もうひとつ考えておきたいことがある。「運慶」とはそもそも何者か?
「運慶が生きている理由」とは「自分」が「わかった」という「理由」だ。我々がそれを「わかる」べきだというのではない。なぜ運慶が生きているのか、と問われたら、そんなの夢なんだから別に意味はない、と答えてもいい。
では「なぜ漱石は運慶を登場させたのか?」ではどうか?
これも、夢なんだからどんな突飛なことだって起こりうるよ、と答えて済ますこともできる。実際に漱石がそうした夢を見たのか、小説のアイデアとして着想したのかも不明だし、考えてどこかに辿り着くという確証はない。
だが少なくとも、実際に書かれた小説のテクストの中から、運慶がどのように書かれているかを読み取ることはできる。そこには何らかの作者の意図が読み取れる可能性がある。それを問いとして立てる。
③この小説における「運慶」とはどういう存在か?
もう一つ、こういう問題を問いとして立てるためにはお決まりの言い方がある。
③「運慶」は何を象徴するか?
「象徴」という言葉がただちに想起された人は考えるためのスキルが身についている。「どういう」という問いはどこをめざして考察すればいいのかがはっきりしない。それに対して「何の象徴」は、最終的に名詞か名詞句で表現するというゴールが明確だ。一方でそれは、飛躍を必要とする難しさもある。適切な名詞が想起されるかどうかはあらかじめ確約されているわけではない。
両方を適宜行き来して考えよう。
①②は素直に「わからない」と感じるはずの謎を問いとして立てた。一方③のような問いの立て方は、小説の読み方として自覚的でないと思い浮かばない。
運慶が何者であるかは、この小説に書かれていることから読み取らねばならない。
「運慶は見物人の評判には委細頓着なく」「眼中に我々なし」といった描写から、見物人は運慶を見ているが、逆に運慶からはこちらが見えていないのではないか、と言った生徒がかつていた。単に集中力が高いという以上の意味を読み取ろうとすれば、これは「明治時代に鎌倉時代の運慶が現れた」ということではなく、運慶のいる時空と見物人のいる時空とが、本質的には違った位相にあって、それが一時重なっているように見えるだけだということかもしれない。
面白い発想だが、これがどこに辿り着くのか、今のところわからない。それよりも注目したいのは次のような点だ。
運慶が仁王の鼻のあたりを鮮やかに彫り出す動きを描写した後、その手際について見物の若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と語る。この表現が、先の、仁王が出てこないのは「木のせい」か「自分のせい」かという問いを生んでいる。
このように表現される行為は何を意味するか。
考えるために、これもまた選択肢のある問いにしてみよう。
③ここに登場する「運慶」は、「芸術家」か「職人」か?
この問いはいささか突飛なものと感じられるかもしれない。問①②を変形して選択肢を作るには、単に日本語としての多義性を利用して、その意味合いを明確にしようとしたのだった。だが問③の選択肢はそのように、言葉に元々含まれる可能性から発想されたのではない。
迷いなく仁王を彫れるのは運慶が芸術家だからなのか、職人だからなのか?
仁王が彫れないのは、「自分」が芸術家ではないということなのか、職人ではないということなのか?
むろん「自分」はどちらでもない。だがここでは、どちらでないことが重要なのか?
こういう時はやはり、語るにふさわしい言葉を思い浮かべることができると語り易い。
「芸術家」「職人」それぞれが備えていて「自分」に備わっていないものは何か?
これを対比的な言葉で捉えると論じやすくなる。
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