さて「物語」と言えば、もう一つの文章、野矢茂樹「言語が見せる世界」と接続する。
この文章の「問い」は何か?
「相貌とは何か?」「概念とは何か?」などの問いも文中には明示されているし、これらはもちろん重要な問いではある。「プロトタイプ」も気になる。
だがそれらの問いがどこから生じたかと言えばこれだ。
我々は世界をどのように見ているか?
この答えは?
通常は「物語」において見ている。
というのが端的な答えだ。
とすると、これは松田の論と共通していることが明らかだ。人間が椅子に座れるのは「椅子に座る」という行為を「物語」として生きているからだ、というのが松田の主張だった。
そしてその「物語」は身体によって成立する、というのだが、野矢茂樹は「物語」を論ずるのに身体を持ち出さない。言葉がすでに「物語」を携えているのだ。
当然だ。言葉は単体で宙に浮いているわけではなく、前後の文脈の中で使われ、理解される。それはすなわち「物語」の中にあるということだ。
となればますます現在のAIは「物語」において「椅子に座る」ことを捉えるに違いない。
やはり人工知能は椅子に座れるのである。
さて、ここまでの「視点を変える」の流れに、この二つの文章も位置付けよう。
「言語が見せる世界」という題名は、もうそのままおなじみのソシュール言語学だ。我々は言葉によって世界を認識する。
ここでは、言葉はスキーマでありメディアだった。そういえば「言語が見せる世界」とは「メディアがつくる身体」にそっくりパラフレーズできる。世界「観」のことであり、身体「観」のことだった。
一方「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」には次のような文章がある。
例えば、…初めてこの世界と対峙することになる赤ちゃんは、この世界を知るために、…彼ら(彼女ら)は、手足をばたつかせながら、「周囲の環境に何があるか」を発見するでしょう。それと同時に、「自分自身の身体がどのようなものであるか」を発見するでしょう。/無限定な空間において、私たちは、周囲の環境という「場」と、自分自身の身体を基準とする「自己」とを、順次、理解していくのです。
これはつまり、身体はメディアであると言っているのだ。とすれば、身体はスキーマでありフィルター(フィルターバブルにおける)だ。
一方で身体「観」ということはゲシュタルトでもある。
スキーマでもありゲシュタルトでもあるというのは、思い出してほしい、「地図」もそうだった。もちろん地図もメディアだった。
我々は言語を通して、身体を通して、地図を通して、メディアを通して世界を認識する。それぞれの「世界」は、それぞれのスキーマによって様々だ。そのゲシュタルトがそれぞれの身体「観」であり、様々に表現される地図なのだ。
スキーマがゲシュタルトをつくり、できたゲシュタルトはスキーマとして機能する。スキーマとゲシュタルトは循環する。
授業を通して文章を理解するとは、つまりゲシュタルトが生成された(ダルメシアン犬が見えた)ということだ。
それが次に読む文章を理解させるスキーマとして機能する。
0 件のコメント:
コメントを投稿