もう一つ、運慶の存在が意味するものを考える。
鎌倉時代の人物が明治という時代に現れるという設定は、夢らしい荒唐無稽さであるというより、むしろ小説としての意図がありそうである。「夢十夜」の他の話でも明治以外の時代の人物が登場したりそうした時代が舞台になっていたりするが、登場するのは誰ともわからない人々だ。だがこの篇に限って運慶という誰もが知っている実在の人物を登場させる意味を捉えることが、この小説の主題につながるかもしれない。
歴史に名を残す天才仏師の偉大さを誉め称えることがこの物語の主題だとは誰も思わない。問題は運慶の仕事ぶりと、それを見た明治の人々の反応だ。
なぜか「自分」は、いったんは自分にも仁王が彫れるはずだと思い、彫れない理由を「明治の木には仁王は埋まっていない」からだと考える。
この「埋まっていない」=「彫れない」が意味することを考えるために、掘り出せる=彫れる運慶を「自分」と対比する必要がある。運慶が仁王を掘り出せて、自分が掘り出せない必然性を考えるのである。
前項の考察に拠れば、問題は運慶という傑出した個人と、平凡な「自分」という対比ではない。
歴史に名を残す鎌倉人と、一明治人との対比である。
糸口として運慶が芸術家なのか職人なのかと問うた。
実は授業者がこの問いを思いついたのは、世の「第六夜」論に「芸術」の語が頻出するのを知っていることによる。
運慶の迷いのない彫刻作業を、若い男が「あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまで」と表現する。
こういった表現は、ある種の「芸術」創造についての語り口として見覚えがある。
実はこの表現はミケランジェロの以下のような言葉から発想されていると考えられる。
- まだ彫られていない大理石は、偉大な芸術家が考えうるすべての形状を持っている。
- どんな石の塊も内部に彫像を秘めている。それを発見するのが彫刻家の仕事だ。
- 余分の大理石がそぎ落とされるにつれて、彫像は成長する。
おそらく「若い男」の言っているのはこれらの受け売りだ。
このように表現される創作活動とは「天啓」として降りてくるインスピレーションを形にする行為であり、その時、芸術家は神の声を聴く預言者である。作品は彼自身が作ったものではなく彼の手を通じて神が地上にもたらしたのだ、あるいは本人にもコントロールできない衝動が内側から湧き出して、それが形を成したのだ。
だがこうした言い方は、授業者には芸術創造についての神話、神秘思想とでもいったもののように思える。芸術家を、凡人とは違った特別な存在として神秘化しているのだ。
そもそも上記のようなことを言ったミケランジェロは芸術家か職人か?
答えは「どちらでもある」だ。
もちろんミケランジェロの作品を芸術であると言うことを否定する人はいまい。
だが彼は明らかに職人である。工房に入って親方の元で修行して技術を身につけ、独立してからも自らの工房を開いて弟子をもった。教会や貴族の依頼によって作品を制作した。そのような在り方を普通「職人」と呼ぶ。
これは例えばレオナルド・ダ・ヴィンチも同じだ。「モナリザ」や「最後の晩餐」は偉大な芸術作品だと見なされているが、それらは注文に応じて制作されたものだ。彼自身、工房で親方について修行し、後に自らの工房をもって弟子とともに作品を制作した。
運慶もそうだ。仏師とは寺社や貴族の注文に応じて仏像を彫るのが仕事だ。運慶は親方について修行し、後に多くの弟子を率いる棟梁となった。これは我々がイメージする「職人」そのものだ。
これは何を意味するか?
芸術家と職人を区別するのは近代以降の発想なのだ。近代以前には芸術作品と工芸品に区別はなかったのだ。職人を意味するフランス語の「アルチザン」は「アーティスト」と語源が同じだ。
近代以降「個人」の成立とともに、作品は「個人」の内面を表現するものと見なされるようになる。
一方でそうした作品を、産業革命によって誕生した経済市場に乗せられる「商品」と区別する意識が生まれる。芸術作品は、本来売り買いされることを目的とした商品ではなく、芸術家個人の創作意欲の発露だというのである。一方で職人が作るものは「商品」だ。そうして「アーティスト」と「アルチザン」も対立的な概念として分岐していく。
そうした前提によって運慶が芸術家か職人かを考えることには意味がない。
では芸術家と職人をどのような違いとして捉えることが有効か?
この問題について論ずるには、芸術家と職人が意味するものをまず対比的な言葉に置き換える必要がある。
ただちに想起されるのは「芸術家=才能/職人=技術」といったところだ。
ミケランジェロもレオナルドも運慶も、間違いなく天才なのだろう。
だが運慶が迷いなく仁王を掘り出せるのは、何万回と重ねてきた技術の研鑽の結果ではないか? それが見る者に神秘的な技と見えるほどに高められた熟練の技術の賜物なのではないか?
だがむろん「自分」は芸術家でも職人でもない。天才を有しているわけでもないし、熟練の技術を持っているわけもない。
「自分」個人についてもそれは明らかであるというだけでなく、そもそも「自分」は一個人ではなく「明治人」として物語に登場している。そして「明治人」が特定の「才能」や「技術」を有しているべき必然性はない。
したがって「芸術家」とは才能を持った者、「職人」は技術を身につけた者と捉えることには、それほど発展的な考察は期待できない。「自分」にそれらが欠けているのは自明なことである上に、「明治の木には」という限定が意味をなさないからだ。
ここに登場する運慶を捉えるために、「芸術家=才能/職人=技術」ではなく、どんな概念を想定すれば良いか?
小論文が書けない泣(;´Д`)
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