次の一節もひっかかるはずだ。
合意が達成され機能するとしても、それは当の合意が普遍的な基準を表現しているからではなく、「合意した」という事実だけが、それを合意として機能させているにすぎない。そういう意味でいえば、「合意」とはまさに形成されたもの、作りものであり、それが「事実」と呼ばれるとしても、作る作用(ファケーレ)に支えられた事実(ファクト)でしかないのである。
下線部は、東大の問題では「どういうことか説明せよ」と出題されている。
読んでわからないわけではないがどうすれば「説明」になるのかわからない、というのがこういう問題の常だ。
そこが「わかる」としてもその後で「そういう意味でいえば」以降への論理的接続がよくわからない。「そういう」や「それ」の指示内容も曖昧だし、「ファケーレに支えられたファクトでしかない」という結論がどこから出てきて、何を言いたいのかもわからない。
どこから解きほぐすか。
「『事実』と呼ばれるとしても」の「としても」は「合意が達成され機能するとしても」を受けている。「事実」は前の行の「『合意した』という事実」を受けている。
こういう論理関係の追い方は、もちろん無意識にも行っているだろうけれど、意識してやってみてもいい。
二つの対応から、論理的に次のことが言える。
「事実」=合意が達成され機能する(こと)=合意した(こと)
これは何を意味する?
文末はおそらく「ファクト」という英単語は、ギリシャ語がラテン語の「ファケーレ」が語源なのだという知識を前提にしているのだろう。そう思って調べてみるとやはりラテン語だった。「ファクトリー(Factory)=工場・製作所」もなるほど「作るところ」だ。
それがどうした?
「作る作用に支えられた事実でしかない」は、読者にある違和感を感じさせることを狙いつつ、その驚きの中でメッセージを伝えようという意図にもとづいた表現だ。
「作る作用」と「事実」は日本語では反対のベクトルを持っているような印象がある。文中で繰り返し使われる「作りもの」は「非実体」「虚構」などの言い換えだ。それは本来「事実」と対立的な概念のはずだ。「事実=本物/虚構=偽物」なのだから。
それが欧米語の語源に遡ると通じ合ってしまう、という豆知識をここでは「事実は作り物だ」と語るために用いられているのだ。
ではなぜ「事実は作り物」なのだ?
下線部の終わり「~にすぎない」という言い方は、ある限定をすることで、それ以外の部分を否定的に想起させる表現だ。「これは始まりにすぎない」と言えば「始まり」の裏に「それ以降、終わりまで」が対比されていることを示すし、「そんなのは口先にすぎない」といえば「腹の底からの本心」が、その場限りの「口先」の対比として言外に表現されている。
「『合意した』という事実だけが、それを合意として機能させているにすぎない」も、同じように、何かを限定をすることで言外の何かを否定している。
ここにはどのような対比があるか?
だが何を限定しているかも、言外に何を想起させているかも、表現することが難しい。ここを何とか言葉にしてみる。
本心/口先
の順に表現してみる。「本心ではなく口先に過ぎない」という文型に嵌まるように対比させてみよう。
どう表現すれば良い?
我々のテストでは、ここは説明ではなく、「これを表す例」を選択肢として出題した。正解率は6割くらい。これを利用する。正解と不正解の選択肢はどこが違っているか? 何が正解の目印なのか?
使われている「臓器移植」「クローン人間」「人工妊娠中絶」「自動運転」といった例が問題なのではない。例自体には適否はない。
ポイントは、②「価値観の一致に基づく」と、①「納得しているわけではない」、③個人の~観に反したもの」、④「解決を~放棄している」の違いだ。
これが上記の「すぎない」の限定による対比と対応している。
各クラスでそれぞれ試行錯誤して、この対比を表す言葉として挙がったのは次のような表現だ。
全員一致による合意/多数決による合意
納得ずくの合意/不本意な合意
本質的な合意/形式的・表面的な合意
尤も、よく見れば下線部の前に「ではなく」があって、対比は明示されている。
当の合意が普遍的な基準を表現しているからではなく
つまり「普遍的な基準による合意」だ。上記の左辺は適切であることがわかる。
これが「ファケーレに支えられたファクト」と対応する。
順序が逆だ。
事実/作る作用
「『事実』と呼ばれる」のように括弧のついた表現は、そのニュアンスを適切に読み取る必要がある。「事実」は普通、本物のニュアンスだ。それは左辺のような合意でなければならないはずだ。
ところが「事実」上、実際に機能しているのは右辺のような合意による。つまり「作りもの=偽物」なのだ。
だから「事実」は「作る作用」に支えられていると言えるのである。
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