次の文章を読む前に、「ゲシュタルト」と「スキーマ」という語に慣れておく。この二つの心理学用語を使い回して、その概念を自分のものにしよう。使える語彙は多い方が良い。語彙はそれ自体、思考の武器だ。持っていると、それによって考えられることが増える。持っていなければ考えられないことが考えられるようになる。
教科書に載っている図版を見て、そこにダルメシアン犬が見えるとはどういうことかを「ゲシュタルト」と「スキーマ」という言葉を使って説明しよう。
言葉は「どういう意味か」を頭で理解するのではなく、使うことで身体になじませる。
法則性もない、無秩序にインクが飛び散っているだけの白黒の図版の中に、ある瞬間、突然ダルメシアン犬が見える。この現象を「ゲシュタルト」「スキーマ」という言葉を使って言うとどうなるか?
「スキーマ」という語は文中に一度しか出てこないが、語注で「認識の枠組・図式」と説明されている。5頁の記述では「パターン」がこれにあたる。「型」もいい。
「ゲシュタルト」は語注で「まとまり」「構造」と言い換えられている。
簡単に言おう。あれこれの説明を抑えて、シンプルな表現に。
白黒の図を、「ダルメシアン犬」の「スキーマ」にあてはめた時に、「ダルメシアン犬」という「ゲシュタルト」が構成される。
これが「ダルメシアン犬が見えた」という現象だ。
これをさらに抽象化して言おう。あるいは一般化。普遍化。
そもそもこれは何についての話なのか?
「何についての話なのか?」という問いかけで、それにふさわしい抽象度で問題を捉えることができるかどうかが、既に国語力の問題だ。「ダルメシアン犬についての話」ではない。「スキーマの話」でもない。ここではそれより一段抽象度を上げた問題の捉え方を要求している。「画を見る話」は一段抽象度が上がった。さらにもう一段。
「ごんべん」の漢字二字の熟語で。
これは「認識についての話」だ。「見える」とは「認識する」ということだ。
文中から「認知」を挙げてもいい。「認識」「認知」「知覚」は、同じ現象を表現する言葉を、おおよそ複雑さの順に並べているだけで、実際はグラデーション状に連続している。ここでは、より複雑な過程を含む「認識」で代表させておく。
つまり「見えるとはどういうことか?」は「認識とはどのような現象か?」ということだ。この問いに、「ゲシュタルト」と「スキーマ」という語を使って答える。
認識とは、外界の情報を、あるスキーマにあてはめて、ゲシュタルトを構成することである。
こうしたシンプルな表現がまず難しいのだが、そこがまあ国語的練習だ。
さらにこれを逆にしたり裏にしたり対偶にしたりしてみる。それができることは、それが理解できていることを示している。理解していないと機械的にひっくり返そうとして微妙に意味の違った文を作ったりする(厳密な論理学的意味での「逆・裏・対偶」ではない。また論理学では「逆・裏」は元の命題と同値とは言えないが、むしろ積極的に同じことを意味するように表現するところが国語的な練習だ)。
命題も条件文の形にしておこう。
命題
認識できているとすれば、外界の情報が、あるスキーマにあてはめて、ゲシュタルトが構成されている。
逆
ゲシュタルトを構成されている(認識できている)とすれば、外界の情報がスキーマにあてはまっている。
裏
もし外界の情報をスキーマにあてはめられないならば、ゲシュタルトを構成することができない(認識できない)。
対偶
もしゲシュタルトを構成することができない=認識できないならば、それはスキーマにあてはめられない(またはスキーマがない)ということである。
こういう言い換えは論理的思考力とも言えるが、まあ平たく言って、国語力だ。言うべきことをいくつかの表現で想起できることも、複数の表現の内容を比較してその異同を見分けることも、重要な国語の力だ。
例えば、国語では読解力があるとかないとか言うが、読解できるということは、何かの枠組・型・スキーマに、文章の情報をあてはめることができるということだ。そうしたスキーマを豊富にもっていて、うまくあてはめられることが「読解力が高い」ということだ。文章が「わかった」と思うことは、ダルメシアン犬が見えた、ということだから、つまりゲシュタルトが成立した、ということだ。
「スキーマとゲシュタルト」という概念自体がスキーマだし、「自立と依存」とか「近代的個人の誕生」「個人と分人」とかいうのも評論を読む上での有効なスキーマだ。
あ、この文章の主旨は近代批判だ、と思えたときには、ゲシュタルトができている(ダルメシアン犬が見えている)。
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