「主題」は作品が可能性として潜ませている抽象的な「意味」である。「第一夜」にそんなものはなくてもいいとも言える(あってもいいが)。
だがそれでも我々は「第一夜」を「物語」として読むことができる。読んで、まるでとりとめもないイメージが散乱するばかりの、それこそ「夢」のようでしかない体験として読み終えるわけではない。
『夢十夜』の「第一夜」は、夢の感触を鮮やかに再現しつつ、だが創作物としての小説として完結している。
そして我々はこれを「物語」として読んでもいる。
「物語」とは何か?
「第一夜」が「物語」として捉えられるとはどのような意味か?
「物語」という概念にはさまざまな側面があり、したがっていろいろな定義の仕方がありうる。だからこの問いには「物語」という概念を何と対比するかによって様々な答え方がある。
授業ではさしあたり「新聞記事」「歴史の教科書」と対比させた。
「新聞記事」「歴史の教科書」との対比によって我々が「物語」という概念に見出す要素は「虚構性」である。「物語」を「現実」と対比しているのだ。
さらに「一人称の語り手」「登場人物の心情」なども挙がった。確かに。
そこで対比に「日記」も加えた。日記は一人称で「私」の心情を語る。だが「物語」ではない。
さらに「とりとめもないイメージの羅列」を「物語」の対比として考える。虚構性も、そこから「物語」を区別する条件にはならない。
では?
複数クラスで提起されたのは「流れ」という言葉だが、「流れ」って何だ?
確かに「日記」や「とりとめもないイメージの羅列」には「流れ」が感じられないかもしれない。「羅列」は「流れ」ていないということだ。
「流れ」とは、時間軸に沿って提示される情報の間に、何らかの因果関係があるということだ。複数の出来事が時間軸に沿って起こり、それをただ並列的に述べていっても、我々はそれを「物語」とは感じない。それは「羅列」だ。それらのエピソードをつなげて、それらの出来事間に何らかの因果関係を見出す時に、我々はそこに「物語」の気配を感じる。
だがまだそれだけでは「物語」といえる感触を捉えるには充分ではない。
さらに「起承転結」という言葉も各クラスで挙がった。各要素は「因果関係」をもち、そこに「起承転結」といえるようなまとまりが備わったときに、それを「物語」と感じるのだ。
では「起承転結」とは何か?
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