もう一つ。考える手がかりを提案する。
「交換と贈与」の「自由」という観念の扱いは、「自立と市場」における「自立」に対応している。
どういうことか?
「交換と贈与」では「自由」について次のように言う。
誰にも頼ることのできない世界とは、誰からも頼りにされない世界となる。僕らはこの数十年、そんな状態を「自由」と呼んできました。
あらゆるもの、あらゆる行為が商品となるならば、そこに競争を発生させることができ、購入という「選択」が可能になり、選択可能性という「自由」を手にすることができます。
これは「自立と市場」で論じられている「自立」の状態に対応する。松井彰彦は熊谷さんの言葉によって「自立」を次のような状態として示す。
依存先が十分に確保されて、特定の何か、誰かに依存している気がしない状態が自立だ。
頼らない(依存しない)、選択肢が十分確保されている状態が「自由」であり「自立」なのだ。
ここでも二つの論は共通した論点をもっている。
そして近内論では「自由」は否定的イメージで語られるが、松井論では「自立」は目指すべき状態として肯定的な文脈で使われている。
やはり両者は反対方向の主張をしているように見える。
このことをどう考えたらいいか?
「交換/贈与」における「交換」の否定と「自由」の否定は、どのような論理でつながっているか?
特定の相手に頼らないで選択できる状態が「自由」であり、それは相手を(それはすなわち自分も)「交換」可能な存在だと見なすことだ(「交換」できないのは不「自由」)。
近内は、それでいいのか? と問いかける。もちろん反語だ。「良くない」のだ。
「市場/個人的関係」における「市場」の肯定は、もちろんそれが「自立」を支えるからだ。それはまさしく上の「特定の相手に頼らないで選択できる状態」だ。「自立」できるのは良いことに違いない。
自由・交換(否定)/贈与(肯定)
自立・市場(肯定)/個人的関係(否定)
二人の見解をどう考えたらいいか?
対立する見解が存在することは別におかしなことではない。何であれ、現実に賛否両論あることは世の常だ。
だがそういって済まさず二つの論がどういう関係かを納得しよう。
一つには、見解が相違するなら相違するで、なぜそういう結論になるかに、納得できる理由を見出すこと。
もう一つは、相反しているようなここまでの整理が不適切であることを示し、二人の見解の関係を示し直すこと。
授業者の想定としては、どちらも可能だ。二つの論旨が相反している「ように見える」のがそもそも意図的なミスリードによっている。思考を、議論を活性化させるには対立を作るといい。わざとそれをやっているのだ。
だが議論の目的は、どちらかの殲滅ではない。融合だ。どう納得を共有するか、だ。
どう考えたらいいか?
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