2022年10月3日月曜日

なぜ成績評価をするのか

  前期末でいったん成績評価をする。その具体的方法や基準については授業で説明するとして、その前提となる原理的な考え方について述べておく。

 成績評価とは何のためにするのか?

 一般的なイメージとしては、成績評価は、その学習成果(達成度や能力)に対する公的な保証、といったところだろうか。試験を合格したことで得られる免許や資格がそうだ。ここでは成績評価は単純に合否で二分される。

 入学試験なども同様に、得点は満点から0点までばらつくが、合否はどこかで線引きして二分される。合格した者は、その能力が公的に保証されたのだ。

 普段の学校の学習活動に対する成績評価にもこれと同じ機能もある。いわゆる推薦入試などでは、高校側が算出した成績評価が大学によって合否の判断に一部、使用される。

 だがそうした機能は、成績評価の一部でしかない。

 そもそも成績評価の機能とは、学習成果の評価を学習活動にフィードバックすることで、学習活動を修正することにある。より良い評価がされる学習活動は強化される。低評価の学習活動は見直される。学習評価はそうした反省のためのモニターである。

 学習と評価は互いにフィードバックするサイクルを成している。


 新課程における成績評価は、文科省の定めた学習指導要領に基づいて、次の三つの観点をそれぞれA~Cの3段階で評価することになっている。

  1. 「知識・技能」
  2. 「思考力・判断力・表現力等」
  3. 「主体的に学習に取り組む態度」

 三つの観点は、学習にはそれぞれの側面がいずれもおろそかにされることなく重視されるべきであるという認識を、学習者と支援者(生徒と教師)が共有しようという理念をあらわしている。生徒は評価によって自らの学習態度を見直す。教師は三つの観点がそれぞれ必要な要素であることを自覚しながら授業を計画したり課題を設定したりして生徒の学習を誘導する。

 この機能は、教師がそれぞれの観点で生徒を評価することによっても働くかもしれないが、実際にそれぞれの学習成果において、123がどのように作用しているかを教師が判断することはできない。

 例えば「主体的に学習に取り組む態度」を評価することはどうすれば可能か?

 しばしば生徒の挙手の回数を数えるというような方法が、揶揄されるために例としてあげられる。それは滑稽で非現実的だ。そんなことを実際に行うのは甚だしく手間がかかる上に教育的でもない。それが馬鹿馬鹿しいことは誰もがわかっているのに、ではどんな方法が現実的に可能で妥当かは誰からも納得できるようには提案されない。せいぜい提出物や出欠席の数をもとに評価するくらいだ。それらは挙手の回数と違って算出可能だが、同じくらいに馬鹿馬鹿しい。例えば提出された論文の評価などはどうみても2「思考力…」によって評価されるべきだ。提出したかしないかを3「主体的に…」として評価し、内容を2で評価する? 可能だが不必要な二度手間だ。

 「主体的に学習に取り組む態度」などというものは、明らかに個人間でその強弱や濃淡、存否の差違があるにもかかわらず、同時に明らかに内面的なものであって、外側から適切に評価することは絶望的に不可能なのだ。

 また例えば12は、これもまたそれぞれに学習の別の側面であるにもかかわらず、外側に表れている結果(例えばテストでの得点)ではそれらが混ざった形で作用している。これを切り分けることの合理的な方法はない(例えばこの小問は「知識」で、こちらは「思考力」だ、などと振り分けることは可能だが多分に不合理だ)。そしてそこに3「主体的態度」が重なっている。高得点は12の能力が発揮されたからでもあるが、主体的に学習に取り組んだ成果でもある。テストの点数を123に分けることは原理的には不可能で、実際に設問によってそれを振り分けたりすることには、どうしたって現実的でない不合理が生ずるのだ。


 三観点を教師が適切に評価することは不可能だが、一方、生徒自身はそれを自覚できる。知識があるから漢字の問題を正解できたのか努力して正解できたのかは自分でわかる。知っているからできたのか、考えて正解に辿り着いたのか、あるいはまた自分が主体的であるかどうかは、自分にはわかる。

 学習へのフィードバックという評価の目的は、本人にそれができるならば機能はしているのだ。

 教師は、三観点に分けた評価に手間をかけるよりも、三つの側面を意識した授業や学習課題を企画することに注力すべきである。例えば一問一答式に瑣末な知識を問うような問題ばかりのテストで成績を評価するのは1に偏りすぎている。一方的な知識の伝達に過ぎない授業も、わいわい賑やかだが必要な知識の伝達されない授業も見直されるべきだ。

 三観点評価への移行には、そうした反省が期待されている。


 実際にこの学習評価とフィードバックが最も有効に働いているのは授業中だ。

 授業ではグループでの話し合いと、そこでの考察をクラス全体で検討する活動が繰り返される。話し合いに参加する姿勢や発表の意欲は3の観点から評価される。生徒同士は常にそれを評価し合っているし、当然自己評価もしている(授業者も内心評価しているのだが、全員に対する公平な評価はできない)。あいつは積極的に発言しているなあとクラスメイトを評価し、自分が評価されていることを明確に感じ取っている。

 そこでの発言は、ある時には「よく知っているな!」(1「知識」)、あるいは「ああ、なるほど、そうか!」(2「思考力・表現力」)などと、自分の発言に対する相手の反応で、常に評価され、フィードバックしている。

 いずれはこれらの評価が何らかのテクノロジーによって自動的に数値化される未来もあるだろうが、少なくとも現状でもこうした評価は常時、歴然と行われている。

 したがって、学習と評価のサイクルは充分効果的に機能している。

 例えば教師がひたすら講義していて、生徒はひたすら板書をノートに書き写している、というような授業ではこうしたフィードバックは起こらない。

 三観点評価はそうした昔ながらの一斉講義式授業の改革を企図しているのだ。


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