2025年11月4日火曜日

視点を変える 4 網の目

 言語論である「ことばとは何か」と「言葉は世界を」から、共通している論旨を三つ切り出してみよう。共通しているということはそれだけ言語論として重要であるとか常識であることを表していると考えられる。

「ことばとは何か」

ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るように、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだというふうに考えました。

「言葉は世界を」

言語は連続的で切れ目のない世界に対して線を引き、世界を切り分ける。

 ここには「切り分ける・切れ目を入れる」という表現の共通性が見てとれる。

 さらに、「ことばとは」の「厚み・幅・価値」は「言語は世界を」の「面」に対応していることもすぐに見てとれるし、それが言語によって同じではない(ズレている)という論旨も共通している。

 さらに

「ことばとは何か」

あるものの性質や意味や機能は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな「ポジション」を占めているかによって事後的に決定される

「言葉は世界を」

一つ一つの単語の意味を学ぶということは、単語が属する概念領域全体のマップの中でその単語の位置付けを学び、更に領域の中で隣接する他の単語とどう違うのかを理解し、他の単語との意味範囲の境界を理解することにほかならない。

では「ネットワーク・システム」が「概念領域全体のマップ」に対応している。「ポジション」と「位置付け」が対応している。


 整理しよう。

  • 言葉は世界を切り分ける。
  • 言葉の意味には幅がある(面である)。
  • 言葉はシステムの中のポジションで機能する。


 これらの論旨が共通しているのは、今井むつみの言語論もまた、そうはわざわざ言っていなくともソシュール言語学に基づいているからだ。今井に限らず、世のほとんどの言語論はソシュール言語学を前提にしている。

 問題はこの3点がどう関係しているか、だ。

 そのことを正しく捉えるには、そうでない考え方と対比して、ではどう考えるのがソシュール流か、と考える。


 「面・幅・厚み」はどのような考え方を指しているか?


 いや、書いてあることはわかりやすい。言葉の意味には、ある「幅」がある。「ムートン」の例も、色の例も、何も難しくない、あたりまえのことを言っている。

 たしかに切れ目を入れて分割した一つの領域には「幅」がある。それを今井むつみが「面」と表現していることもわかる。

 ではこれは?

概念は示差的である。つまり概念はそれが実定的に含む内容によってではなく、システム内の他の項との関係によって欠性的に定義されるのである。(『一般言語学講義』)

 当然、考えるべきは「示差的・実定的・欠性的」だ。こんな言葉はまるで一般的ではない。ここでしか見たことがない。だが、わからない言葉ではないはずだ。漢字の意味で見当がつく。文脈でも読める。

 ではここでソシュールが言っているのは何のことか?

 これを内田は次のように言い換える。

あるものの性質や意味や機能は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな「ポジション」を占めているかによって事後的に決定されるものであって、そのもの自体のうちに、生得的に、あるいは本質的に何らかの性質や意味が内在しているわけではない

 この「事後的・生得的・本質的」と先の三つをまとめて対比的に並べると?


実定的・生得的・本質的/欠性的・示差的・事後的

 これは「~ではなく」型の文型によって判断できる。否定される側を左に置いておく。

 さらに内田の文章で、最初に対比的に並べられるのは?

カタログ言語観/ソシュール言語論

 ここから言葉の仕組みについてソシュールがどのように考えたかを整理する。その際、カタログ言語観を比較に用いて「~ではなく」と言うことを心がける。


 説明のためには「網の目」を喩えに使うと良い。

 これはソシュール自身が使っている比喩だ。ただしこれは、言葉が単独で存在するのではなく、言語システム=ネットワーク=「網」の中で、その関係性の中で機能していることを表現する比喩だ。

 この場合、一つの語は網の結節点に対応している。結節点の位置は、他の結節点と引っ張り合った釣り合いによって決まっている。結節点は単独で存在するわけではなく、網(ネットワーク)の中にある。

 だがこれでは今捉えようとしている考え方にはうまく合わない。そうではなく、網の「目」こそ一つの語に対応していると考えよう。それでもシステム内の関係性によって語の意味が決まるという比喩の趣旨は変わらない。

 何もない空間に糸を張る。これが「切り分ける」=差異化の比喩だ。糸と糸の間には幅がある。縦糸と横糸、それぞれの隙間によって作られた四角(最近のサッカーのゴールネットでは六角形だが)の隙間は当然「面」積のある「面」だ。この一つの目がそれぞれの言葉だ。

 それ自身が切り分けられたものであることによって、言葉は世界を切り分ける。それは「幅」を持つ「面」だ。その網の目は、網全体の釣り合いの中で、ある位置を占めている。

 これで上の3点については説明できた。

 ではこれが「実定的ではなく欠性的・示差的である」=「生得的・本質的ではなく事後的である」とは?


 カタログ言語観は、「面」としての言葉が「実定的・生得的・本質的」であるということになる。これはどのような状態か?

 それは「羊」とか「赤」とかいう意味の四角が、単独で、網よりも先にバラバラに存在している状態だ。

 だが、網の目の四角が単独で先に存在することはできない。ある四角は、周囲8個の四角の隙間にできている「穴」だ。そして他の目も同様に、すべての四角が、互いに区切られていることによって生じた「面」のように見える「隙間」なのだ。

 この「隙間・穴」こそ「欠性的」であり、「互いと区切られることで生じる」が「示差的」だ。区切られたから「事後的」に穴ができるのだ。

 赤という「四角」は「オレンジ色・紫・ピンク・茶色」などに囲まれ、それぞれの隣り合った色との境目にある糸によって輪郭づけられている。「オレンジ」の向こうには「黄色」があり、「紫」の向こうには「青」がある。

 色を表す言葉はこうした関係の網の目=システム=構造によって、それぞれの「意味」を生じる。網の目に先立って「意味」であるところの四角は存在しない。

 「切り分ける」とはこの、糸によって空間を分けることを言っている。


 上の比喩の「網」とは何か?

 言葉が集まっているのだから、いわば辞書のようなイメージだ。

 それに対してカタログ言語観では、それは「カタログ」だ。

 ソシュール言語学の「辞書」と、カタログ言語観の「カタログ」はできあがりは同じような相貌だが、成り立ちが違う。

 「辞書」に対応する「網」は、何もない空間を糸で区切ることで、四角が並んだ構造として現れる。

 「カタログ」は、既にバラバラと存在している四角を集めてタイルのように敷き詰めたものだ。


 さて、このことは説明できたろうか?

 これは「理解」すべき事柄ではなく「説明」できるようになるべき事柄だ。今我々がやっているのはソシュール言語学を学ぶことではなく、国語の学習だ。

 ところで上の考え方のどこが「スキーマ」でどこが「ゲシュタルト」なのだろうか?


 「スキーマ」とは「赤」を「赤」たらしめる言語システム=網の目であり、それによって生じた「赤」という概念であり、「赤」という言葉だ。これらは言語が言語として機能する一連の仕組みであって、その全体が「スキーマ」だ。

 そして「ゲシュタルト」とは、そうしたシステムよって対象を「赤」と認識している状態だ。

 言葉がそうした機能を失うとき、「赤」は「赤」に見えなくなる=ゲシュタルト崩壊する。

 

 このことは「理解」すべきではなく「説明」すべきことだが、とはいえ「理解」しておくのは有益ではある。こうした考え方=認識自体がスキーマとして、次の何事かを考える手がかりになる。


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