2025年10月24日金曜日

共に生きる 23 小論文

 小論文のお題は次の通り。

福岡伸一「生物の多様性とは何か」、若林幹夫「多層性と多様性」、宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」を結びつけ、「近代」と「多様性」と「民主主義」の関係と、そこに生じる問題点を述べ、その解決・改善策に対して「動的平衡」という考え方のもつ可能性について600字程度で述べよ。

 こんなふうに考えよう。

 まず、「近代」と「多様性」はどのような関係になっているか?

 「多様性」の対比は「均質性」(=単一性・均一性)。

 近代において多様性は増大しているか? 減少しているか?

 近代において世界は多様化しているか? 均質化しているか?


 前回詳述したことを結論するなら、つまりどちらの面もある、ということになる。一方で多様化し、同時に均質化しつつある。

 ではそうした多様性の増大/減少は「民主主義」にどう影響するか?


 「影響」と言っても「問題点」を問われているので、つまりマイナスの影響を述べることになる。

 多様化は「みんなそれぞればらばら」化のことだから、当然「民主主義」的合意形成を阻害する。意見がまとまりにくい。若林の文章からも宇野の文章からも、そのことは指摘できる。

 一方、均質化は民主主義の健全さを損なう。それぞれの信念や理想や利害があるはずなのに、みんな同じ意見なのは、何か不健全だ。もっといえば、社会が一方向に突き進む危険は、例えば民衆に支持される戦争などを見れば明らかだ。


 均質化の否定的側面は、福岡の「動的平衡」概念からも裏付けられる。多様性が「動的平衡」を可能にし、生態系の安定をもたらす。

 この「動的平衡」の考え方を、「生態系」を「社会」に置き換えて、「民主主義」の問題解決に応用しよう。


 ということでこれをまとめる。

例1

 「近代」は、伝統の束縛から個人を解放し、普遍的な人間性を基盤とする社会を築こうとした。しかしその結果、特定の価値観が「普遍」として実体化され、本来豊かであるべき人間社会の「多様性」は失われつつある。現代社会では、誰もが「私らしさ」を追求する一方で、その個性は均質化されるという矛盾が生じている。

 この状況は、生物の多様性が生態系を維持する原理から学ぶべき点を示唆している。生物界では、種がそれぞれ固有の役割を果たし、互いに補完し合うことで、システム全体が絶えず変化しながらも安定を保つ「動的平衡」が成立している。多様性が失われた生態系は、環境の変化に対応できず脆くなるのと同様に、人間社会の多様性が失われれば、社会は新しい課題に適応する力を失う。

 このような社会で、「民主主義」は機能不全に陥る。「私」が唯一の価値基準となり、他者との関係を希薄化させる中で、共通の課題を解決するための「私たち」を形成することが困難になっているのだ。民主主義は本来、多様な意見を持つ人々が対話し、協働することで成り立つが、画一的な「私」の集合体では、健全な議論は生まれにくい。

 この問題に対し、「動的平衡」の考え方は肯定的な可能性をもたらす。民主主義を単一の理想を目指す静的なシステムではなく、多様な個人がそれぞれの役割を尊重し、相互に作用することで、常に揺らぎながらも安定を保つ動的なプロセスとして捉えることだ。一人ひとりの「私」が固有の価値観を持ちつつも、他者との協働を通じて「私たち」という関係性を絶えず再構築すること。この営みこそが、均質化された近代社会が失った多様性を回復し、変化に強く、しなやかな民主主義を築く道となるだろう。

例2

 近代は普遍的な「個人」を生み出した。それは、人間はみんな人間として「同じ」であるという理念を前提としている。一方で、そうした「個人」は、それぞれ自分の「固有性」を主張し合う。社会が全成員を人権を持った個人として「同じ」ように扱うということは、一人一人が「違う」ことを認めるということでもある。

 同時に近代社会は、欧米型の資本制とそれに基づく産業社会を地球的な規模で押し広げ、世界中どこでも大量生産の工業製品が生活の中に溢れる、「同じような社会」と、そんな社会の目指す「同じような発展」を世界化していった。一方でその反動として文化の多様性の保護も叫ばれる。つまり近代は多様性を一方で減少させつつ、一方で増大させていったのである。こうした認識は若林と宇野に共通している。

 二人はともに、社会における多様性が分断をもたらす危険、すなわちデモクラシーの困難をもたらすことを指摘する。だが福岡は多様性を、生態系の安定と持続を支える要件だと述べる。「生態系」を「社会」に置き換えれば、民主主義についても同様に、多様性がもたらす肯定的な面を評価できる。生物種の均一化の危険は、社会の言説にとっても同様に危険である。民衆の意見が画一化すると、社会は柔軟性を失う。例えばポピュリズム(大衆迎合主義)やSNSによる「エコーチェンバー現象」は世論の均質化を加速し、社会の分断を生み出しつつ、極端な保守主義や反動主義につながる危険がある。それが「独裁」をもたらす可能性は、最近の世界で起こっている現実の問題として、杞憂とは言い切れない。

 多様性に支えられる「動的平衡」の考え方を、健全な社会の安定性を確保するために応用するなら、例えば組織における任期制や、民主的な選挙によるリーダーの交代などを制度として担保するなどのアイデアも考えられる。均質化し固定化することなく社会構造を維持する仕組みが必要である。

例3

 近代社会は、普遍的人間の理念を掲げつつも、実際には均質化を進めてきた。市場経済や資本主義は世界を同じ形に塗り替え、多様性を豊かさではなく障害として扱う傾向を強めたのである。その結果、若林が指摘するように、人間社会は本来「一つであり、かつ多様」であるにもかかわらず、その多様性が抑圧され、特定の文化や価値観が普遍性の名の下に世界化されていった。宇野が述べる現代の「〈私〉らしさ」の強迫も、この近代的均質化の延長にある。個人は「自分らしさ」を求められるが、それは市場によって型にはめられた類型化された「個性」にすぎない。自由や多様性を謳いながら、その実態は制約と画一化であるという逆説がここにある。

 このような状況において福岡の「動的平衡」の考え方は示唆的である。生態系において多様性が秩序を支えるのは、絶えざる消長と変化を受け入れる柔らかい仕組みを持つからである。恒常性は静的な固定によってではなく、流動的な変化の受容によって維持される。社会や民主主義も同様に、固定的な同一性や均質性を強いるのではなく、差異と揺らぎを前提とした関係性の網の目によって支えられるべきだろう。多様性は対立や断絶の源ではなく、むしろ動的な平衡を実現する条件である。

 したがって、近代が普遍性を名目に均質化を進め、現代が〈私〉らしさを商品化する中で失われかけているのは、多様性を内包する動的な均衡の視点である。民主主義が真に機能するためには、普遍的人間の理念を固定的な形で押しつけるのではなく、異なる存在が相互に依存し補完しあう関係性の中で自己を更新し続ける営みとして再構想する必要がある。動的平衡の思想は、このような柔軟で強靱な民主主義の可能性を開くものであり、多様性の否定や形骸化を超えて、新たな共生の地平を提示するのである。

 一つは授業者、あとの二つはAIの書いたものだが、AIたち、実にそつなくバランス良く、もっともらしい言い回しで論じてみせる。しかもこれをあっという間に仕上げてくる。なんか悔しい。

 慶應のSFC(総合政策学部・環境情報学部)の入試問題は、国語の問題については、日本の大学の入試問題で最も難しいと思われるが(合格が難しいというなら東大だろうが、問題が難しいのはSFC)、この課題はそのくらいの難度がある。高校1年生にはキツいとは思う。みんなよく頑張った。

 

 ここまで「共に生きる」で読んできた文章の筆者、鷲田は哲学者、松井は経済学者、伊藤は美学者、宇野は政治学者、福岡伸一は分子生物学者、若林幹夫は社会学者だ。それぞれまったく異なった分野の専門家が、それぞれに違った主題について論ずる文章を、「共に生きる」をキーフレーズに読み比べてみた。そこに「自立」「近代的個人」「民主主義」「多様性」「生態系」といった諸問題が横断的に接続していく。

 格差やイデオロギー対立によって分断が拡がりつつある現代において、共生は大きなテーマである。さまざまな文章の読み比べから、こうした問題について多角的に考えることができる。


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