2022年9月26日月曜日

パンとバラ 3 詩を読む

 吉原幸子「パンの話」をとりあげたのは言わばオマケで、多くのクラスでは結局ほとんど時間をとれなかったが、実は「暇と退屈の倫理学」と「多層性と多様性」を「関連」させるより面白い考察になっただろうなあと思って残念ではある。プリントを配付したとたんでどこのクラスでもザワめくのが面白かった。E組Nさんが「これ日本語!?」と言ったのは可笑しかった。一読してみんな、わけがわからん、と感じたはずだ。

パンの話

                        吉原 幸子 


まちがへないでください
パンの話をせずに わたしが
バラの花の話をしてゐるのは
わたしにパンがあるからではない
わたしが 不心得ものだから
バラを食べたい病気だから
わたしに パンよりも
バラの花が あるからです


飢える日は
パンをたべる
飢える前の日は
バラをたべる
だれよりもおそく パンをたべてみせる


パンがあることをせめないで
バラをたべることを せめてください――

 「パンの話」が思い浮かんだのは、「暇と退屈の倫理学」の次の一節と呼応するからだ。

人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。

 パンとバラがセットで登場するところで、オッと思わされるのだが、それだけでなくそうした共通性は両者の読解にも参考になる。


 詩を読む上での作法、あるいは「お約束」と言っても過言ではないのは、詩の中の言葉は様々な象徴性を帯びているという前提だ。

 象徴?

 「羅生門」の主人公、下人の頬の「にきび」は単なる「にきび」ではない。ある具体物が、何らかの抽象概念を表していると考えられるとき、それは「象徴」と呼ばれる。「にきび」は下人を支配していた空疎な観念の象徴だ。

 「パンの話」において、そのように読むべきなのは何か?

 言うまでもなく「パン」と「バラ」である。


 「羅生門」の場合は、「にきび」は小説内現実に存在する具体物ではある。だがそれだけではない象徴性を持っているとわかるように、殊更に意味ありげに描写されていた。

 一方、詩の場合はそもそも詩中の言葉に具体性がない。「パンの話」でも「パン」も「バラ」も、最初から具体物としてのそれではないことが明らかだ。そうであればこそ「バラを食べる」などという表現を読むことができるのだ。

 こうした、最初から具体物ではない形で登場するモノは、象徴と言ってもいいが、比喩とも言える。「~ような」をともなわない比喩を「隠喩・暗喩・メタファー」などと言うが、「バラを食べる」という表現は、直接の言葉通りの意味ではなく、何事かを喩えているのだ。

 パンとバラにどのような象徴性を読み取り、詩全体をどう読むか?

 話し合いの中で「パン=生活必需品」「バラ=嗜好品・贅沢品」という対比が語られている様子が多くのクラスで見られた。

 みんなが持っている「ちくま評論入門」の姉妹本である「ちくま評論選」(2,3年生が持っている)に「暇と退屈の倫理学」の別の一節が収録されていて、その題名は「贅沢のすすめ」だ。とすれば國分がバラを薦めることは贅沢を薦めているということになるのだろうか。

 とするとこの詩はどのようなことを言ってると考えればいいか?


 上の対比も悪くないが「パン=生活」にしておいて、「バラ」は「暇と退屈の倫理学」から、モリスの言う「芸術」を使うのが簡便。「贅沢のすすめ」の「贅沢」は「暇と退屈の倫理学」の「豊かさ」に近いニュアンスで、資本社会の与えてくれるモノと対比される物によってもたらされるから、例えば大量生産品ではない「芸術」などもそれにあたると考えていい。

  • パン=生活(貧しさ)
  • バラ=芸術(豊かさ・贅沢)

 「芸術」はさらに、画家なら絵画、音楽家なら音楽と考えると、吉原幸子にとってはがそれにあたる。とすれば「バラの花の話をする」「バラを食べる」は「詩を書く」ことを意味していると考えよう。

 これでこの詩の表現を論理づけられるだろうか。


 詩は理解すべきものではなく味わうべきものだ、というようなことを言う人が世の中にはいるが、味わう前にまず読むことが必要なのは言うまでもない。どの程度かはさておき、わからないものを味わうことはできない。読解の末に「わからない」という結論に至って、その段階でそれなりに「味わう」ということはある。全ての詩がわかるわけではないし、わからないと味わえないということでもない。だがわかろうとしていない詩を味わうことはできないのは間違いない。

 したがってまずは読まなければならない。

 読むということはテキスト情報を論理づけるということだ。そうでなければパンについてもバラについても詩人の思いについても、何事も受け取ることができない。


 この詩の趣旨を端的に表現するなら「詩人としての自負」といったところだというのが授業者の解釈である(こうした端的な表現がまた国語力の表れだ)。

 この表現を聞いて、ああなるほどと思えたろうか。もちろんそれは「正解」というようなことではなく、授業者の論理とあなたの「論理」が幸いにもだいたい一致したということだ。

 吉原幸子は、自分が詩を書く、書かずにはいられないことを「わたしが 不心得ものだから」と言っているのだ。生活に余裕があるからではなく「病気だから」詩を書かずにはいられないのだ。

 そしてそこに矜持もある。

 「だれよりもおそく パンをたべてみせる」とは、生活のことを後回しにしても、まず詩のことを第一に考えるのだ、という詩人としての自負を語っているのだと思う。

 ただ最後、3聯の2行がすっきりしない。特に「パンがあることをせめないで」は、誰が「責める」のか、何を責めているのか、どのような意図で「責める」のか、すっきりと解釈できない。

 このあたりをつっこんで考えていくともっと面白い読みにたどりつくかもしれない。

 ともあれ残り時間の少なくなった授業では上記のような読みを早口で語るのが精一杯だった。

 ただ、C組では指名したSさんが、ほぼこれと同じことを淀みなく語ってみせたのは、その読解の的確さも説明の明晰さも実に見事で、発表を聞いて、ほとんど感動させられた。周りで「鳥肌が立った!」というような声が聞こえたのもむべなるかな、だった。


 冬にもうちょっと詩を読む時間をとる。その時にはまたそれぞれの読解を語ってほしい。


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