「交換と贈与」「自立と市場」の論旨は、対比構造を揃えて並べた時に、肯定/否定の主張が逆の方向性を持っているように見える。
その感触は間違っていないが、逆ベクトルを強調するのはいささかミスリードだ。構造を対応させるのに利用した対比が、実は正確に対応しているわけではない。
どういうことか?
交換/贈与
市場/個人的関係
これらの対比は、実は同一の軸で並んではいない。左辺が対応していることを確認して、これらの対比が対応しているように説明した。では右辺はどうか?
松井論で「個人的関係」としてまとめた二つの例は熊谷さん親子と、「なめとこ山の熊」の小十郎と商人の関係だ。
このうち、熊谷さん親子は確かに「贈与」の関係かもしれない。
だがもう一つの小十郎と商人の間には「贈与」の関係などなく、むしろ「交換」の関係だと言っていい。しかも力関係が不均衡であるにもかかわらず、他の選択肢はない(選択肢がないから不均衡のまま固定されている。もはや対等な「交換」ですらなく、言わば「搾取」だ)。
つまり「個人的関係」と「贈与」は対比の右辺として対応しないのだ。
そもそも、「市場/個人的関係」の対比の要素は、関係における拘束力の「弱い/強い」と、選択肢の「多い/少ない」だ。
「交換/贈与」はそうした要素の対立では全くない。つまり軸が違うのだ。
したがって、二つの対比を並べるところに錯覚がある。
では「自由」と「自立」の関係は?
松井彰彦は市場を全面的に肯定しているわけではない。確かに市場が自立を助けると言うが、次のようにも言う。
市場は多くの場合、さまざまな選択肢を私たちに与えてくれるが、それとても絶対視すべき存在ではない。(略)市場に依存しきってしまうこともまた、脆弱な基盤の上に立った自立と言わざるをえない
一方「自由」の危険を近内は皮肉交じりに述べる。
ただし、その自由には条件があります。―交換し続けることができるのであれば、という条件が。
交換し続けることができるのであれば、というのはお金があれば、という意味だから、お金がなくなったときには交換できなくなってすぐ困窮する。これは松井が言っている「脆弱な基盤の上に立った自立」だ。
つまりこれらが好ましくないことにおいて、二人の認識は一致しているのだ。
また、松井の述べる大震災の際のボランティアの例はまさしく「贈与」だ。
通常の「市場」による自立が困難になった時、「贈与」がそれを救う。
ここでもまた、二人の認識は一致している。
そもそも「自由」が「依存しない」だとして、「自立」は「(特定の相手に)依存しない」ではあるが、この括弧の部分を外して「自由」と「自立」を同じ「依存しない」だと錯覚させていたのだ。
だが「(特定の相手に)依存しない」はつまり「みんなに依存する」ではないか。
「自由=誰にも依存しない」と「自立=みんなに依存する」はそもそも正反対だ。それを等値して、評価が反対なのはなぜかと問題設定するところがミスリードなのだ。
また松井は次のようにも言っている。
特に精神的な満足感は多くの場合、市場以外のところで手に入れるしかない。
それこそ近内が問題にしている領域だ。
確かに我々は資本主義の市場経済システムの中で生きている。そこにあるのは「交換」の論理だ。だが友人や家族との関係にまでそうした論理を敷衍していいのか?
経済学者である松井彰彦は、あくまでこの資本主義社会で「自立」して生きるためには市場が有効だと言っているだけだ。
だがその「交換」の論理を親子や友人にまで適用していいと言っているわけではない。
一方、哲学(研究)者である近内は、つまり「精神的な満足」を問題にしているのだ。
その、議論の重心がどこにあるかによって、二人の主張は反対に傾いているように見えるが、二人の認識はむしろ一致していると言っていい。
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