読解にあたって最初に立てるべき問いは決まっている。
「第六夜」の主題は何か?
常にテキスト読解にとって必要最小限にして最大の問いだ。「第六夜」はつまり何を言っている小説なのか?
いきなりこの問いに答えるのは難しい。時折この問いを思い出して、現在の位置付けや全体の意味づけを確かめる。
もっと具体的に、本文から導かれる問いを立てる。「羅生門」でいえば「下人はなぜ引剥をしたか?」だった。「羅生門」がとりあえず「わかった」と思えるために最低限解かねばならぬ謎だ。
「第六夜」でこれにあたる問いは自明だ。
①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か?
読んでいて、これを疑問に思わぬ者はいまい。
末尾の一文で、「自分」はこの「理由」が「ほぼわかった」という。だが読者にはそれが自明なわけではない。なのにそれが何かを語ることなく小説は終わる。語り手が「わかった」というものを読者がわからないままに済ますわけにはいかない。いかんともしがたく「解釈」の欲求を誘う記述だ。
これは「なぜ運慶が今まで生きているのか?」という問いではない。読者がその「理由」に納得したわけではないし、すべきかどうかも定かではない。夢なのだから何でもアリだ、そんなことに理由はないのだ、などと答えてもいい。
ただ「自分」は何事かを得心したのだ。それがどのようなものであるのかを問うているのだ。
そうだとしてもやはり「答えは、ない」と答えることもできる。夢で我々は何かに奇妙な納得をしていて、だが起きてから考えても、なぜ夢の中ではそんな納得ができたのかが不思議であるような不思議な思考をしている。その不条理をとりあえず引き受けたところに「夢」の感触がある。とすれば「自分」は何事かを納得しているが、そこに読者が共感できるような中身はないかもしれない。
だがそう即断せずに、漱石は何らかの「理由」を想定していて、それにあわせて物語の展開や描写をしている可能性も考えてみる。だとすればこの「理由」は、この小説が何を言っている小説なのか、という全体の理解の中に位置づけられるべきである。物語の締めくくりに置かれたこの「自分」の悟りが小説全体の「意味」を支えていると思われるからだ。
ではその「理由」とは何なのか?
さらに補助的な問いを立てておく。これもまた全ての読者に共感されるはずだ。
②「明治の木には到底仁王は埋まっていない」とはどういうことか?
①を明らかにするためには、まず②を解決する必要がある。②の悟りによって、「それで」①が「わかった」と「自分」は言っているからだ。
「仁王は埋まっていない」とは、「仁王が掘り出せない=仁王像を彫れない」の隠喩である。だが隠喩で表される認識が「彫れない」という認識と同じだというわけではない。
なぜ「仁王が彫れない」ではなく「仁王は埋まっていない」なのか? なぜそれが「到底」なのか?
論理の順としては②→①→主題だが、これは「全体の理解」と「部分の理解」のように、互いを根拠として成立する論理なので、補い合って一筋の論理となるよう考えを進める。
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