福岡伸一「生物の多様性とは何か」を読む。
読んだら「何が書いてある文章なのかな?」と自分で考える。考える癖をつける。「何が書いてあるの?」と質問されたら答えられるように準備する。
「何が書いてあるか?」を適切に捉えるためのメソッドとして、「問いを立てる」練習をしたことがある。内田樹の労働論と「羅生門」を読解したときだ。
小説と評論では「問いを立てる」意味合いが若干違う。
「羅生門」において立てた「なぜ下人は引剥ぎをしたか?」は、その答えが小説中に書いてあるはずだが、それは直截的なものではなく、読者がそれを読み取ることを要求されている。何を読み取るべきかを明確にするために問いの形にする。読者がその問いに答える。
一方評論では、その文章がどのような問いに答えようとしているか、を問いの形で表現する。読者ではなく、筆者がその問いに答えようとしているのだ。
この問いは文中に明示されている場合とされていない場合がある。明示されてある場合は答えが何かを確認すればいい。それが最も重要な論点であると感じられれば、それで文章の主旨が理解できたということだ。
ない場合は、書いてあることから遡って、それはどのような問いに答えようとしているのか、と考える。
例えば内田樹の労働論で、見出しが既に「なぜ私たちは労働するのか?」という問いの形になっているにもかかわらず、それに対して「生き延びるためである」という結論を文中から探しても、何のことかはすっきりとは腑に落ちなかった。だから自分で問いを立てたのだった。
結局「労働の利益は誰が享受するのか?」という問いが適切であることを皆で納得したのだが、それはこの文章が「労働の利益は個人ではなく集団が享受するものだ。」という趣旨を述べている文章なのだと読解することと表裏一体だ。
一方で「個人/集団」という対比において「集団」を強調しているのがこの文章の主旨であると捉えると、主張が明確になる。
問いと対比。どちらも文章の論旨を明確に捉えるために有効な方法だ。
さて「生物の多様性とは何か」ではどうか?
これもまた、題名が問いの形になっているにもかかわらず、その答えがこの文章の主旨であるとは読めない。
「生物の多様性」は文字どおり、いろんな生物がいる、ということだ。それについての予断に反した説明はあらためてあるわけではない。
「生物の多様性」はいわばテーマで、それをめぐって何事かを議論しているわけだが、「生物の多様性」という概念自体の説明をしているわけではないのだ。
さてではどのような問いを立てるのが適切か?
みんな同じ問いを思い浮かべるに違いないと想定していたら豈図らんや、けっこうとっちらかったのだった。
まず「ニッチとは何か?」が挙がったのにびっくりした。確かにこの文章では「生物多様性」と比べれば「ニッチ」についての説明は、あると言っていい。しかも「ニッチ」についての一般的な理解とは違った意味合いを読者に伝えてもいる。だがそれが中心的な話題かといえば、イマイチだ。部分に過ぎる。
「~とは何か?」という形で問いを立てるなら、それが一般には知られていない概念であるか、一般的な定義ではない、別な側面をとりあげようとするのがその文章の目的であると見なされる場合だ。「生物多様性」についてはそんなことはまるでなく、「ニッチ」については、一般的な「隙間」という訳語よりも一歩深掘りした「分際」という言葉を提案しているところが新鮮なのは確かなのだが、といってそれがこの文章で最も重要な概念だというわけではない。
「~とは何か?」型の問いにするなら、一単語、何を取り上げる? 「生物多様性」でも「ニッチ」でもなく。
社会一般への浸透度合いからしても「動的平衡とは何か?」が最も適切だと言っていいだろう。
とはいえ「~とは何か?」型の問いは、結局のところある概念の説明がその文章の主旨なのだと見なしているということだ。それではどうしても文章の一部分になってしまう。
ではどのような問いの型が適切か?
0 件のコメント:
コメントを投稿