前回までの問題は、参照すべき項目が多く、まとめることが難しいはずで、授業数の少ないクラスに合わせて、テスト後に引き続き考察する。
一方「多層性と多様性」には、教科書編集部によると「関連教材」として國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」が挙げられている。
「関連教材」というのがどういう意味かは定かではないが、単元「共に生きる」の三編は相互に「関連教材」ということになっている。当然だ。読み比べることが最初から意図された単元だからだ。だから今年度の授業は最初にその単元から入ったのだった。
そこに「生物の多様性とは何か」を「関連」させたのだが、それは「関連教材」としては明示されていない。聞けば意識しているというのに、あまりに領域の違う文章を「関連教材」と銘打つのためらったのだろう。惜しいことだ。領域の違う文章を「関連」づけることにこそ意義があるのに。全く違った分野の問題に共通した構造を見出す時にこそ、世界に対する認識は拡がるというのに。
そこから「多層性と多様性」に繋げるのは、またしても領域が違うから「関連教材」という扱いではない。さらに「〈私〉時代のデモクラシー」に繋げるのも授業者が設定した問題だ。
では教科書編集部が設定した「多層性と多様性」と「暇と退屈の倫理学」の「関連」とは何か?
実はそこにはそれほど豊かな読み比べの可能性が授業者には見出せないので、さらにそこに吉原幸子の詩「パンの話」をからめる。
詩?
パンの話
吉原 幸子
まちがへないでください
パンの話をせずに わたしが
バラの花の話をしてゐるのは
わたしにパンがあるからではない
わたしが 不心得ものだから
バラを食べたい病気だから
わたしに パンよりも
バラの花が あるからです
飢える日は
パンをたべる
飢える前の日は
バラをたべる
だれよりもおそく パンをたべてみせる
パンがあることをせめないで
バラをたべることを せめてください――
この詩は現在2,3年生が使っている「現代文B」の教科書に収録されているものだが、授業者は授業でこの詩を扱ったことはない。今回も、単独でこの詩を読解しようと考えたわけではない。
今年度の授業では、冬頃に詩をいくつか読もうかと思っている。が、そもそも「現代の国語」は詩を扱わない想定なのだ。それが唐突に、ごりごりの評論を理屈っぽく読んでいる最中に詩を読もうというのはなぜか?
ここに唐突に詩をからめようと企画したのは、「暇と退屈の倫理学」を読んでいればピンとくるはずだ。
さて、どのような読み比べが可能か?
0 件のコメント:
コメントを投稿