新シリーズ「視点を変える」に入る。
これは教科書冒頭の単元名だ。とはいえ国語の教科書の「単元」というのが何を意味しているかはよくわからない。何となく共通したテーマがあるということなのだが、といって読み比べに有効なほどの関連性は、編集上も想定されていない。それができたのは唯一「共に生きる」だったので、そこから今年度の授業を始めたのだった。
この「視点を変える」も、三つの文章をまとめていて、それなりには「視点を変える」というテーマが共通しているのはわかるが、どうも有効な読み比べの見通しが立たない。
それよりも教科書の目次を見ると「視点を変える」の第一編、つまり教科書冒頭教材の「木を見る、森を見る」と、教科書後半の「鳥の眼と虫の眼」というのが、題名からすると関連づけられそうだ。「見る」と「眼」だし、「木/森」と「鳥/虫」という対比も重なりそうだ(ところで「鳥の眼と虫の眼」が収められている単元は「近代の先へ」で、「〈私〉時代のデモクラシー」もその一編だ。「鳥の眼」と「〈私〉時代」はどうつながるんだろうか?)。
「木を見る、森を見る」の作者、齋藤亜矢は「芸術認知科学者」だそうだ。よくわからん肩書きではある。
だがみんなはこの名前に初めて出会うわけではない。みんなが受けた高校入試の国語の問題に、この人の文章が出題されたことを指摘したのはD組のMさんだった。しかも同じ『ルビンのツボ』収録の文章だ。みんなにとっては因縁の相手だ。
さて、中学生にも読める想定なのだし、この文章も教科書の冒頭に収録されているということは高1の生徒に最初に読ませるつもりなのだから、難しいことは別にない。読めば「わかる」。すぐに一文に要約する。
文章の主旨は「認識」か「主張」だ。
「認識」ふうに言えばこう。
視点を変えると物事は違って見える。
「主張」ふうに言えばこう。
いろんな視点から物事を見よう。
教科書冒頭の文章は、なにがしかメッセージを含んでいる。これからこの教科を学ぶ高校生に向けた、編集者からの。
とすれば、編集者は「現代の国語」という教科が、その学習によって、君たちにさまざまな「視点」から物事を見ることを推奨するものであるとメッセージを送っているのだと考えられる。
だが具体的には「視点」とは何か?
そもそも「視点」とは何か。例えば次の二つの文では「視点」の意味が違う。
- さまざまな視点から物事を見ることが大切だ。
- この絵画は、見る人の視点が自然と中央の人物に集まるように描かれている。
「視点」という言葉には「どこから見るか」と「どこを見るか」の二つの意味が混在している。1は「どこから」で、2は「どこを」だ。それを区別したいときにはそれぞれ1「視座」、2「注視点」などと言い換えることもある。斎藤の言う「視点」はどちらか。
「自分以外の何者かの視点に立つとドラマチックに視点が変わる」といった一節では「視座」のことを言っているようにとれるが、「手前の方の一つのリンゴにぐっとフォーカスして見るとおもしろい。そのまま少しだけ動くと、視点を中心に立体的な空間が立ち上がって、どきっとしたりする。」という一節では「注視点」の意味にもとれる。
文中で「視点を変える方法」として紹介されている二つの方法は、見る「角度」や「倍率」を変えるということだ。これは「視点」の二つの意味とどう関係しているか。
角度についての「正面から、横から、上から、下から。立ち位置を変えると、おのずと別の側面が見えてくる。」というのは「どこから見るか」、つまり「視座」の問題だ。だがすぐに「目線を少しずらしてフォーカスする部分を変えるだけでもよい。」と続く一節では「注視点」の意味に変わっている。
一方倍率は対象との距離の問題だと考えれば「視座」の問題だが、これはフォーカスの中心=「注視点」を中心として周囲のどこまでを見るか、つまり視野の広さの問題と考えると「注視点」の意味にもとれる。
題名の「木を見る、森を見る」はどちらかといえば視座の問題というより注視点と視野の問題だが、後半の「これまで、理学、医学、芸術学、教育学と、立ち位置の離れた分野に身を置いてきた。この右往左往した経歴の中で実感したのは、分野ごと、人ごとにさまざまな視点があり、そこから見える景色がまるで違うということだ。」における「視点」は「視座」の問題だと言える。
さて、この「視点」という問題を、別の文章との読み比べの中で考える。
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