ここに言語論を合わせる。
とはいえ教科書の言語論、今井むつみ「言葉は世界を切り分ける」は、「木を見る、森を見る」との接点が見えにくい。
だがここに、補助的に内田樹「ことばとは何か」をあわせると、それぞれの共通性が見つかるから、三つの文章を総合的に読解することができる。
まず「木を見る、森を見る」と「ことばとは何か」に共通している論旨を捉えよう。何か?
例の図版にダルメシアン犬が見えるかどうかという話が、夜空に星座が見えるかどうかという話に似ていることに気づくはず。
これらの共通点・接点によって、三つの文章の論旨をつなぐ。
とはいえ、ダルメシアン犬は「木を見る、森を見る」本文に出てくるわけではなく、教科書の編集部が勝手に挿入した図版だし、「ことばとは何か」の星座の話は喩え話だし。
それぞれ元々何の話なのか? 何と何が対応していることになるのか?
対比の形で整理しよう。
「木を見る…」/「ことばとは…」
ダルメシアン犬/星座
対比の多くは対立を表すが、これは類比。類比的に対応しているものを揃えて書き出そう。
ダルメシアン犬の話は「スキーマ」と「ゲシュタルト」という言葉で説明される「認識」の話だった。
ではこれに対応するのは「ことばとは…」のどの言葉か?
関連するとは共通点があるということであり、共通しているとは対応しているということだ。
対応しているとは、同じ文型の同じ位置にそれらの要素が配置されるということだ。
対応していると見なすためにはどのような文型を想定する必要があるか?
「認識」についての命題は「認識とはスキーマにあてはめてゲシュタルトをつくることだ。」などと言っておいた。
この「スキーマ」と「ゲシュタルト」に代替できる言葉を「ことばとは何か」から探す。
「ゲシュタルト」に対応する言葉「観念」「ものの形」は、しばらくすると挙がった。「ゲシュタルト」=「まとまり」は確認済みだが、「まとまり」は「ことばとは何か」にも共通して文中に登場する。
スキーマに対応する言葉が難しい。「切れ目」だとか「概念」だとか、いろいろ候補が挙がったが、「ことば・言語」が最も真っ当に代替できる。
「木を見る…」/「ことばとは…」
ダルメシアン犬/星座
スキーマ/ことば・言語
ゲシュタルト/ものの形・観念
まとまり/まとまり
左辺は「認識」という現象についての命題として文にした。「認識とはスキーマにあてはめてゲシュタルトをつくることだ。」の同じ場所に、対応する言葉を右辺からそのまま代替してみる。
認識とはことばにあてはめてものの形が見えてくることである。
これは正しい。
例えば次の文章はそのことを言っている。
ある切れ目を入れて星を繋いだ人は、そこにはっきり「ものの形」を見出すことができます。
さらに、正しいことを実感するには、逆・裏・対偶にしてみるのが有効だ。
スキーマがなければゲシュタルトはできない(認識できない)。
これを入れ替える。
言語がなければものの形は見えない。
このことを言っている部分を文中から探すことは当然できる。
見える人にはありありと見える星座が、そのように切れ目を入れない人にはまったく見えないのです。
言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ。
共通する「まとまり」も使ってみよう。
斉藤
スキーマの要素に当てはめて、ひとまとまりとして捉える。人間が物を「何か」として認知したり、見立てたりするときには、ゲシュタルト的な見方をしている
内田
ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るように、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだというふうに考えました。
言語活動によって「まとまり」が生まれる。「ゲシュタルト」=「まとまり」なのだから、ここでも「スキーマによってゲシュタルトが生まれる」と言っているのである。
「スキーマ」=「言葉」、「ゲシュタルト」=「まとまり」=「ものの形」。
これはそもそも人間の認識についての話だった。認識は外界の情報を「スキーマ」に当てはめて「ゲシュタルト」を構成することだ、と。つまり我々は外界を言語という「スキーマ」によって認識しているのだ。
これは少しも無理なこじつけではない。今井むつみは別の文章や話の中で、しょっちゅう「言語はスキーマだ」と言っている。齋藤亜矢は「チコちゃんに叱られる」に出演した際、「なぜ人間だけが絵を描けるのか?」という疑問に「人間だけが言葉を使えるから」と答えている。ふたりの言っていることに関連があると考えるのは少しも無理なことではない。
さらに「木を見る、森を見る」の趣旨を、単元名に合わせて次のように表現した。
視点を変えると物事は違って見える。
このテーゼは、今度はどのように捉えられるのか。
文章後半で、筆者が経験した様々な学問分野に言及し、次のように言う。
分野ごと、人ごとにさまざまな視点があり、そこから見える景色がまるで違うということだ。
これはつまり上のテーゼそのものであり、それはすなわち次のように言うことができる。
スキーマを変えるとゲシュタルトは変わる。
これは言語論に対応させると次のように言い換えられる。
言語が違うと世界は違って見える。
つまり日本語話者と英語話者は世界を違った見方で見ているということだ。
認識についての捉え方が、だんだんつかめてきたろうか。
「スキーマ」とは、言ってみれば「見方」のことで、「ゲシュタルト」は「見え方」だ。見方を変えると見え方は変わる。
さて、今井・内田の言語論では、もうちょっと考えたい問題がある。
言語というスキーマのはたらきについて、二人はどんなことを言っているのか?
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