2025年10月20日月曜日

共に生きる19 問いを立てる

 福岡伸一「生物の多様性とは何か」を読む。

 読んだら「何が書いてある文章なのかな?」と自分で考える癖をつける。手っ取り早くいえばそれは1文要約をするということだ。それをしようとする姿勢自体が読解を促すのであって、要約されたものを後から見て理解することは、それだけ学習の機会を失っている。

 といってなんとなくそれができるようになるのを期待するばかりでなく、一種のメソッドとして意識的に行う方法としてここまで繰り返し行っていたのが、例えば「対比をとる」ことだ。テーゼはアンチテーゼと対置されることで輪郭がくっきりする。「~である。」と言うために、前半に「~ではなく、~」と言っておくと、何を言っているかが明確になる。

 さらにもう一つのメソッドを紹介する。「問いを立てる」だ。


 問いを立てることの重要性はいくら強調してもしたりない。しばしば、答えを得るよりも問いを立てることこそ重要だと言われたりもする。

 それは多くの場合「解決すべき問題を明確にする」というような意味においてだが、ここでは文章の読解のメソッドとしての「問いを立てる」を経験してみる。

 「何が書いてあるか」はつまり「要約」のことだと上で言ったが、機械的な抜粋とつなぎ合わせて要約らしきものはできるとしても、それが「腑に落ちる」かどうかは保障の限りではない。キーセンテンスそのものを提示して、要約だと言ってしまうこともできる。

 ともあれ、しばしばやっている「15字くらいで要約」と同時に、それはどのような問いの答えになっているかと考える。つまり、この文章はどういう問題について考えよう(伝えよう)としているかを、問いの形で表現するということだ。

 この問いは、筆者自身が文中で明示している場合もある。評論で「~だろうか?」「~のはなぜか?」などと言い回しは頻出する。だがそれらは、当面の論理を展開するための措辞に過ぎない場合もあるので、文中から探すことも試みていいが、それよりむしろ「答え」であるところの要旨から遡って、それに対応した「問いを立てる」。つまり文章全体の主旨を、筆者の問題意識と対応させて捉えるのだ。

 その際注意すべきことは、答えが二択になるような問いは有効ではないということだ。「~は良いのだろうか?」という問いは、ほとんど「良くない」という結論ありきの言わば反語なのであって、結論が「良くない」としたら、その文章の論旨として捉えるべきは「なぜ良くないか?」だろう。

 この「問いを立てる」は、読解のためのメソッドでもあるが、広く思考のためのメソッドだと言っていい。


 さて「生物の多様性とは何か」ではどうか?

 いやこれは、探す、どころか題名が問いの形になっているではないか。

 ではこれが主旨に対応した問いなのだろうか?


 そうではない。この問いの答えが、この文章の主旨であるとみなせそうな感触がない。

 「生物の多様性」は文字どおり、いろんな生物がいる、ということなのだろう。それについての予断に反した説明はあらためてあるわけではない。

 「生物の多様性」はいわばテーマで、それをめぐって何事かを議論しているわけだが、「生物の多様性」という概念自体の説明をしているわけではないのだ(実はこの題名は教科書の編集部がつけたもので、言わばミスリードだ。原書で筆者の福岡伸一自身がつけている見出しは、後述する適切な「問い」の形になっている)。


 さてではどのような問いを立てるのが適切か?

 みんな同じ問いを思い浮かべるに違いないと想定していたら豈図らんや、聞いてみるとけっこうトッチラカったのだった。

 例えば「~とは何か?」という形で問いを立てるなら、それが一般には知られていない概念であるか、一般的な定義ではない、別な側面をとりあげようとするのがその文章の目的であると見なされる場合には有効だ。「生物多様性」についてはそんなことはまるでない。では「ニッチとは何か」? 確かにこの文章では「生物多様性」と比べれば「ニッチ」についての説明は、ある。しかも「ニッチ」についての一般的な理解とは違った意味合いを読者に伝えてもいる。だがそれが中心的な話題かといえば、イマイチだ。部分に過ぎる。

 では「動的平衡とは何か?」は?

 確かにこれは社会一般への浸透度合いからしても、「多様性」「ニッチ」に比べて、ここで説くべきと筆者が考える必然性は高いし、この文章の主旨にとっても重要な概念だ。

 とはいえ「~とは何か?」型の問いは、結局のところある概念の説明がその文章の主旨なのだと見なしているということだ。それではどうしても文章の一部分になってしまう。この文章では「動的平衡」の概念を読み手に理解させることが主旨なのだとは言えない。

 ではどのような問いの型が適切か?


 「環境保護のために人間には何ができる・すべきか?」といった問いも多く挙がった。

 答えをどう想定しているのかと聞いてみると「人間の分際をわきまえる」というような答えが挙がったが、これはこの文章の把握として適切か?

 評論文には、筆者の認識や主張が書かれている。主張が強くはなく認識が中心であるような文章は「説明文」と呼ばれ、主張が明確だと「論説文」などと呼ばれる。多くの評論には両方の要素がある。

 上の問いと答えによって把握される文章の主旨は「主張」に引っ張られすぎているともいえる。確かに文章の最後の方はそういう方向で書かれている。ではそこまでは?

 例えば「環境を守らなければならない」といった主張は当然すぎて、わざわざ書かれる必然性に乏しいから、あらためてそうした主張をこの文章から読み取ることにそれほど意味はない。「人間は自らの分際をわきまえなければならない」も、その延長としてそれほど中身のあることを言っているわけではないので、こうした把握が十分とは言えない。

 あるいは収録部分の末尾「パラダイム・シフトを考えねばならない」を主張だと見なすことはできるが、これは「動的平衡」のことだ。つまり「何をすべきか?→動的平衡の考え方を理解すべき」ということになるのだが、まだ全体の主旨を捉えているというにはイマイチ。

 では「どうしたら生態系を保持できるか?」は?

 これは上の問いに比べて、環境保護の仕組みに踏み込んでいるといえる。上の問いはそれよりも人間の役割に重点を置いている。

 さてどうしたら保持できるか。短く言えば「動的平衡を維持する」だが、これがこの文章の核心となる問題提起と結論だとすると、教科書の題名「生物の多様性とは何か」はどこから出てきたのだろう。

 元々は題名の「生物の多様性とは何か」がイマイチ、と思って考え始めたのだが、まずは素直にこの題名を使うのが発想しやすいはずだ。

 ということで次の問いがバランス良く全体の主旨を引き受けている。

なぜ生物の多様性が必要・大事か?

 これは、生物の多様性は大事だという一般常識に対して、ホントにその意味がわかってる? という問いを読者に投げかけているということだ。

 さてこの答えは?


 短い答えは本文中にある。

地球環境という動的平衡を保持するため

 これを長くしようとすれば、「動的平衡」という概念について説明し、それを保持することと「生物多様性」の関係を説明し…、ということになる。そうなればもうこの文章の主旨は充分に捉えられていると言っていい。

 この文章は、生物学者による科学読み物として、まずは説明文的に読もう。読者としては「動的平衡」という考え方を理解し、「生物の多様性の重要性」について認識をあらため、確かにすることが求められている。

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