2026年6月29日月曜日

夢十夜 第六夜6 運慶が意味するもの

 「第六夜」が何を言っている小説なのかという「答え」はわかった。ここからは、言わば答え合わせのできている状態で、験算のために途中式を確認する。

 ②は前項の通りだから、問題は①と③の論理的整合だ。

 具体的には問③で運慶が表す概念語を③「今日まで生きている理由」に代入して、それを説明するために有用かを検討する。

 そのために、「運慶は芸術家か職人か」という選択肢に変形したことを糸口にする。まず芸術家と職人が意味するものを対比的な言葉に置き換えよう。

 どのクラスでも10組以上の対比表現が挙がった。

 多くのクラスで挙がったのは「芸術家=才能/職人=技術」だ。

 ミケランジェロもレオナルドも運慶も、間違いなく天才なのだろう。

 だが運慶が迷いなく仁王を掘り出せるのは、何万回と重ねてきた技術の研鑽の結果ではないか? それが見る者に神秘的な技と見えるほどに高められた熟練の技術の賜物なのではないか?

 だがむろん「自分」は芸術家でも職人でもない。天才を有しているわけでもないし、熟練の技術を持っているわけもない。

 「自分」個人についてもそれは明らかであるというだけでなく、そもそも「自分」は一個人ではなく「明治人」として物語に登場している。そして「明治人」が特定の「才能」や「技術」を有しているべき必然性はない。

 したがって「芸術家」とは才能を持った者、「職人」は技術を身につけた者と捉えることには、それほど発展的な考察は期待できない。「自分」にそれらが欠けているのは自明なことである上に、「明治の木には」という限定が意味をなさないからだ。


 では「芸術家=独創」はどうか? 芸術家にはオリジナリティが必要だ。

 「独創」の対義語は「模倣」だ。

 結論としての主題の在処が見えているから、それに合わせて筋道をつけることはできる。明治の文化は外国の文化を「模倣」することに汲々として、独自性を失っている。そういう時代にこそ運慶のように「独創」的な芸術を生み出すことのできる存在が生きていてほしいというような言い方は可能だ。

 自分は若い男の言葉を「模倣」する。その若い男の言葉は後述のとおりミケランジェロの「模倣」だ。そこへ仁王を掘り出せないという結末を用意することで、運慶のような「内発的」に生まれた「独創」的な芸術は明治にはもう生まれないのだ、と言っていることになる。

 これは世に流布している大方の「第六夜」の説明に沿っている。

 だが明治に失われた文化を「芸術」の語で代表させることも、それを運慶によって象徴させていると考えることも、授業者にとって納得感が薄い。そもそも授業者がこの問いを思いついたのは、世の「第六夜」論に「芸術」の語が頻出することに常々違和感を抱いていることによる。なぜ「第六夜」の解釈を語る上で「芸術」という語が必要なのか。

 そもそも「芸術」という言葉が「第六夜」を語る上で使われるのはなぜか?


 運慶の迷いのない彫刻作業を、若い男が「あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまで」と表現する。

 こういった表現は、ある種の「芸術」創造についての語り口として見覚えがある。

 実はこの表現はミケランジェロの以下のような言葉から発想されていると考えられる。

  • まだ彫られていない大理石は、偉大な芸術家が考えうるすべての形状を持っている。
  • どんな石の塊も内部に彫像を秘めている。それを発見するのが彫刻家の仕事だ。
  • 余分の大理石がそぎ落とされるにつれて、彫像は成長する。

 おそらく「若い男」の言っているのはこれらの受け売りだ。

 このように表現される創作活動とは「天啓」として降りてくるインスピレーションを形にする行為であり、その時、芸術家は神の声を聴く預言者だ。作品は彼自身が作ったものではなく彼の手を通じて神が地上にもたらしたのだ。

 あるいは「個人」の確立とともに芸術家と職人が区別されるようになった近代では、芸術とは芸術家個人の内面の発露であるとみなされるようになった。石や木の中から姿を現す彫像は、芸術家の精神そのものだ。

 では運慶が「生きている理由」とは、そのような芸術家的何か=神の代弁者か近代的個人が生きている(べき)理由ということなのか。


 だがこうした言い方は、授業者には芸術創造についての神話、神秘思想とでもいったもののように思える。芸術家を、凡人とは違った特別な存在として神秘化しているのだ。

 そもそも上記のようなことを言ったミケランジェロは芸術家か職人か?


 答えは「どちらでもある」だ。

 もちろんミケランジェロの作品を芸術であると言うことを否定する人はいまい。

 だが彼は明らかに職人である。工房に入って親方の元で修行して技術を身につけ、独立してからも自らの工房を開いて弟子をもった。教会や貴族の依頼によって作品を制作した。そのような在り方を普通「職人」と呼ぶ。

 これは例えばレオナルド・ダ・ヴィンチも同じだ。「モナリザ」や「最後の晩餐」は偉大な芸術作品だと見なされているが、それらは注文に応じて制作されたものだ。彼自身、工房で親方について修行し、後に自らの工房をもって弟子とともに作品を制作した。

 運慶もそうだ。仏師とは寺社や貴族の注文に応じて仏像を彫るのが仕事だ。運慶は親方について修行し、後に多くの弟子を率いる棟梁となった。これは我々がイメージする「職人」そのものだ。

 これは何を意味するか?


 芸術家と職人を区別するのは近代以降の発想なのだ。近代以前には芸術作品と工芸品に区別はなかったのだ。職人を意味するフランス語の「アルチザン」は「アーティスト」と語源が同じだ。

 近代以降「個人」の成立とともに、作品は「個人」の内面を表現するものと見なされるようになる。

 一方でそうした作品を、産業革命によって誕生した経済市場に乗せられる「商品」と区別する意識が生まれる。芸術作品は、本来売り買いされることを目的とした商品ではなく、芸術家個人の創作意欲の発露だというのである。一方で職人が作るものは「商品」だ。そうして「アーティスト」と「アルチザン」も対立的な概念として分岐していく。

 そうした前提によって運慶が芸術家か職人かを考えることには意味がない。

 では芸術家と職人をどのような違いとして捉えることが有効か?


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