- 「歴史的な役割」とは何か?
- 「別の主張」とはどのような「主張」か?
- 「残酷」とはどのような意味か?
三つの問いを関係づけて通観する。
とりあえずは文脈の整理。
三つを結びつけるのは「自分で考えることが大事」という主張だ。それぞれをこの主張に関係づけよう。
まず1。
「自分で考えることが大事」という主張の「歴史的な役割」が終わったということは、かつて「歴史的な役割」があったということだ。
それが何かを考えるためには、昨年から何度も使い回した言葉を想起したい。
何か?
もちろん語註にもある「ロマン主義」に結びつけて考えるべきではあるが、勘の良い人はこれが「近代」の問題だと気づくはずだ。
ああ、またしても。
この言葉が使えれば「歴史的な役割」について説明するのが随分楽になるはずだ。
この歴史的な推移を前回の対比にあてはめてみる。
他人から教わる/自分で考える/他人とともに考える
これはいわば
前近代/近代/現代=ポストモダン
ということになる。
近代以前、人は属する集団や宗教によって規定される存在だった。「他人から」というのは、そうした共同体の中に生きることを指す。
近代はそうしたさまざまな「くびき」から解放された「個人」が生まれた…といった表現は去年読んだ文章群で繰り返し使い回された。
現代はそうした近代への反省が求められている。
最初に読んだ「自立」シリーズでは、他人に依存しない「個人」を良しとする近代的「個人」観から、互いに緩やかに依存し合う社会のイメージが語られていた。
この図式から「歴史的な役割」を捉える。
2「別の主張」とは「自分で考えることが大事」という主張に対立する主張なのだと考えたくなる。
そうなるとそれはこうした主張を否定する蓮實の主張と同じ側にいることになる。
そうではない。蓮實は「自分で考えることが大事」もろとも「別の主張」も否定している。「別の主張」とは「自分で考えることは大事」という、表に表れた主張の裏に隠れた、いわばその人の本音とも言うべき「主張」だ。
そしてその本音とは、「自分で考えること」の称揚の「歴史的な役割」が終わってしまったことを認めたくない、という欲求でもある。
なぜ認めたくない?
3。
「思考の誕生」は「他人と考える」ことによって起こると言っているのだから、それは「自分で考えること」(つまり上の「役割」「主張」)を否定している。
それが「残酷」だと言っているのだから、上の「主張」は、その「残酷」さを避けたい、すなわち「歴史的な役割」が終わってしまったことを認めたくないという欲求に基づいている。
それはどんな「残酷」さか?
それぞれを10字前後で表現してみよう。意見を交換するためには、表現が共有されていることが望ましい。もちろん一度で適切な表現ができるわけではないから、意見の交換の中で表現を修正し、精錬させていく。
どう表現したらいいか?
1「歴史的な役割」は?
「近代」は1年時の様々な読解で何度も使った概念だ。今回もこれを使って表現する。もう何度も目にした表現だ。
「近代における『個人』の確立(成立・誕生…)」とでも言っておこう。
3「残酷」は?
「思考の誕生」は「自分で考えることなどたかが知れている」ことを認めるところに成立するのだから、それは確かに「残酷」だ。
これをどう言い表すか?
今年はC組O君の班の表現が秀逸だった。いわく「自分がオンリーワンじゃなくなる」。なるほど、これはいい。
「自分で考えること」の擁護とは、その「残酷」さに直面したくないという動機に基づいている。
「別の主張」とはそうした情動・動機に基づいている。
2「別の主張」は?
「自分で考えることが大事」と言いたい人は、実は「別の主張」をしたいことに無自覚だと蓮實は言っている。
おそらく最も微妙な工夫が必要になるのはこの「別の主張」をどう表現するかだ。この問題の山場は、ここに腑に落ちる表現を見つけることだ。
各クラスでの発表の多くは、「別の主張」=蓮實重彦の主張になってしまってるか、「自分で考えることは大事」に似過ぎていて、それじゃあもう言葉が見つかっているじゃん、意識できているじゃん、になってしまっているかだった。
もしくは「主張」と言うに値するような命題の形になっていないか。
3年前のとある生徒の表現が秀逸だったので紹介したい。つまりここに隠れた本音は「俺ってすげえ」なのだ。
これで関係づけられる。
ただこれでは「主張」っぽくないので、もうちょっと一般論ふうに言い直そう。
どういえばいいか?
今年の授業ではB組W君の表現がうまかった。
人は皆それぞれ唯一性をもった存在だ。
授業者が用意していたのは次のような表現。
人にはそれぞれ独自の価値がある。
これは「個人の確立」から導き出される命題であり、それが「自分で考えることは大事だ」という形で語られる。
この「人」という一般名詞の陰に実は「私」が隠れている。
つまり「自分で考えることは大事」という主張は実は「私には独自の価値がある」と信じたい欲求の表れだと蓮實は言っているのだ。
とすれば「思考の誕生」は確かに「残酷」だ。「俺ってすげえ」と思いたいのに、お前の考えなんか大したことはないと言われて、「オンリーワンの俺」などというものが幻想でしかないことを認めなければならないのだから。
「思考の誕生」はその「残酷」さを引き受けることとひき換えに手にできる体験なのだ。
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