ここで「文学国語」に登場してもらう。ドミニク・チェンの「未来をつくる言葉」を読む。
ドミニク・チェンは現在、早稲田大学の文化構想学部の先生だから、将来ドミニク・チェンに教わることになる人もいるかもしれない。既に本校の卒業生が教わっているかもしれない。
この文章も一筋縄ではいかない。メッセージは、ある意味ではわかりやすいのだが、それがここまでの議論にどうからんでくるか?
全体の論旨と、ここまでの文章群とのかかわりを考える前に、この、一筋縄ではいかない文章については細部の考察もしてみよう。
読んでいて引っかかるところ、腑に落ちないところをピックアップして話し合う、という時間をとった(授業時間の多いクラスでは)。話し合いの活発に続くクラスは、これだけで国語の授業が成立しているなあと思えて心強い。自分で読んでわからないところを話し合いの中で解決しようと議論する。十分ではないか。
話し合いが続かないのは、それだけ「考えていない」ことの表れだ。「『わからない』ところがわからない」ということはもちろんあるが、それを粘り強く考えて、どこに引っかかっているんだろうと、問題点を明らかにしたり、それを班のメンバーに投げかけることこそ思考の入り口だ(と蓮實は言っているのだ)。
複数クラスで疑問として提示されたのは、例えば次の一節。
(人々の間に)理性だけではなく身体にも訴える「言語」が必要となる。
何が「わからない」?
「身体」が「理性」と並列されているところにひっかかるはずだ。
こういうときは具体例を思い浮かべる。「わかる」とは具体例の見当がつくことだ。
実はもう一つの問題は「言語」に括弧がついていることの意味を正しく捉えているかどうかだが、この二つの問題は関係している。
さて「身体にも訴える『言語』」の実例は?
話し合わせれば「表情」「仕草」などの例が挙がる。
ほら、殴り合いをした後、互いに相手を「友よ!」とかって、認め合うことがあるじゃん、などという話をB組S君など、あちこちでしているのも聞こえた。拳という肉体「言語」もまた、人と人をつなぐこともある。
つまり「言語」とは、いわゆる言語そのものを含んでいるが、それを拡張した、人々のコミュニケーションの媒介全般を指していると考えるべきなのだ。
「手話」の例も挙がったが、これは文字通りの言語とそれを拡張した「言語」の中間的な例だ。
上記のような例が思い浮かべば充分だと思うが、例えばドミニク・チェンの頭には以下のような例まで想定されているのだろうと思われる。
「生者と死者が交わるインタフェース」「人と微生物をつなぐロボット」は、何のことか、文中ではわからない。これは文章の外へ出て調べてみるしかない。
「生者と死者が交わるインタフェース」は例えばこの記事の「心臓祭器」のことだろうし(記事では「環世界」についても触れられている)、「人と微生物をつなぐロボット」はこの記事の「ヌカボット」のことだろう。
「言語」は、これらのインターフェイスも含めた、象徴的な意味で使われている。
我々の間をつなぐのは、文字通りの「言葉」だけでなく、「身体」にもはたらきかける「言語」によるコミュニケーションだ。
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