「第六夜」について「解釈」することは、これが「夢」そのものではなく「小説」という物語として語られる以上、可能なアプローチとして認めてもいいように思われる。
同様に「第一夜」にもさまざまな謎が、いかにも「解釈」を求めているような顔で並んでいる。なぜ女が唐突に「死にます」などと言うのか、「百年経ったら会いに来る」とはどのような意味か、女は結局会いに来たのか?
あるいは「真珠貝」「星の破片」「赤い日」「露」は何を象徴しているのか?
そもそも「女」や「百年」は何を象徴しているのか?
こうしたいかにも「謎めいた」ガジェットに意味を見出したくなる人情もわかる。文学研究の世界では精神分析の手法を使ったり、漱石の伝記的事実を調べたりして、様々な解釈が行われている。死んでしまう女には、漱石が密かに思いを寄せていた兄嫁のイメージが重ねられている、とか。
だがそういう、精神分析的分析や伝記的事実に結びつける解釈はどれもこじつけじみて感じられる。小説を読む読者の感動と乖離している。
だから授業では結局のところこの物語を、「解釈」を目的として「使う」つもりはない。
では何をするか?
授業は当該の教材文の理解を目的としてはいない。理解を当面の目標として、言語活動をすることが国語の学習だ。
「第六夜」では、小説内の具体レベルより一段抽象度の高い「意味=主題」を見出す、というひとつの読みのあり方を示した。
だが「第一夜」はそのような解釈を必要とせず、既にその魅力が読者には感じ取れている。それ以上にどのような解釈が必要なのか。
むしろ「第一夜」を「第六夜」のように「解釈」しないことによって、また別の小説享受のあり方を示そう。
「主題」は作品が可能性として潜ませている、抽象的な「意味」だ。「第一夜」にそんなものは(あってもいいが)なくてもいいとも言える。
「第一夜」が「第六夜」のような、「意味」を探ろうとする解釈を必要としないように感じられるのは、読者が「第一夜」を、既に「物語として」読んでいるからだ。
「物語として」読む?
我々は「第一夜」を「物語として」読んでいる。まるでとりとめもないイメージが散乱するばかりの、それこそ「夢」のようでしかない体験として読み終えるわけではない。
読者は『夢十夜』の「第一夜」を、夢の感触を鮮やかに再現しつつ、だが創作物としての小説として完成されたもの、いわば「物語として」読んでもいる。
「物語」とは何か?
誰でも「物語」という言葉を知っている。使っている。
だが「知っている」ことがどのようなものかを明示的に表現することは必ずしも容易ではない。「使う」という行為には無自覚・無意識な部分も大きい。
小説を「物語として」読むという言い方は、「小説」と「物語」とは位相の違った概念だということを示している。
例えば「物語」を評論と対比することはできない。
「物語文」と評論を対比することはできる。
「物語文」・小説・詩・評論などは「文章のジャンル」だが、「物語」はそれとは位相の違う概念だ。
もちろん評論よりも詩よりも小説の方が「物語」と近親性が高いが、映画・マンガ・ゲームにも「物語」がある。つまり「物語」という概念は文章のジャンルともメディアの種類とも違った位相にある。
とはいえ小説を「物語として読む」というのがどのような事態なのかを明らかにするためには、小説以外のジャンルの文章が「物語として」読まれない例を考え、それとの対比で「物語」という概念を明らかにするのがわかりやすい。
文章というメディアにおける「物語」的な文章の代表はやはり小説だ。これを新聞記事と対比させたときに我々が「物語」という概念に見出す要素はひとまず「虚構性」だろう。
また「一人称の語り手」「登場人物の心情」などの要素も挙がった。確かにそれらは新聞記事にはそぐわない要素だ。
では随筆・日記はどうか。日記は一人称で「私」の「心情」を語る。友人や家族などの「登場人物」がいる。
確かにある種の日記は「私小説」に近い。だがそもそも「私小説」は言わば「反物語」たらんとする小説の企てだとも言える。日記と「物語」はそれほど相性が良くはない。
ノンフィクション、ルポルタージュなどの現実に基づく作品に「物語」を見出すこともある。
「虚構性」「一人称の語り手」「登場人物の心情」などの要素は「物語」という概念になじみが良いが、それだけで輪郭は確定されない。「物語」がそれを許容するということと必須であるということは別だ。
少なくとも単にニュースを伝える新聞記事や日記を「物語」と呼ぶことはない。そこには何が欠けているのか。
さらに(それこそ夢のような)とりとめもないイメージを羅列した文章を「物語」の対比として考える。ここでは虚構性が「物語」を区別する条件とはならない。どうみてもそれが「現実」とは思えない記述が羅列されていて、だがそれを「物語」とは呼ばない、と感ずるとしたら、我々は何をもって「物語」を認識するのか?
授業では「流れ」という言葉が提起された。確かに日記やとりとめもないイメージの羅列には「流れ」が感じられない。では「流れ」とは何か。
「流れ」とは、時間軸に沿って提示される情報の間に、何らかの因果関係があるということだ。複数の出来事を時間軸に沿って並列的に述べていっても、我々はそれを「物語」とは感じない。それが「羅列」だ。それらのエピソードをつなげて、それらの出来事間に何らかの「因果関係」を見出す時に、我々はそこに「物語」の気配を感じる。
だがまだそれだけでは「物語」といえる感触を捉えるには充分ではない。
「起承転結」という言葉も挙がる。各要素は「因果関係」をもち、そこに「起承転結」といえるようなまとまり・完結性が備わったときに、それを「物語」と感じるのだ。一般的な新聞記事、歴史の教科書の記述にはまとまりがない。
「起承転結=まとまり」とは何か?
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