こちらから考察を提案したのは次の一節。
互いの一部をそれぞれの環世界に摂り込みつつ、時に「親」として、また別の時には「子」として関係することができる。
読んでいて皆がここにちゃんと反応したかどうかわからないが、この「環世界」は読み流すべきではない。
いったん「論理国語」の、日高敏隆「生物の作る環境」を迂回する。クラスによってGW前に読んだクラスとそうでないクラスがあったが、この文章をここにつなげる。文中で「環世界」が説明されている。
「環世界」とは、ユクスキュルの唱えた「ウンベルト」の訳語で、「環境」という概念の一部ではあるが、それよりも生物にとっての「世界観」とでもいったような概念だ。
「生物の作る環境」という見出しはたぶん教科書編集部のつけたものだろうが、この文章の主旨は「生物が環境を作る」という表現からイメージされる事象とはだいぶ違う。「生物の捉える世界」とでも言うべきだろう。
「世界観」は生物ごとに異なっていて、それぞれをその生物の「環世界」と呼ぶ。
この文章は今までのどこにつながるか?
ここまでの4編の中で、この文章の論旨とほとんどそのまま重なるのは「真実の百面相」であることは明白。
論旨を重ねるために、これもまた、一文で言ってみればいい。
環世界は生物によって違う。
一方の「真実の百面相」の主旨を同じ構文の一文で言うと?
真実は見る人によって違う。
こう言ってみれば、上記の「生物の作る環境」と同じであることが一目瞭然だ。「真実」が「環世界」に対応している。「環世界」は百面相なのだ。
これらがどのような命題を否定していることになるのか?
「真実の百面相」ならば「唯一の客観的な『真実』がある」だし、「生物の作る環境」ならば「どの生物にとっても同じ客観的な『世界』がある』だ。
「真実」も「世界」も主観的なものだと言っているのだ。それゆえそれらは「百面相」になる。
さてこうした認識には昨年も触れたことがある。
年度終盤の「視点を変える」シリーズがそれではないか。
「見方を変えると見え方は変わる」は、まさしく上記の「真実の百面相」「生物の作る環境」と同じ認識だ。
そういえば「木を見る、森を見る」は「アリの目に、この世界はどう見えているのだろうか。」と結ぶ。いかにもユクスキュル的問いかけではないか。
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