「共に生きる」シリーズとしてここまで読んだ7本の文章に続いて、近内悠太「交換と贈与」を読む。
事前課題の要約とともに、ここまでの7本で、最も論旨の共通点があるのは? と聞いてみると、最も多く上がったのは松井彰彦「自立と市場」だった。みんな勘が良い。ねらい通りだ。
さあ読み比べよう。
連想が働くのは「交換と贈与」の文中に何度も「市場」という言葉が登場するので自然なことだ。それは、論じている領域というかテーマに共通性があるからだ。何か?
二つの文章はともに、ある社会システムにおける人間のありようについて論じている。それを表わす言葉は共通してはいないが、対応している。
それを表す言葉を文中からそれぞれ4字で拾うと?
「交換と贈与」では「資本主義」。
「自立と市場」では「市場経済」。
この対応=共通性によって、みんなは二つの文章が関連した話題を扱っていると感じているはずだ。
この共通性によって二つの文章を比較したときに、まずはある違和感を感じ取ってほしい。何だかその主張に逆のベクトルがあるなあ、と。
それはどのようなものか?
二つの文章の関係、などという抽象的な問題がどのようなものかを明晰に語ることは容易ではない。
ともかく、比較するためには共通する土俵を用意しなくてはならない。
「共通する」というのは、一つには上に見たとおり「資本主義」と「市場経済」を重ねてみるということだが、まだその先の展開は容易には読めない。
もう一つは、文章の構造を明らかにして、その構造を対応させるというやり方もある。
構造?
論理構造を把握し、明示する一つの方法は、対比をとることだ。
両者の主な対比を挙げる。
「交換と贈与」は言うまでもなく「交換/贈与」。
一方「自立と市場」では「自立」と「市場」は対比されているわけではない。では? と問うとすぐに「自立/依存」の声が挙がる。もちろんそれは対比だが、それはこの文章の主旨を示す、重要な対比ではなく、語る上で使う対義語、というほどの位置づけだ。
「自立と市場」の主要な対比は確認済み。「市場/個人的関係」だ。
「主要な対比」というのは、その文章の中心的要素と、それを主張するために、それと対義的な項目を否定的に対置したセットのことだ。「交換と贈与」ではそれが題名に示されているが、「自立と市場」では「市場」の対比項目が文中では明示されていない。だが「自立を支えるために市場が有効だ」という主旨を明確にするため、有効でない具体例が対比的にとりあげられている。それを「個人的関係」と表現しておいたのだった。
二つの対比を並べてみよう。まず「交換/贈与」をこの向きに並べておいて、そこに「市場/個人的関係」を比較するには、どちらをどちら向きに並べるべきか?
交換/贈与
市場/個人的関係
この並べ方は適切か?
まずこの向きでいいとして、これで先の違和感が明確になっただろうか。
二つの対比は、「肯定/否定」が、左右逆になっているのだ。
交換(否定)/贈与(肯定)
市場(肯定)/個人的関係(否定)
この「肯定/否定」の、二つの文章での捻れをどう考えたらいいのだろうか?
何気なく並べた左右が不適切なのでは?
いや、そうではない。「交換」と「市場」が同じ側に置かれることには十分な必然性がある。
どんな?
「市場」とは市場経済システムにおける関係が構築される場だ。そこでは「交換」の論理で人々は結びついている。
「交換の論理」とは何か?
「交換と贈与」の文中に次の一節がある。
「割に合うかどうか」という観点のみに基づいて物事の正否を判断する思考法を、「交換の論理」と呼びたいと思います。
「割に合うかどうか」というのは、経済合理性があるかどうかということだ。それはすなわち「市場」の論理だ。需要と供給のバランスで適正な価格が決まり、代金を払えば品物やサービスが受けられる(払わなければ受けられない)。誰かが一方的に損をするような不合理なことは起こらない。起こさないために例えば独占禁止法などの措置がとられる。
一方「市場経済=資本主義」システムとは、サービスを含む全てが商品として、貨幣を媒介にした「交換」によって取引される社会だ。この場合「市場」は「交換」の場だと言えるが、それは商品と貨幣が「交換」されるというだけではない。
さらに重要な「交換」とは何か?
「交換と贈与」では、商品と貨幣が交換されるから「交換の論理」が良くないと言っているわけではない。次の一節に表れているのは何の交換か?
交換の論理を生きる人間は、他人を「手段」として扱ってしまいます。そして、彼らの言動や行為には「お前の代わりは他にいくらでもいる。」というメッセージが透けて見えます。
この「交換」を「市場」経済の場に適用すると、何が「交換」可能になるということになるか?
「自立と市場」に次の一節がある。
特定の誰かと強い依存関係に陥ることはない。A店でものが買えなくてもB店に移れる。Cという客に嫌われてもDという客がものを買ってくれれば店は商売になる。
これはつまり、売り手と買い手双方にとって、それぞれが「交換」可能になるということだ。
市場では、正当な対価さえ払えば、誰から買ってもいいし、誰に売ってもいい。売り手から見て、買い手はそれぞれ交換可能な存在でしかないし、買い手から見ると売り手は交換可能なのだ。
こうしてみると、対比の左辺「交換」と「市場」が対応していることには納得できる根拠がある(ように見える)。
なのに「交換と贈与」では右辺「贈与」が肯定的に、「自立と市場」では左辺「市場」が肯定的に主張されている。
このことをどう考えたらいいか?
ひとまず「贈与」と「市場」が肯定される論理を確認しておこう。
資本主義のシステムの中で、我々は「交換」の論理で生きる。しかしそこには人間同士の信頼が成立しない。みんな孤独だ。そうした「交換」の論理と対比され、肯定されるのが「贈与」だ。
一方、自立を支えるために「個人的関係」に頼るのは危うい。それに比べて「市場」は自立にとって有益だ。
やはり二つの文章の肯定/否定は捻れている。
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