まず「多層性と多様性」と「暇と退屈の倫理学」の「関連」から考えよう。
この「関連」は授業者が設定したものではなく、教科書編集部が「関連がある」と言っているものなので、どういう「関連」があると見なしているのかは推測するだけだ。だが読解というのはそもそも「正解」があるようなものではなく主体的に行われる一種の創作行為なので、こちらが納得いくように読めばいいのだ。
共通して登場する言葉としては「豊か」や「退屈」がある。重要な接点だ。
そしてもちろんここでも「近代」であり(「暇と退屈の倫理学」には直接は出てこないが)、近代の延長としての「現代」である。そして「近現代」の表れの一つである「資本主義社会」である。
さてこれらの語をもちいて、両者を「関連」させよう。
二人の主張を端的に取り出して比べてみる。まず「端的に」言うことが既に国語力を必要とする読解作業によって可能になる。さて。
國分功一郎が言っているのは、生活はバラで飾られるべきだ、である。
若林幹夫が言っているのは、多様である方が良い、である。
これらは同じことを言っているのか? どう考えればこれらを「関連」させられるのか?
論には「認識」の要素と「主張」の要素がある。これはまあ強引に分ければ、といったところで、もちろんある「認識」を語ること自体がある「主張」であるほかはないのだが。
しばらく前に説明文と評論の違いとして、「主張」要素が強いのが評論だと言及したことがある。
「主張」だけを端的に切り取ると上の通り、どう関連しているのかが見えにくい。そこで「認識」の部分を比べてみる。
二人はどのように共通した認識を語っているか?
多層性と多様性
現実の近代社会は、資本制とそれに基づく産業社会を地球的な規模で押し広げ、世界中どこでも同じような建物が建ち、鉄道や自動車から家庭電化製品に至るまで同じような機械を用い、民族衣装を捨てて洋服を着る「同じような社会」と、そんな社会の目指す「同じような発展」や「同じような豊かさ」を世界化していった。
暇と退屈の倫理学
当時のイギリス社会では、産業革命によってもたらされた大量生産品が生活を圧倒していた。どこに行っても同じようなもの、同じようなガラクタ。モリスはそうした製品が民衆の生活を覆うことに我慢ならなかった。
もちろんここでいう「当時のイギリス社会」の姿は広く近代社会の姿だ。二人が描く近代社会についての認識は共通している。
共通した認識を語る二人は、それぞれどのような主張をしようとしているのか?
「暇と退屈の倫理学」では、単純に言うと、現代は暇で退屈になった、と言っている。それは上のような社会がもたらす「同じような豊かさ」では埋められない空虚だ。
モリスの言う「芸術」がそれを埋める。バラとは「芸術」を喩えたものだ。それは「産業革命によってもたらされた大量生産品」と対比される。したがって、「芸術」がただちに多様であるとは本来言えないものの、この論で対比されるものが「均質的」な工業製品であるということは、それと対比される「芸術」には独自性・固有性がもたらす「多様性」があるはずだということになる。
こうして二人の論の主張は共通した方向性を持っていることが論証できる。
芸術がもたらす「豊かさ」は、工業製品がもたらす「同じような豊かさ」とは違う、「退屈」に陥らない「豊かさ」であるはずだ。國分の「バラで飾ろう」はそういう主張だ。
とすればそれは若林が「均質・単一」で「退屈」な世界で、多様性は重要だと主張することと同じなのだ。
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