2023年5月25日木曜日

思考の誕生 20 わかりあえなさ

 「未来をつくる言葉」では 何が問題になっているか?


 「生物の作る環境」「物と身体」と関連させて「環世界」と「フィルターバブル」について考察してきたが、これらは同じ問題意識の圏内にある。「環世界」とは「フィルターバブル」の中から見た世界のことだ。

 我々が見ているのはそれぞれの「環世界」だ。それは我々一人一人が「身体」や「文化」によるそれぞれの「フィルターバブル」の中に閉ざされ、それぞれに孤立しているということだ。

 そしてフィルターバブルの膜を越境するために必要なのが「言葉」であり、さらにそれを生み出すために重要なものは「異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築くこと」だとドミニク・チェンは言う。

 「異質な他者と自分を架橋する」?


 だが単にフィルターバブルを越えて互いにつながり合おうとか、そのための「言葉」を探そうといったメッセージだけを、「気分」のように唱えるだけでは問題の核心が見えてはこない。

 この文章の焦点が、括弧でくくられて文中で繰り返される「わからなさ」「わかりあえなさ」であることに気づかなければならない。「環世界」「フィルターバブル」も「わかりあえなさ」の言い換えだし、本文が「翻訳」の話題からはじまっているのも、この文章が「わかりあえなさ」を問題にしていることの表れだ。

 そこまで掴めば、この文章の関心が蓮實重彦や内田樹と共通していることがわかってくる。

 ドミニク・チェンが焦点を当てる「わかりあえなさ」が、「思考の誕生」の「他人性」、「物語るという欲望」の「断絶・隙間・意味のわからないところ」であることは既に明らかだ。

それ(「わかりあえなさ」)は埋められるべき隙間ではなく、新しい意味が生じる余白である。

 これは「思考の誕生」「物語るという欲望」が語っていることそのものではないか。


 こうした結びつけは牽強付会に見えるだろうか?

 さらにこれらの主張の裏には何が批判されているか? どんな方向性に対するアンチとしてこうした主張がなされているのか? 仮想敵は誰か? と考えてみる。


 断絶の前で「言葉を失う」とき、人は「既に存在するカテゴリに当てはめて理解しようとする誘惑に駆られる」。ドミニク・チェンがそう語る危険こそ、蓮實が「他人性」を希薄にする(=他人を理解する)ために「たがいに自己の内面のイメージを投影しあう」「風土」が「蔓延しがち」だと言っている現在の状況だ。

 「誘惑に駆られる」といい「風土が蔓延する」といい、微妙な否定のニュアンスは、それが仮想敵であることを示すサインだ。

 つまり二人は「安易にわかった気になるな」と言っているのだ。「わかりあえなさ」に「じっと耳を傾け、眼差しを向け」ろ、と言っているのだ。

 すぐに「わかった」気になる安易な姿勢(それに無自覚であること)を仮想敵としている点で、蓮實とドミニク・チェンのメッセージは一致している。


 ちなみに、「わかりあえなさ」「他人性」「断絶・隙間」にあたるものは、「物と身体」では何か?

 身体が感ずる「障害」「抵抗」がそれにあたる。

 なぜ?


 「他人性」をもった相手との間に「思考」が誕生する。

 意味の「断絶」に橋を架けようとするときに「意味」が生ずる。

 「わかりあえなさ」をつなごうとするときに我々の間に「言葉」が生まれる。

 物の実在についても同じことが言える。

 「障害」を乗り越えようとするときに、我々の前に「物」が現れる。身体に対する「抵抗」が物の実在を我々に証すのだ。

 逆に言えばそれらの「わからなさ」=「障害・抵抗」のないところには「思考」も「意味」も「言葉」も「物の実在」も生まれない。

 そうして現れる「物」は、生物によってさまざまな様相をなしているのだし(「環世界」)、物語は見る者によって違った姿で現れるのだ。


 さて、昨年からの授業でやってきたことも同じだ。

 読み比べとは、異なった別々の文章の間に「脈絡をつける」「架橋する」行為であり、それこそが「解釈」なのだ。

 テクストの意味はそのようにして生まれるのであって、一つの文章の中でいくら論理をいじくりまわしても、それでその文章が読解できたということにはならない。


思考の誕生 19 主旨を捉える

 さてここまで、今年度に入ってから7編の文章を読んできた(さらには「言葉は世界を切り分ける」「グーグルマップの世界」「木を見る森を見る」あたりにも言及し、「ほんとうの『私』とは?」にもつながる可能性があったのだが、そこはまたの機会にとっておく)。

  • 「思考の誕生」
  • 「読む行為」
  • 「真実の百面相」
  • 「物語るという欲望」
  • 「生物の作る環境」
  • 「未来をつくる言葉」
  • 「物と身体」

 それぞれの文章の主旨を、なるべくシンプルな一文で捉えることはその都度やってきたし、それぞれの論がどのように関連し合っているのかも考察してきた。

 最後に「未来をつくる言葉」の主旨を捉え、それがそれまでの文章とどう関わっているかを考える。


 「未来をつくる言葉」の主旨を一文に表すのは容易だ。自動的にできる。

 「一文で表す」というのは「命題」の形にするということだ。名詞で終わってはいけない。主語述語が揃った形。

 主旨を一文にするには、なるべく題名を有効利用するのが簡便だ。とはいえ上記のどれもこれも体言で終わっているので、それらの名詞が主語なのか述語なのか目的語なのか形容句になるのかは、内容を把握していないと判断できない。

 「思考の誕生」なら「思考の誕生は~。」と主語に置く文も「思考は~誕生する。」と述語に置く文も作れる。

 「物語るという欲望」なら、「人には物語るという欲望がある。」か「物語るという欲望は『断絶』から生まれる。」あたりだが、この二つなら後者の方がより主旨が盛り込まれている。

 上記では「真実の百面相」が最も簡単で「真実は百面相だ。」と言えば良い。

 「未来をつくる言葉」も同じくらい簡単。次のように変換するのはほとんど自動的だ。

言葉は未来をつくる。

 これは何のことか?

 本文に「未来」という言葉は実は登場しない。ただ文末が次のように終わる。

わたしたちは目的の定まらない旅路を共に歩むための言語を紡いでいける。 

 この「目的の定まらない旅路」が「未来」の隠喩になっていることに気づけば、「言葉」が、そうした旅路を「共に歩む」よすがになるのだと言っていることはわかる。

 「主旨」というより「主張・メッセージ」くらいに拡張して言うなら?

未来をつくる言葉を共に探そう。

 くらいか。

 となるとさらに、そうした「言葉」はどのように探せば良いのか(そこにはどんな困難があるのか)、といったあたりが書かれている文章なのだと把握できる。


 さて、こうした主旨・主張とつながる論旨は、それ以外の文章のどこに見出されるか?


2023年5月19日金曜日

思考の誕生 18 フィルターバブル

 さらに次の一節について考察した。

わたしたちは自己の身体という原初のフィルターバブルを持って生まれてくる

 どういうことか?


 「フィルターバブル」を問題化していたのは、去年読んだ文章としては「グーグルマップの世界」だ。すぐにこれが想起されただろうか?

 「フィルターバブル」もしくは「エコーチェンバー(反響室)」現象は、現在のネット言説について考える上で避けられない問題の一つだ。

見たいものしか見ない」という態度に関しては、グーグルマップにかぎらず、パーソナライゼーションが進んだウェブのユーザー全般に当てはまる問題として、すでにメディア論において指摘されている。

 「グーグルマップの世界」では、「フィルターバブル」という言葉こそ使われていないが、上記の「パーソナライゼーション」がそこにつながっていく問題として指摘されている。

 「未来をつくる言葉」でも、この一節の直前に「情報技術は…」と言っているのは同じ問題を指している。


 ここからさらに「身体という原初のフィルターバブル」について考えよう。

 これは何のことか?


 これを考える上で前田英樹「物と身体」を参照する。前田英樹はフランス思想が専門だが、ここでは哲学的な認識論を展開している。「論理国語」教科書には同じ筆者の「絵画の二十世紀」が収録されているが、「物と身体」は「ちくま評論選」に収録されている文章。


 一読して、ナメクジを例にしている論の展開が、ユクスキュルの「環世界」論と重なることは明白。

 さてどう整理するか?


 「環世界」論の肝は、それぞれの生物にとっての「世界」が、それぞれ違ったものだ、という認識だ。

 なぜそうなるのか?

 前田の論を翻訳するならば、つまりそれはそれぞれの生物の身体が違うからだ、ということになる。

 世界(物の実在)は、それぞれの生物の「身体」によって確かめられる。客観的な物の実在を疑わないとしても、そうした実在がすべての生物にとって同じ意味合いで現れるわけではない。違った「身体」には、物は違った姿で現れる。

 この、それぞれの物の実在はそれぞれの生物によって違う、というのはまさしく「環世界」論だし、「真実の百面相」だ。

 そうなるのはそれぞれの生物の身体が違うことによるのだ、というのが前田の論の肝だ。

 異種の生物間の違いほどではないとはいえ、他人同士はやはりそれぞれに違った身体を持つ。大人と子供では、背の高い人と低い人とでは、暑さに弱い人と強い人とでは、世界の捉え方は違う。仮に双生児であっても、同一時間に同一空間に二人の身体が存在することはできない。だから、それぞれの身体によって認識される環世界はそれぞれ違うのだ。


 我々は直接に外界に触れているわけではなく、「フィルター」を通して外界を認識する。そうした「フィルター」に包まれた「バブル(泡)」の中に我々は閉じ込められている。

 この「フィルター」とは、例えばそれぞれの身体がそうなのだ、というのが「身体という原初のフィルターバブル」という表現だ。


 ところで「原初の」という形容が差しはさまれているのは、それに続く何かが想定されていることを示す。

 「身体」に対する何が想定されているか?


 「原初の」とはいわば「先天的」という意味であり、となれば「後天的」なものとは何か、と考える。あるいは動物一般の条件が「原初の」であり、人間的な条件は何か、と考える。

 ここでは「文化」という言葉を想起したい(各クラス、少数だが誰かが想起する。素晴らしい)。

 「身体というフィルター」と概念レベルを揃えて、「文化というフィルター」という言葉を挙げられるかどうかが国語力(読解力)だ。「身体というフィルターバブル」はすべての動物が先天的に持つが、「文化というフィルターバブル」は人間が後天的に身につけるものだ。

 そしてこの概念レベルの下に具体例が配置される。具体的には?

 「言語」であり「社会常識」であり「立場」であり…。

 「言語」がフィルターであるという認識は昨年度の「言葉は世界を切り分ける」で論じられていた問題なのだが、昨年は時間がとれなかった。今年はこの問題を考察する機会をこの後どこかで作る。


 「身体というフィルターバブル」の例を挙げよう。

 それぞれの身体的な特徴や条件のことなのだが、ここに「性別」「人種」が挙がったのは、なかなかに考えるべき問題を含んでいる。

 確かに「性別」「人種」は「原初」ではある。生物学的な身体条件だ。

 だが同時に「文化」的なフィルターが、そこに分厚く塗り重ねられてもいる。

 この問題についてE組でS君が、「セックス」ならば「身体」で、「ジェンダー」ならば「文化」の問題なのでは、という発言をした。ちょうど「公共」の授業で扱った問題なのだそうだ。ここにそれが結びついたのは的確な発想だ。

 例えば「女性ならではの視点から見た…」という形容が使われるとき、それは「身体というフィルター」のことを指しているともいえるが、実は多くの場合には「文化的」なフィルターと分かちがたく絡まり合っている。

 性別を単に「身体」的な問題として語るとき、それが同時に「文化」的な問題であることが覆い隠され、ある種の偏見が見過ごされる。それが差別の温床になる危険がある。「人種」も同様だ。

 そうした危険については、よくよく注意が必要である。

 こういう、表現の背景が必要に応じて想起できるのが国語力。「環世界」然り。


思考の誕生 17 環世界をつなぐ

 ではあらためて次の一節について考える。

互いの一部をそれぞれの環世界に摂り込みつつ、時に「親」として、また別の時には「子」として関係することができる。

 「環世界」という、一般的には必ずしも耳に馴染んでいるとは言いがたい言葉を、筆者はなぜ、あえて使っているか? この言葉を使うことで、どのようなことを示そうとしているのか?


 「環世界」とは各生物がとらえる千差万別な世界像のことだ。これは千差万別=百面相であるところがミソだ。「それぞれ」の生物にとっての「環世界」は「それぞれ」違うのだ。

 これは種の違った生物同士の「環世界」がどれほど違うかを示すために提唱された概念だが、ここでドミニク・チェンがあえてこの言葉を使って示すのは、我々人間同士でも、それぞれの「環世界」は実は違っている、という認識だ。

 こちらから見る世界は私の「環世界」だが、あちらから見る世界も同様にその人の「環世界」だ。それらが異なったものであることは、あらためて心に留めておく必要がある。


 だがそれは「異なっている」だけではない。「互いの一部をそれぞれの環世界に摂り込みつつ」というのは、そうした「環世界」が、それぞれ、相手の作用によってできあがっている、という認識を語ってもいる。

 そこで必要となるのが「言葉」だ。


 これはとても国語の授業にふさわしいメッセージだとも言える。我々の間をつなぐのは「言葉」だ。

 だが、だから国語の授業は大事、というほど単純なことを言っているわけではない。

 「身体にも訴える『言語』が必要」のくだりでも考えたように、「言語・言葉」とは文字通りのそれを指すだけではない。

 「言語」の言い換えを、同じページから指摘しなさい、という問いに「インターフェイス」という語が指摘できた人は論理が追えている。

 我々は、一人一人違った「環世界」に生きている。それをつなぐ「インターフェイス」=「言葉」が必要なのだ。

 それが「未来をつくる」。


2023年5月13日土曜日

思考の誕生 16 環世界

 こちらから考察を提案したのは次の一節。

互いの一部をそれぞれの環世界に摂り込みつつ、時に「親」として、また別の時には「子」として関係することができる。

 読んでいて皆がここにちゃんと反応したかどうかわからないが、この「環世界」は読み流すべきではない。


 いったん「論理国語」の、日高敏隆「生物の作る環境」を迂回する。クラスによってGW前に読んだクラスとそうでないクラスがあったが、この文章をここにつなげる。文中で「環世界」が説明されている。

 「環世界」とは、ユクスキュルの唱えた「ウンベルト」の訳語で、「環境」という概念の一部ではあるが、それよりも生物にとっての「世界観」とでもいったような概念だ。

 「生物の作る環境」という見出しはたぶん教科書編集部のつけたものだろうが、この文章の主旨は「生物が環境を作る」という表現からイメージされる事象とはだいぶ違う。「生物の捉える世界」とでも言うべきだろう。

 「世界観」は生物ごとに異なっていて、それぞれをその生物の「環世界」と呼ぶ。

 この文章は今までのどこにつながるか?


 ここまでの4編の中で、この文章の論旨とほとんどそのまま重なるのは「真実の百面相」であることは明白。

 論旨を重ねるために、これもまた、一文で言ってみればいい。

環世界は生物によって違う。

 一方の「真実の百面相」の主旨を同じ構文の一文で言うと?

真実は見る人によって違う。

 こう言ってみれば、上記の「生物の作る環境」と同じであることが一目瞭然だ。「真実」が「環世界」に対応している。「環世界」は百面相なのだ。


 これらがどのような命題を否定していることになるのか?

 「真実の百面相」ならば「唯一の客観的な『真実』がある」だし、「生物の作る環境」ならば「どの生物にとっても同じ客観的な『世界』がある』だ。

 「真実」も「世界」も主観的なものだと言っているのだ。それゆえそれらは「百面相」になる。


 さてこうした認識には昨年も触れたことがある。

 年度終盤の「視点を変える」シリーズがそれではないか。

 「見方を変えると見え方は変わる」は、まさしく上記の「真実の百面相」「生物の作る環境」と同じ認識だ。

 そういえば「木を見る、森を見る」は「アリの目に、この世界はどう見えているのだろうか。」と結ぶ。いかにもユクスキュル的問いかけではないか。


思考の誕生 15 合理性

 次の一節も複数班から挙がった。

近代社会では、長らく対話こそが民主主義的で合理的な議論を牽引すると考えられてきたが、今日の社会はそのための合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている。この状況に対して、人の合理的な認知能力を引き上げようという努力も必要かもしれない。

 この部分の「わからなさ」は何だろう?

 話しているうちに「合理性・合理的」にひっかかっているらしいことがだんだんわかってきた。

 ひとまず「今日の社会はそのための合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている。」にしぼって考えてみる。

 まず、何の「合理性」?


 「そのための」が指しているのが何なのかがわかりにくい。前の部分を言い直すと「対話は合理的な議論を牽引する」の「合理的」を受けているから、議論が合理的であることを指しているのだと考えられる。

 議論が「合理的」=理に適っている?

 それはどのような状態か?


 例えば参加者の意図が充分に表明され、それらが理性的に応答され、必要なアイデアが提起され、合意に向けて心理的に調整されていく…。

 そのような議論はまた「民主的」でもあるだろう。

 これは単に議論が「論理的」だと言っているわけはない。もちろん論理的であることも必要だし、それが「正しい」ことも目指されてはいる。だがそれだけではない。

 結局、何にとって理に適っていると言っているのか?


 C組S君の指摘が的確だった。

 議論が、社会の課題に対する解決に向かって有効に働いている状態を「合理的」と見做すのではないか?

 なるほど。


 このように説明するためには「社会の課題に対する解決」という表現を思いつく必要がある。文中に無い語を。

 こういうところに国語力が表れる。


 さて、そうした「合理性」が「十分に発揮できないことを露呈してしまっている」というのは実感されるか?

 こういうのはやはり例が思い浮かんでいるかどうかだ。

 文中からでも「異なる価値観を持つ人間同士が分断される」「今日のSNS上では、互いに「わかりあえる」集団と「わかりあえない」集団の区分がますます明確に浮き上がってきている」といった一節が指摘できるし、文中の「フィルターバブル」の話を受けていることを捉えれば、例は思い浮かぶ。

 授業者は、GW明け最初の授業で話した話の前半がまさしくそういう例じゃないか、と思っていた。クラスでの議論が、行事の実行に向けた十分な有効性を担保しているか、みんなの希望を十分に反映しているか。そして安易な多数決が、そうした「合理性が十分に発揮できない」結果に陥ることがあるという話をしたつもりだった(はからずも)。すぐにそのことに気づいたらしい様子もあちこちで見てとれたのは嬉しかった。


 さて「人の合理的な認知能力を引き上げようという努力」も、やはり例が思い浮かんだ方が良いだろう。

 「能力を引き上げる」とは大仰な言い方だが、必ずしも特殊な訓練や機器のようなものを考えなくともいいだろう。続く「まずは異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築くことこそが重要だ」に合う例を思い浮かべるならば、例えば人種差別、性差別などに対する教育や啓蒙・啓発などを想起すればよい。「~人は(女性は)人種として劣っている」などといった偏見は「合理的な認知能力」が欠けている状態だ。

 あるいは「フィルターバブル」に陥らないよう、ネット・リテラシーを高める教育とか。

 そういう「努力」も必要だが、まずは「心理的な土台を築くこと」が重要だ、とドミニク・チェンはいう。


思考の誕生 14 未来をつくる言葉

 ここで「文学国語」に登場してもらう。ドミニク・チェンの「未来をつくる言葉」を読む。

 ドミニク・チェンは現在、早稲田大学の文化構想学部の先生だから、将来ドミニク・チェンに教わることになる人もいるかもしれない。既に本校の卒業生が教わっているかもしれない。


 この文章も一筋縄ではいかない。メッセージは、ある意味ではわかりやすいのだが、それがここまでの議論にどうからんでくるか?


 全体の論旨と、ここまでの文章群とのかかわりを考える前に、この、一筋縄ではいかない文章については細部の考察もしてみよう。

 読んでいて引っかかるところ、腑に落ちないところをピックアップして話し合う、という時間をとった(授業時間の多いクラスでは)。話し合いの活発に続くクラスは、これだけで国語の授業が成立しているなあと思えて心強い。自分で読んでわからないところを話し合いの中で解決しようと議論する。十分ではないか。

 話し合いが続かないのは、それだけ「考えていない」ことの表れだ。「『わからない』ところがわからない」ということはもちろんあるが、それを粘り強く考えて、どこに引っかかっているんだろうと、問題点を明らかにしたり、それを班のメンバーに投げかけることこそ思考の入り口だ(と蓮實は言っているのだ)。


 複数クラスで疑問として提示されたのは、例えば次の一節。

(人々の間に)理性だけではなく身体にも訴える「言語」が必要となる。

 何が「わからない」?


 「身体」が「理性」と並列されているところにひっかかるはずだ。

 こういうときは具体例を思い浮かべる。「わかる」とは具体例の見当がつくことだ。

 実はもう一つの問題は「言語」に括弧がついていることの意味を正しく捉えているかどうかだが、この二つの問題は関係している。

 さて「身体にも訴える『言語』」の実例は?


 話し合わせれば「表情」「仕草」などの例が挙がる。

 ほら、殴り合いをした後、互いに相手を「友よ!」とかって、認め合うことがあるじゃん、などという話をB組S君など、あちこちでしているのも聞こえた。拳という肉体「言語」もまた、人と人をつなぐこともある。

 つまり「言語」とは、いわゆる言語そのものを含んでいるが、それを拡張した、人々のコミュニケーションの媒介全般を指していると考えるべきなのだ。

 「手話」の例も挙がったが、これは文字通りの言語とそれを拡張した「言語」の中間的な例だ。


 上記のような例が思い浮かべば充分だと思うが、例えばドミニク・チェンの頭には以下のような例まで想定されているのだろうと思われる。

 「生者と死者が交わるインタフェース」「人と微生物をつなぐロボット」は、何のことか、文中ではわからない。これは文章の外へ出て調べてみるしかない。

 「生者と死者が交わるインタフェース」は例えばこの記事の「心臓祭器」のことだろうし(記事では「環世界」についても触れられている)、「人と微生物をつなぐロボット」はこの記事の「ヌカボット」のことだろう。

 「言語」は、これらのインターフェイスも含めた、象徴的な意味で使われている。

 我々の間をつなぐのは、文字通りの「言葉」だけでなく、「身体」にもはたらきかける「言語」によるコミュニケーションだ。


2023年5月1日月曜日

思考の誕生 13 人にとって「物語る」とは

  • 思考は他人性から生まれる。「思考の誕生」
  • 物語は何もないところから生まれる。「物語るという欲望」


 内田は、物語が生まれるのは、対象が「わからない」ときだ、と言う。二つの事象の「論理がつながらない」時、我々はそこに「論理」の橋を架けようとする。その時「物語」が生まれる。

 一方蓮實は、思考は他人と一緒に考えるときにのみ誕生すると言う。この「他人」とは「他人性」をもった相手、つまり「わからない」相手だ。「自分の内面を投影」している相手は「他人」ではない。そうした対象は既に「わかっている」。自分の内面が投影されているのだから。

 本当に相手を「他人」だと認識しない時は、既にわかっていることしか脳内には存在しない。相手を「わからない」存在であると認め、そこに橋を架けようとする時にのみ、「思考」が誕生する。

 思考(と呼ぶにふさわしいもの)も「物語」も、「わからないもの」と出会った時に生まれる。

 「物語」はテクストと読み手が出会うときに「一回性」をもったものとして生まれる。その「一回性」の出来事こそ蓮實が「具体的な体験」と呼ぶものだ。「思考」は「具体的な体験」としてのみ生まれるものであり、決してネットや教師から「教わる」ものなどではない。読み手の、観客の、思考しようとする者の主体的な関わりの中で「誕生する」ものだ。


 この「主体的な関わり」は、ともすれば「自分で考えることが大事」という、蓮實の言うところの「抽象的」な理念と混同されてしまう恐れもあるかもしれない。

 だが両者はまったく対照的な姿勢を示している。

 内田の言う「主体的な関わり」とは、テクストや映像の意味は、もともとテクストや映像の中にあり、読者や観客がそれを受動的(=客体的)に読み取るのだ、というモデルを否定している。読者は主体的にテクストに出会うのである。

 一方蓮實の「自分で考えることが大事」というは、そうしたテクストや映像や他人との出会いを経ずに、自分の中だけで思考が完結しているようなモデルであり、そうして認識されるのは、実はどこかで誰かが言っていることに過ぎない。

 つまり「自分で考える」ことの称揚こそが実は、逆説的に人を「受動的」にしてしまうのだ。

 「他人」は、相手をそのように見ようとする者の前で初めて「他人」としてその姿を現わす。そこに「何もない」ことを見ようとする者に対してしか「断絶」は見えない。

 そしてそこに橋を架けようとせずに「自分で考える」ことが大事だというのは、所詮抽象的な理念にとどまるのだ。


 人にとって「物語る」とは、隣にいる「他人」と、読んだテクストと、観た映画と、自分を取り囲む世界と出会うことで、そこに何らかの意味を作り出す具体的な体験である。

 そのようにして人はこの世界に自分の居場所を見つける。


 さらにここから「物語」とは「スキーマ」のことである、といったところに話をつながる可能性があるのだが、これはまた機会を見て考察しよう。


 さて、以上のような考察を600字にまとめる。

 一例を示す(読み返してみると我ながら「美しく」ない。必要ことを並べただけ、みたいな)。

 内田は「物語るという欲望」の中で、人には「わからない」ことを解釈したい欲望があると述べる。そうして解釈されたものが「物語」である。人は「物語る」ことで世界を捉える。世界は最初から「意味」をもっているのではなく、「意味のわからないところ」=「反-物語」を脈絡づけることで、「物語」として姿を現すのだ。「読む」のテクストの例も同じだ。テクストの意味はテクストの中にあらかじめあるのではなく、読み手が「読み込む」ものだ。テクストの意味は「読む行為」=「解釈」=「物語る」ことによって作られる。これは大森が言う「真実」と同じである。「真実」は事象を観察する人が作るものだ。したがってそれは「百面相」となる。客観的な唯一の真実などない。

 物語が生まれるのは「意味のわからない」ところを架橋しようとする時だ。意味が明白であればそれ以上の解釈はしない。蓮實が「他人」と呼ぶのは、そうした「意味のわからない」相手だ。「自分で考える」ことは、実は既にわかっていることしか考えないということだ。あるいは自分で考えたつもりになって、どこかで聞いたことの受け売りになってしまう。「他人と考える」ときに思考が生まれる。「他人性」とは相手を「意味のわからない」存在だと認識することだ。そしてそこに橋を架ける=解釈する=「物語る」ことによって「意味」が生ずる。そのようにして誕生したものしか「思考」と呼ぶに値しないと蓮實は言っているのである。

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