2023年5月1日月曜日

思考の誕生 13 人にとって「物語る」とは

  • 思考は他人性から生まれる。「思考の誕生」
  • 物語は何もないところから生まれる。「物語るという欲望」


 内田は、物語が生まれるのは、対象が「わからない」ときだ、と言う。二つの事象の「論理がつながらない」時、我々はそこに「論理」の橋を架けようとする。その時「物語」が生まれる。

 一方蓮實は、思考は他人と一緒に考えるときにのみ誕生すると言う。この「他人」とは「他人性」をもった相手、つまり「わからない」相手だ。「自分の内面を投影」している相手は「他人」ではない。そうした対象は既に「わかっている」。自分の内面が投影されているのだから。

 本当に相手を「他人」だと認識しない時は、既にわかっていることしか脳内には存在しない。相手を「わからない」存在であると認め、そこに橋を架けようとする時にのみ、「思考」が誕生する。

 思考(と呼ぶにふさわしいもの)も「物語」も、「わからないもの」と出会った時に生まれる。

 「物語」はテクストと読み手が出会うときに「一回性」をもったものとして生まれる。その「一回性」の出来事こそ蓮實が「具体的な体験」と呼ぶものだ。「思考」は「具体的な体験」としてのみ生まれるものであり、決してネットや教師から「教わる」ものなどではない。読み手の、観客の、思考しようとする者の主体的な関わりの中で「誕生する」ものだ。


 この「主体的な関わり」は、ともすれば「自分で考えることが大事」という、蓮實の言うところの「抽象的」な理念と混同されてしまう恐れもあるかもしれない。

 だが両者はまったく対照的な姿勢を示している。

 内田の言う「主体的な関わり」とは、テクストや映像の意味は、もともとテクストや映像の中にあり、読者や観客がそれを受動的(=客体的)に読み取るのだ、というモデルを否定している。読者は主体的にテクストに出会うのである。

 一方蓮實の「自分で考えることが大事」というは、そうしたテクストや映像や他人との出会いを経ずに、自分の中だけで思考が完結しているようなモデルであり、そうして認識されるのは、実はどこかで誰かが言っていることに過ぎない。

 つまり「自分で考える」ことの称揚こそが実は、逆説的に人を「受動的」にしてしまうのだ。

 「他人」は、相手をそのように見ようとする者の前で初めて「他人」としてその姿を現わす。そこに「何もない」ことを見ようとする者に対してしか「断絶」は見えない。

 そしてそこに橋を架けようとせずに「自分で考える」ことが大事だというのは、所詮抽象的な理念にとどまるのだ。


 人にとって「物語る」とは、隣にいる「他人」と、読んだテクストと、観た映画と、自分を取り囲む世界と出会うことで、そこに何らかの意味を作り出す具体的な体験である。

 そのようにして人はこの世界に自分の居場所を見つける。


 さらにここから「物語」とは「スキーマ」のことである、といったところに話をつながる可能性があるのだが、これはまた機会を見て考察しよう。


 さて、以上のような考察を600字にまとめる。

 一例を示す(読み返してみると我ながら「美しく」ない。必要ことを並べただけ、みたいな)。

 内田は「物語るという欲望」の中で、人には「わからない」ことを解釈したい欲望があると述べる。そうして解釈されたものが「物語」である。人は「物語る」ことで世界を捉える。世界は最初から「意味」をもっているのではなく、「意味のわからないところ」=「反-物語」を脈絡づけることで、「物語」として姿を現すのだ。「読む」のテクストの例も同じだ。テクストの意味はテクストの中にあらかじめあるのではなく、読み手が「読み込む」ものだ。テクストの意味は「読む行為」=「解釈」=「物語る」ことによって作られる。これは大森が言う「真実」と同じである。「真実」は事象を観察する人が作るものだ。したがってそれは「百面相」となる。客観的な唯一の真実などない。

 物語が生まれるのは「意味のわからない」ところを架橋しようとする時だ。意味が明白であればそれ以上の解釈はしない。蓮實が「他人」と呼ぶのは、そうした「意味のわからない」相手だ。「自分で考える」ことは、実は既にわかっていることしか考えないということだ。あるいは自分で考えたつもりになって、どこかで聞いたことの受け売りになってしまう。「他人と考える」ときに思考が生まれる。「他人性」とは相手を「意味のわからない」存在だと認識することだ。そしてそこに橋を架ける=解釈する=「物語る」ことによって「意味」が生ずる。そのようにして誕生したものしか「思考」と呼ぶに値しないと蓮實は言っているのである。

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