「主題」を考えるために、より具体的な小説中の謎(①②)を考える。抽象度の高い問いをいきなり考えようとしても手がかりがないかもしれないからだ。
同様に、①②を考える上で、さらに問いを分解・変形して考える糸口をつかむ。
②「明治の木には到底仁王は埋まっていない」とはどういうことか?
「どういうことか」という問いは、包括的であることに意義がある一方で、目標が定まらないから思考や論議が散漫になるきらいがある。
②は、「仁王が彫れない」であるはずなのに、なぜ「仁王は埋まっていない」と表現されるのか? という疑問でもある。
そこでこれを次のように変形する。
②仁王が彫れないのは、「木のせい」か、「自分のせい」か?
本文は「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」といっているのだから、言葉通りには「木のせい」ということになるが、どうもすんなりと納得はしがたい。なんとなく無責任に過ぎるような気もして、ではどういう意味で「自分のせい」だと言えるかと考えると、ことはそれほど簡単ではない。
さしあたってこう考える。本当は「自分のせい」なのに、それを「木のせい」と勘違いの悟りを得たということなのか、本当にこの小説の中では「木のせい」だということを意味しているのか?
同様に①についても分解・変形を試みる。
①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か?
「生きている」のニュアンスを「生きているべき」と強調してみると、「べし」の意味「すいかとめてよ」のどのニュアンスが含意されているかを考えることができる。
「今日まで生きている理由」とは「生きていなければならない理由」なのか、「今日まで生きていられた理由」なのか?
複数の選択肢に分けて考えることは、思考を活性化させるために有効だ。人間の思考は、物事の対比において、差異線をなぞるようにしか成立しない。どちらが正解かを決定しようとしているわけではない。だがどちらが適切だろうか、と考えることで、文中から根拠となるべき情報を読み取ろうとすればいい。
また「運慶が今日まで生きている理由」とは、誰にとっての「理由」なのか?
運慶自身にとっての「理由」なのか、我々(語り手)にとっての「理由」なのか? つまり「運慶にとって自分が今日まで生きている理由」なのか、「我々にとって運慶が生きている理由」なのか?
「生きていられる」は「べし」を可能の意味で解釈している。「生きていなければ」のニュアンスの場合、運慶自身にとってならば「べし」は意志だろうし、我々にとってならば「べし」は当然か適当だ(「命令」)?。
これらは単に日本語の解釈の可能性を押し広げて創作した問いだ。二つの選択肢の組み合わせで4つの解釈ができる。
- 運慶が考える、自身が生きていられる理由
- 運慶が考える、自身が生きていなければならない理由
- 運慶が生きていられると『自分』が考える理由
- 運慶は生きていなければならない、と『自分』が考える理由
上記の二択すべて、とりあえず現状の考えを聞いてみると、皆の立場は分かれる。
自分は最初からあるニュアンスでその表現を受け取ってしまって、その上でその先を考えていたはずだ。違うニュアンスで読み取る可能性を検討した上で、それを否定したわけではない。公平にどちらか、と考えてみる。
といってこれらの選択肢は、どれかを排他的に正解とすることを目指すのではない。どちらであるかを考えることが、思考を推し進めていくことに資すれば良い。
このようにニュアンスを細分化することで、ここで明らかにしなければならない論理の筋道を互いに共有するのだ。
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