2026年7月25日土曜日

思考の誕生13 未来をつくる言葉4 論旨を重ねる

  さてここまで、今年度に入ってから6編の文章を読んできた。

  1. 「思考の誕生」
  2. 「場所と経験」
  3. 「物語るという欲望」
  4. 「他者の言葉」
  5. 「未来をつくる言葉」
  6. 「生物の作る環境」


 ここに共通する論旨を抽出しよう。


 「未来をつくる言葉」の問題意識を、ここまで読んできた文章群と重ねてみよう。

 既にフィルターバブルと環世界を重ねて考えたから、「他者の言葉」と「生物の作る環境」につながることはわかる。我々はそれぞれの「フィルターバブル」=「環世界」の中にいる。

 そしてフィルターバブルの膜を越境するために必要なのが「言葉」であり、さらにそれを生み出すために重要なものは「異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築くこと」だとドミニク・チェンは言う。その困難については「近代」の問題として「〈私〉時代のデモクラシー」などにもつなげて考えた。


 さらに、「未来をつくる言葉」の主旨を他の文章と重ねよう。

 それぞれの文章の主旨を、なるべくシンプルな一文で捉えることはその都度やってきたし、それぞれの論がどのように関連し合っているのかも確認してきた。

 論理の比較のためには、そうした一文の文型を揃えて、それぞれの文中から引用した言葉が対応していると感じられる必要がある。

 「一文で表す」というのは「命題」の形にするということだ。名詞で終わってはいけない。主語述語が揃った形。

 主旨を一文にするには、なるべく題名を有効利用するのが簡便だ。とはいえ上記のどれもこれも体言で終わっているので、それらの名詞が主語なのか述語なのか目的語なのか形容句になるのかは、内容を把握していないと判断できない。

 「思考の誕生」なら「思考の誕生は~。」とまとめて主語に置く文も「思考は~誕生する。」と主述に分ける文も作れる。

 「物語るという欲望」なら、「人には物語るという欲望がある。」か「物語は断絶から生まれる。」あたりだが、この二つなら後者の方が主旨が盛り込まれている。

 ならば「思考の誕生」は「思考は他人性から誕生する」とすれば文型が合う。「物語」と「思考」が、「断絶」と「他人性」が対応している。

 ここに「未来をつくる言葉」の主旨を重ねる。

 「未来をつくる言葉」の主旨を一文に表すのは容易だ。自動的にできる。

言葉は未来をつくる。

 だがこれは上の二つの文章と文型が合わない。主述を入れ替えよう。

未来は言葉から生まれる。

 「思考」「物語」が「未来」と対応しそうだという見通しは悪くない。

 本文に「未来」という言葉は実は登場しない。ただ文末が次のように終わる。

わたしたちは目的の定まらない旅路を共に歩むための言語を紡いでいける。 

 この「目的の定まらない旅路」が「未来」の隠喩になっていることに気づけば、「言葉」が、そうした旅路を「共に歩む」よすがになるのだと言っていることはわかる。

 「主旨」というより「主張・メッセージ」くらいに拡張して言うなら?

未来をつくる言葉を共に探そう。

 くらいか。

 となるとさらに、そうした言葉はどのように探せば良いのか(そこにはどんな困難があるのか)、といったあたりが書かれている文章なのだと把握できる。


 だが単にフィルターバブルを越えて互いにつながり合おうとか、そのための「言葉」を探そうといったメッセージだけを、「気分」のように唱えるだけでは問題の核心が見えてはこない。

 問題は「言葉」が「断絶」や「他人性」と対応していると考えるには飛躍があることだ。どう考えたらいいか。

 「言葉」について、終盤に次の一節がある。

じっと耳を傾け、眼差 しを向けていれば、そこから互いをつなげる未知の言葉が溢れてくる。

 この「そこ」が指しているのは(人間同士の)「わかりあえなさ」だ。

 つまりこの一節はそのまま次のように言い換えられる。

言葉は「わかりあえなさ」から生まれる。

 とすれば、三段論法によって次の一文が生成できる。

未来は「わかりあえなさ」から生まれる。

 これは「思考の誕生」「物語るという欲望」が語っていることそのものではないか。

 つまり「わかりあえなさ」が「思考の誕生」の「他人性」、「物語るという欲望」の「断絶」に対応しているのだ。


 こうした主張の裏には何が批判されているか? どんな方向性に対するアンチとしてこうした主張がなされているのか? 仮想敵は誰か?


 断絶の前で「言葉を失う」とき、人は「既に存在するカテゴリに当てはめて理解しようとする誘惑に駆られる」。ドミニク・チェンがそう語る危険こそ、蓮實が「他人性」を希薄にする(=他人を理解する)ために「たがいに自己の内面のイメージを投影しあう」「風土」が「蔓延しがち」だと言っている現在の状況だ。「誘惑に駆られる」といい「風土が蔓延する」といい、そこが仮想敵であることを示すサインだ。

 つまり二人は「安易にわかった気になるな」と言っているのだ。「わかりあえなさ」に「じっと耳を傾け、眼差しを向け」ろ、と言っているのだ。

 すぐに「わかり」たがる安易な姿勢を戒めているという点で、蓮實とドミニク・チェンのメッセージは一致している。


思考の誕生12 未来をつくる言葉3 対話と共話

  次は一段落まるごとを考察の対象にする。

差異を強調する「対話」以外にも、自他の境界を融かす「共話」を使うことによって、関係性の結び方を選ぶことができる。近代社会では、長らく対話こそが民主主義的で合理的な議論を牽引すると考えられてきたが、今日の社会はそのための合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている。この状況に対して、人の合理的な認知能力を引き上げようという努力も必要かもしれない。だが、それよりもまずは異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築くことこそが重要だと思う。

 この部分の「わからなさ」は何だろう?

 「『わからない』ところがわからない」と言いたくなる気持ちはわかるが、それを粘り強く考えて、どこに引っかかっているんだろうと、問題点を明らかにしたり、それを班のメンバーに投げかけることこそ思考の入り口だ(と蓮實は言っているのだ)。


 評論が「わからない」感じられる多くのケースは、具体例が想起できないことから生じている。なんだかよくわからない、ピンとこない、というのは抽象的な表現と、それに対応する具体的なイメージが結びついていない状態だ。

 特にこの段落では「合理性」が「十分に発揮できないことを露呈してしまっている」の部分だろう。「露呈してるよねえ」と言われて、うんそうだよね、と返せる?

 もう一つは「人の合理的な認知能力を引き上げようという努力」も、やはり例が思い浮かばないとピンとこないはず。

 この二つの具体的なイメージを描写してみよう。


 さらに三度登場する「合理性・合理的」がひっかかってもいるらしい。

 ひとまず「今日の社会はそのための合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている。」にしぼって考えてみる。

 まず、何の「合理性」?


 「そのための」が指しているのが何なのかがわかりにくい。前の部分を言い直すと「対話は合理的な議論を牽引する」の「合理的」を受けているから、議論が合理的であることを指しているのだと考えられる。

 議論が「合理的」とはどのような状態かがイメージできれば良い。

 例えば参加者の意図が充分に表明され、それらが理性的に応答され、必要なアイデアが提起され、合意に向けて心理的に調整されていく…。

 そのような議論はまた「民主的」でもあるだろう。

 結局、何にとって理に適っていると言っているのか?


 議論が、社会の課題に対する解決に向かって有効に働いている状態を「合理的」と考えるとちょうど文脈にはまる。

 このように説明するためには「社会の課題に対する解決」という表現を思いつく必要がある。文中に無い語を。こういうところに国語力が表れる。


 さて、では例。

 …の前に対比を確認しておく。思考の解像度を上げるにはいつも有効な手だ。

 言うまでもなく「対話/共話」という対比がある。これは単純な「否定/肯定」の対比ではない。「対話」がまるきり否定されているわけではない。言ってみれば「不十分/補足」くらいの対比だ。

 さてこの対比に対して以下のフレーズが対応している。

人の合理的な認知能力を引き上げる/異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築く

 「合理的/心理的」という対比が「引き上げる/築く」という対比によって確認できる。

 さらにもう一組。

 「近代/今日」が指摘できれば対比が見えてくる。

 さてこの対比から「合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている」ことの理由を説明してみよう。

 なぜ「対話」では不十分なのか?


 「近代」と言えばさらに「前近代/近代」という対比が前提されていることも想定する必要がある。

 「近代」と言えば条件反射のようにまず「個人の誕生」と言えなければならない。

 だがそれでは「近代」のことが言えるところまでで、そこから「今日」との対比を語る上ではもう一つ思い浮かべるべき概念がある。それは去年から何度か出てきている。あの表現。

 「大きな物語」だ。

 「大きな物語」とは何か?


 ひとまずは「多くの人に共有されている認識・観念・価値観」と言える必要がある。

 例えば?


 「宗教」が挙がりがちだが、それは悪くないものの、この文脈では活かしにくい。宗教は前近代からの「大きな物語」であり、ここでは近代の「大きな物語」が想起されている必要があるからだ。

 前近代から近代への移行における「個人」の確立では、むしろ宗教の拘束からの離脱が必要だった。そして一人一人の「差異」が強調される必要があった。

 その時に力を持っていた「大きな物語」とは例えば「個人」の称揚であり、「民主主義」の理念であり、「国民国家」に対するナショナリズムなど。それらさまざまなイデオロギーだ。

 それらが共有されている時にはむしろ一人一人の「差異を強調する」=「対話」が近代理性にとって称揚された。

 だが「今日」ではそうした「大きな物語」が解体してきたから、今度は「共話」も必要となる。

 「共話」は「自他の境界を溶かす」というのだが、「対話」が「差異を強調する」なら「共話」はそれをひっくりかえして「共通点を確認する」とでも言った方がわかりやすい。


 前近代/近代/現代 のこのような推移は昨年度の「『私』時代のデモクラシー」でも確認した。「『私』時代」にデモクラシーが難しくなっているから「共話」が必要なのだといえば、すんなりここにつながる。

 「大きな物語」が出てきたのは「空虚な承認ゲーム」だ。

 「近代社会では、長らく対話こそが民主主義的で合理的な議論を牽引すると考えられてきたが、今日の社会はそのための合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている。」などという一節は背景にこうした認識がないとすんなりとは読み下せない。

 ま、逆に言えばみんなにはそれができる素地ができているはず、でもある。 


 では対話が「合理性を十分に発揮できない」具体的なイメージを描写しよう。

 文中からでも「異なる価値観を持つ人間同士が分断される」「今日のSNS上では、互いに「わかりあえる」集団と「わかりあえない」集団の区分がますます明確に浮き上がってきている」といった一節が指摘できるし、「フィルターバブル」の話を受けていることを捉えれば、例は思い浮かぶ。

 大小さまざまな話し合いの場を想定していい。国際紛争をめぐる停戦協議でも、国会の法案審議でも、自治体の住民投票でも、生徒総会でも、クラスの文化祭の発表を決める会議でも、話し合っても埒が開かない場面は想像できる。それらは対話が「合理性を十分に発揮できない」場面だ。


 といって「合理的な認知能力」も否定されているわけではない。

 だがそれって何?

 ここは「非認知能力」との対比でイメージしておこう。

 「認知能力」とはテストなどによって数値で表せるような「能力」のこと。「論理的思考力」やリテラシー、シンプルに「知識」など。

 それに対して最近流行りの「非認知能力」といえば、「自己肯定感」「やり抜く力」「自己制御力(自制心)」「共感性」「協調性」「好奇心」…。


 続く「まずは異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築くことこそが重要だ」に合う例を思い浮かべるならば、例えば人種差別、性差別などに対する教育や啓蒙・啓発などといった活動も必要だ。「~人は(女性は)人種として劣っている」などといった偏見は「合理的な認知能力」が欠けている状態だ。

 そういう「努力」も必要だが、それと並行してまずは「心理的な土台を築くこと」が重要だ、というのだ。


 さてこんなふうにして読解の解像度を上げて、イメージしたケースの中では、あの生徒総会の例が妙に腑に落ちたのだった。

 体育館を二分した議論の場の設定は、意見の対立を空間の対立として視覚化したものだ。そこでやりとりした、それぞれの主張のぶつかり合いは「対話」だ。

 それによって、それぞれの主張の論理が明確化され、それぞれが何を重視しているかが明らかになった。

 だが結論はどちらかにするしかない。だから時には対立したままで多数決による決定をするしかない。

 あのとき印象的だったのは、決着の後、少数派の中にも、妙な満足感があったように見えたことだった。あれは自分たちの主張に対立する決定に、しかし納得もしたということなのではないか。

 それはつまり、「対話」による論点の明確化すなわち「差異の強調」と同時に、それでも両者の共通性の確認、すなわち良い行事をつくりたいと思いは一緒だという「心理的な土台」が築かれていったことによる納得なのではないかと思う。


2026年7月11日土曜日

思考の誕生 11 未来をつくる言葉2 環世界をつなぐ

 「環世界」とは各生物がとらえる千差万別な世界像のことだ。それぞれの生物にとっての「環世界」はそれぞれ違う。

 これは種の違った生物同士の「環世界」がどれほど違うかを示すために提唱された概念だが、ここでドミニク・チェンがあえてこの言葉を使って示すのは、我々人間同士でも、それぞれの「環世界」は実は違っている、という認識だ。

 こちらから見る世界は私の「環世界」だが、あちらから見る世界も同様にその人の「環世界」だ。それらが異なったものであることは、あらためて心に留めておく必要がある。


 これは我々は直接に外界に触れているわけではなく、「フィルター」を通して外界を認識する。そうした「フィルター」に包まれた「バブル(泡)」の中に我々は閉じ込められている。

 当然「フィルター」はそれぞれの人でさまざまに異なっているから、我々は一人一人それぞれのフィルターバブルの中にいることになる。

 それはすなわちそれぞれがそれぞれの環世界に生きているということだ。

 二つの認識は重なっている。


 それだけではない。問題は「身体という原初の」という表現だ。

 「原初の」という形容が差しはさまれているのは、それに続く何かが想定されていることを示す。

 「身体」に対する何が想定されているか?


 「原初の」とはいわば「先天的」という意味であり、となれば「後天的」なものとは何か、と考える。あるいは動物一般の条件が「原初の」であり、人間的な条件は何か、と考える。

 文中からいくつかの候補となる言葉を挙げてもらったが、ここでは「文化」が最も適切。「身体」と対にするには。

 「身体というフィルター」と概念レベルを揃えて、「文化というフィルター」という言葉を挙げられるかどうかが国語力(読解力)だ。「身体というフィルターバブル」はすべての動物が先天的に持つが、「文化というフィルターバブル」は人間が後天的に身につけるものだ。

 そしてこの概念レベルの下に具体例が配置される。具体的には?

 「言語」がフィルターであるという認識は昨年度の言語論で論じられていた問題としておなじみ。

 他には「社会常識」であり「立場」であり「宗教」であり…。


 「身体というフィルターバブル」の例を挙げよう。

 それぞれの身体的な特徴や条件のことなのだが、ここに「性別」「人種」が挙がったのは、なかなかに考えるべき問題を含んでいる。

 確かに「性別」「人種」は「原初」ではある。生物学的な身体条件だ。

 だが同時に「文化」的なフィルターが、そこに分厚く塗り重ねられてもいる。

 この問題については「公共」で、「セックス」ならば「身体」で、「ジェンダー」ならば「文化」の問題だ、というような問題を扱ったかもしれない。

 例えば「女性ならではの視点から見た…」という形容が使われるとき、それは「身体というフィルター」のことを指しているのか? 多くの場合には「文化的」なフィルターなのではないか?

 性別を単に「身体」的な問題として語るとき、それが同時に「文化」的な問題であることが覆い隠され、ある種の偏見が見過ごされる。それが差別の温床になる危険がある。「人種」も同様だ。

 そうした危険については、よくよく注意が必要だ。


 この文脈ではつまり、社会学で用いられる「フィルターバブル」という言葉を「身体という」形容によって生物学の方に拡大解釈して使っており、一方の「環世界」という生物学上の概念を、社会学的な捉え方に拡大解釈して使っていることになる。


 さて以上の話が理解できたとして、じゃあ説明してみる。「わたしたちは自己の身体という原初のフィルターバブルを持って生まれてくる」とはどういうことか?

 それはそれでひとすじなわではいかないことが、発表させてみるとわかる。

 一つには、結局我々はみんなフィルターバブルの中にいるのだ、という認識を語るだけになる。

 もう一つには「持って生まれてくる」に引っ張られて、「生まれつき」を強調しすぎると、やはりニュアンスが変わってくる。何も赤ん坊に限らず、それ以降の成長の過程でも、老人になっても、我々は「身体というフィルターバブルの中」から出られないのだ。

 「わかる」で終わってはならない。「語れる」まで視野に入れて授業に臨むことが大事。


思考の誕生 10 未来をつくる言葉1 フィルターバブル

 間に『夢十夜』を挟んで、「思考の誕生」からの流れに戻る。「文学国語」から、ドミニク・チェンの「未来をつくる言葉」。

 この文章も一筋縄ではいかない。メッセージは、ある意味ではわかりやすいのだが、それがここまでの議論にどうからんでくるか?


 この文章全体の論旨と、ここまでの文章群とのかかわりを考える前に、この、一筋縄ではいかない文章については細部の考察もしてみよう。


 まず次の一節。

わたしたちは自己の身体という原初のフィルターバブルを持って生まれてくる

 どういうことか?


 「フィルターバブル」を問題化していたのは、去年読んだ文章としては「グーグルマップの世界」だ。そして今年度の「他者の言葉」。

 「フィルターバブル」は、現在のネット言説について考える上で避けられない問題の一つだ。

 「見たいものしか見ない」という態度に関しては、グーグルマップにかぎらず、パーソナライゼーションが進んだウェブのユーザー全般に当てはまる問題として、すでにメディア論において指摘されている。

 「グーグルマップの世界」では、「フィルターバブル」という言葉こそ使われていないが、上記の「パーソナライゼーション」がそこにつながっていく問題として指摘されているのは明らかだ。

 「未来をつくる言葉」でも、この一節の直前に「情報技術は…」と言っているのは同じ問題を指している。

 そして「他者の言葉」ではこれをプラトンの洞窟の比喩と重ね合わせた。


 だがここで問題なのは「身体という原初の」という形容だ。これはネットのアルゴリズムの問題ではない。直前の一節が「情報技術」つまりネットの問題だから、それとは区別された「フィルターバブル」について述べているのだ。

 これは何のことか?


 これとあわせて考えたいのが次の一節。

互いの一部をそれぞれの環世界に摂り込みつつ、時に「親」として、また別の時には「子」として関係することができる。

 「環世界」?


 脚注をたよりに、この記述と「フィルターバブル」の関係を考えた後、いったん「論理国語」の、日高敏隆「生物の作る環境」を迂回する。これは「環世界」という概念について生物学者が説明した文章だ。

 「環世界」とは、ユクスキュルの唱えた「ウンベルト」の訳語で、生物にとっての「世界観」とでもいったような概念だ。

 「世界観」は生物ごとに異なっていて、それぞれをその生物の「環世界」と呼ぶ。

 「生物の作る環境」という見出しはたぶん教科書編集 部のつけたものだろうが、この文章の主旨は「生物が環境を作る」という表現からイメージされる事象とはだいぶ違う。「生物の捉える世界」とでも言うべきだろう。「現代の国語」の「生物の多様性とは何か」もそうだが、聞きなじみのある言い回しを優先して、内容と合ってない題名を編集部の方でつけてしまうのは困ったものだ。。

 さてフィルターバブルと環世界はつながっただろうか?


 さてこうした認識は昨年後半の「視点を変える」シリーズだ。今年度登場のフィルターバブルという言葉も、スキーマとゲシュタルトとセットで扱った。

 「見方を変えると見え方は変わる」は、まさしく上記の「生物の作る環境」と同じ認識だ。

 そういえば「木を見る、森を見る」は「アリの目に、この世界はどう見えているのだろうか。」と結ぶ。いかにもユクスキュル的問いかけではないか。


2026年7月8日水曜日

夢十夜 第一夜8 夢の論理

 「暁」とは何か?

 夜明けのことだ。

 「暁の星を見た」と表現される事態は、精確に言うと、「星を見た」→「『あれは暁の星だ』と認識した」と二段階に分解される。

 そして、あれは「暁の」星なのだ、という認識はつまり、もう夜が明けるのだ、という認識にほかならない。

 夜明け?

 だがそれまで「赤い日」がいくつも通り過ぎていった。そのたびに夜は明けていたではないか?


 そうは思えない。「赤い日」はただ書き割りのような空を背景として通り過ぎていくだけだ。昼に対応する夜も描かれていない。「自分」が眠ったり起きたりする様子もない。したがって、日が昇ったり沈んだりするからには、その度ごとに「暁」はあったはずなのだろうが、結局のところ時間がいくら経過していても、そこに本当の夜明けが来ていたような印象はない。

 「自分」はただ、女を埋めた時のまま、夜の底にひとり座り続けていたのではないか。

 そして「自分」が「暁の星」を見た瞬間にようやく夜明けがおとずれる。

 その時、そこまでの女をめぐるあれこれ、すなわち一夜の夢が終わる。


 「百年」とは、物語内部の論理レベルでは「女が来るまで」だ。だから「百年が来た」とは「女が来た」ということにほかならない。

 一方で例えば「百年」とは「永遠」を意味している、などという解釈も世間にはある。女の約束に「待っている」と答えてひたすら待つ男から「永遠の愛」が主題だなどと言ってみたり、「百年経ったら会いに来る」とは、もう会えないという意味であり、結末で男は死んでいるのだなどと解釈して、そこから「愛の不可能性」が主題だと言ってみたりする。

 今年度の授業ではF組Mさんから提示された解釈が印象深い。

 Mさんは、この小説は「死の受容」がテーマなのではないかという。百年とは女の再来を待つ時間でもあるが、これは実は男が女の死を受け容れるまでの時間を意味している。百年とは「百年が来ていたことに気づいた」とは、男が女の死を受け容れたということなのだ。

 こうした解釈は聞いたことがなかった。面白い。


 「百年」とは「永遠」という意味だ、という解釈は、物語内部の論理レベルを超えた抽象度で、その意味を捉えようとしている。「第六夜」で試みたのもそのような解釈だ。

 だが「第一夜」については、そうした解釈は、小説読者が純粋に小説を読むことから乖離した「解釈ごっこ」になっていると思う。「暁の星」が女の象徴だと言ったりする解釈もそうだ(とはいえ「百年とは死の受容までの期間」という解釈は面白かったが)。

 それに対して、「百年」とは「夢の終わりまで」を意味しているという解釈もまた、物語内部の具体レベルを超えた解釈ではある。

 「百年が来ていたことに気づいた」とは、夢が終わることを悟る刹那がその直後に訪れる気配を示している。「夢オチ」という表現があるが、それが夢だと気づく視点は、世界を外側から見ている。メタな視点からこの物語を「夢」として捉えている(「メタ」とは上の次元から対象を見る高次の階層のことだ)。

 

 それはちょうど、我々読者がこの物語を「小説」としてどう読んだかということと入れ子構造をなしている。


 夢は、目が覚めて思い出すときに作られるという。我々の語る夢は多かれ少なかれ、覚醒時から遡って解釈される。

 解釈とは合理化だ。そこに論理を見出す。

 そして夢の中の納得は、目覚めてから思い出すと、何だか奇妙な論理で成立していることがある。

 目覚めるということは夢が終わるということだ。夢が終わるからには、女との約束が果たされなければならない。すなわち百年が来なければならない。だとするとこの百合が女の生まれ変わりなのだ。

 こうした奇妙な納得のありようは夢の感触として我々には覚えがあるはずだ。ああ、これは…なんだなあ、と何だかよくわからない納得をしている。冒頭近くの「確かにこれは死ぬな」にもそうした感触が鮮やかに表現されていることは確認した。


 ということは先ほどの論理は転倒している。

 百合が女の生まれ変わりだと気づいたから「百年はもう来ていたんだな」と気づいたのではなく、むしろ百年が来ていたという結論から、百合が女の生まれ変わりだったのだという解釈が生まれたのだ。

 「百合が女の生まれ変わりであることに気づいた」という認識は、いわば遡って捏造されたのだ。

 そして振り返ってみた時にはそれが忘れられている。


 そしてそれは我々読者の思考だ。上の捏造は「自分」がしたのではなく、読者がしたのだ。

 我々読者は、百合が女の生まれ変わりだと気づいたりはしなかった。最後の一文で百年が既に来ていたことを知らされ、そこから遡って百合が女であると解釈したのだ。それ以外の読解がされようはずがない。

 だがそのことは忘れられてしまう。

 最初の要約課題の際に、「百合の花が咲いた」ことと「百年が来ていたことに気づいた」ことを、明らかな因果関係として記述した人は多い。例えば「咲いたので~」などという記述は珍しくない。「女が百合に生まれ変わって」とはっきり書いている者もいる。

 だがそうした因果関係もそのような事実も、小説に書かれているわけではない。読者がそう解釈したのだ。

 もちろん漱石はそうした解釈を誘導するように意図的に書いている。誘導にのってそのように解釈するとき、「物語」は完結する。

 それはあくまで読者による解釈によって生じた「物語」であり、それはまるで、我々が目覚めてから思い出す夢が「夢」そのものではなく実は「解釈」されたものでしかないように、読者が「解釈」した結果生じたものなのだ。


 こうして、いかにも夢らしい感触を感じさせる「夢の論理」は、同時に、我々が小説を読むということの四つ目の側面をも照らし出す。

 夢が終わるからには百年が来なければならないという「夢の論理」は、「物語」が終わるからには「欠落」が「回復」しなければならないという小説享受の論理と同型だ。我々は物語を完結せんとする要請によって、百年の到来という結末をまず受け入れたのだ。その後で、女が百合に生まれ変わって会いに来ることで約束が果たされたのだと信じたのだ。

 そのことを「思い出す」とき、「自分」が気づいた百年の到来が夢の終わりを意味しているという解釈も「思い出す」ように腑に落ちる。


 ずっと待っていた女の再来によって百年の終わりが来たという結末は、基本的には「欠落」→「回復」という型で認識されるハッピーエンドとして認識される。

 だが一方で夢の女とは夢の中でしか会えない。だから夢の終わりとは夢の女との永遠の訣別でもある。

 ここには約束の成就と約束成就の不能、「回復」の成功と失敗という正反対の論理が階層を違えて同居している。

 「第一夜」のハッピーエンドは喪失の切なさを内包して成立している。


 『夢十夜』の2編を読んで、「小説を読む」ということをいくつかの側面を明らかにしてきた。

 小説中の何かを象徴と見なすことで、小説から「意味」を抽象化する読み方。

 小説中の筋立てにある構造を見出すことで、それを「物語」として受け取る読み方。

 小説の文章そのものを源泉掛け流しの温泉を浴びるように読んで、その豊穣を味わう読み方。

 「解釈」という合理化の向こうにある「夢」の気配を微かに思い出す読み方。

 これらは相反するものではなく、同時に行われてもいる。そのこと自体が、小説を読むという行為の豊穣でもある。


夢十夜 第一夜7 暁の星を見る

 「暁の星を見た」から「百年が来ていたことに気づいた」と考えることは、どのような解釈を成立させるか?

 

 「暁の星」とは何を意味するか。もちろん、意味を見出せない要素は、この小説の中にいくらでもある。「真珠貝」然り、「星の破片」然り。あるいはそれらは、小説の構造を支える明確な「意味」をもった構成要素なのかもしれない。だが今のところ筆者の目には、それらはその「意味」について考えても仕方のないような単なる「ロマンチックな」ガジェットに過ぎないように映っている。

 「暁の星」も同様のギミックに過ぎないのだとすれば、bのような解釈は無意味だ。

 そうなのだろうか?


 例えば暁の星を女の隠喩としてみる解釈が世間にはある。この可能性を考えてみよう。

 普通の読者が星を女の隠喩として読むことは難しい。だが聞いてみると少数ながらそれを支持する者はいるし、考察・議論をすると支持者は増える。

 あえて星が女の隠喩なのだとする根拠を考えてみる。次のような根拠が挙がる。

  • 死ぬことを「昇天」「星になる」とする慣用表現がある。
  • 「瞬く」星は目を連想させ、百合に落ちる露は女が死ぬ際に流れる涙のイメージと重なる。
  • 「星の破片」「真珠貝に指す月の光」「遙かの上」など、天につながる要素が物語中にある。
  • 「暁の星」は「明けの明星」つまり「金星」を意味する。金星は西欧ではローマ神話に由来して「ヴィーナス」すなわち「美の女神」を意味する。

 いくらかもっともらしくなってきた。


 だが百合が女をイメージさせるように意図的に書いてあることは明白なのに、なんでこんな解釈をする必要があるのか?


 そこで、もうちょっと辻褄を合わせるために更に論理を構築する。

 百合が咲く契機は何か。男が「自分は欺されたのではなかろうかと思い出した」からだ。つまり女は男の疑いに対して、自分が約束を忘れていないことを示す自身の身代わりとして百合を咲かせ、天から露を落として、自分がいることを悟らせるための合図を送ったのだ。女は天から、いつだって自分を見守ってくれていたのだ。そう気づいた時に男は「もう百年は来ていた」と気づいたのだ。

 これはかなりもっともらしい解釈だ。百合も星も女なのであり、天との交感や露の「意味」についても回収している。問②の答え「女が会いに来たから」を発展・補完しているように思える。


 だが、このような解釈は筆者には何のカタルシスももたらさない。辻褄の合った理屈が構築される快感があって飛びつきたくなるが、なるほど確かにそうだという腑に落ちる感じはない。「第一夜」は既によく「わかっている」というのに、まるで人工的な、こんな解釈をすべき必要がわからない。

 「暁の星」にスポットを当てて、もう一度考えさせたのは別な狙いがある。


夢十夜 第一夜6 なぜ気づいたのか

 考える糸口は次の問い。

なぜ「自分」は

①「百年がまだ来ない」と考えたのか?

②「百年はもう来ていた」と気づいたのか?

 物語の最後で白い百合が咲く前に「自分」は女に欺されたのではなかろうかと考える。①はその直前に置かれた記述。②は百合に接吻して物語が終わる最後の一文だ。

 二つの問いに、整合的な論理で答える。


 どちらも、「勘定」が「百年」に達していない①、達した②ということではない。なぜか?


 自分は途中で数えることを放棄しているからだ(「いくつ見たかわからない」)。

 ではなぜ「まだ来ない」と考えたのか?


 言うまでもなく、①「女がまだ会いに来ないから」だ。女は「百年経ったらきっと会いに来る」と言った。その女が現れないから、百年はまだ来ていないと考えたのだ。

 これを裏返せば、「百年がもう来ていたことに気づいた」のは②「女が会いに来たから」ということになる。

 これはつまり、百合を女の再来と認めたということにほかならない。

 ①と②は裏表に補完し合っている。

 読者がこの小説を完結した「物語」として読めるのは、①②の論理を了解しているということだ。喪失によって生じた「欠落」は、試練の末「回復」したのだ。


 この明白な理屈に疑問を投げかける。

 自分は首を前へ出して、冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。

 「百年はもう来ていたんだな。」とこの時初めて気がついた。

③「この時初めて気がついた。」の「この時」とは上の一節のいつか?


 問題はどの時点か、ではなく「この」が指している事実が何かだ。

 そしてその事実と「気がついた」にどんな関係があるか、だ。

 とすれば、この二つの可能性は、ただちに次のように問い直される。


 ②なぜ「百年はもう来ていた」ことに気づいたのか? の答えは次のどちらか?

  1. a 女が百合として会いに来たから
  2. b 暁の星を見たから


 これは、どちらが正解か、という問いではない。

 aとbはどのような関係になっているか、が問われている。


夢十夜 第一夜5 夢の手触り

 『夢十夜』は夢という体裁で書かれた連作小説だ。そして、確かに「夢」らしいと感じさせる手触りがある。

 だがそれは「こんな夢を見た。」で始まっているからか。単に現実離れした出来事が起こるからか。

 「夢」らしさはどこから生じているのか?


 各クラスで共通して挙がったのは、時間・空間・場面の唐突な転換だ。場面が突然変わる。あるいはいつの間にか変わる。その転換は「ぬるっと」行われる。時間や場所や状況が飛躍していても、そこに注意が向けられることがない。

 もう一つ、授業者が挙げたかったのは、この語り手に見られる、よくわからない「納得」だ。

 夢の中では我々はさまざまなことを自然に受け容れている。上記の場面転換も、夢の中ではそれを不自然だとは思わない。そういうものかと思っている。

 「第一夜」は、女がもう死ぬと言う。唐突だ。だが男は「確かにこれは死ぬな」と思い、「そうかね、死ぬのかね」と返す。なのにその後の場面では「これでも死ぬのか」と思うが、さっき確かに死ぬなと思ったことは反省されない。

 こうした判断の曖昧さは、覚めてから思い出す夢の手触りとして覚えがある。


 「第一夜」にはもう一つ、ある種の夢の構造が表出している。それは上のような「夢らしさ」とは違って意識しにくいが、指摘してから、なるほどそれは「夢っぽい」と思ってほしい。

 同時にそれは「夢を見る」ことと「小説を読む」ことに同じ構造を見ることでもある。そこから「小説を読む」ことの四つ目の側面が浮かび上がってくる。


2026年7月6日月曜日

夢十夜 第一夜4 「小説を読む」とは

 「第一夜」の文体の特徴は、いわば過剰な「叙景」だ。

 「第一夜」には読者に映像を喚起させる描写が、しつこいほどに念入りに語られている。そしてさらにそれが異様とも言える密度で、形容詞や形容動詞や副詞によって修飾されている。

 逆に言えば「第一夜」には、ストーリーを語る上で必須とは言えない描写や形容が、過剰とも言える量・密度で書き込まれているのだ。


 ここで茂木健一郎の「見る」と、小林秀雄の「美を求める心」を読む。

茂木健一郎「見る」

 「見る」という体験は、その時々の意識の流れの中に消えてしまう「視覚的アウェアネス」と、概念化され、記憶に残るその時々に見ているものの「要約」という二つの要素からなる複合体なのである。(略)

 絵の前に立つとき、さまざまな要約が脳の中では現れ、深化し、変貌し、記憶される。その一方で、絵を構成する色や形などの細部は、決してそのすべてをとどめておくことができない「意識の流れ」の中で、時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる。

 何かをつかみつつも、指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われつつあるもの。その豊穣な喪失こそが、絵を見るという体験の本質である。 


小林秀雄「美を求める心」

 見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるのでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに入ってくれば、諸君はもう眼を閉じるのです。菫の花だと解るということは、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。言葉の邪魔のはいらぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見たこともなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。


 これらの論旨とここまでの授業の考察を重ねてみる。

 それらには何が共通しているか?


 まず、二つの文章に共通した論旨をつかむ。

 「共通している」とは両者が「対応している」ということだ。

 何と何が?


 茂木のいう「要約」が小林のいう「お喋りをする」「言葉に置き換える」に対応しているというのが最も重要な対応としてまず指摘されなければならない。

 だがそれはどのような論旨の把握によって「対応している」と考えられるのか?


 二つの文章に共通した問題を問いの形で表すなら、どちらも「『見る』とはどういうことか?」と表現できる。このような把握ができれば、その「こういうこと」の共通点は何か? を考えればいいとわかる。


 茂木は「見る」ことは「視覚的アウェアネス」と「要約」の複合体だと言う。

 小林の例えば「花の姿や色の美しい感じ」が「視覚的アウェアネス」に、「言葉で置き換える(「お喋り」はその比喩的表現)」が「要約」に対応している。

 茂木は両方をそれぞれ述べているが、小林は後者を否定している。だが、それは二つのうちの「要約」のみが「見る」ことだと思っているような人を批判するためだ。

 「言葉で置き換える」ことが見ることだとしか考えていない人はちゃんと「見る」ことをしていないのだ、というのが小林の力点だ。そしてただ「見る」こと=「視覚的アウェアネス」で捉えていることは簡単だと人は思っているが、そこには訓練がいるのだ、とも言っている。

 だが「言葉で置き換える」ことがなければ、茂木の言うように見たことは「消え去って」「失われて」しまう。「菫の花だ」と言ってそれ以上見ることをやめてしまう人は本当に「見て」はいないのかもしれないが、「菫の花だ」とも言わなければ、見たこと自体が流れ去ってしまう。

 こうした論旨とここまでの授業でやってきたことのあいだにはアナロジーがある。 


 そもそも授業で『夢十夜』を読む目的は何か? 何だと宣言したか?


 『夢十夜』では「第六夜」「第一夜」それぞれを読むことを通して、「小説を読む」という行為自体について考えることも目標としている、と宣言した。

 とすればもう明らかだ。

 「絵を見る」「花を見る」ことが「小説を読む」と対応しているのだ。

 「要約」なくして「絵を見る」ことはできないが、「絵を見る」という体験は同時に「絵を構成する色や形などの細部」が「時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる」ことでもある。

 「夢十夜」を読んで、それが何を語っている小説なのかを認識するために、我々は「第六夜」で試みたように抽象化した「意味」「主題」を捉えるために「解釈」したり、「第一夜」で試みたように「構造」を捉えたりする。そうしなければ読んだ小説はとりとめもないものとして流れ去ってしまう。それらの「解釈」は意識するとせざるとを問わず必ず行われている。

 だが一方で、その時「指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われ」てしまうものこそが小説の「豊穣」でもある。

 そうした「花の姿や色の美しい感じ」そのものを見ないで、小説が「わかる」ことは、本当に小説を「読んでいる」ことにはならない。

 「第一夜」の過剰とも言える描写や形容を施されたイメージ豊かな文章を読むことは、そうした「源泉掛け流しの温泉」の湯を浴びるように贅沢なことだ。

 漱石の紡ぐ物語は、そうした細部の「豊穣」によってこそ優れた小説たりえている。


夢十夜 第一夜3 「第一夜」の文体の特徴

 さらに小説を読むとはどのような行為かを考える。

 小説を読むとは、まず文章を読むことだ。そして「第一夜」は、どのような物語かを把握するよりもまず、その文章によって魅力的たりえている。文章を読むこと自体が快楽をもたらすのはなぜか?


 「第一夜」の冒頭を次のように音読して聞かせた。

腕組みをして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、もう死にますと言う。女は髪を枕に敷いて、瓜実顔をその中に横たえている。頬の底に血の色が差して、唇の色は赤い。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにしてきいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。睫に包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。その眸の奥に、自分の姿が浮かんでいる。

 原文とどこが違うか?


 さらに書き換える。

枕元に坐っていると、女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。その眸の奥に、自分の姿が浮かんでいる。

 これは原文とどう違うか?


 最初に抜いたのは「静かな」「長い」「柔らかな」「真っ白な」「温かい」「はっきり」「ぱっちり」「鮮やかに」など。

 次に抜いたのは「腕組みをして」「女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。」など。

 これらは何か? 何を削ったのか?


 第一段階については「修飾」が削られている、という意見が圧倒的に多かった。悪くないが「修飾」という概念はちょっと広過ぎる。

 第二段階は「様子」や「状態」を表す部分だ。

 どちらも悪くないが、サ変動詞にできる熟語で揃えよう。


 想定していたのは「形容」「描写」

 「形容」は、品詞としては形容詞・形容動詞・副詞など、ある名詞や動詞を修飾する一単語。

 「描写」は、何をした、何が起きた、というだけでなく、それがどんな「様子」だったかを視覚的に伝える情報。

 もちろん「形容」と「描写」の境目は明確ではないが、ともかくも例えば「形容」「描写」という言葉で表現できるかどうかもまた国語の力だ。


 さて、この改稿を全編にわたってやってみる。

 こんな夢を見た。

 枕元に坐っていると、女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。自分はこれでも死ぬのかと思った。それで、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまたきき返した。すると女は、でも、死ぬんですもの、しかたがないわと言った。じゃ、私の顔が見えるかいときくと、見えるかいって、そら、そこに、映ってるじゃありませんかと、笑ってみせた。自分は、どうしても死ぬのかなと思った。女がまたこう言った。「死んだら、埋めてください。そうして墓のそばに待っていてください。また逢いに来ますから。」自分は、いつ逢いに来るかねときいた。「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。―日が東から西へと落ちてゆくうちに、――あなた、待っていられますか。」自分はうなずいた。女は「百年待っていてください。きっと逢いに来ますから。」と言った。自分は、待っていると答えた。女の眼が閉じた。もう死んでいた。

 自分はそれから庭へ下りて、穴を掘った。女をその中に入れた。そうして土をかけた。それから星の破片の落ちたのを拾ってきて、土の上へのせた。自分は苔の上に坐った。これから百年の間、こうして待っているんだなと考えながら、墓石を眺めていた。そのうちに、日が東から出た。それがやがて西へ落ちた。一つと自分は勘定した。しばらくするとまた天道が上ってきた。そうして沈んでしまった。二つとまた勘定した。自分は日をいくつ見たか分からない。勘定しつくせないほど日が頭の上を通り越していった。それでも百年がまだ来ない。しまいには、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。

 すると石の下から茎が伸びてきて、百合が開いた。自分は花弁に接吻した。空を見たら、暁の星が瞬いていた。「百年はもう来ていたんだな。」とこの時はじめて気がついた。

 これで800字ほど。元の小説は1800字くらいあるから、半分以下になっているのだが、おそらく元の小説の印象とそれほど変わらないのではなかろうかと思う。

 この作業を通して浮かび上がるこの小説の文体の特徴とは何か?


2026年7月1日水曜日

夢十夜 第一夜2 「物語」の構造

 我々が「第一夜」を完結した「物語」として感じられる要因は何か?

 どうみても「虚構」だし、展開は因果関係によって継起していく。墓を掘るのも待つのも女との約束だからだということは読者に了解されている。

 さらに、ここには「物語」が持っている、ある普遍的な構造がある。それを「起承転結」などとそれを表現してもいいが、では「起」だの「結」だのがあると感じるとはどういうことか?


 こういう本質的な「そもそも」問題は、いろんな切り込み方があって考えてみると面白い問題なのだが、ここではそのうちの一つの考え方を紹介する。

 「物語」に広く見られる構造を汎用性のある言い方で言うなら「欠落と回復」と表現できる。物語は、あるものが欠けることで発動し(起)、それを埋めようとして駆動する(承)。障害をを乗り越え(転)、それが埋め合わされることによって決着する(結)。

 例えば「葛藤と解決」などという表現も、安定した状態が「欠落」していて、そうした「葛藤」状態を「解決」することで安定が「回復」するのだと言い換えることができる(あるいは「葛藤」とは欠落の回復を目指す上での障害を指しているともいえる。「回復」の前に挿入される「試練」である。その場合は「転」にあたる)。

 誰もが知っているような民話や童話を挙げ、この構造を指摘してみよう。あるいは誰もが知っている近現代の物語(小説・マンガ・映画・ゲームなど)では?


 多くの物語には「敵」がいる。敵の存在は安寧の「欠落」だし、敗北も自尊心の「欠落」を生む。「回復」は勝利によってもたらされる。

 また多くの民話・神話の主人公は「旅」をする。旅そのものが日常性の「欠落」だし、旅立ちの契機は欠けた物を探すことだ。それを見つけて帰ることで物語が終わる。

 「桃太郎」は村から収奪された財宝を鬼ヶ島から取り返して戻ってくる。あるいはそれは平穏の「欠落」が鬼の討伐によって「回復」したということでもある。

 同型の「一寸法師」でも鬼から宝を取り戻すのだが、さらに彼の場合は身長が「欠落」していたのだとも言える。結末では打出の小槌によって身長が「回復」して、お姫様と結婚する。

 ミステリーに代表されるように「謎」が物語を駆動するのも、そこには真相が「欠落」していて、その「回復」(真相の究明)が希求されるからだ。

 悲劇の場合は、そのように期待される「回復」が裏切られることが、やはり物語の決着として感じられる。

 さてでは「羅生門」における「欠落」と「回復」は?


 決定的なその一語を、全員が想起したい。

 下人には職も食も「欠落」しているが、直接その「回復」が果たされるわけではない。「主題」に至るように構造を把握するなら、最初門の下で下人に「欠落」していたのは盗人になる「勇気」であり、最後にそれが「回復」する(勇気が出る)。だがその「回復」の意味が不明瞭だから、解釈が要請される。


 「第六夜」は、運慶が明治の世に現れている不思議が「欠落」で、その「理由」がわかることが「回復」にあたる。だがこの納得感は薄い。だからここでも解釈が要請される。

 では「第一夜」は?


 言うまでもなく女の死が「欠落」を生み、再会によって「回復」する。

 このように理解するときこの物語は、女が百合に姿を変えて会いに来ることで、死に際の約束が成就するハッピーエンドの物語だと考えられる。

 物語前半の喪失による欠落が、試練の末に埋め合わされることで回復するというのは、「物語」の基本的なドラマツルギー(作劇技法)として完璧な要件を備えている。

 もちろん女がそのままの「女」でないことに、ハッピーエンドとしての十全な満足はない。だがその不全感も、喪失感として小説の味わいを増しているのであって、前半の約束が結末への推進力としてはたらく欠落補充の要請は、確かに満たされて終わる。

 だから読者はこの小説を、一編の「物語」として捉えることができている。


 こうした「欠落」→「回復」を大きな背骨とした構造を捉えることは、要約において必要な把握だ。だがそれは「意味」を捉えるような抽象化を伴っているわけではない。

 「第一夜」は「主題」を考えることなく「物語」として読める。


夢十夜 第一夜1 物語として読む

 「第六夜」について「解釈」することは、これが「夢」そのものではなく「小説」という物語として語られる以上、可能なアプローチとして認めてもいいように思われる。

 同様に「第一夜」にもさまざまな謎が、いかにも「解釈」を求めているような顔で並んでいる。なぜ女が唐突に「死にます」などと言うのか、「百年経ったら会いに来る」とはどのような意味か、女は結局会いに来たのか?

 あるいは「真珠貝」「星の破片」「赤い日」「露」は何を象徴しているのか?

 そもそも「女」や「百年」は何を象徴しているのか?

 こうしたいかにも「謎めいた」ガジェットに意味を見出したくなる人情もわかる。文学研究の世界では精神分析の手法を使ったり、漱石の伝記的事実を調べたりして、様々な解釈が行われている。死んでしまう女には、漱石が密かに思いを寄せていた兄嫁のイメージが重ねられている、とか。

 だがそういう、精神分析的分析や伝記的事実に結びつける解釈はどれもこじつけじみて感じられる。小説を読む読者の感動と乖離している。

 だから授業では結局のところこの物語を、「解釈」を目的として「使う」つもりはない。

 では何をするか?


 授業は当該の教材文の理解を目的としてはいない。理解を当面の目標として、言語活動をすることが国語の学習だ。

 「第六夜」では、小説内の具体レベルより一段抽象度の高い「意味=主題」を見出す、というひとつの読みのあり方を示した。

 だが「第一夜」はそのような解釈を必要とせず、既にその魅力が読者には感じ取れている。それ以上にどのような解釈が必要なのか。

 むしろ「第一夜」を「第六夜」のように「解釈」しないことによって、また別の小説享受のあり方を示そう。

 「主題」は作品が可能性として潜ませている、抽象的な「意味」だ。「第一夜」にそんなものは(あってもいいが)なくてもいいとも言える。

 「第一夜」が「第六夜」のような、「意味」を探ろうとする解釈を必要としないように感じられるのは、読者が「第一夜」を、既に「物語として」読んでいるからだ。

 「物語として」読む?


 我々は「第一夜」を「物語として」読んでいる。まるでとりとめもないイメージが散乱するばかりの、それこそ「夢」のようでしかない体験として読み終えるわけではない。

 読者は『夢十夜』の「第一夜」を、夢の感触を鮮やかに再現しつつ、だが創作物としての小説として完成されたもの、いわば「物語として」読んでもいる。


 「物語」とは何か?


 誰でも「物語」という言葉を知っている。使っている。

 だが「知っている」ことがどのようなものかを明示的に表現することは必ずしも容易ではない。「使う」という行為には無自覚・無意識な部分も大きい。

 小説を「物語として」読むという言い方は、「小説」と「物語」とは位相の違った概念だということを示している。

 例えば「物語」を評論と対比することはできない。

 「物語文」と評論を対比することはできる。

 「物語文」・小説・詩・評論などは「文章のジャンル」だが、「物語」はそれとは位相の違う概念だ。

 もちろん評論よりも詩よりも小説の方が「物語」と近親性が高いが、映画・マンガ・ゲームにも「物語」がある。つまり「物語」という概念は文章のジャンルともメディアの種類とも違った位相にある。

 とはいえ小説を「物語として読む」というのがどのような事態なのかを明らかにするためには、小説以外のジャンルの文章が「物語として」読まれない例を考え、それとの対比で「物語」という概念を明らかにするのがわかりやすい。


 文章というメディアにおける「物語」的な文章の代表はやはり小説だ。これを新聞記事と対比させたときに我々が「物語」という概念に見出す要素はひとまず「虚構性」だろう。

 また「一人称の語り手」「登場人物の心情」などの要素も挙がった。確かにそれらは新聞記事にはそぐわない要素だ。

 では随筆・日記はどうか。日記は一人称で「私」の「心情」を語る。友人や家族などの「登場人物」がいる。

 確かにある種の日記は「私小説」に近い。だがそもそも「私小説」は言わば「反物語」たらんとする小説の企てだとも言える。日記と「物語」はそれほど相性が良くはない。

 ノンフィクション、ルポルタージュなどの現実に基づく作品に「物語」を見出すこともある。

 「虚構性」「一人称の語り手」「登場人物の心情」などの要素は「物語」という概念になじみが良いが、それだけで輪郭は確定されない。「物語」がそれを許容するということと必須であるということは別だ。

 少なくとも単にニュースを伝える新聞記事や日記を「物語」と呼ぶことはない。そこには何が欠けているのか。

 さらに(それこそ夢のような)とりとめもないイメージを羅列した文章を「物語」の対比として考える。ここでは虚構性が「物語」を区別する条件とはならない。どうみてもそれが「現実」とは思えない記述が羅列されていて、だがそれを「物語」とは呼ばない、と感ずるとしたら、我々は何をもって「物語」を認識するのか?


 授業では「流れ」という言葉が提起された。確かに日記やとりとめもないイメージの羅列には「流れ」が感じられない。では「流れ」とは何か。

 「流れ」とは、時間軸に沿って提示される情報の間に、何らかの因果関係があるということだ。複数の出来事を時間軸に沿って並列的に述べていっても、我々はそれを「物語」とは感じない。それが「羅列」だ。それらのエピソードをつなげて、それらの出来事間に何らかの「因果関係」を見出す時に、我々はそこに「物語」の気配を感じる。

 だがまだそれだけでは「物語」といえる感触を捉えるには充分ではない。

 「起承転結」という言葉も挙がる。各要素は「因果関係」をもち、そこに「起承転結」といえるようなまとまり・完結性が備わったときに、それを「物語」と感じるのだ。一般的な新聞記事、歴史の教科書の記述にはまとまりがない。

 「起承転結=まとまり」とは何か?


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