「第六夜」の主題は「西洋文明の流入によって、日本古来の文化が失われつつある『明治』という時代に対する冷ややかな眼差し」とでもいったようなものだ。「皮肉」と言ってもいいし「嘆き」と言ってもいいし、ストレートに「批判」と言ってもいい。
これは「現代日本の開化」の主旨であり、それをそのまま「第六夜」の主題であるとみなしているだけだ。だがそれでいいようにも思える。
こうした主題を語る上で「芸術」はどんな論理的整合性をもつのか。
それよりも、次の発想ができれば論が展開できる(あるいは先の見通しがあればこのような発想ができる)。
芸術家=革新/職人=伝統
この運慶は時代を超越するような形で出現する独創的な天才芸術家ではなく、熟練した職人として描かれている。運慶の仕事ぶりが芸術家としての創作だとしたら、②の問いの「明治の木には」という限定に何の意味があるのかがわからない。運慶の技を伝統的な職人技の発現としてのルーチン・ワークだと考えることによって「明治の」という条件が理解できる。
職人の技術とは、単に繰り返した修練によって彼個人が体得した技術、というだけではない。それはその技を磨き上げてきた数知れない先人の営みの分厚い積み上げの上に成り立つものだ。運慶が体現しているのは、そうした職人集団の伝統なのだ。
そして明治の文明開化によって脅かされているものは、天才の芸術ではなく、職人一個人が体得した技術でもなく、日本人の伝統であるはずだ。
では「開化」という名の文化的な断絶を経験する時代状況において「運慶が今日まで生きている理由」とは何か? 「自分」は「なぜ生きていられるか」「なぜ生きていなければならないか」どちらの理由に納得したのか?
上記の読解に従って言えば、そのような技を受け継いでいるからこそ運慶は今も「生きていられる」のだと言ってもいいし、運慶が体現する伝統の技は、この明治にこそ「生きていなければならない」と言ってもいい。後者のように言うなら、それは運慶がそう考えているのではなく、やはり我々が運慶に託した期待である。我々が運慶に生きていてほしいと思っているのだ。
そのとき運慶は、時代を越えて継承されるべき伝統文化の象徴だ。
だが実はもはや問①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か、の答えは大した問題ではない。むしろ「運慶が生きている理由」という語り手の悟りは、その内容が読者に自明でないことによって夢の感触を表現しているとも言える。だから「自分」が「ほぼわかった」というときに、読者が「よくわからない」と感じていることこそが「夢十夜」の正しい受け止め方だとも言える。
「第六夜」の解釈において重要なのは「生きている理由」よりも「仁王が埋まっていない」ことだ。
こんなふうに「第六夜」の主題を捉えた時、次の一節も意味あるものとして物語の文脈に位置づけられる。
裏へ出てみると、先だっての暴風(あらし)で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽きに挽かせた手ごろなやつが、たくさん積んであった。
ここには「ダルメシアン犬」がいる。そのことは、スキーマがなければ見えてこない。
仁王の埋まっていない「明治の木」は「先だっての暴風で倒れた樫」なのだ。
この「先だっての暴風」とは何のことか?
もはや明らかだ。「暴風」とは1853年の黒船来航に続く幕末の動乱とそれに続く文明開化のことに他ならない。西洋文明の流入は、「あらし」のように日本人の精神を、日本文化を薙ぎ倒したのだ。
この付合が偶然であるとは到底思えない。「明治の木」の来歴としてさりげなく書き込まれたこのような形容を、漱石が意識せずに書き付けているはずはない。つまりこれは心霊写真ではなく、ダルメシアン犬の写真だ。
全体を貫く論理が見えてきた時にのみ、その意味がわかるように、漱石はさりげなく、だが明らかに意図的に、こうした形容を付すのだ。
「第六夜」はこんなふうに「運慶」や「仁王が埋まっていない」を象徴と見なす、物語内の具体レベルから一段抽象度の高い「主題」を想定することで、「意味」がわかったと感じられる小説だ。それは、そのような「主題」を必要としない「第一夜」を受容することとはかなり違った読解体験だ。
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