さらに次の一節について考察した。
わたしたちは自己の身体という原初のフィルターバブルを持って生まれてくる
どういうことか?
「フィルターバブル」を問題化していたのは、去年読んだ文章としては「グーグルマップの世界」だ。すぐにこれが想起されただろうか?
「フィルターバブル」もしくは「エコーチェンバー(反響室)」現象は、現在のネット言説について考える上で避けられない問題の一つだ。
「見たいものしか見ない」という態度に関しては、グーグルマップにかぎらず、パーソナライゼーションが進んだウェブのユーザー全般に当てはまる問題として、すでにメディア論において指摘されている。
「グーグルマップの世界」では、「フィルターバブル」という言葉こそ使われていないが、上記の「パーソナライゼーション」がそこにつながっていく問題として指摘されている。
「未来をつくる言葉」でも、この一節の直前に「情報技術は…」と言っているのは同じ問題を指している。
ここからさらに「身体という原初のフィルターバブル」について考えよう。
これは何のことか?
これを考える上で前田英樹「物と身体」を参照する。前田英樹はフランス思想が専門だが、ここでは哲学的な認識論を展開している。「論理国語」教科書には同じ筆者の「絵画の二十世紀」が収録されているが、「物と身体」は「ちくま評論選」に収録されている文章。
一読して、ナメクジを例にしている論の展開が、ユクスキュルの「環世界」論と重なることは明白。
さてどう整理するか?
「環世界」論の肝は、それぞれの生物にとっての「世界」が、それぞれ違ったものだ、という認識だ。
なぜそうなるのか?
前田の論を翻訳するならば、つまりそれはそれぞれの生物の身体が違うからだ、ということになる。
世界(物の実在)は、それぞれの生物の「身体」によって確かめられる。客観的な物の実在を疑わないとしても、そうした実在がすべての生物にとって同じ意味合いで現れるわけではない。違った「身体」には、物は違った姿で現れる。
この、それぞれの物の実在はそれぞれの生物によって違う、というのはまさしく「環世界」論だし、「真実の百面相」だ。
そうなるのはそれぞれの生物の身体が違うことによるのだ、というのが前田の論の肝だ。
異種の生物間の違いほどではないとはいえ、他人同士はやはりそれぞれに違った身体を持つ。大人と子供では、背の高い人と低い人とでは、暑さに弱い人と強い人とでは、世界の捉え方は違う。仮に双生児であっても、同一時間に同一空間に二人の身体が存在することはできない。だから、それぞれの身体によって認識される環世界はそれぞれ違うのだ。
我々は直接に外界に触れているわけではなく、「フィルター」を通して外界を認識する。そうした「フィルター」に包まれた「バブル(泡)」の中に我々は閉じ込められている。
この「フィルター」とは、例えばそれぞれの身体がそうなのだ、というのが「身体という原初のフィルターバブル」という表現だ。
ところで「原初の」という形容が差しはさまれているのは、それに続く何かが想定されていることを示す。
「身体」に対する何が想定されているか?
「原初の」とはいわば「先天的」という意味であり、となれば「後天的」なものとは何か、と考える。あるいは動物一般の条件が「原初の」であり、人間的な条件は何か、と考える。
ここでは「文化」という言葉を想起したい(各クラス、少数だが誰かが想起する。素晴らしい)。
「身体というフィルター」と概念レベルを揃えて、「文化というフィルター」という言葉を挙げられるかどうかが国語力(読解力)だ。「身体というフィルターバブル」はすべての動物が先天的に持つが、「文化というフィルターバブル」は人間が後天的に身につけるものだ。
そしてこの概念レベルの下に具体例が配置される。具体的には?
「言語」であり「社会常識」であり「立場」であり…。
「言語」がフィルターであるという認識は昨年度の「言葉は世界を切り分ける」で論じられていた問題なのだが、昨年は時間がとれなかった。今年はこの問題を考察する機会をこの後どこかで作る。
「身体というフィルターバブル」の例を挙げよう。
それぞれの身体的な特徴や条件のことなのだが、ここに「性別」「人種」が挙がったのは、なかなかに考えるべき問題を含んでいる。
確かに「性別」「人種」は「原初」ではある。生物学的な身体条件だ。
だが同時に「文化」的なフィルターが、そこに分厚く塗り重ねられてもいる。
この問題についてE組でS君が、「セックス」ならば「身体」で、「ジェンダー」ならば「文化」の問題なのでは、という発言をした。ちょうど「公共」の授業で扱った問題なのだそうだ。ここにそれが結びついたのは的確な発想だ。
例えば「女性ならではの視点から見た…」という形容が使われるとき、それは「身体というフィルター」のことを指しているともいえるが、実は多くの場合には「文化的」なフィルターと分かちがたく絡まり合っている。
性別を単に「身体」的な問題として語るとき、それが同時に「文化」的な問題であることが覆い隠され、ある種の偏見が見過ごされる。それが差別の温床になる危険がある。「人種」も同様だ。
そうした危険については、よくよく注意が必要である。
こういう、表現の背景が必要に応じて想起できるのが国語力。「環世界」然り。
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