間に『夢十夜』を挟んで、「思考の誕生」からの流れに戻る。「文学国語」から、ドミニク・チェンの「未来をつくる言葉」。
この文章も一筋縄ではいかない。メッセージは、ある意味ではわかりやすいのだが、それがここまでの議論にどうからんでくるか?
この文章全体の論旨と、ここまでの文章群とのかかわりを考える前に、この、一筋縄ではいかない文章については細部の考察もしてみよう。
まず次の一節。
わたしたちは自己の身体という原初のフィルターバブルを持って生まれてくる
どういうことか?
「フィルターバブル」を問題化していたのは、去年読んだ文章としては「グーグルマップの世界」だ。そして今年度の「他者の言葉」。
「フィルターバブル」は、現在のネット言説について考える上で避けられない問題の一つだ。
「見たいものしか見ない」という態度に関しては、グーグルマップにかぎらず、パーソナライゼーションが進んだウェブのユーザー全般に当てはまる問題として、すでにメディア論において指摘されている。
「グーグルマップの世界」では、「フィルターバブル」という言葉こそ使われていないが、上記の「パーソナライゼーション」がそこにつながっていく問題として指摘されているのは明らかだ。
「未来をつくる言葉」でも、この一節の直前に「情報技術は…」と言っているのは同じ問題を指している。
そして「他者の言葉」ではこれをプラトンの洞窟の比喩と重ね合わせた。
だがここで問題なのは「身体という原初の」という形容だ。これはネットのアルゴリズムの問題ではない。直前の一節が「情報技術」つまりネットの問題だから、それとは区別された「フィルターバブル」について述べているのだ。
これは何のことか?
これとあわせて考えたいのが次の一節。
互いの一部をそれぞれの環世界に摂り込みつつ、時に「親」として、また別の時には「子」として関係することができる。
「環世界」?
脚注をたよりに、この記述と「フィルターバブル」の関係を考えた後、いったん「論理国語」の、日高敏隆「生物の作る環境」を迂回する。これは「環世界」という概念について生物学者が説明した文章だ。
「環世界」とは、ユクスキュルの唱えた「ウンベルト」の訳語で、生物にとっての「世界観」とでもいったような概念だ。
「世界観」は生物ごとに異なっていて、それぞれをその生物の「環世界」と呼ぶ。
「生物の作る環境」という見出しはたぶん教科書編集 部のつけたものだろうが、この文章の主旨は「生物が環境を作る」という表現からイメージされる事象とはだいぶ違う。「生物の捉える世界」とでも言うべきだろう。「現代の国語」の「生物の多様性とは何か」もそうだが、聞き覚えのある言い回しを優先して、内容と合ってない題名を編集部の方でつけてしまうのはいかがなものか。
さてフィルターバブルと環世界はつながっただろうか?
さてこうした認識は昨年後半の「視点を変える」シリーズだ。今年度登場のフィルターバブルという言葉も、スキーマとゲシュタルトとセットで扱った。
「見方を変えると見え方は変わる」は、まさしく上記の「生物の作る環境」と同じ認識だ。
そういえば「木を見る、森を見る」は「アリの目に、この世界はどう見えているのだろうか。」と結ぶ。いかにもユクスキュル的問いかけではないか。
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