、でも、死ぬんですもの、しかたがないわと言った。/じゃ、私の顔が見えるかいときくと、見えるかいって、そら、そこに、映ってるじゃありませんかと、笑ってみせた。自分は、顔を枕から離した。どうしても死ぬのかなと思った。/女がまたこう言った。/「死んだら、埋めてください。そうして墓のそばに待っていてください。また逢いに来ますから。」/自分は、いつ逢いに来るかねときいた。/「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。―日が東から西へと落ちてゆくうちに、――あなた、待っていられますか。」/自分はうなずいた。女は「百年待っていてください。きっと逢いに来ますから。」と言った。/自分は、待っていると答えた。女の眼が閉じた。もう死んでいた。/自分はそれから庭へ下りて、穴を掘った。女をその中に入れた。そうして土をかけた。/それから星の破片の落ちたのを拾ってきて、土の上へのせた。/自分は苔の上に坐った。これから百年の間、こうして待っているんだなと考えながら、墓石を眺めていた。/そのうちに、日が東から出た。それがやがて西へ落ちた。一つと自分は勘定した。/しばらくするとまた天道が上ってきた。そうして沈んでしまった。二つとまた勘定した。/自分は日をいくつ見たか分からない。勘定しつくせないほど日が頭の上を通り越していった。それでも百年がまだ来ない。しまいには、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。/すると石の下から茎が伸びてきて、百合が開いた。自分は花弁に接吻した。空を見たら、暁の星が瞬いていた。/「百年はもう来ていたんだな。」とこの時はじめて気がついた。

 これで850字くらい。原文は1800字くらいなので、半分以下に原文を詰めてみても、ストーリーを追う上ではほとんど支障がないどころか、物語的には原文とほとんど変わらないような印象があるはずだ。

 逆に言えば「第一夜」には、ストーリーを語る上で必須とは言えない描写や形容が、過剰とも言える量・密度で書き込まれているのだ。


 さて結局のところ、作品は何でできているか?

 我々がそれを「物語」として感じる基本的「構造」を言わば「骨」としてみると、その周りに、細かいプロットの展開が言わば「肉」として付随している。最初の課題、100字要約はそれをぎりぎりまで削ぎ落として、ほとんど骨だけにしたものだ。

 逆に、そこに肉付けされた身体が上のような文章で表される小説の原形だとすると、その上に衣服を着せ、化粧さえ施したものが完成された小説作品だ。

 「第一夜」は、ずいぶんな厚着、厚化粧なのだ。

 「肉」や「衣装」「化粧」はどんな働きをしているか?

 感情移入させる、臨場感を増す、視覚的想像を喚起する…。

 いろいろな言い方が可能だ。


 完成された作品としての小説は次のようないくつかの層で成立している。

骨組み   ↓

細かい展開 ↓

映像的描写 ↓

形容    ↓

完成した小説

 こうした小説を我々はどのように読んでいるか?

夢十夜 8 「第一夜」の文体の特徴

  さらに小説を読むとはどのような行為かを考える。

 「物語」として読むことが可能な「第一夜」は、主題を考えるのではなく、その小説としての魅力の源泉について考えてみたい。

 注目すべきは文体の特徴である。


 小説の要約においては「物語」的な因果関係を把握する必要がある。「欠落」と「回復」という骨組みを示せれば、ひとまずは端的な要約ができる。

 さて、こうした要約において抽出したいわば骨組みと、完成された元の作品の間にあるものが何なのかを考える。

 作品とは骨以外に何でできているか?


 「第一夜」の冒頭を次のように音読して聞かせた。

枕元に坐っていると、女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。その眸の奥に、自分の姿が浮かんでいる。

 これは原文とどう違うか?

腕組みをして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますと言う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきり言った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにしてきいてみた。死にますとも、と言いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。その真っ黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。

 授業ではこの変更を二段階に分けて読み聞かせた。

 まず太字部分、「静かな」「長い」「柔らかな」「真っ白な」「温かい」「はっきり」「ぱっちり」「鮮やかに」などを抜いた。

 次に下線部「腕組みをして」「女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。」などを抜いた。

 これら太字部分と下線部は何か? 何を削ったのか?

 太字については「修飾」が削られている、という意見が圧倒的に多かった。悪くないが「修飾」という概念はちょっと広過ぎる。
 下線部は「様子」や「状態」を表す部分だ。これも悪くない。
 だがより的確に言うなら「形容」「描写」がいいか。どちらもサ変動詞にできる。
 太字は、品詞としては形容詞・形容動詞・副詞・連体詞など、ある動詞や名詞を「形容」する一単語だ。
 下線部は映像的「描写」。何をした、何が起きた、というだけでなく、それがどんな「様子」だったかを視覚的に伝える情報だ。
 もちろん「形容」と「描写」の境目は明確ではないが、ともかくも例えば「形容」「描写」という言葉で表現できるかどうかもまた国語の力だ。

 さて、「第一夜」から、取り除いて前後を詰めてしまってもストーリーの把握の上で支障のない「形容」および「映像的描写」を削除してみよう。タブレット上でテキストを一度コピーして、その一方をいじる。元のテキストは残しておく。
 「取り除いてもかまわない」かどうかというのは判断が揺れる。また「形容」と「映像的描写」も厳密な区別ではない。
 だから「正解」は一つに決まらない。だがともあれ、考えることで、この小説の文体の特徴を実感することができる。
 できあがったら隣の人と読み合って、互いが消した部分の違いを比べてみる。そこも消せるのか、そこを削ると話がつながらなくなるよ、などと話し合ううち、この小説の特徴が炙り出される。
 この作業を通して浮かび上がるこの小説の文体の特徴とは何か?

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