もう一箇所、考える手応えがあって楽しいのは次の一節。
急速に広まった情報のネットワークを支えているコンピュータ技術自体がプログラム上に原理的に欠陥をもつことによって、「責任」の所在はおろか、その概念の意味さえ曖昧になっているといわれる。近代思想のなかで「責任」が、悪にも傾く自由をもった同一の行為主体としての自己存在のメルクマールだったことからすれば、「責任」概念の曖昧化は、自己存在が情報の網目へと解体されていくことを示唆する現象であろう。いずれにせよ、自己が情報によって組織化されるという、この傾向は、ますます一層促進されていくにちがいない。
個人的な娯楽を目的としてこんな文章は読まないし、何かを学ぶための読書ならば、こんな読みにくい文章は勘弁してほしい。ましてテストを解かなければならない切迫した状況では、こんな言い回しは本当に迷惑だ(それでもこういう書き方をしてしまうのは、ある種の美意識なのだろう。こういうのがカッコイイと思っているのだ)。
だが余裕のある授業ならばじっくり考えて、みんなと話し合いながら解きほぐしてく過程はむしろ楽しい。考えていった先に、風景がクリアに見える瞬間はカタルシスだ。
まず「コンピュータ技術自体がプログラム上に原理的に欠陥をもつ」がピンとこないが、そこはそういうものだと受け取ろう。確かに何のことを指しているのかがわからない。授業者はゲーデルの不完全性定理(または→)のことを指しているのだろうと推測して読み進めた。気になってネットで「バグが無くならない理由」などと検索してみると、プログラマーの書いた記事が山のように出てくる。つまるところそれは「人間の作ったものだから」というのだ。プログラムは実用的な目的で作られるが、コスト的にどこかで切り上げて納期に間に合わせるしかないから、無限のテストによってバグ(欠陥)をなくすことはできない。だからプログラムにはバグが絶対にどこかに残るのだそうだ。
いずれにせよ、そのままそういうものだと受け取って先を読み進める。
とにかく、プログラムに欠陥があると「責任」が曖昧になるのだそうだ。
なぜ?
何せ「原理的に欠陥を持つ」のだから、誰かの「責任」ではないのだ。
そのことから何が言えるのか?
一方で「近代思想のなかで『責任』が、悪にも傾く自由をもった同一の行為主体としての自己存在のメルクマールだった」のだそうだ。こういう、当然それはわかってるよね? と読者の了解を前提にしてしまう言い回しが、その業界の中にいるわけではない読者にはいちいち抵抗になる。
だが切り取ってここだけを理解しようとすれば、できないわけではない。
人間は「自由をもった同一の行為主体」だ。近代において、人は宗教や伝統から解放されて、自分の意志で自由に行為できるようになった(ということになっている。既習事項)。
「同一の」という形容は、昨日の自分も今日の自分も一ヶ月後の自分も全て同一の自分である、という「自分」の存在の確かさを言っている。「アイデンティティ」の訳語である「自己同一性」の「同一」のことだ。
すべてが「自由」なのだとすればそれは動物と変わらない。あるいはもはやそれは人の行為と言うより自然現象だ。とりわけそれが「悪にも傾く」とすれば、動物や自然現象を「悪」として裁くことはできない。その時、何が人間を人間たらしめるかといえば、「責任」だというのだ。何をしたかではなく、したことに「責任」をもつことが、彼のアイデンティティのメルクマールなのだ。
そう理解すれば、
コンピュータ技術が「責任」を曖昧にするしたがって
「責任」によって保証される「個人」も曖昧になるという論理がたどれる。
この部分では「責任」が「個人」の存在を証し立てる条件として取り上げられているのだ、という論理を把握する必要がある。「責任」が曖昧なら、個人の存在も曖昧になる。
同じように、この前の部分では「欲望」が「個人」の輪郭を捉えるのに使われている。「個人」とは、その人にしかない「欲望」を持っていることによって保証される。
「欲望」が「個人」に属するものならば、「個人」の存在は確かにあると言える。だが「欲望」も情報の網の目に生ずるものだから、「個人」の存在を証し立てることはできない(若林幹夫が「誰かの欲望を模倣する」で言っていたことだ)。
「責任」も「欲望」も、個人の存在を証し立てることはできない。
これは前回の考察で「合意」が「集団性」を保証する条件として取り上げられ、それが作りものであることを言うことで集団が作りものであることを論じた論理と同じなのだ。
これもまた全体の文脈に位置付けることで腑に落ちる感じを味わえるはずだ。
ところでここを話し合わせているうちに面白い問題が見つかった。
自己存在が情報の網目へと解体されていく
自己が情報によって組織化される
連続する二文の中で「解体/組織化」という、一見正反対の言葉が、何の説明も言い訳も無しにごく自然に置き換えられている。この奇妙さに、読者はついていかねばならない。
上の二文は同じことの裏表なのだ。そのことが「そうだよな、当然」と思えることが、この文章を読めるということなのだ。
個はそれ自体が独立した存在であるのではなく、情報によって組織化されたものだ。そのことは前にも言われている。
欲望の源泉は、相互に絡み合って生成消滅している情報であり、個人はその情報が行き交う交差点でしかない
個人がそのように情報によって「組織化」されることで成立したものであるとすれば、「個」というものを捉えようとすれば、それはすなわち確固として既に存在していたものではなく、情報の中に「解体」されてしまうということにほかならない。
情報によって組織化されることは情報の中に解体されるということだ。どちらも「確固として存在する独立した個」の対比として、同じ側の個のイメージを表現しているのだ。
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