2023年5月19日金曜日

思考の誕生 17 環世界をつなぐ

 ではあらためて次の一節について考える。

互いの一部をそれぞれの環世界に摂り込みつつ、時に「親」として、また別の時には「子」として関係することができる。

 「環世界」という、一般的には必ずしも耳に馴染んでいるとは言いがたい言葉を、筆者はなぜ、あえて使っているか? この言葉を使うことで、どのようなことを示そうとしているのか?


 「環世界」とは各生物がとらえる千差万別な世界像のことだ。これは千差万別=百面相であるところがミソだ。「それぞれ」の生物にとっての「環世界」は「それぞれ」違うのだ。

 これは種の違った生物同士の「環世界」がどれほど違うかを示すために提唱された概念だが、ここでドミニク・チェンがあえてこの言葉を使って示すのは、我々人間同士でも、それぞれの「環世界」は実は違っている、という認識だ。

 こちらから見る世界は私の「環世界」だが、あちらから見る世界も同様にその人の「環世界」だ。それらが異なったものであることは、あらためて心に留めておく必要がある。


 だがそれは「異なっている」だけではない。「互いの一部をそれぞれの環世界に摂り込みつつ」というのは、そうした「環世界」が、それぞれ、相手の作用によってできあがっている、という認識を語ってもいる。

 そこで必要となるのが「言葉」だ。


 これはとても国語の授業にふさわしいメッセージだとも言える。我々の間をつなぐのは「言葉」だ。

 だが、だから国語の授業は大事、というほど単純なことを言っているわけではない。

 「身体にも訴える『言語』が必要」のくだりでも考えたように、「言語・言葉」とは文字通りのそれを指すだけではない。

 「言語」の言い換えを、同じページから指摘しなさい、という問いに「インターフェイス」という語が指摘できた人は論理が追えている。

 我々は、一人一人違った「環世界」に生きている。それをつなぐ「インターフェイス」=「言葉」が必要なのだ。

 それが「未来をつくる」。


2023年5月13日土曜日

思考の誕生 16 環世界

 こちらから考察を提案したのは次の一節。

互いの一部をそれぞれの環世界に摂り込みつつ、時に「親」として、また別の時には「子」として関係することができる。

 読んでいて皆がここにちゃんと反応したかどうかわからないが、この「環世界」は読み流すべきではない。


 いったん「論理国語」の、日高敏隆「生物の作る環境」を迂回する。クラスによってGW前に読んだクラスとそうでないクラスがあったが、この文章をここにつなげる。文中で「環世界」が説明されている。

 「環世界」とは、ユクスキュルの唱えた「ウンベルト」の訳語で、「環境」という概念の一部ではあるが、それよりも生物にとっての「世界観」とでもいったような概念だ。

 「生物の作る環境」という見出しはたぶん教科書編集部のつけたものだろうが、この文章の主旨は「生物が環境を作る」という表現からイメージされる事象とはだいぶ違う。「生物の捉える世界」とでも言うべきだろう。

 「世界観」は生物ごとに異なっていて、それぞれをその生物の「環世界」と呼ぶ。

 この文章は今までのどこにつながるか?


 ここまでの4編の中で、この文章の論旨とほとんどそのまま重なるのは「真実の百面相」であることは明白。

 論旨を重ねるために、これもまた、一文で言ってみればいい。

環世界は生物によって違う。

 一方の「真実の百面相」の主旨を同じ構文の一文で言うと?

真実は見る人によって違う。

 こう言ってみれば、上記の「生物の作る環境」と同じであることが一目瞭然だ。「真実」が「環世界」に対応している。「環世界」は百面相なのだ。


 これらがどのような命題を否定していることになるのか?

 「真実の百面相」ならば「唯一の客観的な『真実』がある」だし、「生物の作る環境」ならば「どの生物にとっても同じ客観的な『世界』がある』だ。

 「真実」も「世界」も主観的なものだと言っているのだ。それゆえそれらは「百面相」になる。


 さてこうした認識には昨年も触れたことがある。

 年度終盤の「視点を変える」シリーズがそれではないか。

 「見方を変えると見え方は変わる」は、まさしく上記の「真実の百面相」「生物の作る環境」と同じ認識だ。

 そういえば「木を見る、森を見る」は「アリの目に、この世界はどう見えているのだろうか。」と結ぶ。いかにもユクスキュル的問いかけではないか。


思考の誕生 14 未来をつくる言葉

 ここで「文学国語」に登場してもらう。ドミニク・チェンの「未来をつくる言葉」を読む。

 ドミニク・チェンは現在、早稲田大学の文化構想学部の先生だから、将来ドミニク・チェンに教わることになる人もいるかもしれない。既に本校の卒業生が教わっているかもしれない。


 この文章も一筋縄ではいかない。メッセージは、ある意味ではわかりやすいのだが、それがここまでの議論にどうからんでくるか?


 全体の論旨と、ここまでの文章群とのかかわりを考える前に、この、一筋縄ではいかない文章については細部の考察もしてみよう。

 読んでいて引っかかるところ、腑に落ちないところをピックアップして話し合う、という時間をとった(授業時間の多いクラスでは)。話し合いの活発に続くクラスは、これだけで国語の授業が成立しているなあと思えて心強い。自分で読んでわからないところを話し合いの中で解決しようと議論する。十分ではないか。

 話し合いが続かないのは、それだけ「考えていない」ことの表れだ。「『わからない』ところがわからない」ということはもちろんあるが、それを粘り強く考えて、どこに引っかかっているんだろうと、問題点を明らかにしたり、それを班のメンバーに投げかけることこそ思考の入り口だ(と蓮實は言っているのだ)。


 複数クラスで疑問として提示されたのは、例えば次の一節。

(人々の間に)理性だけではなく身体にも訴える「言語」が必要となる。

 何が「わからない」?


 「身体」が「理性」と並列されているところにひっかかるはずだ。

 こういうときは具体例を思い浮かべる。「わかる」とは具体例の見当がつくことだ。

 実はもう一つの問題は「言語」に括弧がついていることの意味を正しく捉えているかどうかだが、この二つの問題は関係している。

 さて「身体にも訴える『言語』」の実例は?


 話し合わせれば「表情」「仕草」などの例が挙がる。

 ほら、殴り合いをした後、互いに相手を「友よ!」とかって、認め合うことがあるじゃん、などという話をB組S君など、あちこちでしているのも聞こえた。拳という肉体「言語」もまた、人と人をつなぐこともある。

 つまり「言語」とは、いわゆる言語そのものを含んでいるが、それを拡張した、人々のコミュニケーションの媒介全般を指していると考えるべきなのだ。

 「手話」の例も挙がったが、これは文字通りの言語とそれを拡張した「言語」の中間的な例だ。


 上記のような例が思い浮かべば充分だと思うが、例えばドミニク・チェンの頭には以下のような例まで想定されているのだろうと思われる。

 「生者と死者が交わるインタフェース」「人と微生物をつなぐロボット」は、何のことか、文中ではわからない。これは文章の外へ出て調べてみるしかない。

 「生者と死者が交わるインタフェース」は例えばこの記事の「心臓祭器」のことだろうし(記事では「環世界」についても触れられている)、「人と微生物をつなぐロボット」はこの記事の「ヌカボット」のことだろう。

 「言語」は、これらのインターフェイスも含めた、象徴的な意味で使われている。

 我々の間をつなぐのは、文字通りの「言葉」だけでなく、「身体」にもはたらきかける「言語」によるコミュニケーションだ。


2023年5月1日月曜日

思考の誕生 13 人にとって「物語る」とは

  • 思考は他人性から生まれる。「思考の誕生」
  • 物語は何もないところから生まれる。「物語るという欲望」


 内田は、物語が生まれるのは、対象が「わからない」ときだ、と言う。二つの事象の「論理がつながらない」時、我々はそこに「論理」の橋を架けようとする。その時「物語」が生まれる。

 一方蓮實は、思考は他人と一緒に考えるときにのみ誕生すると言う。この「他人」とは「他人性」をもった相手、つまり「わからない」相手だ。「自分の内面を投影」している相手は「他人」ではない。そうした対象は既に「わかっている」。自分の内面が投影されているのだから。

 本当に相手を「他人」だと認識しない時は、既にわかっていることしか脳内には存在しない。相手を「わからない」存在であると認め、そこに橋を架けようとする時にのみ、「思考」が誕生する。

 思考(と呼ぶにふさわしいもの)も「物語」も、「わからないもの」と出会った時に生まれる。

 「物語」はテクストと読み手が出会うときに「一回性」をもったものとして生まれる。その「一回性」の出来事こそ蓮實が「具体的な体験」と呼ぶものだ。「思考」は「具体的な体験」としてのみ生まれるものであり、決してネットや教師から「教わる」ものなどではない。読み手の、観客の、思考しようとする者の主体的な関わりの中で「誕生する」ものだ。


 この「主体的な関わり」は、ともすれば「自分で考えることが大事」という、蓮實の言うところの「抽象的」な理念と混同されてしまう恐れもあるかもしれない。

 だが両者はまったく対照的な姿勢を示している。

 内田の言う「主体的な関わり」とは、テクストや映像の意味は、もともとテクストや映像の中にあり、読者や観客がそれを受動的(=客体的)に読み取るのだ、というモデルを否定している。読者は主体的にテクストに出会うのである。

 一方蓮實の攻撃する「自分で考えることが大事」という言説は、そうしたテクストや映像や「他人」との出会いを経ずに、自分の中だけで思考が完結しているようなモデルであり、そうして認識されるのは、実はどこかで誰かが言っていることに過ぎない。

 つまり「自分で考える」ことの称揚こそが実は、逆説的に人を「受動的」にしてしまうのだ。

 「他人」は、相手をそのように見ようとする者の前で初めて「他人」としてその姿を現わす。そこに「何もない」ことを見ようとする者に対してしか「断絶」は見えない。

 そしてそこに橋を架けようとせずに「自分で考える」ことが大事だというのは、所詮抽象的な理念にとどまる。


 人にとって「物語る」とは、隣にいる「他人」と、読んだテクストと、観た映画と、自分を取り囲む世界と出会うことで、そこに何らかの意味を作り出す具体的な体験だ。

 そのようにして人はこの世界に自分の居場所を見つける。


 さらにここから「物語」とは「スキーマ」のことである、といったところにつながる可能性があるのだが、これはまた機会を見て考察しよう。


 さて、以上のような考察を600字にまとめる。

 一例を示す(読み返してみると我ながら「美しく」ない。必要なことを並べただけ、みたいな)。

 内田は「物語るという欲望」の中で、人には「わからない」ことを解釈したい欲望があると述べる。そうして解釈されたものが「物語」である。人は「物語る」ことで世界を捉える。世界は最初から「意味」をもっているのではなく、「意味のわからないところ」=「反-物語」を脈絡づけることで、「物語」として姿を現すのだ。「読む」のテクストの例も同じだ。テクストの意味はテクストの中にあらかじめあるのではなく、読み手が「読み込む」ものだ。テクストの意味は「読む行為」=「解釈」=「物語る」ことによって作られる。これは大森が言う「真実」と同じである。「真実」は事象を観察する人が作るものだ。したがってそれは「百面相」となる。客観的な唯一の真実などない。

 物語が生まれるのは「意味のわからない」ところを架橋しようとする時だ。意味が明白であればそれ以上の解釈はしない。蓮實が「他人」と呼ぶのは、そうした「意味のわからない」相手だ。「自分で考える」ことは、実は既にわかっていることしか考えないということだ。あるいは自分で考えたつもりになって、どこかで聞いたことの受け売りになってしまう。「他人と考える」ときに思考が生まれる。「他人性」とは相手を「意味のわからない」存在だと認識することだ。そしてそこに橋を架ける=解釈する=「物語る」ことによって「意味」が生ずる。そのようにして誕生したものしか「思考」と呼ぶに値しないと蓮實は言っているのである。

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