2022年11月10日木曜日

夢十夜 13 暁の星を見る

 「自分」はなぜ「百年がもう来ていたことに気づいた」のか?

 先に示したのは「①女がまだ来ないから」と裏表で整合する「②女が会いに来たから」という論理だ。こうした論理によって我々は「第一夜」が欠落→回復という「物語」の構造を成していると見なしていたのだった。

 ではbの「暁の星を見た」から「百年が来ていたことに気づいた」と考えることは、どのような解釈を成立させるか?

 

 「暁の星」とは何を意味するか。もちろん、意味を見出せない要素は、この小説の中にいくらでもある。「真珠貝」然り、「星の破片」然り。あるいはそれらは、小説の構造を支える明確な「意味」をもった構成要素なのかもしれない。だが今のところ授業者の目には、それらはその「意味」について考えても仕方のないような単なる「ロマンチックな」ガジェットに過ぎないように映っている。

 「暁の星」も同様のギミックに過ぎないのだろうか?


 例えば暁の星を女の象徴としてみる解釈が世間にはある。

 「暁の星」は「明けの明星」つまり「金星」を意味する。金星は西欧ではローマ神話に由来して「ヴィーナス」と呼ばれる。すなわち「美の神」だ。

 つまり「暁の星」こそが女なのである

 こういうことは、好事家のネット記事というだけでなく、大学の教授やら文芸評論家やらが言ってたりもする(たぶん。あろうことか、まさしくそういう解説を中学時代に教わったという話をF組で聞いた。まるっきりそのまんまのノートを見せてもらった)。

 なんなんだ? この解釈は?

 百合が女をイメージさせるように意図的に書いてあることは明白なのに、なんでこんな解釈をする必要があるのか?


 そこで、もうちょっと辻褄を合わせるために更に理屈をこねる。

 女は「昇天」したのだから天にいる。真珠貝に月の光が射したり、星の破片や露が天から落ちてくるのは女との交感を暗示している。

 百合は、男の疑いに対して、自分が約束を忘れていないことを示す女の身代わりで、露はそれが自分であることを悟らせるための合図だ。

 つまり女は天から、いつだって自分を見守ってくれていたのだ。

 そう気づいた時に「もう百年は来ていた」と気づくのだ。

 よし、もっともらしい解釈になった。


 だが、このような解釈は授業者には何のカタルシスももたらさない。なるほど、という腑に落ちる感じはない。「第一夜」は既によく「わかっている」というのに、まるで人工的な、こんな解釈をすべき必要がわからない。

 「暁の星」にスポットを当てて、もう一度考えさせたのは別な狙いがある。

 

 ところで「暁」とは上に見たとおり、夜明けのことだ。

 とすると、これから上っている太陽こそが女なのか?

 もちろんこんな解釈もばかばかしい。

 とすると?


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