2022年10月25日火曜日

夢十夜 5 第一夜は解釈しない

 「第六夜」についての考察は、議論を聞いていると期待以上に充実しているので、これは小論文としてまとめさせたいと思えてきた。

 だがすぐに結論を出してしまうのは惜しい。時間調整に、先に「第一夜」を読むことにする。

 「第六夜」について「解釈」することは、これが「夢」そのものではなく「小説」という物語として語られる以上、可能なアプローチとして認めてもいいように思われる。

 同様に「第一夜」にもさまざまな謎が、いかにも「解釈」を求めているような顔で並んでいる。なぜ女が唐突に「死にます」などと言うのか、「百年経ったら会いに来る」とはどのような意味か、女は結局会いに来たのか?

 あるいは「真珠貝」「星の破片」「赤い日」「露」は何を象徴しているのか?

 そもそも「女」や「百年」「百合」は何を象徴しているのか?

 こうしたいかにも「謎めいた」ガジェットに意味を見出したくなる人情もわかる。文学研究の世界では精神分析の手法を使ったり、漱石の伝記的事実を調べたりして、様々な解釈が行われている。死んでしまう女には、漱石が密かに思いを寄せていた兄嫁のイメージが重ねられている、とか。

 だが結局のところ、これらの謎に明確な意味を見いだすことに手応えのある見通しは、授業者にはない。精神分析的解釈や伝記的事実に結びつける解釈はどれもこじつけじみて感じられる。小説を読む読者の感動と乖離している。

 あるいは普通の文学的解釈は?

 実は中学校や塾の授業で「夢十夜」を教わったという話を聞いた。そこでは「第一夜」の主題は「永遠の愛」だと教わったのだとか。

 これは中学校や塾の先生のオリジナルな解釈ではなく、どこぞの大学の先生あたりが言っていることなのだ。

 だがそんな解釈は阿呆らしい。「第一夜」はこのような解釈を必要とせず、すでに「わかっている」ように思える。

 だから授業では結局のところこの物語を、「解釈」を目的として「使う」つもりはない。

 では何をするか?

 授業では「第一夜」を教材として、小説を読むという行為どのようなものかについて考察する。これは「『第六夜』とはどのような小説か?」という問いよりも抽象度の高い問いだ。


 「第一夜」を、一〇〇字以内に要約することを予め課しておいた。

 上に「第一夜」は、「第六夜」のようには解釈しないと述べた。

 「第六夜」でやったのは、「主題」が何かを考える解釈だ。

 「主題」とは繰り返し言っているように「こんな話だ」という把握のことだ。

 一方で「要約」もまた、その小説が「どんな話?」という疑問に対して「こんな話だ」と答えるひとつの方法ではある。

 その過程にはある種の「解釈」が行われてはいる。テキストに書かれた何が重要な要素なのかという判断はある種の「解釈」だ。

 では「主題」を捉える解釈と「要約」する解釈はどう違うか?


 要約例をひとつ見てみよう。

百年経ったらきっとまた逢いに来ると言い残して死んでしまった女を墓の前で長い間待っていたが、そのうち女の約束を疑うようになった。すると墓の下から茎が伸びて百合の花が開いた。百年が来ていたことに気づいた。(100字)

 ここには「第一夜」の「主題」が捉えられている感触はない。

 だがこれもまた「第一夜」とは「こんな話だ」と言っているには違いない。

 「主題」と「要約」はどう違うか?


 「主題」は作品から作者の言いたいことを部分的に抜き出したもので「要約」は全体を圧縮したものだ、という意見が各クラスで出た。そういう側面は確かにある。

 また、「要約」は本文をなるべく客観的に分析しているのに対して、「主題」を捉える解釈には、読者の主体的な考察が入るから主観的だ、という意見も出た。これもなるほど。

 「主題」と「要約」の違いを捉える上で、作者読者客観主観といった対比的な要素が抽出できたのは良かった。

 だがもう一言ほしい。

 「主題」と「要約」の違いを語る上で使いたい対義語は「具体/抽象」だ。

 「要約」に必要な解釈とは、物語の各要素の論理的な因果関係を判断する思考だ。骨として選ばれた要素が、物語中の具体レベルのままでもいい。

 一方、「主題」とは抽象化された「意味」だ。つまり「主題」を語る言葉は作品内情報のレベルより抽象度が高い。

 「主題」と「要約」は、その抽象度に違いがある(とはいえ実際の「こんな話」ではそれらが混ざっている方が良い。どちらかだけでは相手にどんな話かが伝わりにくいのだ)。


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