もうひとつ考えておきたいことがある。「運慶」とはそもそも何者か?
伝記的事実はWikipediaでも何でも調べられる。確かに運慶と聞いてまるで見当もつかない読者は、この読解には参加できない。一般常識として運慶を知っている必要はある。
だがそこが問題なのではなく、この小説で描かれる運慶が問題なのだ。
実際に書かれた小説のテクストの中から、運慶がどのように書かれているかを読み取るのだ。そこには何らかの作者の意図が読み取れる可能性がある。それを問いとして立てる。
③この小説における「運慶」とはどういう存在か?
もう一つ、こういう問題を問いとして立てるためにはお決まりの言い方がある。何か?
③「運慶」は何を象徴するか?
「どういう」という問いはどこをめざして考察すればいいのかがはっきりしない。一方の「何の象徴」は、最終的に名詞か名詞句で表現できればいいというゴールが明確だが、飛躍を必要とする難しさもある。両方を適宜行き来して考えよう。
①②は素直に「わからない」と感じるはずの謎を問いとして立てた。一方③のような問いの立て方は、小説の読み方として自覚的でないと思い浮かばない。
運慶が何者であるかは、この小説に書かれていることから読み取らねばならない。
「運慶は見物人の評判には委細頓着なく」「眼中に我々なし」といった描写から、見物人は運慶を見ているが、逆に運慶からはこちらが見えていないのではないか、と言った生徒がかつていた。単に運慶の集中力が高いという以上の意味を読み取ろうとすれば、これは「明治時代に鎌倉時代の運慶が現れた」ということではなく、運慶のいる時空と見物人のいる時空とが、本質的には違った位相にあって、それが一時重なっているように見えるだけだということかもしれない。
面白い着眼点だが、この発想がどこに辿り着くのか、今のところ授業者にはわからない。それより注目したいのは次のくだりだ。
運慶が仁王の鼻のあたりを鮮やかに彫り出す動きを描写した後、その手際について見物の若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と語る。このように表現される行為は何を意味するか。
考える、語り合う糸口として、ここでも問いを選択肢のある形に変形してみる。
③ここに登場する「運慶」は、「芸術家」か「職人」か?
この問いはいささか突飛なものと感じられるかもしれない。問①②を変形して選択肢を作るには、単に日本語としての多義性を利用して、その意味合いを明確にしようとしたのだった。だが問③の選択肢はそのように、言葉に元々含まれる可能性から発想されたのではない(この問題は後述する)。
迷いなく仁王を彫れるのは運慶が芸術家だからなのか、職人だからなのか?
仁王が彫れないのは、「自分」が芸術家ではないということなのか、職人ではないということなのか?
むろん「自分」はどちらでもない。だがここでは、どちらでないことが重要なのか?
こういう時はやはり、語るにふさわしい言葉を思い浮かべることができると語り易い。
「芸術家」「職人」それぞれが備えていて「自分」に備わっていないものは何か?
これを対比的な言葉で捉えると論じやすくなる。
話し合いの中で面白い視点を知ることができた。
G組Aさんは「仁王とは?」を語っていた。これは授業者の発想にはなかった。
ここで運慶の彫っているのが阿弥陀如来像や阿修羅像でなく鮭を咥えた熊などでなく、仁王像であることには意味があるのか?
授業者はこの答えを持っていないが、それが結論まで結びつくならどんな着眼点も検討しても良い。
もう一つ、「運慶が生きている理由」は「運慶にとって」なのか「自分(達)にとって」なのかと問うていたら、C組Tさんが「仁王にとって」という解釈を考えついた。仁王にとっては、自分が世に出るためには運慶さんが必要なのであり、それが「運慶が生きている理由」なのだ、と。
それならばやはり「仁王とは何者か?」を問わねばなるまい。
どういう解釈に決着するんだろうか?
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