「他人とともに考える」ことの重要さはわかったとして、蓮實の問題意識はそれだけなのか?
「自分で考えることは大事」という言説をそこまで悪し様に罵る真意は?
そこまでとらえないと蓮實のメッセージは十分には伝わってはいない。
冒頭段落は次のように結ばれる。
この「自分で考えること」という概念ははなはだ疑わしい。疑わしいというより、そんなことばかりが推奨されているのは、いかにも危険な兆候だといわねばなりません。
この「危険な兆候」とはどのような「危険」であり、なぜそのように言えるのか?
この表現は2段落の終わりにも出てくるが、そこまで読んでも何のことかわからない。もっと先まで読み進めなくては考えようがない。
もう一つ。
分掌末尾で「思考の誕生」を「残酷」であるとともに「希薄」な体験でもあると蓮實は言う。
この「希薄」とは何のことか?
直前の一節で「思考の誕生」は「あなたの在学中に、かろうじて一度立ち会いうるかどうかという希薄な体験なのです」と言っている。とすればこれは「頻度が少ない」という意味だろう。
確かに「希薄」はもともと「稀薄」と表記し、「稀」は「まれ」と訓読みできるから、頻度の少ない、めったにないこと、でもある。
だが「希薄」という言葉は日常的には「稀薄な空気」などの気体の密度について言うか、「存在・意識・関係…」のような「空気」が比喩的に使えるような対象に使う。「まれ」より「うすい」のニュアンスの方で使われているのだ。だから「思考の誕生は希薄な体験だ」は妙な使い方だと感ずる。それを言うなら「希有(稀有=けう)な」体験だ、とでもいったところだろう。
ところでもうちょっと前に次の一節もある。
「他人」の「他人性」を希薄にすることが、「他人」を理解することだと考えられてしまうのです。
「『他人』の『他人性』」とは「他人」という「存在」に対する「意識・関係」のことだろうから、我々が普段使っている「希薄」の使い方として違和感はない。
この「希薄」が文末に影響しているとみるのは穿ち過ぎだろうか?
蓮實が知性を費やすべきだと言う「希薄さ」はおそらく単に頻度が低い(=希有)という意味ではない。この部分の「希薄さ」のことだ。
この「危険な兆候」と「希薄」を結びつけて解釈する。
これらを関連付けて、例えばこんなふうに言ってみる。
「自分で考えることは大事」という主張は他人との関係を希薄にするから危険だ。
これがまったく見当外れな説明だと感じられるだろうか。
蓮實が言っているのは全然そんな話ではない。
「危険な兆候」とは誰にとっての「危険」なのか?
「自分で考えることは大事」だと言う人? 教育を受ける子供?
この「危険」を次のように言ってみる。
- 「自分で考える」ことは危険だ。
- 「自分で考えることは大事だ」と思うことは危険だ。
- 「自分で考える」ことの重要さが無闇に推奨されるのは危険だ。
これらの違いが明確に意識されていないと議論が混乱する。
蓮實は1を「愚かだ」と言いはしても「危険」とは言うまい。
2は確かに「危険」だろうが、それより本文通りに正確に言えば3のはず。
つまり問題はどこにあるのか?
「危険な兆候」を考えるために参照すべき箇所を探していくと、中盤に次のような文章がある。
問題なのは、そうした「他人」たちが、充分に「他人」として意識されがたい風土が蔓延しがちなところにあります。たがいに自己の内面のイメージを投影しあうこと、「他人」の「他人性」を希薄にすることが、「他人」を理解することだと考えられてしまうのです。
この部分の「問題なのは」とか「蔓延しがち」といった表現は「危険な兆候」という表現と結びつけてよさそうだ。「蔓延」するものは? といえば伝染病とかウイルスとかだ。
つまり「危険」なのは「風土」、すなわち「社会」だ。社会にとって「危険な兆候」なのだ。
さてこれで「危険な兆候」と「希薄さ」を結びつけて考える必然性がわかってきた。
ではなぜ現在の我々にとって「他人性」は「希薄」なのか?
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