蓮實が「自分で考えることを重要視する」ことを否定する論理はどのようなものなのか。そうした核心に迫る前に、細部を取り上げて少々読解する。
「自分で考えることは大事」という主張を否定する蓮實は、しかしその論拠を明確には語らない。
例えば次の一節。
「自分ひとりで考え」たことなど「たかが知れている」というのは、まぎれもない事実です。人間が社会的かつ歴史的な存在である以上、それは当然でしょう。
「まぎれもない事実」とか「当然」というばかりで、なぜそうなのかを言わない。
「社会的かつ歴史的な存在である以上」が論拠なのだが、これはどういうことか?
「歴史的」は「自分で考えることは大事」を否定する論拠となっていて、「社会的」は「他人とともに考える」を肯定する根拠になっている。
人間は一人で生きているわけではない。生きられはしない。「社会的」というのはそうした現実のことだ。
同時に、今生きている我々は過去の人たちが作ってきた歴史の上に生きているし、その歴史の上に次の世代も生きる。
いわば共時的な広がりと通時的な広がりの中に我々は存在している。
「社会的かつ歴史的な存在である以上」はそうした「事実」の指摘だ。
にもかかわらず、と蓮實は問いかける。
にもかかわらず、なお「自分で考えること」の重要さが改めて指摘されたりするのは、どうしてなのでしょうか。
どうしてだと蓮實は考えているのか?
細部から考えていく。
あたかも、この宇宙に自分一人しか存在していないかのような孤独な思考を「自分で考えること」として擁護する姿勢は、いかにもロマン主義的なものだというほかはありません。そんな姿勢の歴史的な役割は、遥か以前に終わっているはずなのです。
この一節の「歴史的な役割」とは何か?
この問いかけを解決することなくさらに次の問い。
続く一節。
それは、そう主張する者の歴史的な無知をあからさまに示しています。あるいは、その指摘で何か別の主張をしたいと思いながら、それにふさわしい言葉が見当たらないのか、それとも別の主張をしたがっている「自分」自身に無意識なだけなのかもしれません。
この一節の「別の主張」とは何か?
「別の」なんだから、「自分で考えることが大事」以外なら何でもありか?
そうではない。蓮實はここに入る「主張」がどのようなものかを想定しているはずだ。
それはどんな「主張」?
この問いはたぶんかなり難しい。
さらにもう一つ、文末近くの次の一節についても問う。
思考の誕生に立ち会うことは、貴重で、残酷な体験ともなるでしょう。あなたの知性は、その希薄さと残酷さへの感性をはぐくむために費やされねばなりません。
この一節で「思考の誕生に立ち会うこと」はなぜ「残酷」と形容されているのか? あるいはどのような意味で「残酷」なのか?
以上三つの問いは、相互に関係づけて考えることでそれぞれが明確になる。
どういうふうに関連しているのか?
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