次は一段落まるごとを考察の対象にする。
差異を強調する「対話」以外にも、自他の境界を融かす「共話」を使うことによって、関係性の結び方を選ぶことができる。近代社会では、長らく対話こそが民主主義的で合理的な議論を牽引すると考えられてきたが、今日の社会はそのための合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている。この状況に対して、人の合理的な認知能力を引き上げようという努力も必要かもしれない。だが、それよりもまずは異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築くことこそが重要だと思う。
この部分の「わからなさ」は何だろう?
「『わからない』ところがわからない」と言いたくなる気持ちはわかるが、それを粘り強く考えて、どこに引っかかっているんだろうと、問題点を明らかにしたり、それを班のメンバーに投げかけることこそ思考の入り口だ(と蓮實は言っているのだ)。
評論が「わからない」感じられる多くのケースは、具体例が想起できないことから生じている。なんだかよくわからない、ピンとこない、というのは抽象的な表現と、それに対応する具体的なイメージが結びついていない状態だ。
特にこの段落では「合理性」が「十分に発揮できないことを露呈してしまっている」の部分だろう。「露呈してるよねえ」と言われて、うんそうだよね、と返せる?
もう一つは「人の合理的な認知能力を引き上げようという努力」も、やはり例が思い浮かばないとピンとこないはず。
この二つの具体的なイメージを描写してみよう。
さらに三度登場する「合理性・合理的」がひっかかってもいるらしい。
ひとまず「今日の社会はそのための合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている。」にしぼって考えてみる。
まず、何の「合理性」?
「そのための」が指しているのが何なのかがわかりにくい。前の部分を言い直すと「対話は合理的な議論を牽引する」の「合理的」を受けているから、議論が合理的であることを指しているのだと考えられる。
議論が「合理的」とはどのような状態かがイメージできれば良い。
例えば参加者の意図が充分に表明され、それらが理性的に応答され、必要なアイデアが提起され、合意に向けて心理的に調整されていく…。
そのような議論はまた「民主的」でもあるだろう。
結局、何にとって理に適っていると言っているのか?
議論が、社会の課題に対する解決に向かって有効に働いている状態を「合理的」と考えるとちょうど文脈にはまる。
このように説明するためには「社会の課題に対する解決」という表現を思いつく必要がある。文中に無い語を。こういうところに国語力が表れる。
さらに、例を挙げる前に対比を確認しておく。思考の解像度を上げるにはいつも有効な手だ。
言うまでもなく「対話/共話」という対比がある。これは単純な「否定/肯定」の対比ではない。「対話」がまるきり否定されているわけではない。言ってみれば「不十分/補足」くらいの対比だ。
さてこの対比に対して以下のフレーズが対応している。
人の合理的な認知能力を引き上げる/異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築く
「合理的/心理的」という対比が「引き上げる/築く」という対比によって確認できる。
さらにもう一組。
「近代/今日」が指摘できれば対比が見えてくる。
さてこの対比から「合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている」ことの理由を説明してみよう。
なぜ「対話」では不十分なのか?
「近代」と言えばさらに「前近代/近代」という対比が前提されていることも想定する。
「近代」と言えば条件反射のようにまず「個人の誕生」と言えなければならない。
だがそれでは「近代」のことが言えるところまでで、そこから「今日」との対比を語る上ではもう一つ思い浮かべるべき概念がある。それは去年から何度か出てきている。あの表現。
「大きな物語」だ。
「大きな物語」とは何か?
ひとまずは「多くの人に共有されている認識・観念・価値観」と言えること。
例えば?
「宗教」が挙がりがちだが、それは悪くないものの、この文脈では活かしにくい。宗教は前近代からの「大きな物語」であり、ここでは近代の「大きな物語」が想起されている必要があるからだ。
前近代から近代への移行における「個人」の確立では、むしろ宗教の拘束からの離脱が必要だった。そして一人一人の「差異」が強調される必要があった。
その時に力を持っていた「大きな物語」とは例えば「個人」の称揚であり、「民主主義」の理念であり、「国民国家」に対するナショナリズムであり。それらさまざまなイデオロギーだ。
それらが共有されている時にはむしろ一人一人の「差異を強調する」=「対話」が近代理性では重視された。それが「個人」の称揚だ。
だが「今日」ではそうした「大きな物語」が解体してきたから、今度は「共話」も必要となる。
「共話」は「自他の境界を溶かす」というのだが、「対話」が「差異を強調する」なら「共話」はそれをひっくりかえして「共通点を確認する」とでも言った方がわかりやすい。
前近代/近代/現代 のこのような推移は昨年度の「『私』時代のデモクラシー」でも確認した。「『私』時代」にデモクラシーが難しくなっているから「共話」が必要なのだといえば、すんなりここにつながる。
「大きな物語」が出てきたのは「空虚な承認ゲーム」だ。
「近代社会では、長らく対話こそが民主主義的で合理的な議論を牽引すると考えられてきたが、今日の社会はそのための合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている。」などという一節は背景にこうした認識がないとすんなりとは読み下せない。
ま、逆に言えばみんなにはそれができる素地ができているはず、でもある。
では対話が「合理性を十分に発揮できない」具体的なイメージを描写しよう。
文中からでも「異なる価値観を持つ人間同士が分断される」「今日のSNS上では、互いに「わかりあえる」集団と「わかりあえない」集団の区分がますます明確に浮き上がってきている」といった一節が指摘できるし、「フィルターバブル」の話を受けていることを捉えれば、例は思い浮かぶ。
大小さまざまな話し合いの場を想定していい。国際紛争をめぐる停戦協議でも、国会の法案審議でも、自治体の住民投票でも、生徒総会でも、クラスの文化祭の発表を決める会議でも、話し合っても埒が開かない場面は想像できる。それらは対話が「合理性を十分に発揮できない」場面だ。
といって「合理的な認知能力」も否定されているわけではない。
だがそれって何?
ここは「非認知能力」との対比でイメージしておこう。
「認知能力」とはテストなどによって数値で表せるような「能力」のこと。「論理的思考力」やリテラシー、シンプルに「知識」など。
それに対して最近流行りの「非認知能力」といえば、「自己肯定感」「やり抜く力」「自己制御力(自制心)」「共感性」「協調性」「好奇心」…。
続く「まずは異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築くことこそが重要だ」に合う例を思い浮かべるならば、例えば人種差別、性差別などに対する教育や啓蒙・啓発などといった活動も必要だ。「~人は(女性は)人種として劣っている」などといった偏見は「合理的な認知能力」が欠けている状態だ。
そういう「努力」も必要だが、それと並行してまずは「心理的な土台を築くこと」が重要だ、というのだ。
さてこんなふうにして読解の解像度を上げて、イメージを共有したいくつかのケースの中では、あの生徒総会の例が妙に腑に落ちたのだった。
体育館を二分した議論の場の設定は、意見の対立を空間の対立として視覚化したものだ。そこでやりとりした、それぞれの主張のぶつかり合いは「対話」だ。
それによって、それぞれの主張の論理が明確化され、それぞれが何を重視しているかが明らかになった。
だが結論はどちらかにするしかない。だから時には対立したままで多数決による決定をするしかない。
あのとき印象的だったのは、決着の後、少数派の中にも、妙な満足感があったように見えたことだった。あれは自分たちの主張に対立する決定に、しかし納得もしたということなのではないか。
それはつまり、「対話」による論点の明確化すなわち「差異の強調」と同時に、それでも両者の共通性の確認、すなわち良い行事をつくりたいと思いは一緒だという「心理的な土台」が築かれていったことによる納得なのではないかと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿