2022年10月12日水曜日

没落する「個」3 ファケーレ/ファクト

 次の一節もひっかかるはずだ。

合意が達成され機能するとしても、それは当の合意が普遍的な基準を表現しているからではなく、「合意した」という事実だけが、それを合意として機能させているにすぎないそういう意味でいえば、「合意」とはまさに形成されたもの、作りものであり、それが「事実」と呼ばれるとしても、作る作用(ファケーレ)に支えられた事実(ファクト)でしかないのである。


 下線部は、東大の問題では「どういうことか説明せよ」と出題されている。

 読んでわからないわけではないがどうすれば「説明」になるのかわからない、というのがこういう問題の常だ。

 そこが「わかる」としてもその後で「そういう意味でいえば」以降への論理的接続がよくわからない。「そういう」や「それ」の指示内容も曖昧だし、「ファケーレに支えられたファクトでしかない」という結論がどこから出てきて、何を言いたいのかもわからない。

 どこから解きほぐすか。


 「『事実』と呼ばれるとしても」の「としても」は「合意が達成され機能するとしても」を受けている。「事実」は前の行の「『合意した』という事実」を受けている。

 こういう論理関係の追い方は、もちろん無意識にも行っているだろうけれど、意識してやってみてもいい。

 二つの対応から、論理的に次のことが言える。

「事実」=合意が達成され機能する(こと)=合意した(こと)

 これは何を意味する?


 文末はおそらく「ファクト」という英単語は、ギリシャ語がラテン語の「ファケーレ」が語源なのだという知識を前提にしているのだろう。そう思って調べてみるとやはりラテン語だった。「ファクトリー(Factory)=工場・製作所」もなるほど「作るところ」だ。

 それがどうした?


 「作る作用に支えられた事実でしかない」は、読者にある違和感を感じさせることを狙いつつ、その驚きの中でメッセージを伝えようという意図にもとづいた表現だ。

 「作る作用」と「事実」は日本語では反対のベクトルを持っているような印象がある。文中で繰り返し使われる「作りもの」は「非実体」「虚構」などの言い換えだ。それは本来「事実」と対立的な概念のはずだ。「事実=本物/虚構=偽物」なのだから。

 それが欧米語の語源に遡ると通じ合ってしまう、という豆知識をここでは「事実は作り物だ」と語るために用いられているのだ。 

 ではなぜ「事実は作り物」なのだ?



 下線部の終わり「~にすぎない」という言い方は、ある限定をすることで、それ以外の部分を否定的に想起させる表現だ。「これは始まりにすぎない」と言えば「始まり」の裏に「それ以降、終わりまで」が対比されていることを示すし、「そんなのは口先にすぎない」といえば「腹の底からの本心」が、その場限りの「口先」の対比として言外に表現されている。

 「『合意した』という事実だけが、それを合意として機能させているにすぎない」も、同じように、何かを限定をすることで言外の何かを否定している。

 ここにはどのような対比があるか?

 だが何を限定しているかも、言外に何を想起させているかも、表現することが難しい。ここを何とか言葉にしてみる。

本心/口先

の順に表現してみる。「本心ではなく口先に過ぎない」という文型に嵌まるように対比させてみよう。

 どう表現すれば良い?


 我々のテストでは、ここは説明ではなく、「これを表す例」を選択肢として出題した。正解率は6割くらい。これを利用する。正解と不正解の選択肢はどこが違っているか? 何が正解の目印なのか?

 使われている「臓器移植」「クローン人間」「人工妊娠中絶」「自動運転」といった例が問題なのではない。例自体には適否はない。

 ポイントは、②「価値観の一致に基づく」と、①「納得しているわけではない」、③個人の~観に反したもの」、④「解決を~放棄している」の違いだ。

 これが上記の「すぎない」の限定による対比と対応している。

 各クラスでそれぞれ試行錯誤して、この対比を表す言葉として挙がったのは次のような表現だ。

全員一致による合意/多数決による合意

  納得ずくの合意/不本意な合意

   本質的な合意/形式的・表面的な合意

 尤も、よく見れば下線部の前に「ではなく」があって、対比は明示されている。

当の合意が普遍的な基準を表現しているからではなく

 つまり「普遍的な基準による合意」だ。上記の左辺は適切であることがわかる。


 これが「ファケーレに支えられたファクト」と対応する。

 順序が逆だ。

事実/作る作用

 「『事実』と呼ばれる」のように括弧のついた表現は、そのニュアンスを適切に読み取る必要がある。「事実」は普通、本物のニュアンスだ。それは左辺のような合意でなければならないはずだ。

 ところが「事実」上、実際に機能しているのは右辺のような合意による。つまり「作りもの=偽物」なのだ。

 だから「事実」は「作る作用」に支えられていると言えるのである。


 ところで、なぜ「合意」が問題になっているのか?
 大きな文脈の中に位置付ける。
 「合意」は「社会的合意」として文中に登場する。
「社会的合意」の「社会」なるものが、いかに捉えどころのないものであるか
 つまり合意が「作りもの」であることを言うことは「社会」が「捉えどころがない」ことを言うことになり、それはつまり「集団」が不確かなものであることを言うことになるのだ。
 「合意」が作りものだから、その合意によって成立する「集団」も作りものだ。
 こうして全体の文脈に位置付けることで腑に落ちる。

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