次の一節も複数班から挙がった。
近代社会では、長らく対話こそが民主主義的で合理的な議論を牽引すると考えられてきたが、今日の社会はそのための合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている。この状況に対して、人の合理的な認知能力を引き上げようという努力も必要かもしれない。
この部分の「わからなさ」は何だろう?
話しているうちに「合理性・合理的」にひっかかっているらしいことがだんだんわかってきた。
ひとまず「今日の社会はそのための合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている。」にしぼって考えてみる。
まず、何の「合理性」?
「そのための」が指しているのが何なのかがわかりにくい。前の部分を言い直すと「対話は合理的な議論を牽引する」の「合理的」を受けているから、議論が合理的であることを指しているのだと考えられる。
議論が「合理的」=理に適っている?
それはどのような状態か?
例えば参加者の意図が充分に表明され、それらが理性的に応答され、必要なアイデアが提起され、合意に向けて心理的に調整されていく…。
そのような議論はまた「民主的」でもあるだろう。
これは単に議論が「論理的」だと言っているわけはない。もちろん論理的であることも必要だし、それが「正しい」ことも目指されてはいる。だがそれだけではない。
結局、何にとって理に適っていると言っているのか?
C組S君の指摘が的確だった。
議論が、社会の課題に対する解決に向かって有効に働いている状態を「合理的」と見做すのではないか?
なるほど。
このように説明するためには「社会の課題に対する解決」という表現を思いつく必要がある。文中に無い語を。
こういうところに国語力が表れる。
さて、そうした「合理性」が「十分に発揮できないことを露呈してしまっている」というのは実感されるか?
こういうのはやはり例が思い浮かんでいるかどうかだ。
文中からでも「異なる価値観を持つ人間同士が分断される」「今日のSNS上では、互いに「わかりあえる」集団と「わかりあえない」集団の区分がますます明確に浮き上がってきている」といった一節が指摘できるし、文中の「フィルターバブル」の話を受けていることを捉えれば、例は思い浮かぶ。
授業者は、GW明け最初の授業で話した話の前半がまさしくそういう例じゃないか、と思っていた。クラスでの議論が、行事の実行に向けた十分な有効性を担保しているか、みんなの希望を十分に反映しているか。そして安易な多数決が、そうした「合理性が十分に発揮できない」結果に陥ることがあるという話をしたつもりだった(はからずも)。すぐにそのことに気づいたらしい様子もあちこちで見てとれたのは嬉しかった。
さて「人の合理的な認知能力を引き上げようという努力」も、やはり例が思い浮かんだ方が良いだろう。
「能力を引き上げる」とは大仰な言い方だが、必ずしも特殊な訓練や機器のようなものを考えなくともいいだろう。続く「まずは異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築くことこそが重要だ」に合う例を思い浮かべるならば、例えば人種差別、性差別などに対する教育や啓蒙・啓発などを想起すればよい。「~人は(女性は)人種として劣っている」などといった偏見は「合理的な認知能力」が欠けている状態だ。
あるいは「フィルターバブル」に陥らないよう、ネット・リテラシーを高める教育とか。
そういう「努力」も必要だが、まずは「心理的な土台を築くこと」が重要だ、とドミニク・チェンはいう。
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